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白の欠片

作者: 入塚友香





 フライをキャッチし損ねて、ボールは一度高く上がってから俺の遥か後方に落ちる。黄昏時の青空を背景にした野球ボールは、スポ根マンガのワンシーンみたいだった。もちろん見惚れている暇は無く、顧問は何事か怒鳴っている。ベンチが遠すぎて聞こえないが、ボヤボヤするな辺りだろう。

 顧問が怒鳴り終えないうちに振り向くと、ボールが大きく二回バウンド。それから小さく三回バウンドしてから中庭の方に転がっていく所だった。またか、と一瞬立ち止まる。だが顧問もまた何かを怒鳴る。早くしろだろうか。何だっていい。俺はグローブをはめ直して中庭に向かう。


 中学まではテニス一筋だった。だから野球に関しては、毎晩ルールブックを眺めてルールを詰め込んだぐらいの素人だ。テニスに関しての能力不足に行き詰って野球部へ入ったが、周りは当然のように経験者ばかりだった。テニス以外なら、別に野球じゃなくても何でもよかった。

 野球部を選んだのは、ただ単に団体競技の中で一番部費が安かったからだ。だが団体競技に逃げ込んだって、経験者に囲まれる日々では劣等感ばかりが先に立つ。幸いクラスメイトの市村が何かと気にかけてはくれるが、時としてそれさえも鬱陶しく思われることもあった。

 そう感じてしまう自分に気付く瞬間に、小さくヒビが入るような、鈍い痛みみたいな感覚を覚える。自分が自己中心的になるのが、堪らなく嫌だった。入部して半年が経つが、このまま続けていいのかどうか迷う。純粋に野球を愛している周囲。その中でも特にそうである市村に、いつかこのやましい考えが見透かされてしまいそうで、不安で堪らない。

 あいつは俺を罵倒するだろう。そんな思いで競技をするのは自分だって耐えられない。


 中庭の入り口で一度立ち止まる。土埃の立つ校庭と違い、芝生の緑の濃い中庭は同じ校内と思えないほどに静かだった。中庭は確かに綺麗だ。しかし立ち止まったのはそんな景色に見惚れたからではない。飛んできたボールの近くに人が立っていたからだ。だがそれはいつものことだ。中庭に人が絶えないということではなく、この時間だけ同じ人が立っているということ。

 その人はおそらく上級生で、いつも俯いて地面を注視している。俺が見るあの人は講堂と校舎の間の中庭で、柔らかな夕日を浴びていた。斜陽に照らされた横顔。頬まで伸びている前髪。影のせいでどこか彫刻じみた印象を受ける。そんな明暗のコントラスト。

 中庭といってもそれは三方を建物に囲まれたわずかなスペースに、何本かの小ぶりの桜が植わっているだけの、誰も寄り付かない場所だった。あの人はこんながらんどうな場所で、一体何をしているのだろう。だがいつだってあの人は何もしていない。


 遠くから市村の呼ぶ声が聞こえる。俺は中庭に飛んできたボールを回収に来ただけなのに、どうしてこんな所で立ち尽くしているのだろう。早くあの人の足元のボールを拾わなければ。校庭の土と中庭の芝生の境に、まるで壁でもあるみたいだ。取って下さいと声をかけるか、さっさと自分で取りに行くかすればいいというのは分かっているというのに。

 中庭にボールが転がって来る度に、俺はこんな馬鹿みたいな立ち往生を繰り返している。


 不意にあの人が微かに動く。風に揺られたようなほんの少しの動き。振ればまだ少ししなるぐらいの、枯れかけの植物じみた動きだった。なんとなく、この人は運動なんかしたことも無いのだろうと思う。毎日の部活で焼けた自分から見れば青いぐらいに白いあの人は、もはや異世界の住人並みに隔たっている。

 中庭の人が屈んでボールを拾い上げる。そしてフッとアンダースローで投げてきた。いつもこの一瞬、途中でこのボールがこちらまで届かないかもしれないと思う。だがそんな予想に反して、ボールは毎日きちんとミットの真ん中に収まる。今日もそうだった。

「あー、どーも……」

「いいえ」

 いつもこのパターンだ。ボールを追って、だけど何故か中庭まで踏み込めない自分。それから少し間を置いてからボールを投げてくれる彼。この遣り取りもパターン化されていた。


「……君は植物想いなんだね」

「植物?」

 俺がきちんとボールを受け取ったのを確認してから、彼がそんなことを言う。彼は俺が不思議がったのをさらに不思議そうに首を傾げながら、俺の履いているスパイクシューズを指した。

「君じゃない人が来る時は、ここをその靴で踏み荒らしていくんだ」

 だからなんとなく、君が来ればいいなって。そう言われた俺はどんな顔をしていいのか分からなくなる。少なくとも嫌われていることは無いだろうと、肯定的に受け止めることにする。

「あー。いや……そんなじゃないですよ。俺がそんなん気にするとでも?」

 彼は少し考えた後、どうなんだろうね、と逆に俺に聞いてきた。俺が答えられないでいると、彼はそれでも構わないらしく曖昧に笑った。


「少なくとも他の人よりは、余程気にしそうだ」

 俺は彼に、俺のあらゆる葛藤を見透かされた気がした。オレンジ色に染まった壁をバックに、俯いて微笑んでいる。口元が弧を描いているのだから、きっと笑っているに違いない。何が面白いのだろう。分からないが、何故かここで市村達の元に戻ったら負けな気がして、俺は名前も知らない先輩を見る。

「先輩は、どうして毎日こんな所にいるんですか? ここには何も無いでしょう?」

 彼は夕日に照らされて黄緑になった芝生と、校舎の陰で暗い緑になった芝生の境の辺りを見ていた。少なくとも俺にはその辺りを見ているように見えた。先輩はしばらくそうしていたが、やがて困ったような顔でこちらを向いた。

「忙しいのに寂しいから、かな」

 全く意味が分からなくて、その言葉の続きを待ってみる。だが彼はそれ以上何も言う気にならなかったらしく、じゃあねと言ってこちらに背を向けて、扉から校舎の中に入って行った。


 入れ違いに後ろから市村がやってきて、声をかけてくる。

「おい何やってたんだよ? 監督が腹痛かって心配してたぜ」

「……あー、うん。そんなとこ」

 市村にボールを投げ渡してそう返事をする。市村はそのボールを校庭の向こうにいる部員に投げる。市村の強肩で飛ばされたボールは、フライより少し低く空に上がってから、校庭をワンバウンドしただけで向こうの部員に届いた。

「市村さ、いつもここにいる人って分かるか?」

 市村は少し考えてから、あぁ、と頷いて見せた。いつもここにいる人なんて一人しかいない。しかし俺ほどボールを拾いに来る頻度も高くないから、すぐには浮かばなかったのだろう。

「分かるぜ? あれ? お前知らないのか?」

「有名なのか? あの人」

 市村は本気で驚いた顔をして、俺の顔を覗き込んできた。驚いた俺も市村の顔を見つめ返す。市村が苦笑いしながら教えてくれた。

「あの人、副会長だぜ? 次期会長サンじゃねーか」





 重い樫の扉を開く。最初に驚いたのは外気の温度の低さで、次に驚いたのは一面の白に沈みこんだ、足先に染みいる冷たさだった。どうも私が図書館で宿題と格闘している間に、外の景色は大きな変化を遂げたらしい。この雪はいつから降っていたのだろうか。

 くるぶしの高さ程度に積もった雪は、ひどく水分を(はら)んでいる。滑るような雪質ではなく、べとついた、転んだら制服は大惨事になるだろう、そんな雪。私は革のスクールバックを注意深く両手で抱えて、ソックスに少し水が染みるのを無視して歩き出した。


 目の前をゆっくりと大粒の雪が落ちていく。風が無い夜。町の明かりで紫がかって見える空から、まるで最初から着地点を決めているかのように、雪は地面に落ちてくる。こんなに垂直に落ちる雪を、私は今まで見たことがない。傘を差そうか迷ったが、目的地は学院の敷地内だったことを思い出し、鞄のチャックの上で彷徨(さまよ)わせた手をおろした。私の学院の図書館と校舎は、何故か離れている。

 明治時代につくられたという図書館。しかし重苦しい扉と、こんな寒い日に不便な点以外は、密かに気に入っている。特に今日みたいに厄介な宿題がある日は、家や教室ではなく図書館を利用することにしていた。

 不意に振動する胸ポケット。取り出すと携帯のディスプレイが緑の燐光を放っていた。このイルミネーションに一目惚れして機種を変えたが、正直使い勝手があまりいいとは思えないでいる。ワンプッシュで開く機能なんてついてないから、肩からずり落ちる鞄に気を配りながら両手で開く。

 新着メールの件名は、ホットココアとブルーマウンテン。本文が空欄なのはいつものことなので、返信することなく待ち受け画面に戻した。待ち受けの右下には、六時ちょうどのデジタル時計と四月の最終日を示すカレンダー。


 そう。四月の終わり。だから踏み出すまでの一瞬、冷たい外気が頬を打つまでは、一面の白を桜なのかと思った。朝の登校ラッシュの中で見た桜は、はらはらとゆっくりその花を散らしていて、私はつかの間の春を満喫した。私は桜の中でもとりわけ染井吉野が好きだ。あの鮮やかすぎないほんの僅かの薄桃色、手に取ればひんやりと、それでいて滑らかな花びら。

 だけど私が一番好きな姿は、満開の姿ではなく、散っていく姿。ほとんど白にしか見えない無数の花のひとつひとつが宙を舞う。私はあの花のひとつになりたいといつも思っていた。その背景が青空なら最高だ。目に染みるほど澄んだ青と、舞い上がる優しい白のコントラストを思う。

 校庭の染井吉野は、雪の下敷きになっていた。水分の多い雪の重みで、枝は地面につきそうなほど曲がっている。もしかしたらもう折れているのかもしれない。確認してみようかとも思ったが、自分のやるべきことを思い出して玄関脇の自販機へ急いだ。鞄から財布を取り出そうとして、胸ポケットから携帯が滑り落ちそうになる。ギリギリの所でキャッチしてから、硬貨を入れて頼まれたホットココアと缶コーヒーのボタンを押す。ゴトンという音が一回ずつ響いて、後には耳鳴りのするような静寂が残った。

 そういえば雪の夜とは、何故こんなにも静かなのだろう。振り返ると微かな青みと灰みを帯びた重苦しい白に、図書館から続く私の足跡が刻まれている。一直線で等間隔の足跡には何の感慨も湧かなかったが、紫の空と灰の雪だけの暗く単純な世界で、ただそれだけが妙に浮き上がって見えた。





 お疲れさまと私を迎えてくれたのは会長で、ココアを催促するのが書記のソエというのは、いつものパターンだった。二人はコピー機二台と段ボールが高く積み上がる狭い部屋の真ん中で、目前に迫った生徒総会の資料と格闘している。漫画なんかに出てくる広くて綺麗な生徒会室なんて夢のまた夢だと、ソエはいつも口にしていた。だが段ボールが部屋を占拠しようと、机の上に紙束が散らばっていようと、今の生徒会室はわりと綺麗なほうだ。

 この学院の唯一にして最大の行事、学院祭のシーズンになれば、それこそ足の踏み場もない空間と化す。歩くスペースがあるだけ、まだマシというものだ。私はソエにココアを投げ渡し、会長の前に缶コーヒーを置く。ソエはやや左に逸れた私のワイルドピッチを、元野球部らしく軽々キャッチした。

「はいソエ、ココア。会長はコーヒーですよね」

「うん、ありがと。中田さんは物理の宿題だっけ。ちゃんと終わらせた?」

「はい、本当にすみません。なんとかなりました。ソエは資料の整理終わった?」

「こっちも意外になんとかなった。あとは明日印刷すれば間に合うんじゃねーの? ダルいけど」

 デスクワークで凝ったらしい肩を回しながら、ソエがそんな返事をする。会長は見慣れない黒革の手帳に何か書き物をしていたらしいが、その手を止めて立ち上がり、窓辺のコピー機に寄る。ソエの欠伸(あくび)に混じって会長が立てた椅子の軋む音が微かに聞こえた。


 コピー機までの数歩、こんな窮屈な生徒会室に不釣り合いな、優雅な歩調で会長が歩く。なんとなく目を惹かれる。身長は高くも低くもなく、顔だって良くも悪くもない、何も印象に残らない容姿の会長。だがしかし、その所作はひどく綺麗だ。

 歪みの無い立ち方、だけど肩に力を張るわけでもなく、ただそこに立っているだけ。壇上でする礼だって、生徒会の(あら)を探すばかりの教師を唸らせるほどのものだった。

会長はコピー機を操作して、インクの残量などを確認する。少し首を捻ってから屈んで裏蓋を開けて、私にはわからない操作をしてから体を起こした。

「そう言えば、雪が降ってるね」

「あー、なんか天気予報で降るらしいって言ってましたよ」

「え、ソエ天気予報なんて気にするんだ。意外すぎ」

 私の入れた茶々に会長が微かに笑う。そういえばここの所の会長は、少し疲れた顔をしているなと気がつく。普段の顔色だってあまり良くないが。

「桜も咲いているのに、すごく珍しい」

 そう言って会長は窓を開ける。暖房の無い生徒会室なので、寒いのは元からだ。それでもソエと私は、頬から首筋を撫でた外気に身震いした。

「忘れ雪っていうらしいね、この雪。どうしてかな」

 さっきワンセグでニュース見てたんだけど、と会長がこちらに背を向けて付け加える。開け放たれた窓の向こうで、会長の吐いた息が白く色付く。吐息混じりの声は、疲れからなのか寒さからなのか、あまり抑揚がない。


 生徒会室の外には桜の木がある。手を伸ばせば触れられる距離にある桜には、今は重そうな雪が積もっていた。だが会長は迷いなく手を伸ばす。制服が濡れないようにと腕をまくったらしく、骨ばった細くて白い手首が、紫がかった黒い空の色に映えていた。雪が降るのに、今日は全くの曇りではないらしい。

 煙のような雲と雲の間から見えたのは、三日月と上弦の間ぐらいの月だった。金色には程遠い、青ざめた銀色。眩しさなど微塵もないのに何故か眩暈を覚えて、私はそっと月から目を逸らした。

「冷たくて目が覚めるな」

桜の上の雪を払いながら、会長が呟く。雪はすぐに色を無くして、会長の手から滴り落ちていった。

「こんなに寒いなら、きっとこの花は散ってしまうね」

 会長の伸ばした人差し指が、桜の薄い花のひとひらに触れる。黒紫の空に伸びる枝葉。重苦しい灰色の雪。雪に解けてしまいそうな桜と、それに伸ばされた会長の白い腕を照らす月。夢に見てしまいそうな光景だった。会長が動きを止める。物音がしない。ソエも私も動き出せずにいる。

 枝の立てた音と共にそんな静寂は折られた。その物音で我に返り、私はもう一度身震いし、ソエは大きなくしゃみをする。会長は窓を閉めながらこちらに向き直った。

「ごめんね、寒かったよね」

 伸ばしていた側の腕に握られていたのは、手折られた桜の枝だった。折れ口は真新しい木の明るい黄色をしていて、先程の音はこれを折り取った音らしい。会長はふわりと、一度だけゆっくり枝を振って水滴を落とした。


「飾っておこうよ、すぐに散るかもしれないけど」

 その言葉にソエが生徒会室を見渡す。少し考えて入り口近くの段ボールの山から、青い硝子の花瓶を見事に取り出して見せた。

「すごっ、よく場所分かったね。この部屋に花瓶なんてあったんだ」

「誰のか知らないけど前からあった。会長のですか?」

「ううん、違う。でもせっかくだから使っちゃおうか」

じゃあ水汲んで来ます、とソエが部屋を出て行く。水道は生徒会室の前にあるので、ソエはすぐに戻ってきて花瓶を置いた。水を(たた)えたせいか、先ほどよりも濃く深い群青色になった花瓶。会長が枝を挿すと、水が零れた。

「ソエ、水多すぎ」

 会長が笑いながら枝の角度を整える。その拍子に早くも一枚目の花が散った。きっと明日には全て散ってしまうだろう。

「じゃあそろそろ帰ろうか。明日は印刷だから、残りの皆に連絡よろしくね」

「了解です。お疲れ様でした」

「お疲れー」

「お疲れ様、明日も頑張ろう」

 私は今日居なかった生徒会のメンバーを指折り数えながら、帰り支度を始めた。





 家に帰ると、お母さんがお風呂を沸かしてくれていた。珍しいこともあるものだと思っていると、何でも新発売の入浴剤を試して欲しいだけらしい。早く入れと急かされて、私は脱衣所に押し込められる。先にご飯が食べたかったなと、文句を言いながらお風呂のドアを開ける。瞬間、嗅覚を破壊しかねない強さの匂いに眩暈がした。

