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朝焼色の悪魔-第1部-  作者: 黒木 燐
第6章 暴走
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3.クリミナル

これを書いた頃、私の勤めている業界はかなり冷え込んでいました。


 由利子は社長室に入ると、退職願を出し一礼してその場を離れようとした。その由利子の背に向かって社長が声をかけた。

「篠原君」

 由利子は背を向けたまま立ち止まった。

「ありがとう。私がふがいないせいでこういうことになって申し訳なく思っている。本当にすまない……!」

 社長は立ち上がり深く礼をしながら言った。社長の真摯な言葉に由利子は笑顔で振り返って言った。

「まあ、これも運命かもしれません。それより会社を潰したら承知しませんからね」

「もちろんがんばるさ。必ず生き残ってみせるから」

 社長は由利子にそう確約して言った。

 由利子が社長室を出ると、その前に黒岩るい子が居た。黒岩は泣きそうな顔をして言った。

「ごめん、私の代わりに辞めるっちゃろ? ごめんねごめんね」

 由利子は困って言った。

「黒岩さん、そうじゃないです。それに、次の仕事もいちおう見つけてあるし」

「ホント? 本当なんやね?」

「ホントですよ。今、仕事中だからお昼休みにお話しますから」

 由利子は努めて明るく言った。

 

 美千代はファミレスでコーヒーを飲んでいた。

 都築の家を出たものの、どうも体調が思わしくないのでこれからどうするべきか指示を仰ごうと電話を探したが、見つからない。そういえば……、美千代は思い出した。

 携帯電話は電波で居場所を特定される恐れがあるというので、雅之の電話も一緒に教主に預けたのだ。しかし、彼女はこれまでその存在をすっかり忘れていた。かつては手元に無いとあんなに不安だったけど、けっこう無くてもなんとかなるものね……。美千代はそう思うと少し可笑しくなってクスリと笑った。気分は解熱剤が効いているのかだいぶマシになっていたが、頭の芯がすこしぼうっとしているような気がした。美千代は教主が連絡先を直々美千代の手帳にメモしてくれた事を思い出した。すぐさま店内の公衆電話からかけてみると、教団幹部の男が出て使者をよこすという。そういう経緯で彼女は今、待ち合わせに指定されたファミレスでコーヒーを飲んでいるわけである。病気の進行のせいか、食欲は全くと言っていいほど無くなっていた。

「秋山美千代さんですね」

 教団からの使いが美千代の座った席の前に現れた。若い男で顔もまあまあだったが、少し緩んだ表情があまり利口そうではない印象を与えた。

「F支部の河本です。お迎えにあがりました。前の席にお邪魔してよろしいでしょうか」

河本はそう聞くと、美千代の返事を待たずに椅子に座った。ウェイトレスがすぐに水とメニューを持ってきたが、「すぐに出ますのでおかまいなく」と素っ気なく断り、美千代に向かって気忙しそうに言った。

「長兄さまの連絡先は覚えてらっしゃるのですか?」

「連絡先…? 」美千代は訝しげに聞いた「お電話番号ですか?」

「そうです」

「いえ、長兄さまが手帳にメモされたので…」

「拝見します」

と、河本が手を差し出したので、不審に思いながらも美千代は手帳を渡した。河本はページをめくると教主の電話番号が書いてある場所を見つけた。彼は「失敬」と言うと事もあろうにそのページだけ引き破り、手帳を美千代に返した。美千代は一瞬呆気にとられたが、手帳を河本から引ったくるように受け取った。

「な…何をなさるの!?」

「この番号は近々廃止されます」河本は破り取った紙を丁寧に畳んでポロシャツのポケットにしまいながらいった。「あなたには必要な時にまた新たな番号をお教えしますから」

「それにしても乱暴な…」

「さあ、参りましょう」

 河本は美千代の非難を無視して立ち上がり、さっさと店の出口に向かった。美千代は慌てて席を立つと、会計を済ませ店から出た。河本は店先に止めた車の前で待っていた。

(路上駐車…、だから急いでたのね)と美千代は思った。(だからって手帳のページを裂くなんて、どういう人?)

