虎穴に入らずんば虎子を得ず
―――昨日の受傷からの回復で、エネルギーを使い過ぎた。
―――眼は、殆ど見えていない。
しかし、口から音波を出せば障害物があるかどうかはわかるし、何よりあの屋敷からは、目覚めの近い『彼女』の波動を感じる。
桂花はただ真っ直ぐに、『彼女』の元へ向かう事が出来た。
やがて、あの、桂花とは少し違う香りのある所へ出た。
ドアは――――堅く鎖されている。
蹴破るか、音波でぶっ飛ばすか。
どちらにしても、大音量だ。
否。手を変化させて―――金属だろうが何だろうが切断すれば何とかなる。
ドアを切断して、横に退けて、侵入する。
何処に彼女がいるかは、解っている。
後は、トラップに引っかからない様に、量産型に出くわしたらどう出るか――――
不気味なぐらいに、量産型の気配は感知出来なかった。
地下へと続く階段、そしてドア。
ドアを切り取り、その先には―――
だだっ広い空間の、最奥に。
彼女を、感知した。
しかし、その側に―――
「朱か」
「今日は一人ですか?是非、あの―――三村選手を、連れてきてもらいたかったのですが」
昨日抉った筈の両目が、回復している。
「足手まといなら置いて来た。
用件は簡潔に、そこの繭を寄越s―――して貰えるはずがないよな。ここは、お前一人だけか?張は何処だ?」
「張―――主人は、本日は『広寒宮』にいらっしゃいます。ここに残っているのは、私一人です」
「何故、あの男に執着する」
「それは主人に聞かないとわかりません。
しかし、貴女も人間と共に行動していては、血の摂取などままならないでしょう。そして貴方は昨日の負傷で大分血を消費して弱っている。その様な貴方は―――『半端者のお前でも始末できるだろう』との仰せでしたよ。
さて、ここまで単独で来て、引き返す貴方ではないですよね?今死にますか?それとも、主人の帰りを待って死にますか?」
「『半端者』か…それが何を意味するのか解らんが、繭を渡さぬならお前が死ぬまでだ」
桂花が、朱に飛びかかった。
朱は、足を異形のそれに変化させて飛びのいた。
「私は、主人の持つ霊薬を、少量しか口にしていない。だからあの不法入国者どもの様に全身を戦闘形態には出来ない。
―――しかし、それ故に貴方より人に近い理性で判断して動けるのだ」
***
ほぼ同時刻、横浜中華街のど真ん中。
「――――ここか」
横浜中華街のはじまりは、1859年の横浜開港からである。
外国人居留地には欧米人と共に多数の清国人がやって来た。
その後、横浜と上海や香港の間に定期船が出来て、アヘン戦争やアロー戦争で分断された清に見切りをつけた多数の中国人商人が居留地の一角に定住したのだ。
日清戦争の際に一時中国人の数は減少するが、戦後の1899年の条約改正によって居留地が廃止されると、中国人は居留地外への定住を許された。
袁世凱に追われた孫文も、この横浜に潜伏して革命活動を行っていた。
広寒宮は、どうもその頃から―――小規模な旅館として―――存在したらしい。
「80年代に張が買収したそうなんですが、1959年の写真に張らしき人物が映っているって、俺の修行先の主人が冗談めかして言っていたんですよ
―――にしては、張は朱と違って化け物の片鱗も見せていないから、やっぱり別人でしょう」
地下の駐車場に車を停め、守衛に挨拶をした。
首筋から膝下まですっかり覆うロングコートを着込んだ三村とタオは荷物―――ネクターと餅と近くで購入した爆竹―――を詰めたバッグを持って、地上に出た。
―――二人が地上に去ったのを確認した守衛は、電話を繋いだ。
「来ました。赤のフェラーリ、間違いありません」
***
どうやら広寒宮では『年越しプラン』なるものが存在するらしく、ロビーは既にあらゆる国の宿泊客でごった返していた。
「ホテルで年越しか、イベントも用意してあるんだろうな」
「中華街なら、汽笛も聞こえるんじゃないですか?」
中華街からほど近い山下公園では、新年を迎える瞬間に停泊している船が一斉に汽笛を鳴らすのだ。
横浜ならではの年越しの風景である。
ロビーに並び、宿泊客の対応が終わり。
「お伺いしたいことがあるのですが」
「いかがなさいましたか?」
都会の宿泊客にしては荷物が多い。
「―――張オーナーと、お話がしたいのですが」
「オーナーは、只今年越しパーティーの準備中で御座います」
「…昨日オーナーの別邸に招かれた際に、忘れ物をしたんですよ。手帳なんですけど。
手帳の中に好きなサッカーチームのテレカが挟まっているんで、もし拾っていたら、お手数ですが返して貰えると嬉しいのですが」
「承知いたしました。只今オーナーをお呼びしますので少々お待ち下さいませ」
フロントの男は、カウンター内のドアに消えた。
***
張は、昨日の修羅場が嘘の様な笑顔で三村達に挨拶をした。
「やあお待たせいたしました、三村様、田川様。昨日私の別邸にお忘れ物をなされたとの事ですね。それでは私についてきて下さ―――」
「いや、俺はロビーでオーナーと話がしたい」
人目、というか宿泊客の目の在る所で話さないと危険だ。
「いえいえ、お忘れ物を渡すのは他のお客様の目の届かない所がよろしいというのがうちの方針何です。時々いらっしゃるんですよ、客室に人に言えない忘れ物をするお客様が」
そう言って、張はその線の細い中性的な外見からは想像できない程の力で三村をフロントの中に引っ張り込んだ。
「先輩…!」
タオは三村を追いかけようとするが。
「お客様、勝手に此方へ入り込まれては困ります」
これまた怪力のスタッフに引き離される。
(まずい…今爆竹を鳴らしても捕まるのは俺の方だ…)
勿論こちら側には宿泊客が多数いる。
警察に―――信じて貰えるかどうかは別として――― 一か八かで昨日の別邸の事を通報する事も考えた。
が、考えてみれば別邸の正確な場所がタオには解らない。
(桂花さん…!どうして俺らを置いて一人で…!今の貴方一人では無謀すぎる…!)
自分たち二人でも無謀なのには変わりなかったが、
「あっ」
タオは咄嗟にカバンの中からネクターの缶を取り出し、手が滑った振りをしてスタッフに向けて投げた。
スタッフは冷笑し、缶を拾い上げた。
もがく三村を掴んだまま、張が振り向いた。
「おやおや。そんな桃の果汁などが私達に効くという迷信を信じておられたのですか?あの映画は良い目くらましになったようだ。―――田川様、御同行願います」
タオも、フロントの向こうのドアに引きずり込まれた。