「ちょっと、これ何の匂い? キツすぎ!」

「大げさねぇ、桜の香りよ……あらやだ、本当。強いわね」

 バスタオルを置きに来たお母さんが、苦笑いしながら避難していった。しょうがないので窓を開けて換気をして、匂いの落ち着いた頃にお風呂に入る。

 紛い物の香りに包まれながら、ふと先程の会話を思う。忘れ雪、どうしてそんな名前がついたのか。会長がそんな疑問を口にするので帰りの電車で調べてみたが、電子辞書はその年の最後に降る雪のことという、どうでもいい答えしか教えてくれなかった。溜め息を吐き、深呼吸をする。肺に入ってきた匂いに咳込みそうになりながら、次に思い浮かべたのは桜のことだった。

 雪に埋もれた桜、会長に触れられて、手折られた桜。そのどれにもこんな香りなんてなかった。雪のせいで香りが分からなかったのだろうか。ならば朝の登校の時、桜の香りはしていただろうか。分からない、思い出せない。

 最後に念入りにシャワーを浴びてからお風呂を上がると、携帯にはソエからの珍しい本文メールが来ていた。その内容は、最近会長が総会の件で部活や委員会から、いろいろ言われて参っているというものだった。


 総会では部の予算や委員会の活動方針が決定されてしまうから、各方面からの言い分に困ってしまうことも多い。私も部活動の予算分配のもめ事に巻き込まれてしまった事がある。会長ならなおさらそうなのだろう。

 ソエに、みんなでフォローしていこうという内容のメールを返しながら、会長の疲れた顔を思い浮かべた。それにしてもソエは気遣いの人である。無気力で面倒くさそうな物言いとは裏腹に、こうして周りの人や出来事に気を配るタイプ。私とは正反対だといつも思う。面倒くさがりなのは私の方で、心配そうな顔をしながら、実は他人の面倒事なんてどうでもよかったりする。会長の悩みも然りだ。

「……ひどいな」

 分かり切っていた事実だが口にして再確認すると、何故か可笑しくなってしまった。ベッドに寝そべってクツクツと笑う。独り言を言うなんて、私もそれなりに疲れているのかもしれない。今日はさっさと寝てしまおうと、ランプシェードの明かりを消した。

 雪も桜も会長も夢に出てこないまま、私は次の日の朝を迎える。手折られた花瓶の花は、ひとつ残らず散っていた。





 桜の緑が色濃くなった頃、生徒会室は本格的に汚くなる。段ボールの中のあらゆるものが散乱し、コピー機の周りには印刷し損ねた紙が散らばる。これが総合学院祭シーズンの風物詩だった。

 綺麗好きの会計の先輩がどれだけ片付けようとも、汚す速度に清掃のスピードが日に日に追いつかなくなっていく。残り二週間を切る頃には、掃除をすっかり諦めた先輩がノイローゼ気味にコピーを取っていた。

 私達の学校は行事が五つしかない。入学式と卒業式、修学旅行と生徒総会、そして学院祭。ただし入学式と卒業式は、長い話の続くばかりのつまらない行事で、修学旅行は驚異の一泊二日の上、ほとんどが移動に費やされる。生徒総会に必死になっているのは委員長と部長ばかりで、一般生徒との温度差は非常に激しい。

 娯楽と呼べる行事はこの総合学院祭しかないわけで、したがって取り仕切る生徒会と生徒との攻防は激しい。クラス担任も教え子がかわいいらしく、生徒会と生徒との論争に口を挟んでくる。体育祭、球技大会、文化祭を四日で行うハードスケジュールに、生徒会室の掃除なんてしている暇もなくなる。何故こんな無茶な事になったのかという私の疑問に答えてくれたのは、意外にもソエだった。

「そりゃー、行事が多かったらそれだけ授業時間が減るって事だろ? 準備時間もあるしな。進学校にとっては死活問題じゃん」

 進学という問題は、入学した直後から私達の前に現れる。それがこの学校の進学カリキュラムらしく、実際このように行事を最小限に減らすことが、それなりに進学率に繋がっているらしい。


「だとしたら、誰よりも準備に時間割かれてる私達ってどうなるワケ。もしかしてヤバい?」

「自己責任。だから誰もやりたがらないんだろ。で、毎年手探り状態」

 今年の生徒会は定員割れを起こしている。そのせいで例年に比べ計画の進みが悪いらしく、会長は各行事担当の教員によく思われていないらしかった。定員割れなんて会長にはどうしようもないというのに。理不尽だとソエが憤る度に、だがしかし会長は僅かに首を傾げて苦笑するばかりだった。

「そう言わずに。そのうちいいことあるかもしれないし」

 うんざりしたソエに会長はやはりいつもの苦笑で答える。会長は書き物をしている最中らしくソエや私の方を見てはいなかったが、私は会長の口元が困ったように弧を描くのを見た。書き物が終わったらしく会長は手にしていた細身のボールペンをくるりと回す。だが回し損ねて手の中から手帳の上に落としてしまっていた。

 手帳はいつか見た黒革のものらしく内容は見えないが、細かい字でメモらしきものが書かれている。

「何書いてるんですか? 書き仕事なら俺やっときますよ」

「ああ、これはまだいいんだ。急ぎのものでもないしね」

 ソエの提案に会長は首を振ってから、曖昧に微笑んだ。ソエは会長の背後から手帳を覗き見ようとしたが、会長がさっさと手帳をしまって立ち上がってしまったので、何かあったら言って下さい、と言って部屋を出て行く会長を見送った。





「それにしても何なの? 生徒会とか、うちらのこと馬鹿にしてるとしか思えないんだけど」

「って言うか会長さん、自分のクラスの軍を贔屓(ひいき)してんだろ」

 ある日、廊下の角を曲がると、そこは修羅場だった。そこにいるのは会長と、ジャージ姿の三年生が二人。いかにも不満そうな空気を(まと)って、それぞれ廊下の左右に立っている。確か体育祭の軍団長会議に出席していた二人だ。雰囲気は明らかに険悪で、晴れ晴れしているのは窓の外ばかりといった状況だった。どうやら応援合戦の練習場所や時間配分の問題のようだ。

 このまま回れ右をしてしまおうかと考えていると、会長は私に気付いていたらしく、良く通る声で私に指示をした。

「悪いんだけど生徒会室に戻って、今年と去年の場所割表を持って来て欲しいんだ」

団長らしき二人が私の方を見る。明らかに敵意を感じる視線に逃げの一手を打ちたい気分だったが、まさか会長を無視するわけにもいかずに頷いた。私もそこまで人でなしではない。

「持って来てくれたら、元の仕事に戻っていいから」

 だが会長は私の臆病さを的確に見抜いたらしく、そう指示に付け加えた。私は振り返らずに生徒会室に走るしかない。生徒会室に戻って、ホワイトボードから今年の場所割表を乱暴に剥がす。昨年の場所割表は探す気力も無かったため、過去のデータから新しく印刷し直した。


「さっきの人戻って来ないじゃん。今頃記録でっち上げてんのか?」

 団長の一人が嫌味たらしく会長に突っかかっていたので、私は階段を一足跳びに駆け上がる。スカートの裾も気にしないで廊下をダッシュした。

「お待たせしました!」

 たどり着いた私がより嫌味たらしく二人の前に場所割表を差し出す。蒸し暑い中、制服で全力疾走したせいで汗でシャツが張り付く。不快指数が二乗で増えた。差し出したついでに私が説明する。要約すると、去年も今年も、時間と場所は平等だというだけだ。

 だがたったそれだけを納得するのに団長達は何十分も費やし、あげく文句を零しながらそれぞれのクラスに戻るという有様だった。つまり納得なんて微塵もしてないということだろう。結局はまた他のことで難癖をつけてくるのが容易に想像できて、全て投げ出してしまいたくなる。

「ありがとう。てっきり仕事に戻るのかと思ってたけど」

 結局説明までしてくれたね、という会長の言葉で、私はやっと冷静になれた。上級生の、しかも団長に喧嘩を売るなんて、後先考えていないにも程がある。でも私は間違ったことは言っていない。過ぎたことはしょうがないと、私は自分をそう納得させた。

「私だって、逃げたいって思いましたよ正直。何だかんだで仕事熱心なソエとは違いますし」

 仕事熱心なソエは、校庭で別の軍のクレーム処理をしている。その様子が近くの窓から見えた。会長は深く溜息を吐いてから手元の紙束を揃えて、ソエの元に歩き出す。しょうがないので私もついていく。窓の外は新緑と太陽と土埃の世界だった。ここからは小さくしか聞こえてこないが、外に出れば応援合戦の和太鼓が響いているのだろう。


 太陽の下の生徒は健康的に焼けている。対照的に自分達の肌は、特に会長の肌は不健康な色に見えた。そっと隣りの会長の顔を見上げる。不健康なのは気のせいではないらしく、青白い頬と目の間にクマが出来ていた。それでも会長は手元の黒革の手帳に何事かを書きこみながら、次の行動を考えているらしい。

「……会長は、逃げたいって思わないんですか?」

 会長が歩みを止める。不思議そうな顔で見つめられて、何故か私は妙に喉の渇きを意識した。会長は僅かに首を傾げて笑う。その所作の美しさ。ただ首を傾げて口角を上げる動き。それだけなのに、どうしてこうも彼の動きは時々ハッとするほど美しいのだろう。私は寒くもないのに身震いをした。

「どこに?」

 会長はただそれだけを口にすると、再び歩みを進める。会長はどこに行くのだろう。もちろんこの後私達は校庭に行ってソエの手助けをするのだが、そういう意味ではない。私には昼でも薄暗い廊下が、果ての無い道のように思えた。会長は無言で廊下を歩く。何も言わない。不意に私は、ソエの理不尽だという憤りを思い出す。


「会長は、どうして何も言わないんですか?」

 会長が歩みを止めた私を振り返る。少し驚いたような、それでいて何かを納得したような表情だった。私の言葉の続きを促すように頷くので、言葉を重ねる。

「弱音とか反発とか、会長だって思ってることはありますよね? どうして何も言わないんですか。ムカつくとか疲れたとか!」

 私にしては感情を込めた言葉だと、心のどこかで冷静に分析して(わら)う自分がいた。もしかしたらその自分は分かっていたのかもしれない。この言葉がどれほど無意味かということを。

「ソエにも言われたんだけどね」

 会長は苦笑いを浮かべて、私が立っている場所まで戻って来てくれた。そして私が理解できないことを慰めるように、私の頭に手を乗せた。温かくも冷たくもない掌は、ただただ優しいばかりだ。

「なんて言えばいいか、もう分からないんだ」

 自分が思ったまま何か言えば、その分だけレスポンスが返ってくる。それに戸惑って違う表現を使えば、 違いの分だけ自分の感情からは遠くなる。反応が怖い、だけど自分の言葉が見えなくなるのも怖い。だって言葉って、とても大切なことだ。そんなことを繰り返していたら、もう自分がどこにいて何を考えて、どう話したいかなんて、さっぱり分からなくなってしまったよ。

 会長は静かにそう言って私の頭から手を離し、淋しそうに微笑んで見せた。そして靴を履き替えソエの元に歩き出す。追おうとした私は外の(まぶ)しさに目がくらみ、しばらくその場を動き出せなかった。

 私が動けるようになった頃、ソエが一人で校舎に入ろうとやってきた。どこかの軍が練習を終えたらしく、他の生徒は日焼けした顔に明るい笑みを浮かべてはしゃいでいる。のろのろ歩くソエはそんな一団に一瞬飲みこまれ、そして追い越された。一団の中から友達や後輩が手を振ってくる。何でも無い顔をして手を振り返した。


「お疲れ、ソエ。会長はどうしたの?」

「まだ校庭で揉めてる。お前、行ってやってくれない? どうも会長、自分のクラスとやり合ってるらしい」

「うん。了解。でも上級生なら、誰か先輩連れてった方がいいんじゃない?」

「だから探しに行く。確か生徒会室に野坂さんいたよな」

 頼むよ、と一言残してソエは人ごみの中に分け入っていく。日焼けした一団の中で、ソエは白く浮き上がって見えた。スポーツ少年だったソエは、私や会長よりもずっと色が黒い方なのに。ソエの制服の白が、人波の向こうに消えて行った。

 校庭の真ん中で、会長は精神的にひとりだった。正面に立つ、ほぼ全員いるだろうクラスメイト達の言葉の雨に打たれている。どこかに贔屓している、という言葉には黙って首を振り、少し時間を増やすだけでもいいだろうという意見には、懇切丁寧にそう出来ない理由を説明していた。おそらく応援合戦の時間枠についてだろう。

 毎年こういうことはよくあるんだと、確か監査の先輩が説明してくれていた。それにしても贔屓しているだなんて。会長がクラスメイトであることを、彼らは忘れているのではないだろうか。

「会長、どうしてもだめ? ただ十分ずつスライドするだけじゃん?」

「先程も説明しましたが、十分ずつスライドすると、無駄な空き時間が出て一時間も延びるんです。すみません」

「そこは会長が頑張ればいいじゃないか」

 とうとうクラスの担任までもが、話し合いを通り越した口論に参加してくる。会長は同じような言葉で説明を繰り返す。生徒の集団の中から、頭に来るような意見が飛んできた。

 もうすでに夕暮れなのだが今日は珍しい猛暑日らしく、むっとするような熱気が立ち込めていた。会長は、生徒会の定員割れで人手が足りないことを告げる。団長らしき人が、そんなのはそっちの都合じゃんと言いながら、イラついたように地面を蹴った。会長は一瞬口を開きかけるが、そのまま口を閉じて弱々しく首を振った。

 生徒会の定員割れなんて会長にはどうしようもない。その選挙の時点では会長だって生徒会の一員ではなかったのだから。責任はむしろ、立候補しなかったそっちにこそあるのに。だがそんなことを言って、だからなんだというのだろう。会長が口をつぐんだ理由がわかった。


 ふと思ったのは、クラスでも会長が会長と呼ばれる事実だった。私はクラスに帰れば副会長ではなく、ただの中田に戻ることが出来るが、担任にまで会長と呼ばれている彼は、きっとそうではなかったのだろう。特に三年生は最後の行事に命をかけているから、余計に会長への風当たりを強くしてしまうのかもしれない。

 そう言えば私は会長が、会長以外の呼び名で呼ばれているのを聞いたことが無い。私自身、会長の名字を思い出すのに時間がかかるし、下の名前なんて思い出せなかった。

「……そろそろ下校時間になりますが、他に何かありますか?」

「何で俺らのこと考えてくれないんだよ。俺たちだって最後の行事、最高にしたいんだぜ?」

 おそらくそう懇願を口にした団長も、結末は分かっているのだろう。目は少しだけだが潤んでいる。私は少し離れた所で、馬鹿馬鹿しい言葉達に会長が判断を下すのを眺めていた。

「そう思っているのは、どのクラスも一緒です。だから僕はひとつのクラスの言い分だけを聞くわけにはいかない」

 例えそれが自分のクラスであっても。会長は本当に付け足しのように、その言葉に付け加えた。もしかしたら会長自身、目の前で自分に好き放題言っているのがクラスメイトだという事実を、忘れていたのかもしれない。私だったら忘れたい。幸いにして私のクラスは最もやる気のないクラスだから、こんな(いさか)いもないのだが。

 至極もっともな正論を口にして黙らせる。そんな会長に、私は唐突に春に会長の手折った桜の枝を思い出す。パキリという桜の悲鳴、鮮やかな枝の切り口。散ってしまった花の透明さ。思えばなんて残酷な行動だろうか。だが今にしてみれば、あれだけが会長の意思表示のように思えてならなかった。


「失礼します」

 会長は礼をしてその場を後にする。背筋を伸ばした正しい礼は、嫌味な程に綺麗だった。集団の中の誰かが会長に向かって、何かを言う。おそらくあまりいいことではなかったろう。私には聞き取れなかったが、会長は一度だけ振り返る。だが何も言わずに私の横を通り、そのまま薄暗い校舎の中に入っていった。

 泣きも怒りもしない会長は、どうして立っていられるのだろう。私は考えたが、知ったところで自分に関係のないことに気がつき、何も出来ずに見えなくなった背中を追うことにした。





 総合学院祭は快晴の下で幕を開ける。球技大会も文化祭も奇跡的に滞りなく進み、残すは問題の体育祭だけとなった。

「あー、クソ……いっそ雨とか降ってくれればいいのに」

 つかの間の昼休み。道具が悪いという文句や、点数は公平なのかという抗議の説明に追われながら、それでもつかの間の休み時間が訪れた。ソエがぐったりと机に伏せながら、そう呪いの言葉を吐きだした。

