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「――ラクって変な名前だと思ったけど、結城さんがつけたのね」
「ぼくは気に入ってるよ」
思わずむっとした口調で言うと、マチは苦笑しながら肩をすくめた。
ベンチのふちに手をつき、マチはこちらを見る。目が少し赤いけど、泣き出しそうな気配はなかった。
「結城さんの噂、いろいろ聞くよ。探される立場としては迷惑だけど、腕もいいし、性格もちょっと変わってるけど優しいよね。綺麗だし……私も生まれ変わったらああいう人になりたいな」
目をそらして、もう一度ちらり。真琴をほめてぼくが喜ぶと思ったのだろうか。悔しいけど、そのとおりだ。
そして彼女は目で語る。ラクにも私の気持ちがわかるでしょう、と。
だからぼくは、それにうなずきで答えた。
「ぼくらの力じゃ、どうしようもできないことだよ」
マチが追川家の本物の娘になれないことも。
ぼくが真琴に抱いている気持ちも。
はじめは、命の恩人である真琴は母のようだった。幼いぼくを一人で養ってくれた。まだ若いのに生活力はあるらしく、食べるものに困ることは一度もなかった。本人はああいう性格だけど、仕事の腕はとてもいいのだ。
ぼくが大きくなると、真琴はぼくにも手伝いをさせるようになった。喜ぶ真琴が見たくて、ぼくはこうして一人でも仕事をするのだ。
はじめのころは、ただの恩返しのつもりだった。でも時がたつにつれ、母のようだった真琴は姉のようになり、ぼくの心は彼女を家族とは別のものとしてとらえるようになっていた。もちろん真琴にとってぼくは弟であり居候であり助手である。それ以上の気持ちを持つことはないと断言できる。
真琴の左手の薬指には、指輪がはめられている。本当は苗字も結城ではない。
ぼくは、真琴に気持ちを伝えることができない。
いや、伝えようと思えば、できるだろう。寝起きの彼女を押し倒したこともあるし、同じ布団で寝たこともある。昔はキスだってたくさんした。
でも、真琴は僕の想いを受け止めてくれることはない。ぼくは永遠に片恋のままなのだ。
「だから、きみの気持ちは、わかってるつもり。ぼくはたしかにきみみたいな思いはしていないけど、逆にきみもぼくみたいな思いはしてないよね」
それで相殺ということには、ならないだろう。それでも、多少なり同族意識というものはできたと思う。
「まぁ、ね……」
言葉を濁し、マチはまた下を向いてしまう。隣に座っているのだから当たり前だけど、ぼくはずっと彼女の横顔を見ることになる。まじまじと見つめ、彼女の横顔はなんて綺麗なのだろうと思っていた。
「……オカアサンのお腹、見た?」
「お腹?」
言われて、依頼に来た追川夫人を思い出してみる。顔も性格もマチには似ていない、けれど凛とした立ち姿と胸までとどく真っ黒な髪が印象的な美しい人だった。
顔には目がいったけど、思わず見てしまうような特徴的な腹部はしていなかったはずだ。
「まぁ、まだ三ヶ月だし、見た目じゃわからないわ」
「妊娠してるの?」
「そうよ」
それはとてもおめでたいと思ったけど、ぼくは口に出さなかった。
本来ならとても喜ぶべきことだ。追川夫人は不妊に悩んでいて、自分の子供はあきらめてマチを引き取り暮しはじめたのだ。あの広い庭付き一軒家に家族が増えたら、もっと明るくなると思う。けれど。
「マチは、嬉しくない?」
もしかしたら彼女は不安なのではないだろうか。血がつながった子供ができて、自分に対する愛情が薄れていったら、と、考えているのかもしれない。
「嬉しいわよ、すごく」
ぼくの推理は見事に外れた。
「家族が増えるのはとても嬉しい」
「じゃあ家出の原因は?」
「新しい子供」
矛盾している。そう言おうとしたぼくの口を、彼女の言葉がさえぎる。
「私、何もしてあげられないんだもの。親にだってそうなのに、子供が生まれたりしたらもっと自分の無力さに嫌気がさすと思う」
マチは、ぼくに何か言ってほしいらしい。目で信号を送ってくるけど、ぼくはとっさに言葉が出てこない。
ぼくだって、いつもそう思っているのだ。ただ、その思いを言葉で表現できない。よく考えて、自信なさげに訊くしかなかった。