黙って食え
春樹の高校生活がスタート。強豪校がきついのは稽古だけにあらじ…
嶺越学園に入学した春樹は男子寮で生活することになる。剣道部監督滝田秀志が自宅に設けた剣道部員のためだけの寮で、一部屋に2基ずつ三段ベッドが用意されている。
他に滝田宅には勉強部屋もある。三年生には一人ずつ机と椅子が用意されたが、一、二年生は壁面に向かって置かれた長机に並んで教科書とノートを開いた。
嶺越学園は大分県大分市にある私立の高校だ。春樹が剣道を始めたのが今から7年前。その年の全国高等学校剣道大会、すなわちインターハイの男子団体戦で優勝した。
以後は全国大会へは出たり出なかったりを繰り返し、上位入賞からは遠ざかっていた。
監督の滝田は鳴動館佐山の教え子であり、嶺越のインターハイ初出場のメンバーには佐山の息子と名を連ねた。
「もう朝や…」
一年生である春樹の朝は早い。5時に寮の三段ベッドから跳ね起きて顔を洗う。そして飯を食らってから着替え、弁当をカバンに詰めて寮を飛び出す。その間わずか10分ほどの早業。
朝食も弁当も滝田秀志の母、通称おばあちゃんが朝の3時に起きて用意してくれる。味はともかく頭が下がる思いである、味はともかく。
学校の道場までは歩いて数分。朝練は6時から体操で始まるのだが、一年生は道場の掃除、上級生の防具の用意、その他多くの仕事を済ませることが要求された。
これらが一つでも疎かにされていると、上級生から懇切丁寧な指導が待っていた。もちろんそれは連帯責任で施される。
朝稽古は素振り、切り返し、掛かり稽古のみのシンプルな構成。しかしその時間配分は滝田の匙加減次第で、素振り2000本で終わることもあった。
そういえばこの朝稽古には特殊な点がひとつあった。それは素振りの一本目は必ず試合のように3歩進んで蹲踞をし、滝田の「はじめ!」の声とともに立ち上がって、各々が十分な溜めを作ってからメンを打った。
「試合の最初、立ち上がりはどんな名選手でも苦手とするところだ。これを克服できれば最初から試合のペースをつかめる。とにかく一日の始まり、その一本を大事にしろ」と言い、これが不十分なものは遠征のメンバーから外されることもあった。
一時間半の朝稽古と後片付けが済むとすでに腹が減っている。おばあちゃんは昼の弁当とは別に、いくつかおにぎりを持たせてくれる。これを朝稽古終わりと各授業の合間に消化することで、育ち盛りの部員たちは空腹を癒し血肉とした。
今日の一つ目の具はおかかだ。きっと二つ目も三つ目もそうだろう。なぜなら昨日も先週もそうだったからだ。文句があるならパンでも買え。
「近藤がバレたらしい」
春樹の耳に恐ろしい情報が入った。近藤は剣道部の一年生。では、誰に何がばれたというのか。滝田に授業中寝ていたことがバレたのだ。
生活態度に重きを置く滝田は自分の授業がないときは校内を巡回し、部員たち姿勢をチェックしている。もしこのとき適正な姿勢を保てていなかったものは放課後の道場で大変な矯正処置を施される。
五時起き、稽古、間食が睡魔となって降りかかるとき、部員たちは恐怖を衝立として目蓋を開いた。
平日は午後4時から7時までが部活である。その時々で多少の差違はあれど、基本は切り返しから基本打ち、技の練習に地稽古、追い込み、掛かり稽古という運びである。
「稽古には頭を使う稽古と体を使う稽古の二つがある」
これは滝田の口癖だった。
頭を使う稽古とは技の練習と地稽古のことで、相手の心理を考えていかに自分が打ちやすく相手から打たれにくい状況を作るかを徹底して考えさせた。
また体を使う稽古とは追い込みや掛かり稽古のことで、頭を真っ白にしてとにかく次の打突を放てるよう、崩されても崩されても向かっていく体と気力の充実を要求した。
一日の稽古が終了した。春樹はこの時間が一番好きだ。食事当番や洗濯のような雑用が残って入るが、その程度のことは解放感の妨げにはならない。
「おばあちゃんの頭の献立リストは何キロバイトあるか分かるか?映えるケーキの画像一枚よりも軽いだろうよ」
酷いとは思うが上手いとも思った。週に2度はカレーが出てくるくらいおばあちゃんのレパートリーは乏しく、嶺越の卒業生は男子寮入りを剣道界のインド留学と言った。
ネットでレシピをいくらでも見られる時代だが、おばあちゃんのガラケーには関係ない。この場合のガラケーはガラクタケータイの略。ボタンも文字もやたら大きく、メールと通話以外の機能を備えていないのだ。
「ええよな、女子は姉御の料理食えて。」
滝本宅には別棟があり、そこが女子寮となっていた。男子寮の寮母は我らがおばあちゃんなのに対して、女子寮は滝本秀志の妻であった。彼女のことを部員たちは奥さんと呼び、また男子の間では姉御と呼んだ。
女子から聞くに、若くて美しい奥さんの作る料理は献立も多彩であるようだ。それを羨ましがりながら、男子は海上自衛隊とは対照的にアトランダムかつ高頻度で現れるカレーで曜日感覚を破壊された。
土曜日は午後2時から6時まで練習。日曜には午前練習、午後は他校との練習試合。いずれも朝稽古は免除される。
練習試合の多くは九州の強豪校がメインであり、こちらから向かう場合もあれば、相手の方から訪ねてくる場合もある。
県予選で戦う可能性のある大分県内の学校とはほとんど組まれることはない。
いかなる日も春樹は夜、寝床に就くのが憂鬱だった。起きたらまた稽古がある。それを思うとなんとも言えぬ切なさが沸く。腹を決めて親元を離れたが、やはり辛いものは辛い。
しかし悩んでいても睡眠時間が減るだけ。諦めの良さか頭の切り替えの上手さなのか、なげやりに考えを止めて春樹は休息に努めた。