 私はぱさついた菓子パンを無理やり飲みこみながら、ソエにティッシュ箱を放る。席に座ってまだ一分も経ってないのだが、あと二分で午後の競技の準備が始まるから、悠長に食べてなどいられない。

「それで雨降れ坊主とかつくれば?」

「それいいな。泣き顔書いて逆さ吊りだっけ」

 ソエは十秒チャージのゼリー飲料を吸い込みながら、片手で器用に雨降れ坊主をつくって見せた。そこでノックと共に何人かの生徒がドアを開く。明らかに不満そうな顔をしているので思わず逃げ出したくなったが、それを堪えて立ち上がった。

「中田、水分取っとけよ」

 部屋を出る私にソエがそう声をかける。態度に似合わず、仲間内には本当に気遣いの人だ。私は机の上のスポーツ飲料を一気飲みしてから、今にも不満を爆発させそうな生徒の元に向かった。


 午後の競技は校長の言葉からスタートする。結局先程のクレームは点数の公平さを疑うという内容で、スタートが五分遅れとなった。しかし気を利かせてくれたらしい校長が、青春を謳歌しなさいの一言で、早めにスピーチを切り上げてくれた。これで予定通りのスタートだろうが、準備の遅れを気に入らない教師陣が会長を捕まえて、また何事か文句を言っていた。

 会長はひたすらに頭を下げ続ける。会長に説教をした時間だけまた遅れが出ることに、どうしてあの教師たちは気がつかないのだろう。暑いせいか単にイライラしていたせいか、今日の私の沸点は低めだ。

「あ! ナカちゃんお疲れー」

「大変そう、ファイトだよ」

「中田、気張れよ!」

 通り過ぎながら声をかけてくれたのは、クラスの友達と担任だった。疲れで強張った頬の筋肉を引き上げながら、私は何とか笑顔を作る。その気遣いが嬉しくて泣いてしまいそうだ。いつもの私なら適当に相槌を打って、それで終わりだというのに。おそらく相当疲れているのだろう。

 その一瞬で会長の相手はどこかの団長にすり替わっていた。見覚えのある顔は、会長のクラスの団長らしい。応援合戦についてまだ食い下がるようだ。彼らにしてみれば、私達は漫画によく出る悪役の生徒会といった所なのだろうか。それを倒して自由を勝ち取り、最高の応援合戦をする。なんて素敵な青春だろう。私は自分のそんな発想に思わず噴き出してしまった。


「なーに一人で笑ってるの」

 やって来たのは、汚い生徒会室にノイローゼ気味だった会計の野坂先輩だった。両手に玉入れのカゴを抱えているので、慌ててひとつ持つことにする。

「あ、いや。大したことではないです。そう言えば会長は大丈夫でしょうか?」

カゴを支えながら、団長に対応している会長を指す。先輩は少しだけ目を細めて二人の様子を見てから、道具置き場に歩き出した。歩きながら先輩が話す。

「あの二人仲良かったのにね」

「そうだったんですか? 全くそうは見えませんでしたが」

「昔の話。そうね、私達が生徒会に入るまでの半年間までの」

 道具置き場にカゴを置くと、怪我をしたらしい一年生が救護の場所を訪ねてくる。先輩が校庭の端のテントを指さすと、生徒はそちらに向かっていった。先輩にもあんな風に一年生だった頃がある。当たり前の話だが、今まで全くそんなことを考えたことがなかった。


 フィールドでは騎馬戦が始まったらしく、鋭いホイッスルと、けたたましい和太鼓が青空に響く。乾いた砂埃に煙る校庭、歓声と雄叫び。校庭の桜の緑が、恨めしい程に鮮やかな夏の空に映える。見ていることしかできない、隔てられた向こう側の青春の光景。私は見入るばかりだった。

「会長って、同じ生徒会役員でも私達とはプレッシャーのかけられかたが普段から全然違うじゃない。違うのはプレッシャーもだけど、やっぱり会長だし、推薦でレベルの高い進学先も狙えるの」

 吹いてきた向かい風に、先輩が長い髪を掻き上げる。砂でざらついていたらしく少しだけ顔をしかめる。頷くと先輩は続きを話してくれた。

「それでいろんな人にやっかみをよく言われてるわ。あの人それほどタフなわけじゃないし、総会とかで前に立つたびにそんな事言う人がいるから、ストレスで性格が暗くなっちゃった」

 飯田君も言ってきた内のひとりらしくて、会長と距離を置くようになったんだって。それで二人はそれっきり。うちのクラスは飯田君がリーダーだから、みんな飯田君に右倣えよ。野坂先輩は、そう言って目を細めた。

「まあ実際、会長は暗くなったと思うわ」

 飯田というのが先程の団長らしく、会計の先輩は会長と同じクラスらしい。一年間も一緒に過ごしてきたのに知らなかった自分に驚いた。

「じゃあ会長、生徒会を引退したら、また元通り団長さんと仲良く出来るかもしれないですね」

「まさか。その頃には本格的に受験戦争じゃない。もっとやっかみも増えるだろうし、もうあり得ないと思うわ。性格も戻るとは思えないし……」

 青春ドラマじゃないんだから、と先輩が言い切って苦笑する。なら会長は生徒会に奪われたものを、何一つ取り戻せないまま卒業して生きていくのだろうか。自分の想像が怖い。恐ろしいのは性格を破綻させるほど掛け続けられたプレッシャーなのか、それとも自分の感情を優先して罵詈雑言を吐いた会長のクラスメイトなのか。

 ただの学校生活に、なぜあの人は、周りは、こうも振り回されているのだろう。私の怯えを微塵も感じ取らない先輩は、あと少しだから頑張ろうね、と気休めのエールを口にして去って行った。





 応援合戦の直前、私は生徒会室に戻ろうとしていた。取って来なければいけない用具をメモで確認しながら、廊下を小走りで駆ける。すると開け放たれた廊下の窓から、強い風が吹いてくる。その強さと冷気に鳥肌が立った。思わず足を止めて空模様を確認する。桜の枝葉と曇り空。ハッとして窓から身を乗り出すと、葉に溜まったらしい水滴が、一滴だけ地面に落ちる所だった。

 乾いた地面の一か所だけが暗い土色に染まる。もう一度空を仰ぐ。雲の切れ間から、ほんの少しだけ青空が見える。ただそれはほんの少し。校庭では不安気に生徒が準備をしていた。だがもちろん雨が降ったら即中止だ。雨が上がるのを悠長に待ってくれるほど、実行委員の教師は甘くない。しかし中止を受け止めてくれるほど、生徒が冷静でないのもまた事実だった。

 ホイッスル、そして流行りのダンスメドレー。応援合戦が始まったらしく、揃いの赤いポロシャツに身を包んだ一団が校庭に散っていく。彼らの二分三十秒の戦いが始まると共に、私は走る。

 会長の指示を仰ごう。私は焦りながら生徒会室のノブを回す。自分も相当に混乱しているらしく、一度開くのに失敗してしまう。

「会長! ヤバいです、空が」

 私は最後まで報告することが出来なかった。会長は在室してはいたが、声をかけられる状態ではなかった。

 机上、床問わず書類が散乱する部屋の中心に、会長が一人で真横を向いて立っている。透明な硝子のコップと銀色のケースが、その中で異質に見えた。私はもう一度声をかけようとするが、今度は声が出なかった。

 窓の外を緑のポロシャツの波が駆け抜けていく。とうとう雨が降り出したが、彼らの踊りは止まらない。


 会長が銀色のケースから錠剤を押し出して手に乗せる。その一粒が会長の白い掌で転がった。その手がそのまま口元に持って行かれ、反対の手で会長はコップを口に運んだ。雨の音。雨足は思いの外強いらしく、大きめの雨の粒で窓の外の踊り手の姿が歪む。

 会長がもう一度錠剤を口にしたらしく、その喉元が上下した。あの喉元の青白さ。もしもう少しだけ人間の皮膚が薄ければ、きっとその白い錠剤が喉を滑り落ちて行く様子が見えただろう。私はその様に見惚れる。微かに弧を描いた会長の口元。どこも見ていないその目の黒さ。白く骨ばった腕が上がり、会長は自らの目を片手で覆う。彼は嗤っている。多分、見惚れている私も、嗤っている。

 ピルケースが擦れる音がする。今度は二錠の粒が、骨ばった手の上に転がり出た。雨の音と、空に合わない軽快で華やかなヒップホップ。会長の取り上げたコップの水に、木々の緑が映り込んだ。再び上下する白い喉。そこでようやく私は、会長が薬を四錠も飲んだことに気がついた。

「……会長」

 私は呼びかける。会長は空のコップを掴んだまま、動き出さない。雨の音。窓の外で青いポンポンの波が揺れる。雨の中踊る最後の軍は、最悪の天気の中で全身を濡らして踊っている。団長らしき人が何かを叫ぶ。続いて生徒達が、必勝と叫んだ。

「会長」

 二度目の呼びかけで会長はようやくこちらを向いてくれた。何を言いに来たのか、一瞬忘れかける。

「雨だね」

 呟いた会長の唇から、一滴水が零れた。何の薬だか知らないがあれだけの薬を飲んだというのに、会長は普段通りの顔で立っている。私が何を言いたいのか察したらしく、会長は苦笑いを浮かべてコップを置いた。

「ただの頭痛薬だよ」

「……薬も過ぎれば毒ですよ」

「だって効かないんだ」

 幼い子が言いわけするように、会長は表情を歪ませる。笑いながら怒っているような泣いているような、変な表情だった。効かないということは、耐性が付くほど常用していたということだろうか。あれだけいろいろ言われれば、頭も痛くなりそうだ。

 だが、変なところ見られたなと、肩を回しながら呟いた会長は、もういつも通りの会長だった。窓の外で青いポロシャツの波が引いていく。雨の勢いは収まりそうもなかった。


「雨だね。中止の指示出しに行くから、メガホン頼むよ」

 それによってまたいろいろ言われるのを知らないはずがないのに、それでも会長は淡々と言い切って部屋を出て行く。私は汚い部屋に一人取り残された。机の上には同じように取り残された黒革の手帳と、その上に点々と散らばる白い薬の粒。私が声をかけなければ、会長はこの粒も飲み下していたのだろうか。その粒の一つを摘む。滑らかに見える表面は、思いのほかザラザラしていた。

「……凄い利き目だな、雨降り小僧」

 振り向くと、ソエが廊下の暗がりに立っていた。いつからそこに居たのだろうか。服は濡れていないし足音も聞こえなかったから、おそらく私と大して変わらない時間にここに来たのだろう。もしかしたら私よりもずっと早くここに着いて、会長のことを見ていたのかもしれない。

 ソエもまた私の考えていることが分かったらしいが、ソエはそれを言葉にすることなく、片頬を哀しそうに引き上げただけだった。

 雨の中、会長が校庭を歩いて行くのが窓から見える。酷い雨でも、彼の背筋は伸びている。少し長い髪が、水を含んで重そうに頬に張り付くのが見えた。邪魔そうにその髪を掻き上げるその様も、カッコよくもないのに絵になっている。

「ほら、メガホン」

 動き出せない私の代わりに、ソエがメガホンを取り出してくれる。そこでようやく私も会長を追うことが出来た。





「もう一年経ったんだな」

「何が?」

 俺の言葉に中田がキーパンチの手を止めた。来月にある生徒会役員の選挙の要項を作っているらしく、時折机の上に置かれたファイルの中から何かの紙面を引っ張り出している。俺達の任命期間はあと一カ月残っているが、慣例で三年生の役員は既に引退している。俺達は残りの一カ月、あとは選挙の準備だけだが、たったの五人で過ごさなければいけない。

「生徒会入って。あとお前、顔色悪すぎ」

 俺は中田の質問に簡潔に答える。中田は、ああ、と言ったきり興味を失ったらしく作業を再開した。それから、寝不足なのと言って小さく欠伸をする。中田が手を止めると、パソコンが何か処理を始めたらしくブーンと唸る。そのすぐ後にコピー機のランプが点滅した。要項は出来たらしい。

「ソエ、続けるの? 生徒会」

 中田はコピー機の吐き出した要項を確認しながら、俺にそう聞いてくる。印刷が薄かったらしく、刷り上がった要項を机の上に置いてコピー機の裏蓋を開けた。そう言えば中田は、いつの間にインクの補充の仕方を覚えたのだろう。いつもインクの補充をしていたのは会長か野坂先輩だった。どちらかにでも聞いたのかもしれない。

「正直面倒くさい。やっててもいいことないだろ。生徒会」

「意外。ソエは続けるかと思ってたのに」

「……誰も抜けるだなんて言って無いだろ。中田は?」

 五人の中でも辞めるとしたら中田だろうと、俺は内心踏んでいた。だが予想に反して中田は首を振った。それから黙ってコピー機の裏蓋を閉めて、鞄から自分のファイルを取り出し、選挙の応募用紙を机の上に置いた。

「……まぁ、順当なんじゃね? 今副なんだし」

 応募用紙には氏名とクラス、それから役職名を書く欄があり、中田の見せてくれた用紙はその全てが埋まっていた。役職名は、生徒会会長。


「昨日顧問に呼び出されて、生徒会、続けろって言われた」

「あー、やっぱ抜けるつもりだったんだ」

 中田はそれには答えずに応募用紙を再びファイルに綴じた。それからもう一度要項を印刷しようとパソコンに向かうが、今度はコピー機から用紙切れのブザーが鳴った。あーもうと中田が唸りながら立ち上がるので、それを制して棚からコピー用紙を取り出してセットする。

「A4でいいんだっけ?」

「うん。ありがと」

 セットし終わると、中田がもう一度印刷を試す。今度は何事も無く印刷が完了した。窓からは夏の終わりを感じる涼しい風が入って来る。携帯の時計を見るともう五時を過ぎた所で、窓の外を見ると遠くの空がオレンジで、こちら側の空は暗い青だった。真ん中のグラデーションになっている所の空は、何色と呼べばいいのだろう。


「ソエって他の三人と違うよね」

「何がだよ。溢れ出るオーラか?」

 中田は俺の軽口を、馬鹿でしょの一言で返す。それからコピー用紙の置いてある棚とは机を挟んで逆方向にある、鍵付きの棚に向かう。二、三度鍵を鍵穴に入れるのを失敗したみたいだが、すぐに成功して棚の中から生徒会のハンコを出す。これを押さないといけない決まりらしい。中田は丁寧にハンコを押して、すぐに元の場所にハンコを片付けて棚の鍵を閉めた。

「遥とか和希とかはさ、明らかに内心点欲しさじゃない」

「俺だって全く欲しくないわけじゃない。それはお前もだろ?」

「貰えるものは欲しいわよ。でもソエはそれがメインじゃないでしょ」

 中田はコピー用紙を大量にコピー機にセットしながらこう聞いてきた。

「ソエはどうして生徒会に入ったの? しかも野球部を辞めてまで」


 中田がパソコンに戻って印刷開始をクリックする。もうかなり旧式のコピー機が、ガシャガシャとやかましい音を立てて動き始める。ここで中田は動き回っているが、自分は手持無沙汰なことに気が付く。手伝おうかとも思ったが、中田だったら手が必要な時はちゃんと指示をくれるだろう。俺は下校時刻まで生徒会室の掃除でもしていることにした。

 狭い上に汚いだなんて、新しく入って来るだろう下級生が不憫でしかたがない。それに慣れてしまってはいるが、学院祭以来この部屋は荒れっぱなしだ。

「野球部は……まあ、そんなに思い入れは無かった」

「ふーん。で、どうして」

 掃除用具箱から箒を取り出す。しかし部屋全体を見回して、床に散らばる段ボールや紙を片付ける方が先決だということに気付いた。しかしなんという荒れ具合だろう。あと、中田がこんなに食いついてくるのも少し珍しい気もした。俺が一年経ったなんて言うから、節目だからという意味もあるのかもしれない。

「あの人が、かなしいっていうからさ。今でもよく分かんないけど」

 中田は分かったのか、それとも全く分からなかったのか。とにかくそれ以上は聞いてくることは無かった。俺自身だってどうして生徒会なんてやっているのか、時々分からなくなることがある。

 野球部だった頃に感じた、焦げ付くような嫉妬や疎外感を感じることは無くなった。後悔も無い。だがたまに野球部を見かけると、自分だけが何かよく分からないものから逃げ出した、意気地無しみたいな気がしてならなくなる。そんな気分からも逃げ出したくなり、生徒会活動に没頭する。そんな一年だった。


「……やっぱ、逃げただけかもしれない……」

 コピー機の音がうるさくて、もしかしたら中田まで聞こえなかったのかもしれない。中田は窓の外を見て何かを考えているようだった。いや、もしかしたら何も考えていないのかもしれない。