美千代の戸惑いを他所に、河本は車の後部席のドアを開けて美千代を座らせた。


 河本は車を走らせながら美千代に聞いた。

「体調の方はいかがですか?」

「少し気分が悪いけど、だいぶいいですわ」

「吐き気とか腹痛は?」

「おなかは痛くないけど、吐き気はありましたわ。薬を飲んだから今は治まっているけど……」

「そうですか」

 河本はそこまで聞くと、また無言になった。美千代はだんだん不安になってきた。一体どこへ連れて行くつもりなのだろう。その気持ちを抑え、美千代は一番気になっていたことを聞いてみた。

「雅之の……息子の遺体ですけれど……、どうなっているかご存知ですか?」

「私はそのように重要な件には加担しておりませんので……」

 河本はそっけなく言った。車はどんどん山道を進んでいるが、以前行った教団の支部へ続く道とは全く違うように思えた。美千代の不安はさらに大きくなった。

「行き先はどこですの?」

 美千代は思い切って男に聞いた。

「あなたは教団にとって危険だ」

 河本は言った。

「長兄さまは面白がっておられるが、一部の幹部からあなたを野放しにすることを危険視される意見も出ています」

「え?」

 美千代は自分の耳を疑った。

「あなたはおそらくもうすぐに死ぬ。だが、それまである場所に隔離させてもらいます。全てが終わったら、そこに火をかけて浄化します」

 河本は抑揚の無い声で言った。想像もしていなかった事態に美千代はパニックを起こしかけたが、なんとか自分を抑えた。だが、このままだと美千代にとって危機的状況を招くことは間違いない。美千代は生き残る方法を探るため考えを巡らせた。今ここで死ぬわけには行かない。自分の病状から息子と同じ病であることは想像がついた。河本の言うように、ひょっとすると自分も死ぬかもしれない。だが今、彼らに拉致監禁され、そこで死ぬわけには行かない。美千代はバッグの中をそっと探った。この状況から抜け出すために何か役に立ちそうなものはないか……。すると美千代の手にあるものが触れ、彼女はかすかに微笑んだ。それだけ残していてもしようも無いものだったが、捨てなくてよかった……と美千代は思った。

 しばらく、山道を走ったところで美千代は勝負に出た。彼女は後部座席でうめき声を上げた。

「ご、ごめんなさい、本当はさっきからずっとおなかが痛くて……吐き気もするの。苦しい、助けて……」

「もう15分もしたら目的地に着きます。がんばってください」

 河本は流石に驚いたらしく、声に少し感情が混じっていた。美千代はさらに息を荒げながら言った。

「だめ…よ、それまで…もたないわ。……ねえ、車を止めて! 外に出してちょうだい。林の中でするから!!」

「ダメです。あなたを逃がすリスクは避けねばなりません」

「わかったわ。放っとくがいいわよ。でも、ここで漏らしても知らないわよ」

「それは困ります!! 私まで感染リスクが上がってしまいます。今だって充分怖いんですよ!」

 美千代は河本が無愛想だった理由がわかった。病気を恐れていたのだ。病気のことを知っているということは、河本は彼が言う以上に教団の中心に近しい人物なんだろうと美千代は判断した。

「ああ、どうしよう…、ホントに…もたないわ。死にそうよぉ……お願い、車を止めてぇ……」

 美千代は身体をくの字に曲げて苦しんで見せたが、右手にはさっき見つけたものを握りしめていた。

「わかりました。でも、私はあなたが逃げないように監視する義務がありますから……」

「いいわ、紐で括ろうが傍で見ていようが勝手にするといいわ!」 

 美千代は自暴自棄に言った。とうとう河本はあきらめて車を止めた。木々がうっそうと茂り車通りもほとんど無い山道だった。以前問題になった、利用者のいない利権のみで作られた道のひとつらしい。車を止めて振り向こうとした河本の首に何かが巻かれ、一瞬にして首を絞められた。美千代が二重にしたヘッドフォンのコードを彼の首に引っ掛け、彼女の全体重をコードにゆだねたのだ。

