穴ヶ町芳香さんの依頼
穴ヶ町芳香という女生徒がいた。
彼女は尊徳高校の二年生で、容姿端麗、運動神経抜群――正に文武両道を体現したような少女だった。求愛する男子生徒は多く、毎日彼女にはラブレターが届く。だが、彼女はそれを相手にしたことはない。それがまた、男子の男心をくすぐって離さない。
そんな高嶺の花のような存在の芳香は、いつしか同年代の生徒たちから敬愛の意味をこめてこう呼ばれるようになった。
芳香さん、と。
「え、ほ、芳香さん!?」
オカ研の部室に平然と入ってきた宗は、窓際で優雅に佇む芳香を見て声を上ずらせた。目を制服の袖でごしごしと擦りもう一度見る。だが、芳香はそこから消えていない。幻覚ではなさそうだった。
「あら、こんにちは」
ふふ、と愛らしく微笑む芳香に、宗はたじろぐ。流石は男女問わず誉れ高い芳香さんだ。顎に手を置く仕草は優雅で、スカートから出るほっそりとした太ももは色香が漂う。思わず鼻の下が伸びてしまいそうになる宗は慌てて顔を引き締める。
「ねぇ、あなた。オカ研の部員よね? お名前は?」
「あ、えっと……八束宗です」
「宗……くん。ねぇ宗くん。今日ここに部長さんは来るかしら?」
「え!? 部長……ひょろ――じゃなくて愛吾ですか!? か、彼ならもう少しで来ると思います!」
なぜかびしっと背筋を伸ばして宗は答える。
「そう、ならここで待つわ。ここ、座っていい?」
「あ、どうぞどうぞ!」
なぜここで待つのかその理由も聞けぬまま、宗は芳香を椅子に座らせる。その座り方は優雅で、宗は唾をごくりと呑み込んだ。
「……宗くんも座ったら?」
立ち尽くしている宗を不思議そうに見上げられ、咄嗟にでてきた言葉は、
「あ、はい……」
芳香に気を遣われているのが情けなくて、宗は涙が出そうになった。ここは自分が所属している手慣れた部室だというのに。
これが浮かれているというやつなのかと、宗は綺麗な美少女を見て口ごもる漫画のキャラ達を馬鹿にしたことを悔いる。美少女との会話がこんなに難しいものだとは思わなかった。
宗は近場の椅子に腰かける。これで一息つけることだろう。
「…………」
「…………」
…………気まずい。
「あの――」
「ほぁぁぁぁ! ふ……私が一番よね」
意を決して芳香に声をかけようと口を開いたその瞬間、茜が勢いよく部室に入ってきた。どや顔で。ちなみに彼女は三番目だ。
茜は芳香がいることに気づいていないのか、そのままどや顔で入ってくる。
そして、芳香の存在に気づいた。
「うん? ほぁぁぁぁ!? 芳香さん!? なぜここに!? は! まさか私を偵察しに……?」
「お前の何を偵察するんだよ……」
どや顔から面食らった顔、そして怪訝な顔にとめまぐるしく表情が変わる茜に宗がツッコミを入れると、茜が宗の方を向いた。ここで宗の存在に気づいたらしく、うわっと茜が飛び退く。
「あらなに、あんたもいたの。え? まさか……まさかのまさか!?」
「いや何を言いたいのか全然わからないけど、少なくとも何かを勘違いしていることだけはわかるぞはばら。だから誤解だ、と言っておく」
そして茜にこうなった経緯を説明した。といってもそんな大層なことは言ってない。ただオカ研の部長である愛吾に用があるらしいとだけ。
「ひょろに用? え、まさか……まさかのまさか!?」
「まさかのまさかって言いたいだけだろお前」
ジト目で茜を見つめていると、芳香がおもむろに口を開いた。
「愛吾くんに用、というのはオカ研の部長だから用があるのであって、結局のところは貴方たちにも関係しているわよ」
少しばかり含んだ言い方の芳香に、宗は嫌な予感を覚えた。ちなみに宗のこの嫌な予感は、愛吾のおかげもあってかほとんど当たる。
宗が背中に嫌な汗を掻いていると、
「おおっす」「やぁ」
砕けた挨拶そのままに亮と愛吾がやってきた。
「そこで偶然会ってよお、二人で来たんだ」
亮が当たり障りのない話を口にする。それに愛吾が偶然だったねと受け答えした。この様子だと二人はまだ芳香の存在に気づいていない。
「おい――」
「あ、それより聞いてくれないかな! あの謎の物体を映した件の動画の新情報がッッッ!!!」
「どうしたんだよひょろ。まるで悪役に思い切り首を絞められた主人公みたいな声出しうああああぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?」