 中田は時折ああして外を見ていることがあった。何か見えているのだろうか。それとも俺の言葉でも少しは真面目に考えようとしてくれているのだろうか。

「ソエってたまに、会長と似てる気がする」

 中田はコピー機の用紙切れのブザーを止めて、紙を足しながらそう言う。中田は窓の外から俺に視線を移していた。俺は床の上の段ボールを一通り拾い集めてから、カッターで解体する作業に入っていた。コピー機が再び動き始め、段ボールを切るサクサクという音は、コピー機の音にすぐ消された。

「そういう中田は、どうして生徒会入ったんだよ」

 場が持たない気がして、今度は俺が中田に質問してみる。中田は印刷された紙を一クラスごとに束ねてから、互い違いに重ねて行った。えー、どうしてだったかな、と面倒くさそうな顔をしていたが、窓の方を向いて答えてくれた。

「会長にね、ジュースおごってもらったの。だからジュース分は働こうかなって思って。それだけ」

 以前から会長と知り合いだったということだろうか。

「ふーん。意外だ。お前、熱烈な会長のファンかと思ってた」

「何それ。そんな風に見えてたんだ。やだなそれ」

 それにしてもジュース一杯分がこんなになるとは。中田はそう笑ってまた紙の補充をした。





 会長が倒れたという知らせを聞いたのは、生徒会選挙でメンバーの総入れ替えが行われた数日後だった。鮮やかだった木々の緑もなりを潜め、校庭の木々も紅葉した、そんなある日。濃い空の青に映える新緑も好きだが、向こう側が透けて見えそうな薄い空色。それを背景にした赤も好き。そんなことをプリント片手に、呑気に考えていた時だった。

「見舞いにいかないか」

 そう言ったのは顧問の教師で、私達はそれぞれの作業の手を止めて顔を伏せた。意味が分かっていなさそうな、入ったばかりの一年生の一人が首を傾げた。ソエが前会長のことだよと補足説明をする。

「何故そんなことになったんですか」

「なんでもストレスらしい。あいつも受験生だから……」

 私達は見合わせた顔を背ける。ソエは何かを言いかけるが、そのまま口を閉じた。だが彼が言いたいことは痛いほど分かる。私が代わりに口を開く。

「行かないほうがいいんじゃないですか?」

 瞬間、凍る空気。私は自分の発言が冷たく響いたことに気が付くが、もうどうしようもなかった。私はそのまま続ける。

「学校でのストレスなら、なおさら私達と会わない方がいい気がします」

「それにしたって随分冷たいじゃないか。少しぐらいいいだろう」

お前達が忙しいのも分かるが、と顧問が押してくる。私とソエの視線は一瞬だけ交わされたが、互いが考えないようにしているものがそのまま目に映り込んでいたので、とても見つめ合ってなどいられなかった。


「ほら、そんなに仕事が滞るのが嫌なら、新人に任せればいいじゃないか。な?」

 顧問に話を振られた一年生が、訳も分からず頷く。これで決まりだと顧問は席から立ち上がり、駐車場で待っているからなと部屋から出て行った。静かになる生徒会室に、ソエの溜め息が響く。思い出させたくないから会わない。私はそう言い、ソエも多少はそう考えただろう。だが実際はどうだったろうか。

 雨の日。白い喉元と、何も言わずに錠剤を口にする会長。硝子のコップ。彼の苦悩を目の当たりにして、それでも何も言えず何も出来なかった非力さ。それを恥じて目を背けたがっているのがソエだとすれば、その苦悩する姿に見惚れた自分から逃げ出したいのが私だ。自覚があるから、なおさら会長の事は思い出したくない。それが私達の、少なくとも私とソエの本音だ。

「会長、指示を」

 生真面目な一年生の副会長の言葉に、私は手元のシステム手帳を確認する。新しく生徒会役員になった一年生は有能らしく、予定よりもずっと速いペースで仕事が進んでいた。

「あ、うん。じゃあさ、私達行ってくるけど、それ終わったら帰って大丈夫だよ」

ソエが投げてくれた鞄をキャッチしながらそう言うと、一年生が生真面目な返事を返してくる。私達も一年前はこうだったろうかと思い出そうとしたが、もう思い出すことが出来なくなっていた。





 顧問のワゴン車で十五分ほど揺られる。繁華街を抜けて、郊外にある市民病院に着いた。後部座席に乗っていたソエや他の二年生達は狭かったらしく、駐車場に降りるなり大きく背伸びをした。

「……今日って、天気いいな」

 遠くの山に沈みかける斜陽の鮮やかさに、静かに誰かがそんなことを言う。確かに今日は天気がいい。十月の風は落葉の匂いを運び、澄みきった青の空には、微かに夕日の色を映した筋雲が細くたなびいている。駐車場に植えられた名前の分からない木々も、小さな葉を真っ赤に染めていた。病院の白い壁がごく薄い蜜柑色に染まっている。会長のいる病室も、同じ色をしているのだろうか。

 三階の一番奥の部屋らしいと言って先頭を歩く顧問に続く。市民病院の外来には何度もお世話になっているが、病棟に入るのは初めてだった。学校を出た時刻もそんなに早くないせいか、東の空には星も見え始めていて、照明の少ない病院の廊下が一層暗く感じられた。

「ここだな」

 スライド式の扉の前で顧問が立ち止まる。気詰まりな空気を背負ったままその後ろを着いてきた私達も、歩くのを止めた。誰も動きだせないでいる私達を不審に思った顧問が、ほらと私の肩を叩く。顧問の中では、私が積極的に会長に会いたがっている設定らしい。勘違いも甚だしいと苛立ちながら私が躊躇していると、ソエがいつもよりずっと小さな声で、ぼそりと言った。

「本当に会って大丈夫なんですか? ストレスで倒れるぐらいなら、中で誰かが付き添ってるでしょう」

 まずはその人に確認を取るべきだというソエの提言に、顧問は確かにと納得する。ノックをしてみるとソエの言う通り母親らしき人の声が聞こえ、まずはと顧問だけが中に入っていった。


 残された私達は無言で廊下に佇む。省エネなのか別の理由があるのか、とにかく暗い廊下に立つ私達は、他人から見れば一体どれほど奇妙に見えるのだろう。そんなことを考えていると、病室の扉が開き、顧問と母親が出てくる。母親は目の下にクマを作っていて、今にも泣き出しそうにも見えた。

 くたびれた紺色のセーターにはしわが寄っていて、全身から疲労が浮き上がって見える。廊下の照明の少なさのせいで顔の陰影が色濃く映し出されていることも、その原因のひとつなのだろうか。

「申し訳ありません、せっかく来て下さったというのにあの子……」

「いえ、こちらこそいきなり押しかけてしまって」

 母親の謝罪に顧問が快活に答える。生徒の皆さんもごめんなさいね、という言葉には私達も首を振って答えた。そんな簡単な会話の後、しばしの痛い沈黙に包まれる。私はリノリウムの床を見つめて、その沈黙が終わるのを待つ。

 では私達はこれで。決まり切った文句で、顧問がどうにもならない場に終止符を打つ。母親が深く頭を下げてから、病室のドアを開いた。その一瞬、病室の全てが隙間から見える。電気の点いていない部屋に僅かに差し込む西日、よくある病室に、保健室のそれよりも立派なベッド。そして光の届かない暗がりに横たわる人。息が止まる思いがした。


 後日一度だけこの時のことを、病院に行ったメンバーで話した。会計は、どこを見ているか分からない目をしていたと言い、監査は本当にそこにいたのが会長だったのかを疑った。

「じゃあ何がいたんだよ、怖いな」

「だって、会長さんがあんなことになるなんて、信じらんない」

 暗くなりかけた空気を茶化したソエに、監査は目を伏せて言う。私は監査とは反対に、あの暗がりに会長がいることに何の驚きも無かった。いつか、こうなると思っていた。それは漠然とした予感だったが、ソエや私が入院するよりはずっと実現しそうな予想だった。いや、予想というよりはもっと現実味のある、そう、既視感にも似たもの。

「そういう副島(そえじま)は何が見えた?」

 話を振られたソエが、何かを書いていた手元を止める。そのままペンを親指の上で器用に一回転させて、ゆっくり口を開く。

「……俺は」

「俺は?」

「口元が見えた」

 笑っていたよ、とソエが言い、どうしようもない空気に包まれる。私はソエの発言から想像する。あの暗がりで、会長は何を思っていたのだろうか。分からない。会長の心はおそらく私の想像からは遥かに隔たった所にあって、私にはとても想像がつかない。

 いや、会長だけでなく、誰の気持ちだってそうだ。現に私はこうして同じ部屋にいる会計や監査やソエが、あの時何を見て、今何を考えているのか、微塵も理解出来ない。そんな事を考えていると、お前は何が見えたと、ソエの目が無言で問いかけてくる。私は口を開き、だけど上手く言葉に出来なかった。

 私が見たのは、会長の顔色だった。近眼の私には、あの暗がりで鮮明に見えるものが何一つなく、微かに見えたのは横たわる会長の、紙のように青白い顔色だけだった。あの人は暗い目で、微かに笑っていたらしい。私はもはや会長の顔が思い出せない。

「……中田」

 ソエが何かを放って来る。受け取ったそれはティッシュ箱だった。





 私が最後に会長と話したのは、卒業式のリハーサルだった。リハーサルと言っても送辞と答辞だけのリハーサルなので、講堂には私と会長と何人かの教師しかいない。他の生徒達は今頃、先輩やクラスメイトとの別れを惜しんでいるのだろう。時折どこかのクラスから歓声が聞こえてくる。

 講堂の体を芯まで冷やす空気。ジェットヒーターの音と、たまに教師の間で交わされている業務連絡だけがその中でよく聞こえる。音が無いわけでもないのに、この空間はどこまでも静かだ。

「久しぶり、元気だった?」

 答辞の練習を終え、会長が檀上から降りてくる。記憶の中の会長よりずっと線が細くなったように思えたが、それでもここに立てるぐらいまでには回復したということだろう。マイクを通して半年ぶりに聞いた声は少しかすれて聞こえたが、立ち居振る舞いの美しさは失われてはいなかった。

 元気ですと答えてから、そちらは? とつい条件反射で聞いてしまいそうになる。言葉を飲み込んで不自然に開いた会話の間に、教師が私のリハーサル開始を促す声が飛び込んでくる。

「行っておいでよ」

 私は会長に後押しされて、壇上に向かう。席から立ち上がって左右の来賓に一礼。それから階段を登って国旗に浅い礼。一歩踏み出す度に(きし)む床の感触が無ければ、どこを歩いているのかが分からなくなる。そんな妙な緊張を(こら)えて生徒席を見据える。今は空っぽだが、明日にはここに全校生徒が入るのだろう。二拍置いて、一歩踏み出して深く礼。踏み出したその先の床が抜けるような、心細さ。深呼吸をすると、空気の冷たさに咳込みそうになった。


 ほぼ空っぽの講堂でわけも分からずに震えている私は、おそらく酷く滑稽だろう。わかってはいるのに、会長のように凛と立つことも出来ない私は、きっとどうしようもないのだろう。吐き出した息は淡く、少しだけ中空を漂ってからあっけなく消えた。

「ああ、送辞はもう少し家で読んできて。礼法は……そうだな、先輩にでも指導してもらいなさい」

 壇上から降りた私に、教師はスピーチの数か所の突っかかりを指摘する。それから講堂の隅に立っていた会長を呼んだ。会長が曖昧に頷くのを確認すると、他の教師との連絡を再開した。私は弱音を零してしまう。

「なんか、頭真っ白になるんです」

「どう教えればいいんだろうね」

 会長は少し困った様に笑いながら、私の席に座る。それからおもむろにスイと立ち上がった。手本なのだろう。会長は私と全く同じコースを同じ動作で通り、一分の(しわ)無く張られた国旗に礼をした。

「前をよく見て。本当は、もう分かっているはずなんだろうけど」

 何を、と聞く間も与えずに会長は礼をする。その礼はどこまでも真っすぐで、生徒なんかではなく、何かもっと大きなものに頭を下げているようにも見えた。あの人には何が見えているのだろう。私には何一つわからないまま、会長は踏み荒らしたくなるような綺麗な動作で、壇上から降りた。会長の吐く白い息が宙に溶ける。ジェットヒーターはずっと稼働状態だというのに、講堂の寒さは全く和らぎはしなかった。何となく息の吐かれた辺りを見ていると、会長がポケットから見慣れた黒革の手帳を取り出して差し出して来る。


「これ、手帳」

 見れば分かりますとは言わないで、私は差し出されたそれを両手で受け取る。この半年で何度か見かけた手帳だが、触るのは初めてだ。手のひら大の割にずしりと重い手帳の表面は、少し傷が付いていたが滑らかで弾力があった。会長は私が手帳をしっかり受け取ったのを確認してから、そっと手を離した。それはシステム手帳らしく、今年一年の生徒会のスケジュールが几帳面に角ばった字で細かく書いてあった。

「この先どう動かしていけばいいかの、参考になればいいけど」

 こんなので済まそうとしてごめん。そう会長が目を伏せると、伸びた前髪が右目を覆う。私は何も言えずに首を振り、手帳に一通り目を通す。委員長の招集、生徒総会の準備の日程。そんなことが引退までずっと続いていた。字を書き込むボールペンは濃くなったり細くなったり、ときどき緑やオレンジになっている。


 最後のページまで読んでいると、今度はどこかの教室から校歌が聞こえてきた。会長が校歌の聞こえた教室の方角の窓を見上げる。

 ちょうど雲間から出た柔らかい冬の陽光が、窓から差し込んで講堂の隅を照らす所だった。明日は晴れるのだろうか。晴れたのなら、きっと絶好の卒業式日和になるのだろう。桜こそ咲かないが、薄く青い空とまだ当分融けそうもない雪の(まばゆ)さ。せめて旅立ちの日の空だけは、そんな綺麗な景色でこの人を送り出して欲しかった。そんなどうしようもないことを祈る。

「会長!」

 乱れた足音で講堂に入ってきたのは、ソエと一年生の副会長だった。何事かと駆け寄ると、卒業式の飾り付けに問題があったという報告を受ける。

「ほら、行っておいで。会長」

 会長がそう言って私の背をもう一度押す。今はもう私が会長と呼ばれている事実に、今更ながら戸惑ってしまう。会長は曖昧な笑みを浮かべて、私達を見つめていた。副会長が急かすので、私は講堂から出ようとする。しかし会長は黙ったまま、立っている場所から動かなかった。

「戻らないんですか? ここは寒いですし」

 ソエが振り返って会長に聞く。ソエは何とも言えない顔をして、会長を真っすぐに見た。どれほどジェットヒーターが頑張ろうと、この講堂が暖かくなった試しがない。時計を見ると、そろそろホームルームも終わってしまう時間だった。今度はどこかの教室で、一斉に担任に感謝の言葉を叫ぶ声がした。雲は再び雲間に隠れてしまったらしく、講堂は薄暗くなる。

「もう少しここにいるよ」

 副会長がもう一度急かし、私は講堂の入り口まで来て一度だけ振り向く。だが会長はもう向こうを向いていて、その痩せて細くなった後ろ姿しか見えなかった。





 一面の灰色に靴の底が沈みこむ。朝七時の校庭で吐く息は、それさえも灰色に見えた。強風が大粒の雪を舞い上げるので、ひどく歩き辛い。私から遠く離れた所で、モスグリーンのウィンドブレイカーを着たソエがスコップで何かを撒いていた。ここからでは見えないが、確か指示が出された時に滑り止めだと教師が言っていた気がする。

 九時にはこの校庭は保護者の駐車場となるので、私達は黙々と除雪作業をしていた。生徒会だけではとても人出が足りないので野球部やバスケ部も駆り出されて、校門から校庭までの至るところに散らばっている。

 誰もが寒さと眠気で無言で、とても卒業式当日とは思えない空気だった。ザク、ザクと更に眠くなるようなリズムで雪が掻かれていく音ばかりが聞こえる。

 酷い天気だと誰かが言ったが、私は天気まで酷いと思った。明るい要素の一つも見つからない景色。限りなく白に近いが灰色の地面と、まだ暗い早朝の空。空を見上げると雪が目のすぐ横を触れていった。今日の雪は大粒なのにサラサラしている。きっとすごく寒い日なのだろう。寒くて風の強い朝だった。

「送辞、雪の日バージョンにしなきゃな」

 いつの間にか近くに来ていたソエが、私が作った雪の山にスコップを突き立てる。フードまでしっかり被ったモスグリーン一色のソエは、どこかの山岳民族みたいに見えて少し笑えた。


 送辞の最初の一文を『春の気配の感じられる今日のよき日に』から雪を入れた何か綺麗なあいさつに変えなければいけない。ネットで検索してしまおうか。しかしそこに心は無いだろう。昨日のうちに天気が崩れた場合のことも考えておけばよかったと反省する。

