星の海
「ごめんなさい、ジェット。もう、大丈夫です。」
そう言って彼の胸に伏せていた顔を上げた。涙は持っていたハンカチできちんと押さえていたので汚れていない筈。けれど顔は酷いことになっているかもしれないのでやや俯いた状態で声をかけた。ジェットには泣き腫らした顔を見せたくない。なんとなくそう思った。
「本当ですか?」
「本当はわからないの。けれど、泣いてばかりいる訳には行かないのですから。」
無意識に手に持ったハンカチを握りしめる。
泣いたって状況は変わらない。ただ、政略結婚をすることと婚約者に言われたことに対して堪えきれなくて、辛くて、結果としてその気持ちが涙として溢れただけ。泣いても3ヶ月後にあの人と結婚しなければならないのだ。例え表面上だけの夫婦になろうとも。
今は政略結婚が受け入れられなくても受け入れなければならない。
「失礼します。」
ふわりと大きい手がハンカチを握る私の手を包み込みんで引っ張り、私達は立ち上がる。そしてまた優しく抱きしめられた。
「目を閉じて、カトレア」
言われるままに目を閉じる。目を閉じるとジェットの体温を、ゴツゴツとしたけれども滑らかな手の感触をより感じるような気がした。心地よい温かさ。やや早い心臓の脈打つ音。私の心臓音もジェットに聞こえているのだろうか、この早いリズムを。そう考えると急に気恥ずかしくなって離れようと左手で彼の胸を軽く押した。
「少しの間じっとしていてください。大丈夫、カトレアが心配するようなことは起きません。万が一何かあっても必ず僕が守りますので」
ジェットの言葉はすっと私の心に届き安心をもたらした。何がこれから起きるのか全くわからないけれど、彼が大丈夫だというなら大丈夫なのだろう。それにジェットは必ず守ると言った。私はそっと左手の力を抜き彼に身を委ねる。ジェットは右手を私の腰に回し、しっかりと私を抱き込んだ。
「月鏡、夜の道。」
歌う様に小さな声でジェットが呟く。体がふわっと浮き上がり、地面の感覚が突如なくなった。
「ジェット!?」
「大丈夫です。俺がいます」
子猫の鳴き声、束の間の散歩。更にジェットが呟く。風が巻き起こり、ドレスがバサバサとはためいた。少しだけ不安になり、ジェットの胸に添えていた左手をジェットの背中に伸ばす。
10秒くらいそのままだっただろうか。ジェットは優しく私に言った。
「目を開けて大丈夫ですよ。」
ゆっくりと目を開き、首を動かして辺りを見遣る。
「まあ!」
濃紺の夜の空に大きな月が浮かび、下には煌めく光の海が静かに揺らめいていた。なんと静かで幻想的な風景なのだろう。その夜の空に私達は浮かんでいる。見知らぬ場所の空中に浮いているというのに、私は何も怖くなかった。ジェットと一緒であれば怖いことなどない、そう思った。
「歩いてみますか?」
「歩けるんですの?ええ、是非お願いしたいわ!」
「では、僭越ながら私めがご案内致しましょう。」
ジェットは私の腰に置いていた右手を外し、左手は繋いだまま歩き出す。その歩みはゆっくりでドレスとハイヒールを履いている私を気遣うようなものだった。
2人で宙を歩きながら景色に想いを馳せる。昨日ジェットと自然に満ち溢れた場所に行く約束をしたけれど、こんなに早くこんなに素敵な場所に来られると思っていなかった。しかもジェットに案内して貰って、とは。
「気に入って頂けましたか?」
「もちろんだわ!こんなに素敵な場所は初めてよ。本当に綺麗で、どんな言葉で表現しても足りないくらいだわ。」
悪戯が成功した子供のように笑うジェットが眩しく感じた。泣き腫らしたことを忘れて私は彼の瞳を見つめる。
「あら?」
ジェットの黒曜石のような漆黒の瞳が、今は夜空のような深い藍色になっていた。
「瞳の色が変わっている、ですか?」
「し、知ってらっしゃるの?」
それはもう、ジェットは朗らかに笑った。
「魔法を使うとそうなってしまうのです。」
「魔法?」
この景色が素晴らしくて気づいていなかったけれど、ついさっきまで私達はフィッツィ森林公園に居たはずなのに今この幻想的な景色の中にいる。ありえないことだったのに。これはまさしく不可能を可能にするもの、魔法でしか出来ない。魔法というものは知ってはいたけれど、実際に経験したのはこれが初めてだった。
「けれども魔法は…」
「ええ、王族、正しくは王の血を引いた者のみ魔法を使えますね。」
「ではまさか…」
ジェットは眩しそうに黄金の光を放つ大きな満月を眺める。その眼差しは憂いを帯びたものだった。
現王、アヴィオン国王は高齢で近々唯一の息子である王子に王位を譲るとの話が出ていた。しかし王子は幼い頃命を狙われたことがあり、彼に関しての詳細は一切公表されていない。王子の詳細が明かされるのは非公式としては皇后となる女性を選ぶために開かれる舞踏会で、公式では戴冠式の時になる。
だが、巷に流れる噂のかぎりでは『王子は王様に似て聡明で顔立ちも端麗。鍛え上げられた長体は美しく軽やかに剣を振る』とのことだ。目の前のジェットは聡明であるし容姿も整っているが、見た目的には鍛え上げられたと言うよりしなやかな筋肉を持つ体つきをしている。もしかすると…
「あの、大変聞きにくいのですけれど、ジェットは御落胤だったりするのでしょうか……」