「どうしたんだよげんた。まるで悪役に一撃必殺の技を繰り出されて大ダメージを受ける主人公みたいな声上げてよ」
「い、いやお前だってよぉ!?」
亮と愛吾はおっかなびっくり元凶である芳香を見る。二人は宗と同じように制服の袖で目を擦ったが、やはり幻ではない。
「さっきの宗くんといい貴方たちは私を幽霊か何かだと思っているの? 失礼ね」
悪態をつくような言い方だったが、芳香の口角は上がっている。怒ったわけではなさそうで宗はホッと胸をなでおろした。
「あ、あのどうして芳香さんがこんな日陰で有名な部活に顔を……?」
「わざわざ自分を貶めなくてもいいのよ愛吾くん。来た理由はそうね、宗くんならわかってそうだけど」
芳香がちらりと宗を見る。どうやら宗に答えさせる気のようだった。
「依頼、ですよね?」
お望みとあらばと宗が答えると、芳香の口元が緩く吊り上がった。
「そう。オカ研兼便利屋である貴方たちに頼みたいことがあるのよ」
「オカ研兼……ありがとうございます!」
「ひょろ。今のはお礼を言う場面じゃない」
緊張しているのか何なのか、いらないところで謝辞を述べる愛吾にそっと注意する宗。あ、あぁそうだね、とたどたどしくつぶやく愛吾を見て、宗は心配になった。
「依頼って一体何するのよ? スパイ? 密偵? 工作員?」
「いやそれ全部同じ意味な」
どうやら茜も緊張しているようだった。ここは自分がしっかりしなければと宗はぐっと背筋を伸ばした。
「ある動画を調べて欲しいのよ」
「動画?」
宗が答えると芳香はこくりと頷き、携帯を取り出して何やら操作し始めた。彼女もまたスマートフォンで、ピンク色の手帳型ケースを使用していた。ストラップも付いている。ポケットにしまうとき邪魔にならないのだろうかと宗はいらない思索に耽る。
「調べて欲しいのはこの動画なの」
と言って芳香が見せてきたのは、
「これって、あの謎の物体の動画……だよな?」
宗が隣に座っていた亮に話しかけると、彼はびくんと体を震わせて白々しくあ、あぁそうだなと答えた。
亮の様子が変だったが気にしている余裕は宗にはない。それより気になるのはもちろん、
「なんで芳香さんがこの動画を?」
それに尽きる。
「わかってるわ。どうして私がこれについて知ろうとしてるのか知りたいんでしょ? でもね、それはちょっと秘密なのよ。ごめんなさいね」
悪びれた様子もなく、唇に人差し指を添えて芳香は薄く微笑んだ。その仕草がまた男心をくすぐって離さない。男三人は頬を染めた。
「それで、どう? 協力してもらえない?」
芳香の視線が愛吾に向けられた。
「あ、はい! よ、喜んで協力いたします! なぜならこの動画を調べるのは僕たちオカ研の悲願なのですから!」
「誇張しすぎだろ……」
悲願は言い過ぎだが、案外芳香の頼みとならばそのくらいの話になってしまうのかもしれない。
「……その口ぶりだと、どうやらこの動画について知ってるみたいね。もしかして、何かもう情報を掴んでたりするの?」
芳香は探りを入れるように聞いてきた。
「あ、えっと、はい! どうやらこの動画を撮影した場所がこの近くにあるらしくて、そこに行ってみようかと!」
「へぇ……そう。いつ行くつもりなの?」
「えっと、今日これから足を運んでみようかと……」
そうだったのか、と他の三人が驚愕するが顔には出さないようにする。とはいえまったく隠しきれていなかったが。
「なら私も行こうかな」
「うえぇぇ!? 芳香さんもですかぁ!?」
愛吾が慄くように仰け反ると、仰け反り過ぎて椅子が後ろに傾き、そのまま背中から床に転倒する。そのせいで他の三人は今度は驚くタイミングを見失った。
「あは……ごめんね。ちょっと貴方たちってからかい甲斐があるからついからかいたくなるの。私は行かないから。安心して」
「い、いえそんな滅相もございません! 私の命に代えてでも役目を果たしてきますので!」
愛吾は椅子をぽいと後ろに投げて土下座の体勢になった。それはまるで主従関係を結んだ奴隷と貴族のように見えるが、実際この学校の階級的にはそのくらいなのだろう。
ははぁ! と言いながら土下座をする哀れな愛吾を尻目に、宗は聞きたいことを聞いておくことにした。