 周囲を見回して、除雪作業の進行具合を確認してみる。だが、手を止めると一気に冷気が襲ってくる。頬にひりひりした痛みを感じる程だった。手袋をしているのにもかかわらず、指先の自由も利かない。さほど強いわけでもないのに、雪のせいで校門からの道が霞んで見えた。

「……酷い天気」

「マジ勘弁だわ」

 さっさと終わらせようぜ、とソエが再び元の位置に戻って除雪剤を撒き始める。雪の向こうで単調な作業を繰り返すソエは、妙に機械じみて見えた。乾いた雪に足を取られて、私の作業はあまり進まない。再び手を止めて空を仰ぐ。灰色の空は灰色のまま、変わりなく柔らかそうな雪を降らせている。ザク、ザク、ザク、ザク……削られているのは、本当に雪なのだろうか。


 そんな雪の中で行われた卒業式。講堂の中は暖かく、寧ろ緊張で頬が火照っている私には暑いぐらいだった。寒くなると予想して厚着をして来た男子が、失敗したと気だるそうに隣の男子と話している。ジェットヒーターが効いたという訳ではなく、単に全校生徒と保護者と教師という大人数の熱気が講堂を温めているだけだ。

 正直私にとっては不快この上ない熱気で、右手で持っている送辞の紙であおいでしまおうかとさえ考えたが、さすがにそれは止めておくことにする。


 開始の時刻になり、入場の音楽が流れる。リハーサル通りのタイミングで生徒が拍手を開始すると、リハーサル通りのタイミングで卒業生が入場してくる。後ろの席で早くも保護者が啜り泣きを始める声が聞こえた。

 私の横を通り過ぎて行く卒業生。男バスの人気の先輩が入場すれば、周りの女子が控えめに黄色い声ではしゃぎ、ミスコン一位の先輩が横を通れば、男子が卒業を惜しむ声を上げた。会計の野坂先輩が俯きがちにそのすぐ後に続く。長い髪が横顔を覆い、その表情は見えない。そのクラスの列の最後尾は会長だ。出席番号が最後というわけではなく、壇上に出やすい位置に変更されたのだろう。

「あれ会長さんじゃね? 卒業式出るんだ」

「お前な……昨日のリハにも居ただろ」

 ノイローゼで休んでたんだっけと、厚着の男子がめんどくさそうに拍手をしながら会長を目で追った。会長は昨日のリハーサルと全く同じように背筋を伸ばし、間隔を保って歩く。その手本のような歩み。

「どこの大学受けたんだろうな」

「まぁ、国立じゃね? 腐っても会長サマだし、推薦とか」

 いいよなー、学校来なくても進学とか。男子達はそんなコメントをして会長の後ろ姿を見送る。これが会長に聞こえていなければいいとも思ったが、きっと聞こえているのだろう。何となくそんな気がした。会長のクラスが全員入場を終え、担任の合図で一斉に席に着く。会長は今何を思っているのだろうか。そんなどうしようもないことを考える。


 国歌斉唱を終え、厳かといった感じに教頭が卒業証書授与と宣言する。聞き覚えのある名前や、そうでない名前が呼びあげられた。この二年で私が関わったことのある人とそうでない人が、工業製品のように壇上に登り、そして降りて行くのをぼんやり眺める。緊張のためにギクシャクしている人もいれば、晴れ舞台にも関わらず、面倒くさそうに壇上から降りて行く人もいる。

 音楽と教師の醸し出す緊張感は、なんだか空回りしているようにも思えた。早く終わらないかな、といった声がそこかしこから聞こえる。

 野坂先輩は壇上の上でごく浅い礼をして証書を受け取り、壇上から降りて席に戻る途中で、邪魔そうに証書を右手から左手に持ち替えた。会長はやはり手本通りのお辞儀をし、曲がるべき角では不自然ではない程度にぴたりと止まってから曲がった。リハーサルでも思ったが、私にはその自然さも美しさもとても真似できそうもない。


 そうして卒業生全員が着席し、来賓の祝辞や祝電が述べられる。余計な歌やイベントを挟まないので、この学校の卒業式は市内で一番短いと有名だ。それでも飽きる生徒は一体何なんだと、担任がホームルームの時間にぼやいていたのを思い出す。開始四十分で残すは送辞と答辞、そして校歌斉唱のみとなった。

 在校生代表で私の名前が呼ばれる。リハーサル通りに返事をしたが、練習よりもずっと声が反響しない。人が居るから声が通らないのだろう。とにかく私は壇上に上がらないといけない。気を取り直して席を立ち、意識してゆっくり歩き出す。

 早足にならないように、角に来たら立ち止まって、深い礼。顔を上げると来賓席の向こう側の教師席で、担任が心配そうな目でこちらを見ていた。目が合うと頷かれる。そんなに心配されているなんてと内心で苦笑すると同時に、何だか変な感じで緊張の糸が切れてしまった。

 それがありがたいことなのかよくわからないまま壇上に上がり、昨日と同様にぴんと張られた国旗に浅い礼をする。あんまりぴんと張られているから、なんだか硬そうにさえ見える。演説台の前で方向転換をし、一歩進む。


 人で埋まった講堂を壇上から見下ろすと、私の頭の中がシンと沈むように凍った。緊張で思考が途切れるといった感じではなく、寧ろ普段よりも私の思考はずっと冷静で冴え切っている。だが落ち着いたというのには、あまりにも研ぎ澄まされた冷たい感覚だった。それでいてどこか、私の周りの全てのものと隔てるような、透明の奇妙な壁に取り囲まれている息苦しさと寂しさと、保護されているような安心感を覚える。

 生徒席では早く終わらないかと話している人もいるのだろう。事実、壇上の私には隣り同士話している二年生や、欠伸をする卒業生まで見えているのに、何の感情も湧かない。ただ私がこの壇上にひとりでいることを、ぼんやり思っただけだ。

 取り過ぎたぐらいに間を取って、私は礼をする。流れた時間はいつも通りだったかもしれないし、あるいは長いか短いかのどちらかかもしれない。リハーサルでは震えてしまった指先が、詰まることなく送辞の包みを開く。深く呼吸をして、最初の一行を読む。

 白雪の見送るこのよき日に。結局ネットを使うことなく、時候の挨拶は自分で考えた。お世話になった先輩へのせめてもの感謝の形であると共に、形だけだが在校生の代表であることに誠実でありたいと思ったからだ。だがこの思いが、果たしてどれほどの人に伝わるというのだろう。伝わった所で、自分の思いが一体何だというのだろう。冷めた内側の自分が嗤う。

 出来るだけ抑揚をつけて、先輩との思い出を語っていく。書いている時は心をこめて書いたが、教師陣によって手直しされた文面。脚色や意図された美化ばかりの文章によって、まるでこの一年が楽しいことだらけのように聞こえた。

 語る自分も語らせる教師も、そして聞いている振りをしてその実気にも留めていない聞き手も、全てが(いと)わしくさえ思える。無難過ぎてきっと誰の記憶にも残らないだろう送辞を終えて、私は壇上から降りた。あと二、三日すれば私自身も忘れてしまう可能性さえある、そんな送辞。私はリハーサル通りに自分の席に戻った。


 今度は卒業生代表で会長の名前が呼ばれる。思えば会長のフルネームを聞くのは、一年半前の生徒会の認証式以来だ。会長が返事をして立ち上がる。会長の返事は私の返事なんかと違い、はっきり講堂の空気の中央を貫くようにして響いた。この声だけで、敵わないと思い知らされる。

 集団の中からただひとりが立ち上がり、そして私と全く同じルートをゆっくりと歩き出す。会長は、一挙手一投足に注がれる視線の波をかき分けて、講堂の中の空気を作り変えていく。先程までと明らかに違う空気が、会長が歩いた道から講堂全体に広がっていく気がした。眠気と気だるさで飽和状態の生温かい空気が、今の会長の纏う、厳しいぐらいに潔癖な気配を孕んだ空気へと変質していく。

 踏みしめるでも無く、かといって軽やかというわけでも無く淡々と、会長が一歩一歩壇上への階段を上がっていく。横目で見えたある人は興味深そうに、だがある人はやはり微塵の興味を払うこともなく会長を見ている。その六百の視線の中、会長は壇の中央でぴたりと止まって深い礼をした。サ、それに合わせてお辞儀をする卒業生。後ろから見ていると、黒い波が揺れて広がるようにも見えた。


 会長の声はどこまでも静かだった。無駄な抑揚も付けず、涙に詰まることも無いその声。どこまでもいつも通りの会長の声が、講堂中のマイクから流れ始める。出席の感謝のあいさつ、いくつかの当たり障りの無い思い出を語り、在校生へのメッセージを簡単に述べる形式通りの答辞。素気ないと言えばそれまでだが、会長らしいと言えば会長らしいとも思えた。

 最後まで読み終わると、十分に間を取ってから深い礼をする。礼に合わせて黒い波がまた広がり、会長が元来た道を戻っていく。卒業生が立ち上がり、そのまま校歌斉唱になった。

「随分つまんないスピーチだったな」

「そんなもんじゃねぇの? 思い入れも無いんだろ、どうせ」

 どこかからそんな声が聞こえた。思い入れが無いことは無いだろうが、本当の所は私にもわからない。誰にだってあの人の心を推し量ることは出来ないだろう。校歌を歌い終わり退場の音楽が流れる。今年の歌は生徒会が人気の歌手の卒業ソングから選んだものだ。

 それぞれのクラスの委員長の合図に合わせて卒業生が担任にメッセージを叫んで退場を始める。会長は果たしてちゃんと一緒に叫んだのだろうか。

 ハンカチに顔を埋めながら歩いていく女子や、赤くなった目を隠す男子、やはり面倒そうに退場する人。簡素ながら、いかにも感動的な卒業式といった場面。会長はその空気の中を淡々と歩いていく。

 会長は温かい眼差しで見るわけでもなく、かといって冷たく見るでもなく、いつも通りに前の人と同じだけのスピードで講堂から退場する。周りから会長が切り取られたのか、あるいは安っぽい感動的な空気を会長が切り捨てたのか。同じ空間を違う温度で会長が去っていく。





「寒……あー、一年生はもっと詰めて下さい」

「すみませーん、車も通るので端に寄るようにお願いします!」

 拡声器を通してソエと副会長が指示を出していく。それに合わせて他の生徒会役員が各クラスを誘導した。今日は休んでいていいという役員達の気遣いに甘えることにして、私は少し離れた所でその慌ただしい様子を見ている。

 最後の見送りということで正門に詰めかける在校生も多いので、その誘導も生徒会の仕事だ。校舎近くが騒がしくなって来たので、最初の卒業生が出てきたのだろう。それと同時に出て行く車も多くなり、拡声器からの役員の注意がひっきりなしに冬空の下を飛び交った。別れを惜しむ後輩を慰める先輩、部活で集合している集団もいた。

 朝からの雪は結局止むことなく降り続いていた。しかし風は少し弱まっているので、在校生も寒さにめげずに校庭に残っている。それでも三十分も経てば卒業生も在校生も校庭から姿を消して、辺りは再び空の灰色と雪の灰色だけの静かな世界になった。

 空は明暗の付いた微妙な灰の(まだら)の雲でいっぱいで、地面は影になった部分の雪が青み掛ったごく薄い、いかにも冷たそうな灰色をしていた。拡声器を抱えた役員達が、震えながら校舎に入っていく。


「会長? 入んないと風邪ひきますよー」

「あー、うーん。その内行くから、先入ってて」

 副会長が歩きながら校庭の方から叫ぶ。私が曖昧な返事をすると、副会長がソエに拡声器を渡してこちらに来た。静かになった校庭で、微かにギシギシと雪の(きし)む音が聞こえる。

 副会長は几帳面にマフラーを巻き直し近づきかける。だが私がそこから動かないことを察したのか、すぐにソエ達の方に戻る。ソエがこちらを見てくるので頷いて見せると、それだけで正確に意図が伝わったらしく、他の役員達と共に校舎の中に入って行った。

 私はあの人を待っていた。だが明確な意思を持って待っていたわけではない。あと少しでも寒くなれば教室に戻ろうとか、そういえば体育館の片付けはいつやるのだろうかとか、そんな取りとめのないことを考えながら、会えればいいとぼんやり思っただけだ。

 もしかしたら混雑を避けて裏門辺りからさっさと帰ってしまったかもしれない。あの人なら学生最後の日だろうと、それぐらい平気でやるだろう。会えないかもしれない。だが会って何かするわけでもないので、それでいい気もした。


 雪は降り止みそうもない。雲の全てが落ちてくるまで止む気配の無い勢いだった。空を仰ぐ。吐き出した息は白くゆっくり上昇し、融けるみたいにして色をなくしていく。反対に雪は空から急ぐように降っていく。今日の雪は灰色だと思っていた。だが灰色の空を背景にして降る雪は、確かに白い。いつだって雪は白いのだという当たり前の事実に、妙な感動を覚えた。

 少し風が強くなる。校舎に戻ろうかとも考えた。生徒会は今日だけ出席を免除されているが、ホームルームに参加してみるのもいいかもしれない。クラスメイトはぎこちなかった私の所作をネタにして、からかってくるだろう。だけど冗談交じりにお疲れ、と軽いながらも労いの言葉をかけてくれるかもしれない。担任はホッとしながら労ってくれるだろう。

 暖房が利いて適度に温まった教室。だけど私はなんとなくだけでここにいる。馬鹿みたいだ。


 風邪をひく前に戻ろう。私はかじかんだ足先に少し痛みを感じながら昇降口へ戻った。靴を履き変えながらコートの雪を落とす。水滴になってしまった部分は、制服に飛ばないように特に注意深く払った。それから教室へ行こうと廊下に出ようとする。だが廊下と昇降口を隔てる硝子の壁の向こう側を、あの人が歩いて行くのが見えて立ち止まる。

 会長は私に気付くこと無く昇降口にやってくる。それから下駄箱で隔てられた向こう側で靴を履き、爪先を二度鳴らして靴を足に合わせてから玄関の扉を開けた。会長の開けた扉から風が入り込み、私の前髪が乱れた。後ろ手で扉を閉め、会長が歩き出す。

 せっかく会えたのだから、何か一言でもと思った。土足になるが、ここから扉まで走って行って叫んでしまおうか。だが何を叫べばいいのだろう。今日も読み上げられていたので、あの人の名前はもちろん知っている。けれども私は彼の名前を呼んだことが無い。あの人はいつだって会長だった。だが今の彼はもう会長ではない。ならあの人は誰で、私はなんと呼ぶべきだったのだろう。

 彼の背はどんどん小さくなっていく。私は動けない。外は風が強く、彼の髪が舞っているシルエットが見える。灰色と白のモノトーンの校庭を、彼は一度も振り返ることなく歩いて行った。





 話し好きの教頭がまた何かの話を始めた。最高学年の責任とかいう話なら、たった今学年主任がした。大学進学率のシビアな話は、少し前に進路指導部の教師がしていた。この上まだ何か話すことがあるというのだろうか。眠気の充満する今年度最初の学年集会。

 教室からの移動のときに市村が、教頭が会長を見習えばいいのにと話していた。そう言えば中田がまた、生徒会長挨拶の最短記録を更新したらしい。確か今回は一分の大台を切ったとか。昨年度の後期の終業式では、それでもまだ二分半ぐらいは話していた気がする。そう言えばこのタイムは誰が計っているのだろう。

 そんな事を考えていると窓の外で雨が降り始めたらしく、サーとイヤホンのノイズみたいな音が聞こえてきた。傘持ってきてない、とか部活のメニューどうしよう、などと言った声で講堂がざわめく。すかさず教頭が注意を飛ばした。

 俺は自分の新品のスニーカーの心配をする。まだ雪が融け切って無いから、地面はひどいことになっているだろう。俺はこの季節があまり好きじゃない。雨かと思ったら雪になったり、かと思えばまた雨になったり。どうしろというんだと、ときどき空に向かって無意味に喚き散らしたくなる。雨も雪も、面倒な天気は全て嫌いだ。

 どうにもならない眠気から逃れようと、頭を軽く振ってみる。すると中田が窓の方をぼんやり見ている姿が視界の隅に入った。真面目に話をする態度も無ければ、聞く態度すら見受けられない。以前何かの集会で中田が例の如くさっさと挨拶を終えた時、一つ下の副会長の泉はひどく憤慨していた。泉は真面目な、まさに生徒会役員の鏡ともいう性格をしていた。





「会長はもう少し自覚すべきだと思います」

 去年の晩秋。月曜日の生徒会室での定例報告会の後、全員の見ている中で泉は中田にそんな事を言った。その時の一年生、今の二年生はびくびくしながら中田の反応を待ち、俺を含む一年からの持ち上がりのメンバーは、帰っていいのかどうかを窺っていた。確か会計や監査は露骨に塾の時間を気にしていた気がする。