失礼だと思いながら恐る恐る聞くとジェットは一瞬驚いた顔をして、それからにこりと笑った。
「そう、そうなんです。なので黙っていて貰えると助かります。王の血を引いていると知られてしまうと大事になりますし、何よりどんな親から生まれようとも俺は俺ですから。」
彼の言う通り、ジェットが王の御落胤だと知れたら大変なことになる。それでなくても王位継承が近々あるのだ。権力に魅入られ、王子を良しと思わない者の耳に入ればジェットはたちまち反旗を翻す為の最良の切欠となってしまう。ジェットは我が家にとって、そして私にとっても大事な人。彼に迷惑を掛けるようなことなど決してしたくない。
「そうでしたのね!ご安心を。ハーバルディウスの名にかけて他言は致しません。」
ありがとうございます。そう言って彼は私を更に煌めく波の近くへ連れて行く。波は優しく音を立てて、水面上に綺麗な文様を描いていた。
「水の中に光る何かがあるのですか?」
「おそらくは。この空間は俺の魔力というか内面を具現化しているのです。今日は良いことがあったので、この水はより煌めいているのだと思います。」
そう言って繋いだ手を離して彼は屈み込み、手で水を掬った。彼の手の中で様々な色の光が水を通して輝く。
「触っても?」
「どうぞ。足元に気をつけてくださいね。」
ドレスをうまくまとめて屈む。近くなった水面から覗いても深いのか浅いのかはわからない。そっと少しだけ水に手をつける。冷たくて心地が良い。まるで彼の側のような心地良さだ。いや、この空間は彼の内面の具現化なのだから同じ心地良さで当たり前なのかも知れない。
「カトレア。」
彼に名前を呼ばれて彼の方を見る。
「あの、名前…」
あっ、と小さく言葉を漏らしてから彼は腕を上げ、顔を隠した。
「すみません、つい。いえ、あの、お嬢様の名前を親しげに呼ぶなんてとても失礼でしたよね。本当に申し訳ございません。その、お嬢様の名前がとても素敵でつい呼んでしまっただけなのです。お許しを…」
しろどもに謝るジェットはいつもの澄まし顔とは全く違っていて、素のジェットそのもののような気がした。そんなジェットが可愛くて私も感情が赴くままに声を出して笑う。
「許すわ。それよりジェット、本当は貴方とっても可愛らしいのね。ふふふ。」
「お、お嬢様!ご冗談は!」
声を少し大きく、顔を赤に染めて焦るジェットは20才という年相応に見えた。
ふと視界に入った水面を見ると先程より波が強くなっていた。小さくちゃぷちゃぷと音を立てて揺れる水面。ジェットの内面を具現化しているので、今のジェットの照れる感情が波として現れているにちがいない。なんて素直で愛おしい人なんだろう。
ジェットは誤魔化すように1つ咳をして、大きく息を吸い冷静を取り戻そうと頑張っていた。
「名前の件で逸れてしまいましたが、俺のやることを少し見ていて貰えないでしょうか?」
「構わないわ。」
私の返事を聞いた彼は、左のポケットから小さい何かを出した。そしてそれを元の穏やかさを取り戻した水面に近づけ、そっと水を掬い入れ蓋をして私に差し出してきた。それは透明な瓶のようだった。雫型の花瓶を小さくしたような透明なガラスの胴体に、金色の羽根をモチーフに取り入れた蓋がついている。蓋に上部からは長く華奢なチェーンが付いていた。
「ネックレス?」
「通常のネックレスよりは重いかも知れません。ですがチェーンはしっかりしたものなので問題ありません。」
彼は言葉を切り、私の手にそれを握らせる。
「お願いです、カトレアお嬢様。何も聞かず、これを常に身につけていてくれませんか。」
彼の眼差しはどこまでも真剣だった。私は手に持った瓶を目の高さまで上げ、じっと眺める。瓶の中でキラキラと細やかで美しい星を散りばめたような光が揺れ動いていた。彼の内面を映すこれを身につけるということは、ジェットを間接的にけれどもより身近に感じることになるのではないか、とよくわからないことを思う。でも決して嫌な気持ちにはならなかった。そうであるならば答えは一つ。
「私の方こそ、こんな素敵なネックレスを頂いてしまっても大丈夫なのかしら?あと、人に見られないようにしたほうが良いわよね。」
「人に見られても大丈夫です。とにかく常に身につけて欲しいのです。」
「ええ、わかりました。これからはこのネックレスを付けて日々を過ごすことにするわ。」
「ありがとうございます。今日はなんだかお礼ばかり言ってる気がします。」
「きっと貴方の気のせいよ。それよりジェット、貴方に交換条件があるわ。私がこれを身につけ続ける代わりに聞いて欲しいお願いがあるの。」
「難しいことは無理ですが、それ以外なら努力致しましょう。何が願いですか、カトレアお嬢様。」
私はにっこりと悪戯っ子のような笑みを顔に浮かべ、ジェットに告げた。
「私と貴方だけの時はカトレアと呼んで欲しいの。」
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ようやく魔法要素出せて良かったです。
あ、ジェットの一人称が俺と私になっていると思うのですが、素の時は俺、仕事の時とかは私という感じになっています。