「それで具体的に調べて欲しいとはどのくらい調べれば……いいんでしょうか?」
「無理して敬語使わなくていいわ。ていうか私たち同学年なんだからもっと砕けてくれていいのに」
「い、いやそれは……!」
できない。そんな友達のように接することなど。おこがましいにも程がある。
「まあいいわ。それより質問の答えだけど、なるべく多くの情報が欲しい。さっきの話だと今月のテーマって言ってたわよね? ていうことは四月の終わりまでは調べるんでしょ? ならそれまで全力で調べ尽くして欲しい。もちろん、学校生活とか自分の生活とかの妨げにならない程度にね」
あと、と芳香は続けて、宗をじっとみつめた。宗は思わずドキッとする。
「何か情報が出てきたときにそれを私に伝える人が欲しいわ。宗くん、お願いできない?」
「え――! 俺、ですか……?」
「頼める?」
芳香は蠱惑的な笑みを浮かべた。ここで反対した人はきっと男ではない。そのくらい美しく、悪魔のような笑顔だった。
「はぁ……わかりました」
「ありがと」
どうして部長の愛吾ではなくただの部員にそんなお願いをするのか芳香の真意はわからないが、頼まれてしまっては仕方ない。全力を尽くすしかない。なお、血の涙を出して羨ましそうに宗を見ている男二人は無視する方向で。
「なら私のラインを教えておくわね。ふるふるでいい?」
「え!? ……いや。俺、ガラケーでして……」
挙動不審になりながら、もごもごと男っぽさの欠片もなくそう口にする。
数秒の間が空いて、芳香が瞠目する。
「……え!? 宗くんまだガラケーなの!?」
「ま、まぁ……はい……」
本当なの、と言うかのように周りの三人に目配せする。茜が答えた。
「本当よ。こいつ、まだガラケーなの」
「うっそ、信じられない……」
芳香は大きく開いた口に手を当て物珍しそうに宗を見る。宗の顔から火が噴き出そうだった。
「ていうかまだ存在してたのね、ガラケーって」
「ぐはッ!」
宗のライフポイントがゼロになり、崩れるように床に跪く。ガラケーだって、ガラケーだって、と言霊が揺らめいて消えた。
「まあでもQRコードなら使えるでしょ。それを読み込めば……」
「こいつの携帯だと古すぎて読み取れないわ」
「なにそれ……聞いたことない」
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「かっそぉぉぉぉぉ!!! しっかりしろぉぉぉぉ!!」
「やられた主人公に慌てて駆け寄る仲間みたいな演技しないでよ暑苦しい」
「やれやれね……あ、ならこうしましょ」
芳香は何か思いついたらしく、妖艶な笑みを浮かべる。
「電話番号を交換するの。古臭い宗くんにはぴったりだわ」
で、ん、わ、ば、ん、ご、う? 電話ばんこう? 電話番号!?
芳香の唐突な申し出に、宗はピキッっと体を石像のように硬直させ灰色に変色していく。
「どうせラインを教えても文章じゃなく電話で話してもらうつもりだったし、どう? 宗くん」
「……ワレワレハ、ウチュウジンダ」
「うわぁかっそが壊れちゃったよ! かっそ、しっかりして! あとね、宇宙人って自分たちのことを宇宙人だなんて言わないと思うんだ。地球人である僕たちが違う銀河に行ったら必ず僕たちは地球人だって言うはず――」
「ひょろ……今いうことじゃねぇぞおそれ」
取り敢えず宗が落ち着くまでしばらく待つことに。
「あぁすいません……パニックになりすぎて固まってしまいました」
「いいのよ。それで、電話番号で大丈夫?」
「も、もちろん!」
こうして宗と芳香の二人は携帯の番号を交換した。
「なんだか新鮮ね、こうして携帯の番号を交換するのって。ラインを交換するのとはわけが違うというか」
「ま、まぁ……たしかに」
それは宗も同じ気分だった。あははと笑って前髪をねじる。困ったときの彼のくせだ。
「それじゃあ私は行くわね。頑張ってね皆。期待してる」
こうして芳香はオカ研を去っていった。
「はぁぁぁぁ……」
宗は大きなため息をついてぐだりと背もたれに寄っかかった。話した時間は三十分くらいなのに酷く疲れて肩が凝った。きっと無意識に内に体を張り詰めていたのだろう。
「それで、あのときは芳香さんの手前今日行きますって言っちゃったけど、どうする? 今日行く? 動画の撮影場所」