 中田はすぐにその気配を察知して、帰りたがっているメンバーを退室させた。

「ソエは帰らないの?」

「電車の時間まだだし」

 その時俺がその場に残ったのは、確かに電車の時間という理由もあった。しかし、ただ単純に中田と泉の会話が気になったという理由が大きかったのかもしれない。中田も泉も、俺をその場から追い出そうとしなかった。

「自覚っていうのは、会長としてのってことでいいんだよね」

 一時停滞した会話を再開したのは中田だった。中田は話しながらチラリと時計を確認していた。下校時刻や戸締りを気にしてのことだろう。会長挨拶やスピーチには無頓着のくせに、こういうことにはしっかりしている。

「一昨日のスピーチ……いくらなんでも短すぎると思います。あれではやる気が無いと取られてもおかしくないですよ」

 中田はそんな泉の言葉をさして気に留めた様子も無く、コキと小さく音を立てて首を回した。聞き流しているという風にも見えなくもないが、あれでいて意外と中田は人の話を聞いている。ただ単に肩が凝っているだけだろう。


「やる気は……無いわけじゃ無かったよ」

 中田は少し首を傾げ気味にして微かに笑う。その表情は少し会長に似ていた。いつからこんな微妙な顔をするようになったのか、パッと思い出せない。中田はしばらく泉の言葉を待って黙っていたが、泉が言葉を探すように焦点を失ったのを見て、再び口を開いた。

「泉君さ、一昨日のスピーチで私が言ったこと覚えてる?」

「たった二分ぐらいの話ですよね。内容もあったもんじゃないと思いますが」

 俺は内心、泉のことを大人しいキャラだと思っていたが、その印象を改めなければいけないようだ。仮にも先輩で生徒会長相手にそこまで言える度胸は、俺にだって無い。それぐらい真面目に考えているのだろう。

 中田も泉の真面目さは以前から買っているらしく、今だってこれほどの言われ様なのに腹を立てる様子もない。それとも他からもっと酷い罵詈雑言でも浴びせられているのだろうか。中田は泉にもう一度、覚えているかと聞く。泉は口を開きかけるが、詰まってしまったらしく答えられなかった。

「……ほら。覚えてない。たった二分なのに、泉君でもこれだよ」

 中田は勝ち誇るでもなく得意になるわけでもなかったが、今にも笑い出しそうに顔を歪めた。俺にはどうして中田がそんな顔をしたのかがさっぱり分からなかったが、その表情にはやはり見覚えがあって、思わず中田から視線を逸らした。

 時計を見ると下校時刻まであと少しだった。沈黙が大半を占めるこの静かな(いさか)いに、二人はどうやって決着をつけるのだろうか。

「誰の心にも留まらない言葉に、さして意味は無いと思う」

 実は私もなんて言ったかなんて、うろ覚えなんだけどね。中田はそう茶化して自分の帰り支度を始めた。タイミング良く下校時刻を告げる放送もかかる。泉も言うべきことは全部言い尽くした感じで、難しい顔をしてマフラーを撒き始めた。一瞬だけ俺の方を見たが、その苦そうな顔には言い過ぎたとかいう後悔もいくらかは含まれているのかもしれない。





 中田は後ろから話しかけてきた女子と何かを話している。時々顔をしかめたり口を歪めたりして、話しかけてきた方の女子を笑わせていた。どうみても真面目な話には見えない。だが、あれでいて挨拶以外の仕事はきちんとこなせているのだ。泉も多分その点は評価しているのだろう。だからあの一件は、泉が中田に物申した最初で最後の事件になった。

 誰の心にも留まらない言葉。俺はこの言葉を聞いたことがある気がした。前の会長辺りが言いそうな言葉だ。それとも別の誰かだったろうか。もしかしたらもっと違う言葉かニュアンスだったりしたのかもしれない。曖昧だ。

 教頭はまだ何かの話を続けている。何の話なのか聞き流した俺にはさっぱり分からない。俺にとっては、教頭の口から零れているのはただの単語の羅列である。この講堂にいる大半にとってはそうであり、中田と中田の話し相手にとってもそうなのだろう。そんな事を考えながらもう一度講堂を見回していると、各クラスの最前列に並ぶ学級委員長は、不気味なぐらい一心に教頭の話に耳を傾けている。少なくとも彼らにとっては教頭の話は意味のあるものらしい。

 雨はまだ降っている。降り始めたばかりだから当たり前なのだろうが、傘を持って来ていない俺には、こちらの方が余程重要だ。





「うわ……相変わらず汚いね、この部屋」

 野坂先輩が来たのは、ちょうど中田が席を外している時だった。季節はちょうど六月の中頃で、学院祭の準備期間が始まったばかりだ。各クラスがバタバタしているらしく、中田と泉でその対応をしているらしい。夏らしい白地のロゴシャツを着た野坂先輩はすっかり大学生という雰囲気だが、去年まで憧れている人も多かった長い黒髪は健在だった。

「しょうがないじゃないすか、このシーズンだし。中田呼んで来ますか?」

「ううん、いいよ。ちょっと寄っただけ。学校の帰り。そういえば他の人達は?」

 野坂先輩の進学先は地元の国立大学だ。二駅向こうの大学なので、この学校にも進学希望者は多いらしい。野坂先輩は俺以外に誰もいない生徒会室を、不思議そうに、それから懐かしそうに見まわしながらそう聞いてくる。俺は立ったままでいる先輩に、一番近い黒の革椅子を進めた。

「遥と和希が塾で、中田と二年の副会長の他は倉庫で器具の確認してます。あと、座って下さい」

 野坂先輩は頷いたが、何故か進めた革張りの椅子には座らずに、その椅子から少し離れた所にあるパイプ椅子に座った。

「埃とかは積もってないと思ったんですけど。さっきまで中田がそこにいましたし」

「あー、違うの。なんかこの椅子好きじゃないのよね。昔はフカフカだーって言ってよく座ってたけど」

 俺もそう言って先輩がこの椅子に座るのを、何度も見たことがある。それもあって勧めてみたのだが、野坂先輩はそう言ってその椅子には座ろうとはしなかった。


「その椅子さ、いつも会長座ってたじゃない」

「そうですね。今は中田が座ってますけど」

 狭くて汚い生徒会室に不釣り合いな立派な椅子は、なんとなく会長が座っていることが多い。それは椅子が立派だからという理由では無く、単に生徒会室全体を見渡せ、入室者の確認がしやすい位置にあるからだ。同じように書記は記録ファイルのある棚に近い場所に座り、会計はいつでもデータを呼び出せるようにパソコンの近くに座る。

 だがそうやって慣例的に決まった場所に座るのは話し合いの時ぐらいだ。例えば中田は暑くなれば涼しい窓の側に座り、寒くなればヒーターの近くから動かなくなる。各自の仕事をする時は、学年ごとに集まって座ることも多い。

「会長がその椅子に座って俯いているのをよく見たわ」

「俺もあります。なんか声かけ辛かったです」

 よくその革椅子に座って机に片肘を付き、手で顔を覆っていた。もしかしたら疲れていただけかもしれないし、やはり何かあって見た目通り落ち込んでいたのかもしれない。その時の表情はいつも見えなかったので、本当に彼が落ち込んでいたのかは分からない。ただそんな仕草が、野坂先輩や俺を含む周りの人間には落ちこんでいるように見えただけだ。本当のところは俺も知らない。

「あの時の会長とその椅子がセットに思えてさ、座れば呪われそうな気がするの」

 何バカな事言ってるんですか。そう野坂先輩に言うが、なんとなく革椅子に目がいってしまう。表情の見えなかった会長。何を考えていたのかなんて、結局一瞬だって分かったことがない。だが思い出そうとすれば、その姿だけは自分でも驚くほど鮮明に浮かんだ。少し顔色は悪かったかもしれない。だがあの人の顔色は、いつだってあまり良くなかった気がする。

 野坂先輩は窓の外を見ながら、持参したらしい缶コーヒーを飲んでいる。話すことも無くなってしまった俺は、先輩にならって外に目を向けた。今日はいい天気だった。雲はいくらかまばらに散ってはいるが、とりあえず雨が降ることは無いだろう。

 梅雨も明けて夏めいた空模様。窓からは校庭の隅の倉庫が見え、生徒会のメンバーが何事かを話し合っている様子が見えた。問題でもあったのかもしれない。中田が苦笑いしながら呻く様子が目に浮かんだ。


「そういえば中田さん元気?」

「いつも通りですよ」

 野坂先輩はそれ以上聞かなかったが、俺は自分の言葉に微かな引っかかりを覚えていた。中田は少し変わった気がする。時折だが、軽薄に振る舞うようになった。それがいつからかは分からないが、泉が真正面から指摘するのもおかしくない物言いをするようになった。投げやりになったとでもいうのだろうか。

 それでいてスピーチ以外の全ての仕事はきちんとこなしている。スピーチだって生徒からの、短くしろという声無き要望に答えていると言えなくもないのだ。

 去年よりよく笑うようにもなった。教師も職員室で、中田は明るくなったと話していた。それがいいことなのかどうかは知らないが。

「それにしても二人して塾通いかー。ソエは進学先決めた?」

「希望調査の紙渡されたんですけどね。あんま興味無いっていうか」

 なんだそれというツッコミを受けたので、先週行われた担任との二者面談で挙げられた学校名を二、三口にしてみる。

「え、本当に? ソエって頭いいんだ。意外」

 自分では成績に不自由していないレベルだとは思っている。ただ教師に勧められた遠くの大学に行って、煩わしい思いをするのも嫌だった。

「まあ実家から通える大学とかもありますし」

「じゃあソエがまた私達の後輩になるかもしれないんだ」

「私達って、他に誰か行った先輩いるんですか?」

「あれ? 知らないの? 会長もいるんだよ」

 驚いた。会長なら推薦で都会の大学にでも行くと思っていたのだ。だがあの人は後期ほとんど学校に来ていなかったと聞く。遠くの大学に行かせるのは、親も何かと心配だったのかもしれない。野坂先輩も入学式で初めて会長の存在を知ったらしい。

「相変わらずよ、あの人。相変わらず憂鬱そう」

 何が楽しくないのかしらと呟きながら、野坂先輩が席を立つ。倉庫の前での話し合いは決着がついたらしく、生徒会のメンバーはこちらに戻って来るらしい。

「帰るんですか?」

「うん。邪魔になりそうだしね」

 学院祭頑張ってねと言い残して、野坂先輩は飲みかけのコーヒー缶を片手に、来た時と同様にあっさりと帰って行った。





 学院祭は昨年と同様の盛り上がりを見せていた。各クラスがそれぞれの催し物で売り上げを競い、ステージ発表では文化部や有志のバンドが会場を盛り上げている。

 生徒会は相変わらず校内を走り回り、クレームや大小様々な緊急事態の対応に追われていた。呑気に楽しんでいる生徒達を見ると張り倒したくなると、思わず中田に愚痴をこぼしてしまうほど俺は疲れ切っていた。

「バカ。そんな事したら本末転倒でしょ」

 クラスの友達からの差し入れだという包みを開けながら、例年通り汚い生徒会室で中田は言った。差し入れはどこかのクラスの限定クレープらしい。中田は、冷蔵庫とかあればいいのになんて言いながらパクついていた。

「そう言えば明日の降水確率見ました?」

 泉がミネラルウォーターを飲みながら、パソコンを操作している。学院祭四日目、文化祭の最終日は曇りで蒸し暑い日だった。一般生の服装は自由だが、生徒会役員は有事の際に一目で分かるようにと制服の着用を義務付けられている。この学校の制服は、夏服のくせに風通しが悪いらしく、生地が肌に張り付いて不快だ。


 今日は天気の割に気温も高いらしく、熱中症で保健室に運ばれる生徒も何人かいた。今日だけで俺は担架で何人運んだだろう。中田は今日の開催宣言で、水分補給を珍しく時間をかけて促していた。

「最近晴れてたし、気にして無かったな」

「俺は見たけど……どうにかならないのか?」 

「僕に言われても困りますよ」

 今朝見たニュースでは、明日の降水確率は八十%だった。ほぼ降るということだろう。中田はクレープを食べながら、窓の外に目をやる。あいつは俺の見ているのと同じ空を見ながら、果たして何を考えているのだろう。何となく想像が付く気もしたが、もしかしたら全く別のことを考えているのかもしれない。 昔は中田の考えていることがなんとなくレベルで分かっているような気もしていた。だが近頃は中田の考えていることは、会長並に分からない。今何を考えているのか。そうストレートに聞けば、中田はもしかしたら簡単に答えてくれるのかもしれない。それともいつもの調子ではぐらかすのだろうか。

「もし雨が降ったら、去年と同じで中止になるんですか? 別の日に移すとかの処置はしない方向で?」

 泉は明日の体育祭の計画を見ながら、中田に質問する。

「そうだね……泉君は、去年中止になって残念だった?」

泉は、まさか質問で返されるとは思ってなかったらしく、少しだけ驚いた顔をしていたが、ゆっくり思い出すように頷いた。

「ええ、残念でした。僕のクラスは去年優勝候補で……中止になった時は、クラスの何人かは泣いてましたね」

 まだ新入生だから、最後というわけでもないのに。泉はそう付け足して苦笑した。


「雨が降ったら、今年も中止にするんだけどね」

 中田は窓の方向を向いたまま、あっさりとそう言った。

「でも去年のブーイング、ひどかったって聞きましたよ? 何の対策もしないまま、去年と同じように中止するだけで終わるんですか?」

 泉は珍しく少し感情を込めた様な物言いで、中田に食ってかかる。止めるべきだというのはよく分かっていた。どの道雨が降ったら予定通りに体育祭は中止になり、中田は一般生からいろいろな事を言われるのだ。まだ雨も降っていない内から、しかも仲間である役員にそんな事を言われるのは、いくらなんでも中田だって耐えられないだろう。

「うん。授業の予定は変えられないし、休日にやったらやったで、部活の顧問とかが煩いし……だから、雨が降ったら中止。シンプルでいいでしょ?」

 中田はやはり窓の方を向いたままそう言う。泉はそれ以上何を言っても無駄かと思ったのか、それともそんな中田の様子に何かを嗅ぎ取ったのか。とにかくそれ以上は何も反論せずに、分かりましたとだけ答えた。

 泉がいなくなってから、中田は困った様に少しだけ笑った。空は曇ったままだが、校内の至る所で聞こえるはしゃぎ声が、せめてもの救いだ。中田にそんな事を言ってみたが、中田は一言、そうだね、と微笑んだだけだった。曇り空を背景にしたその表情に俺は見覚えがあり過ぎて、息苦しささえ感じて目を逸らした。





 体育祭の開催式でも、中田は水分補給の徹底を呼び掛けただけだった。各クラス小さなトラブルに見舞われているらしかったが、教師のフォローや生徒会の仲介により、どうにかなっているらしかった。

 朝から蒸し暑い日だったが今日ばかりは道具の運搬もあるので、生徒会もジャージの着用を許されている。俺は首にタオルをかけて、落ちてくる汗を何度も拭いた。

「よお、生徒会大変そうだな」

 障害物競争で使うハードルを運んでいると、市村はそう言って笑った。市村は軍団長らしく、他の生徒が巻いているのよりもずっと長い、赤いハチマキを巻いている。

「にしても嫌な天気だな。天気悪いのに暑いし。ソエも水分補給しろよ!」

 市村は生徒会室に俺への差し入れを置いて来てくれたらしい。冷えたスポーツドリンクだから、冷たい内に飲んで欲しいとのことだった。

「そう言えば会長さん生徒会室で忙しそうだったぜ。あの人やることは、ちゃんとやってるんだな」

いつもスピーチ短いから、ギャップでちょっと笑えた。市村はそう言ってニッと笑った。色黒の肌と白い歯のコントラストは、爽やかの一言に尽きる。

「これ雨降るんだろうな……雨降るとまた生徒会大変だろ」

 市村は気遣うような表情をして、空を仰ぐ。俺はハードルを抱え直して頷いた。

「まーな。でもお前らもガッカリだろ。応援合戦とか練習してたし」

「ああ。やっぱ高校最後の行事だし、負けらんないだろ。皆も燃えてる」

 市村は試合前の緊張しているような、それでいて楽しげな表情を浮かべる。雨は多分降るだろう。俺にも市村にもそれは分かっていた。市村はクラスメイトに呼ばれたらしく、そちらの方向に向かって片手を

上げる。それから、早く飲めよなと言い残してクラスメイトの元に戻って行った。


 生徒会室に戻ると、中田によって何人かの生徒会役員が集められていたらしく、指示が出されている最中だった。泉は雑巾のたくさん入ったバケツを抱えながら、複雑そうな表情をしている。

