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「ためこまないで出したほうがいいよ。ぼくは悲しいとき、真琴に心配かけたくないから、ひとりになったときに大泣きするんだ。きみは今ひとりじゃないけど、ぼくに泣き顔見られたって平気でしょ?」
「……今ので、ひっこんじゃった」
それは彼女の強がりだ。でもマチがそう言った以上、ぼくは何も言わない。彼女も彼女で、本当に涙が引いてきたらしい。
「……ラクにも」
「ぼくにも?」
目じりに残る涙をぬぐいながら、マチはぼくに問うた。
「どうしても越えられないもの、あるよね」
それに答えるため、ぼくはすこしだけ、自分の記憶の糸をたぐりよせることにした。
ぼくと真琴は、親子にも姉弟にも見られたことがない。血がつながっていないのは見た目でわかる。かといって、カップルにも見えることもなかった。
今から五年とちょっと前。ぼくは雨の降りしきる街で、行くあてもなく座り込んでいた。身よりもなく、日々食べ物と寝る場所に困り、盗みを働いて泥だらけになってどうにか命をつないでいた。
その日はもう何日も食事をしていなくて、栄養不足で満足に動くこともできなかった。連日続いた雨で風邪をひいてしまったらしく、熱でうまく動けなかった。日が沈んで空気が冷えはじめ、すくめた身体は肋骨が浮いていた。粗大ごみ置き場に隠れたのは、少しでも雨風をしのげるところを選んだからだった。
死ぬかもしれない。頭の中がそれでいっぱいになったのを今でもよく覚えている。燃えるごみのところに隠れれば多少食べ物にありつけたかもしれないけど、下手に生ごみに手を出せば一貫の終わりだった。
腐ったものを食べて吐瀉物と汚物まみれで死ぬのなら、飢え死にしたほうがいい。そこまで考えて、早く寝ようと目を伏せたぼくの前に、彼女は現れた。
『――さすがに、この子じゃないだろうな』
そのときもきっと、依頼で誰かを探していたのだろう。目当てと違うことに落胆したようだけど、彼女はぼくのもとから去ろうとしなかった。
『お前、大丈夫か?』
骨と皮ばかりのぼくの腕を取り、彼女は足場の安定しないゴミ捨て場を片付け始める。ぼくと同じような人たちには目もくれず、服が汚れるのもかまわずにぼくを抱き上げた。
当時のぼくは、見た目以上に軽かったと思う。彼女の足取りが速かったのは、単に荷物が小さかっただけではなかったのだろう。
こうしてぼくは、結城探偵事務所の扉をくぐることになったのだ。
真琴の手厚い看病のおかげで次第に回復していったぼく。身元も名前もわからないぼくのことを彼女は最初熱心に調べていたが、半年もたつころにはすっかりあきらめていた。
『――お前、うちに住むか?』
真琴がぼくにそう持ちかけたのは、日曜日の夕方だったということを記憶している。
ソファーで横になりテレビを見る真琴に、ベランダの窓から差し込む夕日があたっていた。靴下をはかない足はフローリングの上をぶらつき、ぬるくなったビールはガラステーブルの上で放置されている。隣に座るぼくがきょとんとしているのを見て、彼女は不安そうに首をかしげた。
『……いや?』
あわてて、ぼくは首を横にふった。真琴は、それを見て、微笑みながら背中を叩いてくる。
『じゃあ、今日からお前のことラクって呼ぶから』
ラク。そのおかしな名前に、ぼくは歯切れの悪さを感じた。
『ラクだけじゃないってば。はじめて会ったときからお前、生きるのがつまらなそうな顔してたでしょ? だから楽しく生きれますようにっていう意味で、楽太郎』
見た目に合わない名前だけどね、と、彼女は苦笑交じりに付け足した。
『いや?』
ぼくはまた、首をふる。昔の名前はとっくに捨てていた。ずっとお前と呼ばれていたから、名前なんてもらえると思わなかった。楽太郎と名づけられたということは、もうこの事務所から追い出されることはなくなったということだ。
嬉しい出来事になれていなかったぼくは、うまく喜べず、ただ座り込んでいた。
この名前をもらってから、ぼくは真琴と実にさまざまな経験をともにした。もちろん悲しいことやつらいこともあったけど、楽しいことはそれの倍以上あったと思う。
たまたまテレビで笑点がはいっていたから、楽太郎とつけられたわけではないことを、ぼくは密かに願っている。