「ぐえぇ……」

 河本の目が異様に見開かれ舌が飛び出した。彼は口から涎を垂らし泡を吹きながら数秒もがいたが、すぐに力が抜けた。美千代はロックを解除すると車外に飛び出し運転席のドアを開けると、満身の力を込めて河本を引きずり出した。さらに彼女は河本の身体を山道の隅に必死で引きずりながら運んだ。絞首のショックで勃起した河本の股間辺りから排泄物の強い臭いが漂ってきた。大きく開いた口から泡を吹き鼻血を流し、白目を剥いたままぐったりと動かない河本の胸に、美千代は恐る恐る耳を当てた。心臓はなんとか動いている。美千代はほっとした。彼女の体重が軽かったのと車内が狭かったために、幸いにもトドメを刺すに至らなかったのだ。それでも美千代は自分のしでかしたことに恐怖したせいか、胃から何かが逆流して来るのを感じた。美千代は河本の横で吐いた。すでに吐くものは無いはずの吐物はどす黒く、赤黒い血の塊が混じっていた。

 美千代は河本の身体を、見つからないよう法面の林の下生えの中に隠すと、彼の車に乗り込み何処かに走り去った。

 

 多美山と葛西は、ひとりの男を追っていた。二人は情報を受けて、とある大衆食堂の前で男が昼食を終えて出てくるのを待った。受けた情報どおりに男が店から出てきたので、それを見計らって近づいた。男は30代でガタイが大きく、如何にも労働者タイプの男だ。多美山は人好きのする笑顔で男に近づき、警察手帳を見せながら言った。

「大野田 孝さんですね。XXのコンビニ強盗の件ですが、ちょっと署までご同行願えんですか?」

 男は咄嗟に多美山を突き飛ばして駆けだした。多美山はバランスを崩し、路上に尻餅をついてしまった。

「多美さん!」

「いいから追え、ジュンペイ!!」

 葛西は多美山が言う前にすでに駆けだしていた。路地に入ったところで大野田は振り向いて驚いた。もういい加減ひき離しただろうと思ったのに、すぐ後ろに葛西が追ってきていたからだ。葛西は自分を何の取り得の無い男だと思っていたが、脚だけには自信があった。高校時代陸上部で中距離ランナーをやっていたからだ。大野田は道に置いてあったゴミ袋を蹴飛ばして妨害しようとした。葛西は一瞬脚を取られかけたが、すぐに体勢を立て直して男にタックルをかませた。二人してもんどり打って倒れ、大野田は足下にしがみつく葛西から逃れようともがいたが、それが無理とわかり大人しくなった。葛西は起きあがって大野田に手錠をかけようとしたが、その隙を狙って彼は寝転がったまま葛西に蹴りをいれた。葛西はとっさに身を引いたが腹に蹴りを食らってその場にうずくまった。その隙に立ち上がって路地裏に逃げようとしたところ、彼は何者かに投げ飛ばされた。そこには多美山が立ちはだかっていた。

「孝君、罪を重ねるとはやめんね」

 多美山はすでに戦意を喪失している大野田に向かって言った。

「通報、誰からやと思う? あんたのお母さんからたい。……お母さんはな、あんたの様子がおかしいとに気づいて心配してな……、あんたん部屋ば探して現金と血の着いた包丁ば見つけたったい。……そん時のお母さんの気持ちがどげんやったかわかるね?」

 大野田は多美山の言葉に下を向いたまま微動だにしない。多美山は大野田の前にしゃがみこむと、彼の肩に手を置きながら言った。

「お母さんはな、通報するか息子を逃がすかずいぶん悩まれたらしいばってんな、やったことはきっちりと償わせんといかんち思うて、通報を決められたそうだ」

 大野田は相変わらず下を向いて黙っているが、肩が震えているのが傍目にもはっきりわかる。多美山は続けた。

「孝君、会社を首になって、一所懸命次を探したばってん見つからんで、生活に困った挙句の犯行やろ……。そりゃあどんな事情があっても強盗はいかんし、人を傷つけるのはもっといかん。ばってん初犯やし刺した相手も重症やけど幸い命に別状はなかごたるけん……。お母さんな、あんたが罪を償って出てきたら、またいっしょにがんばりたいっち言うとったぞ。たった一人のお母さんをこれ以上泣かせたらいかんやろ?」