「今、小雨が降り始めたらしいの。もう少ししたら大雨になると思うから、そしたら今出した指示の通りにしてね」

 中田がそう指示を出すと、皆一様に何とも言えなさそうな顔をしながら、それぞれの場所に散っていく。役員だって今回の体育祭には特別な思い入れがあるのだ。俺達三年生にとっては最後の行事であるし、二年生は去年の中止があるので、今年こそはと意気込んでいる。中田だってそれは分かっているはずだ。

「おかえりソエ。思ったよりも早かったね。差し入れ届いてるよ」

 中田は皆が生徒会室から出て行った後メガホンを準備しながら、そう言ってスポーツドリンクが入っているらしいコンビニの袋を渡してきた。俺はそれを受け取って、市村の言いつけ通りにすぐに飲む。まだそんなに時間は経って無かったらしく、喉を通るスポーツドリンクの冷たさがとても気持ちいい。少し痛いぐらいだ。


 それから間もなく、雨の音が聞こえ始めた。たくさんの生徒の声も聞こえるが、中田は何も言わない。奇しくも中田が立っている位置は、昨年会長が薬を飲んだ場所だということに気付いてしまった。

「二年も連続で雨が降るのよ。学校も体育祭の日付を変えてくれればいいのに」

 中田は薬を飲む代わりに、何故か板チョコを鞄から出して口にした。溶けかけてフニャフニャになっている板チョコは、少しも美味しそうには見えない。だが中田は一口、また一口と板チョコを齧り、たった数分で一枚を食べきってしまった。この暑い中よくチョコレートなんかを食べる気になるなとも思ったが、俺は何も言えなかった。

 その姿は、会長のようなはかなさや苦痛とは無縁に見えた。だが実際のところはどうなのだろう。空の色も、不快な湿度も、この部屋の景色は何一つ変わってなどいない。そして中田は、やはり何も言わない。

「会長! 僕の説明じゃ一般生徒は納得してくれないみたいです。とりあえず校舎に入るように指示は出しましたが……」

 生徒会室の窓から顔だけを室内に入れて、泉が弱ったように外から訴えてきた。中田は黙って頷くと、去年と同じ様に生徒会室を出ていった。一つだけ違うのは中田が自分でメガホンを準備したことと、そのメガホンを使うのが中田自身ということだ。中田は生徒会室から廊下に出た直後に、もう生徒達から中止にしないでと頼みこまれていた。

 深呼吸すると、甘いような苦いようなチョコレートの匂いがする。その匂いは俺の喉元にまでいつまでもからみついている気がして、気が重くなる。

 これから来る大混乱の前に冷静になろうと、ゆっくり呼吸をして目を閉じる。雨の音ばかりが聞こえた。





 よく、夢に見る。記憶の中で会長が革椅子に頭を抱えて座り、そして薬を飲み始める。雨降りの、誰もいない生徒会室。でも俺は会長を廊下の暗がりからずっと見ていた。寒気のするような笑顔。口が弧を描いているから、笑っているのだ。俺はあの表情を、笑顔以外の何と呼べばいいのか分からない。机上に散らばる錠剤の白は夢の中で尚鮮やかで、頭を抱えて蹲りたくなる。俺は震えながら言葉を押し出す。

「大丈夫ですよ」

 会長は真っすぐこちらを向いている。片目は前髪に隠れて見えないが、きっとその目も俺から見えている目と同じだけ空っぽな色をしているのだろう。それとも無言で責めているのだろうか。何も知らないのに、何が大丈夫なのかと。窓の外では雨が降っている。でも夢の中では雨は聞こえない。ただ窓の外は暗いだけだ。

「どれが辛いんですか。生徒? 先生? それとも俺達?」

 皆が辛い顔をするのは嫌だった。俺がどんな顔をするべきか分からなくなるから。会長が何も話さないから、俺はかえってむきになって聞きたがった。この人はいつだって何一つ話しやしないのだ。

「言って下さい。俺ならいくらだって聞いてあげますから!」

 まるで漫画か何かのような台詞で、とても白々しいと思った。思いながら俺は、陳腐な言葉ばかりを会長の前に並べて見せるのだ。会長は、薬を一錠飲んだ。わからない。二錠だったかもしれない。夢は見れば見る程薄れて行く気がする。

 会長は右手で両目を覆った。泣いているのかとも思ったが、この人は現実でも、俺の見る夢の中でも絶対に泣かない。会長の肌の白さばかりが、灰色の背景で際立っている。まるで生きたまま死んでいるみたいだ。口元はやはり弧を描いている。まるで俺の零した浅はかな言葉を、零した俺を嘲笑っているみたいに。そして溜め息を吐くように、それでいて耐えられないとでもいうみたいに、会長は呟いた。

 静かな部屋に、静かな会長の言葉が落ちる。それは一息で言えてしまう、あまりにシンプルな響きで、とても悲しい言葉だった。重い水にも似た絶望の気配が、空間の隅々まで波紋のように広がるのを、俺は理由の分からない震えを堪えながら感じていた。

 会長は、もう一粒薬を飲んだ。周り全てに絶望した会長の笑みは耐えがたい程美しく、俺は夢でも現実でも大声で喚いて逃げ出したくなる。夢はそこで覚め、現実だと誰かの走ってくる音が聞こえるのだ。

 あの時の、顔が忘れられない。けれども記憶というものはどうしたって褪せていくものだ。だが中田は今、俺の前であの時の会長の表情をそっくり再現して見せた。何だかよく分からないが、もう駄目だと思った。





「ソエ、ソエ。予行終わった」

 いつの間にか眠っていたらしく、少し乱暴に肩を揺らされた。振り向くと市村が苦笑いを浮かべて立っている。周りを見回すと、下級生が退場を始めている。今日は卒業式の前日だった。

「お前やる気無いにも程があるだろ。あれか? 後期の準備とか?」

 でもお前なら余裕だろ、とか言っている市村に、俺はすでに進学先が決まっていることを告げる。

 ついこの間、地元の大学に進学することが決まった。野坂先輩や会長と同じ大学だ。一方の市村も俺より一足先に、同じ大学にAO入試で合格を決めていた。

「推薦か。お前、頭いいもんな」

「下手に言うと、生徒会だからとか言われるし。お前に言ったのが最初」

 だから内緒な、と言うと、市村はわかったと頷く。卒業式は前期の合格発表の前に行われる。今が一番三年生がピリピリしているから、一足先に合格したことがばれると、風当たりが一気に強くなる。担任にも口止めを頼んでおいた。余計なトラブルは回避できるに越したことはない。

 学年主任が、三年生は椅子を置いたままで退場しろという指示を出す。俺は立ち上がりながら、大きな欠伸を一つした。その時学年主任と目があったが、特に何も言われなかった。新しく買ったらしいジェットヒーターの効きが良すぎるせいで、講堂の空気は息が詰まるようだ。頭がぼんやりするような空気。眠くなるのも欠伸が出るのも、そのせいかもしれない。

 退場する時に中田の姿が見えた。中田は講堂の隅の方で、壁に寄り掛かってボーっとしている。泉がその近くにいたので、この後送辞と答辞のリハーサルがあるのだろう。答辞はいつものように短く終わるわけにはいかない。明日は一年ぶりに中田の真面目なスピーチを聞くことになりそうだ。





「中田先輩は、前会長のことが好きなんですか?」

 泉は去年そんなことを聞いてきた。去年の卒業式は大雪の日で、保護者の車の交通整理のために、俺と泉は外に立っていなければならなかった。普段そんな事を聞かなさそうな泉だが、寒さと退屈さに耐えられなかったのかもしれない。

 中田は校舎に近い所に、一人で立っていた。恐らく会長を待っていたのだろう。その様子だけを見れば、会長を好きなように見える。俺は何とも言えずに曖昧に頷いて見せるだけにしておいた。

「中田先輩がなんで生徒会入ったのか、よくわからないです。俺には前会長が好きだから入ったとかにしか見えません」

 今日の送辞はまともだったというのに、中田も散々な言われようだなと思ってしまう。それともこうしてまともなスピーチも出来るというのに普段のスピーチがひどいから、泉もかえって気にしてしまうのかもしれない。

「どうなんだろうな。確かに中田にとって会長は特別かもしれないけれど」

 中田はそういうタイプじゃないだろうと説明してみると、泉は意外にあっさり引き下がる。もしかしたらなんとなくは分かっているのかもしれない。そんな中田は雪の向こうでぼんやりしていて、その場所を動く気配を見せなかった。じっとしていて寒くないのだろうか。


 中田の様子を見ている間に、泉は三台の車の誘導をしていく。校庭に出来ている人の輪が、泉によってパッと散っていった。散らされた一団は、それ以上長居をする気もなかったらしく、すぐに校舎の中に入った。中田はまだ校舎に入らないらしく、下を向いて立っていた。

 泉に、そろそろ帰ろうと指示を出す。泉は大きく頷いてから、中田に向って叫んだ。

「会長? 入んないと風邪ひきますよー」

「あー、うーん。その内行くから、先入ってて」

 泉は恐らく、口で言う程中田のことを嫌っているわけではないのだろう。それともやはり嫌っているのだろうか。だが泉はあの時の中田の目を見ていないからそんなことを言えるのだ。薬を飲み続ける会長を見る中田の目を、俺は反射した硝子越しに見た。結局中田が会長にどんな感情を抱いているのかは、俺には分からない。だがあれは愛とかそういう類のものではなかった。

 俺には分からないことが多すぎる。今だって中田がどんな顔をして会長を待っているのかも、会ってどうするのかも分からないままだ。中田の様子を見てみる。中田はやはりその場から動きそうもなかった。





 卒業式での中田の答辞は、無難な内容だった。それともどこの答辞も、このようなありきたりなものなのだろうか。俺はそんなことを考えながら、講堂の温かさによる眠気に耐えていた。クラスメイトの何人かは今年一年を振り返る中田の答辞に涙ぐみ、何人かは俺と同じように欠伸を噛み殺していた。壇上で淡々と答辞を読み進めていく中田との温度差は、酷く滑稽だ。

 そういえば中田のなんとも言えない表情は、最後に見た会長の表情によく似ている。そのことに気付いてしまえば、もう中田の顔を見てなどいられなかった。

 講堂の窓から空が見える。青空。ごく薄く、雲の多い水色の空から、雪が降っている。朝は降っていなかったから、卒業式が始まってから降ったのだろう。ちらちらと降っていくので、少し風が吹いているのかもしれない。朝はどうだったろうか。

 今日で卒業だというのに、このつまらなさは一体何なのだろう。自分のことだというのに、どうしていいか分からない。壇上の中田は少しの失敗もなく答辞を終え、きっちりした礼をして自分の席に戻って行った。少し前に送辞を読んだ泉に比べて、隙の無い動作だ。やはり経験値が物をいうのかもしれない。

 泉はこれから色々なことに気付き始めるのだろう。壇上から戻ってきた時の横顔は、緊張気味なのにどこか傷ついた顔で、去年の中田によく似ていた。中田のようになってしまうのだろうか。それとも前会長のようになるのだろうか。どちらにしたって今までの生真面目で真っすぐな泉がいなくなってしまうかもしれないと思うと、少し淋しい気もした。

 卒業式も最後のホームルームも終わり、校庭は例年通り混雑し始めている。親と車でさっさと帰る生徒もいれば、この後遊びに行く生徒もいるらしい。中にはこれから大学の合格発表があるという人もいた。卒業式どころじゃなかったんだろうなと同情しながら、俺はもう少し学校にいるか、さっさと帰ってしまうかの二択で迷っていた。何となく学校の中を少しだけフラフラしてから、やっぱり帰ろうと校庭に出た。


 式の最中に降っていた雪は、とっくに止んでいたらしい。空は気持ちよく晴れ切っていて、冬の空らしい優しい青が広がっていた。少し温かいぐらいだ。校庭の隅や道路の左右に出来ている雪の山は、太陽の光を受けて光の粒を投げかけてくる。

 俺の晴れない心とは裏腹に、天気は絶好の卒業式日和だった。立ち止まってその景色を眺めてみる。もし体育祭もこんな風に晴れてくれたら、何か色んなことが違っていたりしたのだろうか。

 そうして校庭を見ていると、校庭の隅に立っている中田を見つけた。何かを食べているらしく、近寄ってみると声をかける前に中田は俺に気付いた。そこで俺も中田が食べているものに気が付いた。

「卒業式後に板チョコバリバリ食べる女子ってどうなんだ?」

「いや、なんか小腹が空いちゃって」

 苦笑いしながら、中田はパキンと板チョコを折って口に放り込んだ。硬そうな音だなと思いながら見ていると、がりがりと本当に硬そうな音を立てて中田はチョコを噛んでいた。見られていることに気付くと、少し考える仕草をしてから、板チョコを半分に割って差し出してきた。

「欲しいの? お腹空いた?」

「あー……じゃあ、遠慮なく」

 断ってしまおうかとも思ったが、なんとなく好奇心から受け取ることにした。受け取った板チョコは温かくも冷たくも無く、俺の手の中で融けることも無かった。そう言えば中田は夏にも板チョコを食べていた。夏に見たときにはどうにも美味しそうに見えなかったが、中田の好物なのだろうか。

 中田に倣って板チョコを口にしてみる。口にした板チョコはブラックだったらしく、俺のイメージしていたものよりもずっと苦かった。冷えたチョコレートは口の中でいつまでも融けない。だから俺も中田同様に噛み砕くことにする。中田の立てていた音同様に、口の中のチョコは硬かった。

「板チョコ、好きなのか?」

「そんなでもない。何となく食べるようになって……」

 それきり会話が続かなくなる。俺はなんとなくその場で視線を彷徨わせていた。校庭の向こう側で生徒会が車の誘導をしているのが見える。泉はその中にいなかった。


「こんな所で何してんだ? チョコなら中で食べればいいだろ」

「親待ってるんだけど、教室は大掃除したから、そこで食べる訳にもいかないじゃない。廊下は人通り多いし」

 ただ無意味にここに立っている訳ではないらしい。そしてまたも話題はあっさり尽きてしまった。中田は食べかけの板チョコを鞄にしまいながら、校庭の少し遠くを見るように目を細めた。晴れているので向こう側までよく見える。雪はどこまでも白く、目に染みるぐらいだった。

「答辞、お疲れ。よかったと思う」

 何も言うことが無さ過ぎて口にしてみたが、いざ言葉にしてみると、なんだか馬鹿げているような気がした。中田は笑い損ねたような顔をしていたが、少し視線を彷徨わせた後、今度はしっかり口角を上げた。

「よかったの? あれ」

 俺は逃げ出したくなる。胸が痛くなるような笑みだった。清々しい青空と目の痛くなるような白を背景に、中田は俺をまっすぐ見て来る。どこかから誰かのはしゃぐ声がする。俺は何故かどうしようもなく悲しくなったが、中田はどうだったろう。


「お前はどう思ってたんだ?」

 ずっと聞いてみたかった。俺の想像ではなく、現実に中田がどう思っているのかを。中田は困ったような顔をして俯く。思えばこんなに困った顔をした中田を見るのは随分久しぶりだった。

 校舎から泉が出てくるのが見える。車の誘導の交代だろうか。コートを着た生徒会の役員と何か会話をしていた。泉は会話を終えてこちらに歩いてくる。俺か中田か、あるいは両方に用があるのかもしれない。先ほど泉と会話をしていた役員が、車を誘導してくる。中田が小さく手を振ったので、きっと中田の送迎だろう。中田は歩き出す。

 俺は中田にまだ答えを聞いていないが、引き留めることも出来ない。中田は積もった雪に足を取られることもなく、車に向かって歩き出す。中田は車に乗り込む前に一度、俺に背を向けて立ち止った。

 中田はよく通る声で、一言だけ呟く。それは短く、そしてごく単純なものだったが、シンプルな響きと抑揚のない様子に、かえってどう返すべきかが分からなくなった。とても単純で、耳を塞ぎたくなるような言葉だ。俺はこれとよく似た言葉を聞いたことがある。中田の感情は遠く、どうして俺に追いつけるというのだろう。

 それから中田はあっさり車に乗り込む。校庭の向こうからやって来た泉に気がつかなかったのか、中田は一度も泉を見ることはなかった。

 後になってからだが、俺はこの日の天気を恨めしく感じる時がある。この日がもしも風の強い日なら、俺は中田の言葉を聞かずに済んでいたのかもしれない。ずっと聞いてみたいと思っていた中田の本心。だがいざ聞いてみれば、それは俺が抱えるにはあまりにも重すぎた。誰でもいいから助けて欲しかった。中田や会長ではなく、何かもっと大きな存在に。





 胸ポケットから携帯が落ちたのは実習の帰り道で、友達に笑われながら私はそれを拾い上げた。使い始めて三年目の携帯はもはや塗装が剥げて、青と灰の(まだら)になっている。健在なのは鮮やかなイルミネーションとワンタッチのない不便さだけだ。

