慰め
「結婚か…」
朝食のパンを噛み締めながら昨日の父の言葉を思い出す。
『カトレア、お前に相応しい婿候補が見つかった。明日その方が来る。準備しなさい。』
そうやはり私の政略結婚の話をしに父は帰ってきたのだった。相手の名前は知らされず、とにかくお茶会を我が家で開いてもてなすので着飾るようにとだけ。政略結婚でこのハーバルディウス家に嫁いできた母は、少しだけ憐れみの色を乗せた視線を私に寄越し、私がドレスを選ぶわね。きっといい人に違いないわ。と力ない声で答えた。母は昔に言っていたのだ。
『貴女は好きな人と結婚してほしいの。私は出来なかったから。』
でもごめんなさいお母様。私はお母様の願いを叶えてあげられない。
大好きなブリオッシュの芳醇なバターの風味も、かすかな甘みも今日は何も感じられなかった。ただ食べているだけ。お茶会の時間がこのまま来なければいいのに。そんな子供染みた願いすら浮かんで来る。
駄目ね、政略結婚をするのは私だけじゃないのだから悲劇のヒロインぶるのは良くないことだわ。気分を入れ替えてきちんと準備しなければ。
「おはよう、カトレア」
「おはようございます、お父様。」
父が食堂に入ってきた。後ろでそっと控えるジェットがそっと会釈する。
「準備は順調か?」
「ええ。お母様にもドレスを選んで貰って、ベティと共にドレスに似合う髪型やアクセサリーも相談しました。あとは相手の方を出迎えるだけですわ。」
「それはいい。最初の顔合わせが一番大事な場面だからな。しっかり頼むぞ。」
ジェットが淹れたモーニングティーを飲みながら、父は真剣な顔で言った。
「お任せ下さいませ。ハーバルディウス家の名に恥じぬ細やかで丁寧な対応をさせて頂きますわ。」
「期待しているぞ。」
「ではお先に失礼致しますわ、お父様。これから身支度に入りますので。」
朝食はまだまだ残っていたが手を付ける気が失せ、勿体無いが残すことにして立ち上がる。お茶会なんて、さっさと終わってしまえばいいのに。
お茶会は恙無く終わった。終わったはずだ。
泣きたくなるのを抑えて草の上で膝に顔を埋めた。視界に入る淡いコバルトブルーのドレスの裾がお茶会を思い出させ、余計に私の心を苦しめる。お母様が選んでくれたこのドレスを脱いでくれば良かった。そう思ったが、無理なことだった。きっと自室に帰って脱いでいたら、ベティの前で泣いてしまっていただろうから。ベティの前で泣いてしまっては迷惑を掛けてしまう。ベティにはそれでなくても迷惑を掛けているのにこれ以上は駄目だ。
仄かに香る草の香りを吸い、必死に涙を堪える。泣くものか。あの男のせいでなど泣きたくない。私を否定し傷つけたあの男のせいでなど。唇を強く噛み、涙が引くのを待つ。
ふとカサカサと草がかき分け誰かがこちらに歩いて来る音がした。
「見つけましたよ、カトレアお嬢様。やはりフィッツィ森林公園に居たんですね。」
歌うように柔らか優しい、けれども芯の通った声が響いた。
「ジェット…」
泣きそうな、消え入りそうな声で名前を呼んでしまった。いつものように彼の名前を呼びたかった。彼の浮かべる素敵な笑顔が見られるような元気な声で呼びたかった。けれど私の口からこぼれたのは元気なく、今にも泣き出しそうな力無い悲壮感に満ち溢れた声。なんてみっともないのだろうか。
「隣座りますね。」
「あの、一人になりたいのです…」
「すみません、それの願いは叶えてあげられません。」
「ほおっておいてください…」
「無理です。」
無遠慮に私の横へかさりと音を立てて座ったジェットを遠ざけたくて、一人になりたい私は最後の虚勢で声を張り上げた。
「妹より劣る私のことなんて放っておいてくださいませ!」
ふわっ
温かい何かに抱き締められる。
「誰に言われたんですか?そんな酷いこと」
耳元でジェットが怒りに満ちた声で聞く。
今、私はジェットに抱き締められている。温かい。服を通して彼の温もりが伝わってくる。
「あの、えと」
「誰ですか?」
言い淀む私にジェットは再び尋ねた。隠せない。ジェットには隠せない。
「私の、婚約者です。タッチェ家のご次男のナロン様、です。」
ぽろりと涙が私の目から零れ落ちる。ジェットの温もりに耐えられなかった。堰を切ったように涙が言葉が溢れてしまう。こんなこと言ってはいけないのに。婚約者の悪口など言うべきではない。淑女として、爵位を持つ女性として許されないことなのに。私はそれを止められなかった。
「妹のような美貌も、父のような頭脳も、母のような魅力もない私を本当は娶りたくないのだと…本当は妹を娶りたかったけれど子爵の地位が欲しいから私と結婚するのだと言われました…」
「カトレアお嬢様…」
ジェットの腕の力が少しだけ強くなった。
「お前とはただ結婚するだけであくまで形式的なもの。子供だけ作ったらお前の役目は何もない。愛人を囲うので私に関わらないでくれ。そう言われました…」
ナロンの目を思い出す。長めの茶髪の下から覗く軽蔑の眼差し。明確にお前なんかいらないと訴えていた。美丈夫だともてはやされる顔を歪めて発せられる言葉はまるで鋭利に研がれた刃のようで、鋭く深く私の心に突き刺さった。
「こんなこと本当は言ってはいけないとわかっているのです…わかっているのですが…私、彼と結婚したくありませんっ…」
「カトレア」
ジェットの胸に縋って泣いている私のどこが淑女なのか。ナロンの言うことは正しいかもしれない。嫌なことをされても笑顔で対処する妹の方が遥かに淑女と言えるだろう。そう思っても涙は止められず、ジェットの白いシャツをさらに濡らしていく。
「ごめんなさい、もう少しで元に戻りますのでっ、きちんと結婚を受け入れます…ですのでもう少し、もう少しだけ泣かせてください。」
「思う存分泣いてください、カトレア。貴女は自分一人で抱え込みすぎなのです。貴女はいつだって十分過ぎるくらい頑張っています。たまには頼ってください。」
背中をぽんぽんと軽く叩きながら紡がれる優しい言葉は、私を私の心を真綿のような温かさで包み込む。私達は束の間無言で抱きしめ合った。ジェットの腕の中は不思議と居心地が良い気がした。
読んで頂き、どうもありがとうございます。
次回あたりに魔法というかファンタジー要素を出せるかなという感じですむしろ出したいです。
王道な話をちょっとアレンジして書いてるつもりですが、どうでしょうか?
王道いいですよね!最高だと思います。