 多美山は優しく言い含めるように言った。

「はい……」

 大野田はやっとのことで答えたが、すでに涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。そして彼は、だまって多美山に両手を差し出した。

「ジュンペイ、大丈夫や?」

 多美山は、大野田の手に手錠をかけると、まだ地面にへたり込んでいる葛西を心配して言った。

「あ、なんとか大丈夫です。とっさに避けたので何とか直撃は免れました。それよりスミマセン。ドジっちゃって」

「いや、オレが油断したとがいかんかった。声かけてどつかれる様じゃ、オレも焼きが回ったなあ」

 多美山はすこし悔しそうに言った。

「ジュンペイ、ありがとう。あそこで彼を逃がしとったら取り返しのつかん事になっとったかもしれん」

「いいえ、そんなこと……。…あれ?」

 葛西は目をしばしばとさせた。その後右目を押さえて多美山の顔を凝視した。

「ああ~、しまった! 左目のコンタクトレンズ落としちゃいました」

「え”?」

 想定外の葛西の言葉に、多美山と大野田が同時に言った。

 

「へえ、大学の研究室でアルバイトすると? すごかやんね」 

 由利子はお昼休み、黒岩にこれからのことを簡単に説明した。もちろんギルフォードと出会った経緯やひょっとして大変な事になりかねない疫病については一切カットした。

「え、その長身でハンサムなイギリス人教授がどうやらゲイらしいって??? なにそのジュネ・アラン的世界! あ~ん、羨ましい」

 由利子の話を聞いて、黒岩の目がキラキラと輝いた。

(ああ、ここにもいたよ、腐女子が……)

 由利子は心の中で苦笑いをした。

「凄くいい男なんですよ。もったいないと思いませんか?」

「どうせ手に入らんのやったら、いっそ観賞用のほうがよかろうもん?」

「そういうもんですかねえ」

「篠原さんってボーイッシュやもんね、だけん気に入られたっちゃないやろか」

「そういえば、秘書の紗弥さんもスレンダーだし、着るもの次第で少年に見えないこともないなあ……。まあ、深く考えんどこ。で、私のことはこれだけだけど、黒岩さん、もう日にちがあまりないけん、少し突っ込んだこと聞いていい?」

「なんね、いきなり」

 黒岩は少し警戒しながら言った。

「あのですね、答えたくないなら答えなくていいですけど……。以前母子家庭って言われましたよね。ご主人亡くなられたんですか?」

「ああ、それね。そう、早死にやったよ。なんせ娘が生まれる前やったけんねえ」

黒岩はしみじみと言った。

「え? そうやったんですか……。すみません、悪いこと聞いちゃいましたね……」

 由利子が黒岩にそういう話を聞きたかったのは、自分が身を退くことが正しかったんだという確信を得たかったからなのだが、想像以上にハードそうな身の上に、正直しまったと思った。

「まあ、略奪婚やったけんねえ……」

黒岩は遠い目をして言った。

「ええっ?」と由利子はうっかり言ってしまった。

「なんね、失礼な。これでも10ン年前は細くて今よりちったぁ見れたっちゃけん。娘を育てるんでなりふり構わなんかったけん、こうなったったい」

黒岩は笑いながら言った。

「それでも、離婚成立までじっと大人しく待ったとよ。やけん娘が出来たのも結婚してからやん」

「すごい、がんばりましたねえ。私なら既成事実を……いえ、茶化してすみません」

「まあ、それまでやったことなかったけんね」

「ええっ??? だって当時はすでにさんじゅう……」

「数えんでええっ!」

 由利子が指折り始めたので黒岩は焦って止めた。

「意外とお茶目なことするんやねえ」

黒岩は若干引きつった表情をして言った。

「で、我慢してようやく結婚して子どもが出来て……・前妻との間には子どもがおらんかったけんね……、でね、ようやく幸せに、と思ったら、生まれる前にガッチャーン☆ 交通事故でさ、もう目の前真っ暗よ」