 底の浅い胸ポケットに入れるからだと友達の一人が注意してくれるが、こればかりは高校からの癖だから、なかなか直る気配がしない。とりあえず壊れていない事だけを確認すると、点滅するイルミネーション。どうやら新着メールが来たらしい。

 開いて差出人と内容だけを確認して、胸ポケットに戻す。だが戻し損ねてしまったらしく、携帯は再び地面に激突した。

「動揺? え、誰。彼氏とか?」

「うっそマジ? 何で教えてくれないの」

 もう一度携帯を拾い上げて、今度はきちんと鞄に押し込める。ニヤニヤしながら冷やかしてくる出会って一カ月の友人達に、苦笑で返した。

「なワケないし。地元の友達」

 そんな私の返事に、なんだつまらないと二人はあっさり次の話題を探し始める。いつものパターンだ。


 大学生になって一カ月が経っていた。私は地元を遠く離れ、遥か南の入学式に合わせてこちらに来たが、その時すでに桜はほとんど散っていた。

 東京辺りで新幹線の中から一瞬だけ桜らしき木を見たのが、今年最後の花見である。五月。早くも初夏の気配が色濃く目立ち、街路樹の木々の緑は深い。丁度見上げた頭上の葉は強い夕日を透かして、目に優しい浅緑の光を投げかけてくれた。気のせいか風も草の香りを乗せている。私は深呼吸をして大きく伸びをした。

「あー、なんかすごく気持ちいい! いい汗かいたって感じ」

 実習は歩きまわることが多いので、実は体育よりずっとハードだ。私の感想にそれぞれが答えてくれる。

「確かに。この疲労感が効いててさー、今日はよく眠れそう」

 もうひとりが心底嫌そうに首を振った。

「二人はあと家に帰るだけじゃんね。あたしなんか、この後部活だよ」

「うえー、お疲れ。バスケだっけ?」

「そう。なんか試合近いらしくって、部長がね……」

 盛り上がっている二人から一歩後ろに下がって、私はもう一度深呼吸をする。草の香りがするのは、近くで草刈りをしているかららしい。どこかから草刈り機の回る音が聞こえてきた。薄いオレンジの空を、青みを帯びた雲が流れて行く。記憶の中の故郷より、ずっと澄みきった空だった。

 故郷を離れて一カ月と少し。毎日それなりに忙しく、ホームシックに陥る暇もない。未だ子離れ出来ないお母さんから、毎日メールが来ているせいもあるかもしれない。地元の話を乞われた時、パッと思い出すのが難しくなるぐらいに、私はもうあらゆることを忘れかけていた。だが今の私は、故郷の重苦しい雪、綺麗なものや、そうじゃないものを思い出しかけている。

 先程のメールは、一年ぶりのソエからのメールだった。





 その数日後、私は故郷に向かう夜行列車に乗っていた。車内はゴールデンウィークの旅行客で浮足立った空気だったが、私は旅を楽しむ気にもなれず、部屋に閉じこもってメールを読み返していた。ソエは珍しく本文にも文字を入れてきている。ソエとは生徒会の任期が終わった瞬間から全く交流が無かったので、随分久しぶりのメールだった。

 どこかの停車駅に近づいたらしく、列車は少しずつスピードを落として行く。いつの間にか外は雨が降っていて、駅の明かりがぼやけて見えた。はしゃいだ声を上げる子供とそれを諌める母親の声が、部屋の外から聞こえる。目的地に着いたらしく、家族が列車から降りて行く。備え付けのデジタル時計は、八時を少し過ぎた所だった。

 もう眠ってしまおうか。ベッドに横たわると、そこでメールの着信音が控えめに鳴った。

 喪服のサイズ大丈夫そうです。そんなお母さんからのメールに、私はありがとうと返信する。喪服なんて着たこともないし、用意するという発想も無かった。


 ソエからのメールは、会長の自殺を知らせる内容だった。文面は簡潔で、自宅で首を吊っていたことと母親に発見されたこと。そして告別式の日時のみが書かれていた。本当? とメールを送ると、翌日に件名のみで本当だと返ってきた。

 再びメールの着信。空白ばかりのメールはソエで、地元は雨が降っているという内容だった。こちらも雨です。絵文字も顔文字もない文面をすぐに返す。久しぶりのメールだというのに、我ながら酷い手抜きだ。だがソエに気を遣うなんて無駄以外の何物でもない。

 そんな事を考えていると、がくりと体がベッドから落ちそうになる。列車が進み始めたらしく、窓の雨が後ろに流れて行き、外は再び黒一色となった。

 雨。思い出すのはやはり会長のことだった。踊る青いポロシャツの波。濡れ始める木々の暗い緑。白い錠剤を飲み下す、その青白い喉元の動き。彼の唇から滴った、水滴。ホイッスル。あの時泣くのを(こら)えたのはソエで、見惚れたのは私。ならばあの人はどんな顔をしていただろうか。もう、思い出せない。いや、考えたって無駄な事だ。これ以上どうしようもない。いや、最初からどうにもなってなどいないのだが。

 私は携帯をベッド脇に置いて、部屋中のあらゆる電気を消してから、頭から布団をかぶった。





「桜咲いてるんだ」

「いつもこんなもんだろ」

 告別式の行われる会館へのバスで、私とソエは一年ぶりに再会した。二人とも大学生なので当たり前だが、もう見慣れた制服姿ではない。スーツ姿のソエは妙に背が高く見えた。そのことをソエに伝えると、実はこれ底が厚いんだとぼそりと言った。

「大学どう? サークルとか入った?」

「野球。そっちは?」

 窓の外はつい数ヶ月前までの通学路で、どこかに遊びに行くらしい中学生が坂を駆け下りて行くのが見えた。桜が散っている。ゴールデンウィークだから、あの中学生は花見にでも行くのかもしれない。

「まだ何にも入ってない。バタバタしてるから、落ち着いた頃に決めようと思って」

 終点でバスが止まる。ソエは定期を出し、私は二百円を払ってバスから降りた。今日の空は快晴で、降りた瞬間日差しの(まばゆ)さに思わず目を伏せるほどだった。

 日差しは強いのだが不思議と暑くはない。風がまだまだ冷たいせいだろう。それともこの一カ月で私にも暑さへの耐性が多少は身に着いたのかもしれない。


「……何ていうか、いい天気だな」

「そうだね」

 先にバスから降りたソエが振り向いてそんな事をいう。今日は本当に天気が良くて、何故私がここにいるのかさえ忘れてしまいそうだ。少しひんやりした心地の良い風。見上げた空から白い何かが降ってくる。

「今お前が思ったこと、当ててやろうか」

 少し先を歩いていたソエが振り返るので、私は黙って首を振る。ソエは自分の右肩に降った桜のひとひらを摘みながら、私が隣に並ぶのを待っていた。

「そっか」

 ソエが私の頭から白い一片を摘んで、私の前に降らせた。彼の肩に降ったそれと合わせた二枚の桜が、私の鼻先を掠めて行く。何の香りもしない。ふと香りのきつ過ぎる入浴剤を思い出す。桜に匂いがないのなら、あの入浴剤の匂いは果たして一体何だったのだろう。





 会長の遺影を前にしても不思議と涙は出なかった。実感がない訳ではない。寧ろ会長の訃報の知らせに冗談だろうと返しながらも、あっさり納得してしまった自分がいた。

 遺影の会長は記憶の中よりずっと男前な顔をしている。何らかの補正がかかっているのだろうか、私はそんな馬鹿みたいなことを考える。そこで私は自分が冷淡な人間だと再確認する。そうだ、だから泣かなくても不思議ではない。私は苦しむ会長に見惚れたような人間だ。何故か思い切り笑ってしまいたくなる。だから慌てて会長の事を思い出すように努力した。

 本当は努力しなくても思い出すことなど容易い。桜を手折ったその骨ばった腕、泣きたいのか笑ってしまいたいのかよくわからない、首を僅かに横に傾げた微笑みにも似た表情。私は目を閉じる。雪は暗い白色で、桜は明るい白色だった。上下した喉は青い白色で、最後に見た頬は……。そこで唐突に物思いが遮られる。

「中田さんとソエ君?」

 パイプ椅子が軋み、私の隣に誰か女の人が座る。とても見覚えがあるというのに、私はすんなり彼女の名前が呼べなかった。

「野坂さん。お久しぶりです」

 そうだ、会計の野坂先輩だ。先輩の長かった髪は少し明るい茶色になっていたが健在だった。あまり広くもない会場を見まわす限り、他に私が知っていそうな人もいない。わざわざ入り口から遠い所に座っている私達の所まで来たのだから、野坂先輩の知り合いもいないのかもしれない。

「久しぶり。二人とも全然変わらないから、すぐに分かった」

 親族席の方からすすり泣きが聞こえる。どうして、とかそんな感じの声もした。私達の会話は結構場違いだろう。野坂先輩が苦笑して声のボリュームを落とす。

「まあ、ね。本音を言うと、何となくこうなる気はしてたのよ」

 だからショックとかそういうのはないわ、と先輩は言う。私とソエは少し間を置いてから、バラバラのタイミングで頷いた。


「中田さんが元気そうでよかった。秋に彼が倒れた時、中田さんが二の舞にならないか心配してたのよ」

「こいつあの人と違って図太いですし。二の舞と言えば、今の会長がノイローゼで倒れたらしいっすよ」

私の代わりにソエが答える。ソエの妹が二年生にいるらしく、彼女から今の生徒会について聞いているという。

「よく頑張ったわね、中田さん」

 野坂先輩の言葉に私は苦笑いだけで返す。ソエは何も言わなかった。私には私の一年があり、彼とは違う苦悩があった。苦悩の度に私の脳裏にはあの青白い顔が浮かぶ。追い詰めるでも励ますでもなく、ただ私の記憶の中にある。

「大学とか行ってたんですか? 会長は」

「うん。最初は見かけてたんだけど、そうね……いつの間にか来なくなってて」

 最後に見たのはいつだったろうと野坂先輩が思い出そうとしたので、そこで会話が途切れる。また親族席の方から、どうしてと啜り泣きが聞こえた。どうしてもこうしてもない。会長は自分から死んだ。それ以上でもそれ以下でもない。

「せめて何か言ってくれれば」

 若い女の人の声が聞こえた。家族なのか親戚なのか。あの人が弱音を吐く場面なんて想像出来ない。あの人は自分の言葉を無くしてしまったと言っていたから、弱音なんて吐きようが無かったのだろうか。だが結局、苦悩する会長を見殺しにした私に分かることなんて、一つも無いのだが。

 会長の遺影は変わらず前を向いている。あれは学生証辺りの写真だろうか。やはり記憶の中の会長よりも男前に見えた。誰かが鼻を啜る音が聞こえる。私達三人は会話を止めて、じっとうつむいていた。掃除の行き届いた床のオフホワイト。重苦しい雪の色に、少し似ている。目を閉じたら眠気と泣き声が襲ってくる。

 そんなに泣くぐらいなら、どうして誰もあの人を助けなかったんだ。隣でソエが半笑いでそんなことを呟いた。





「この後どうするんだ?」

 私にとっては何の涙もない告別式が終わり、私とソエは会館から外に出る。会館内の薄暗さに慣れた目が、外の明るさに眩暈を起こした。窓のない会館からは外の様子が見えなかったが、東の空にはいくつかの星が見えた。オレンジの西の空と、暗い青の東の空の境に私は立っている。霊柩車が駐車場から出て行くのが見える。これからあの人は燃やされるんだな、なんていう馬鹿な感想を抱いた。

 燃える時まで、あるいは灰になっても、式中泣いていた誰かは泣き続けるのだろうか。

「あー、うん。このまま最終フライトで帰る。明日から学校だし」

「実家帰んないの? これどうするんだよ」

 ソエが左手でネクタイを緩めながら、右手で小さな袋をひらひらさせる。清め塩と言われて渡された袋は、ただただ真っ白でシンプルだ。一体この塩はどう撒くべきなのか、一体何を清めるのか、私は何も分からない。

「うーん……空港の入り口とか?」

「あー、まあ、撒かないよりマシじゃね」

 適当にも程があるが、正しい作法なんて知らない。それからは何となく無言のまま、ソエと並んでバス停まで歩く。バス停のすぐ近くにはまさに今が花盛りの桜の木が植わっていて、あとからあとから花が散っている。

「雪かと……」

「うん」

「……何でもない」

 言ってどうなるのだろう。私は言いかけて止めた。例えば会長があの枝を折り取った時その苦悩に気が付けていれば、何か変わったのだろうか。止めよう。私はこれ以上考えることを止めて、暗い空から降る桜の美しさに集中した。


「俺、明日イタリア語のテストあるんだよ」

「お疲れ。こっちも数学のテストあるから、飛行機の中で頑張ろうと思って」

暗くなりかけた空気を払拭するように、ソエが陽気な調子で私にはわからない単語を口にする。ソエとイタリア語という組み合わせに少し笑ってしまう。私が習いたての公式を口にすると、数学アレルギーのソエが露骨に嫌そうな顔をする。

 そこで時間通りにバスが来て、私達は乗り込んだ。

 バスには私達の他に誰もいなくて、私は真ん中辺りに座ったソエの向かいに腰を降ろした。窓の外を桜の花びらが流れて行く。窓越しのそれが雪に見えて、私はそっと目を逸らす。ゴトゴトとバスは揺れる。微かに風の音もした。

 私達はもう話すことがない。案内板で空港という二文字が点滅したので、財布から二百円を取り出す。バスはゆっくりスピードを落とした。立ち上がって歩き出す。慣れないハイヒールのせいで、足元が不安定だ。

「中田」

 私の手から二百円が落ちる。落とした二百円は精算機の中に吸い込まれていった。振り向くと、ソエがこちらを見ていた。

「じゃあ、元気で」

「うん。そっちも」

 多分だが、私とソエはもう会わないのだろう。またいつか、のないさよならを口にして、私はバスを降りる。見上げたバスの窓から、微かに笑ったソエが右手をひょいと上げたので、私もそれに答えて右手を挙げた。





 辺りはすっかり夜になっている。空にはきっと星が輝いているのだろうが、飛行場のライトが眩しすぎてよく見えなかった。入り口から少し離れた所に立っていると、その横をはしゃいだ若いカップルと、疲れたサラリーマンが早足で通って行った。私はポケットから手のひら大の清め塩を取り出す。この塩は台所の塩と何が違うのだろうか。

 袋を破ると、中にはさらさらした塩の粒が入っている。これをかければいいのだろうか。一つまみ。頭からかけるべきか、肩から掛けるべきか。そもそも清め塩とは自分にかけるものなのか。少し躊躇してから、私は肩から塩をかける。二回同じ動作を繰り返して、なかなか減らない中身に私は焦れる。左手を皿にして、その中に残りの塩を流し込んだ。

 指の隙間から塩が落ちる感触がする。手を開くと同時に強い風が吹いて塩が舞い上がる。ライトの光が反射して、白い光の粒になった。少し眩しくて目を細める。雪よりも花よりも、肌よりも白い粒は一瞬でコンクリートの灰色に溶けて消えて行った。実際塩の白さが雪よりも白いのかは知らないが、私が記憶している中では一番白いように思えた。


 ソエも今頃この白さを目にしているのだろうか。彼は雪の白さを思い出すのだろうか。わからない。彼はもしかしたら明日のイタリア語について考え始めているのかもしれないし、もっと別の事を考えているのかもしれない。肩を払うと塩の残りが風に吹かれていく。とても細かい雪にも思えたし、何故か花びらのようにも思えた。

 もう一度会長を思う。あの人は降り積もる雪や折り取った枝に、何を思っていたのだろうか。わからない。言葉を飲みこんだあの人は、何も残してなどいかなかったのだから、私に分かることなんて何ひとつ残されていない。ただあの雪が白くて、この塩が眩しいと思うだけだ。

 私の脇をサラリーマンが歩いていく。そろそろ私も歩き出さなければ、乗り遅れてしまうかもしれない。スーツケースはロッカーに預けてあるから、それを取りに行く時間も必要だろう。待ち時間には数学のテキストでも読み返そう。

 時計を見る。ソエもさすがに、もう家に帰っている頃だろう。明日彼はイタリア語のテストを受け、私は数学のテストを受ける。そうして私達は泣きも笑いもしないまま、あの人のいない日常に戻るのだ。結局ただそれだけの話でしかない。ざらついた人差し指を舐めると、柔らかい塩の味がした。





 

 必要に迫られて初めて書いた小説でした。小説というよりも備忘録の性格が強い。

 FL掲載時に付け加えたその後の話は端折っています。つまり三人目がカット。

 体裁に合わせて改行を増やしています。

 純文と言われたので純文のタグを付けていますが、純文学って何(10年目)

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