「なんと言っていいやら……」

「保険金は慰謝料代わりに元嫁からふんだくられるし」

「え?そんなのあり?」

「色々言ってきて、小うるさいしめんどくさいので払っちゃった」

「ひどっ」

「で、まあ残った保険金と私の働き分でなんとか暮らしてたんだ。母に娘を見てもらいながらさあ。そしたら5年前母も病気であっという間に昇天。で、父もとおに亡くなってたから一気に母娘二人さ・・」

「ダンナさんのご両親は?」

「居るけど長野。来いって言われてるんだけど、私がここを離れきらんでねえ。それに」

「それに?」

 由利子は鸚鵡返しに聞いた。

「どうも、あっちの両親は苦手で……」黒岩は笑いながら言った。「変やろ? 最愛のダーリンの両親なのに」

「長野、いいとこじゃないですか。いまいち食文化が違いそうだけど……。でもまあ、なんとか生活出来るんなら、娘さんが独立するまで今の状態でがんばっていいんじゃないですか?」

「そう思う。でも……」

「いえいえ、気にしないで。私なんか独身で身軽だからなんとかやっていけますよ。いざとなったら適当に誰か引っ掛けて……」

 そこで、何故か葛西の顔がポンと浮かんでしまい、由利子は密かに焦った。

「どうしたん?顔が少し赤うなったけど?」

「いえ、実はですね……」

 由利子はギルフォードの友人(ということに便宜上勝手に設定した)の刑事のことを、適当に話をつなげて話した。

「はは~~~~ん」黒岩は、意味深な笑いを浮かべて言った。「脈ありそうやん。約10歳歳下かあ。やるじゃん」

「8歳です、黒岩さん」

「四捨五入して10でいいやん」

「その計算だと4歳の幼児は0歳になるわけで……」

「ま、細かいことはともかく、教授との三角関係にならんようにね」

「って、黒岩さん、キモイこと考えんでくださいよ~」

 由利子は想像もしなかったことを言われて焦った。

「まあ、がんばれや~」

 黒岩は、由利子の背中をバシッと叩いて言った。

「いってえ~、黒岩さん、ちったあ手加減てものを……」

「あはは、1時になるけん、また課長に言われる前に帰っとくね」

 黒岩は明るく笑いながら去って行った。

「ふう……」

 由利子は小さくため息をつきながらつぶやいた。

「やっぱり、これでよかったんだ……」

「へっし!」

 ギルフォードが、ほか弁の幕の内を食べようと蓋を開けた途端くしゃみをした。

「Bless you! 風邪ですか?」

 紗弥が聞いた。

「いえ、きっと誰か僕の噂話をしてるんですよ」

 そういうと彼はもう一度くしゃみをした。

 多美山と葛西は、例の捕り物のせいで少し遅くなった昼食をとるため、署内の食堂に入った。二人とも定食をを注文すると、やっと落ち着いて椅子に座った。葛西は水を飲み干し、多美山は椅子の背にもたれかかった。

 二人は黙々と食事をした。定食を先に平らげた多美山が言った。

「あ~あ、なんか妙に疲れたなあ」

「そうですね」

 葛西は最後の漬物を口に運ぶ手を止めて言い、その後それを口に放り込んだ。

「オマエも全力疾走して疲れたやろ? この仕事は体力勝負やからな」

「……はい」葛西は漬物を飲み込みながら言った。

「ばってん今日のごと派手な捕り物ばかりじゃない、地道なことの積み重ねの方が多いけん」

「そうですね。……でも、今日の男はなんかかわいそうでしたね」

「生活に困って、深夜コンビニに強盗に入って店員を刺した挙句、盗った金額は3万円……。やり切れんよなあ」

「だけど、あまりにも短絡的な行動です。お母さんが可愛そうですよ。刺された店員が死ななくて本当に良かったです」

「うむ、類似事件で店員の刺殺されたケースが数件あるけんなあ」

「はい。犯人を追いかけて刺されて亡くなられた店長さんもおられました」

「ああ、東京の方の事件やったかな」

「彼らはやったことの結果がどういうことになるか、考えないんでしょうか?」

「発作的にやってしまうんかな? 犯罪に走る境界線ってのが曖昧になってきたのかも知れんね。ところで、ジュンペイ、おとつい、あの先生んとこ行ったんやろ?」

「ええ、行きました。なんか大変でした」

「そうか、なんか脅迫状が来たって?」

「というか挑戦状ですね」

「テロがどうとかいう? ジュンペイ、あれ、信じられるか?」

「う~ん……。でも現に数人が感染症らしき病気で死んでいますから」

「……このことは、中央の方には届いているんやろうか」

「知事から報告が行っているはずですが……」

「あっちも対応に困っとるんかもな」

「炭疽菌とか天然痘のような特定しやすい病原体ならば、却って動きやすいのでしょうけど」

「おいおい、もし天然痘やったら今頃大変なことになっとるやろう。俺らだって無事じゃすまされん。なんせ、感染者に 接触した少年達と会っているんだから。いや、最悪K署内全体が危険区域になったかもしれん。彼らの学校もな」

「まあ、そうですけどね。だけど、正体のわからない敵と正体のわからない病原体。それだけでかなり不安な要素が充分です」

「まあ、先生には悪いが、先生の先走りであって欲しいと思うね」

「わかります。僕もそう思います」

 そう言いながら、葛西は窓の外の景色を見た。梅雨を控えた6月の空はまだ青く、明るい日差しにだいぶ色の落ち着いた木々の緑が映え、街は平和そのものだった。この平穏をこわさないでくれ……。葛西は祈るような気持ちだった。

「時にジュンペイ」と、多美山が言った。

「なんですか?」葛西は窓から多美山に視点を移して言った。

「オマエ、眼鏡もよく似合うやないか。童顔がカバー出来ていいかもしれんぞ」

「そ、そうですか?」

「コンタクトを失くしたついでに、しばらく眼鏡君でおったらどうや?テレビに出てくる知能派の刑事みたいやぞ」

「やだなあ、多美さん、茶化さないでくださいよお」

 葛西は少し赤くなって言った。

「茶化してなかばい。ホントに似合っとおって」

「そっかなあ。じゃ、これ、古いから新しい眼鏡買おうかなあ」

 素直な葛西であった。

 昼過ぎ、森田健二の彼女の紅美(くみ)が彼のマンションを訪れた。彼らの大学では珍しく出席に厳しい授業に彼が出てないので、様子を見に来たのだ。もちろんそれは会いに行く口実だった。エントランスのインターフォンで所在の確認をする。返事が無い。(あれ? 出かけてるのかしら?)紅美は思った。しかし、ひょっとしたら、またどっかの女を引っ張り込んでいるのかもしれないと、彼女は返事の有無を無視していつものようにマンション内に入っていった。部屋に入ると、テレビの音がする。部屋の電気もパソコンまでついたままだ。しかし、人の気配がしない。

「もうなんもかんもつけっぱなしで、どこ行ったんやろ? そうだ、トイレ! トイレに行きたかったんだ」

 彼女は独り言を言うと、かって知ったる彼氏の部屋、さっさとバスルームに向かった。しかし、ドアを開けた瞬間、彼女は息をのんだ。森田健二が裸のまま倒れていたのだ。

「きゃあああ、健ちゃん!!」

 紅美は慌てて彼に駆け寄った。

「う……ん」

 健二は、少し首を動かしながらうなった。良かった生きている。しかし、身体が火の様に熱くなっていた。

「待っとって、今、救急車を呼ぶからね、がんばるんよ」

 紅美は彼にバスローブを被せると、急いで電話を取りに走った。


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