破邪の備え
湯に浸して絞ったタオルを、顔の下半分に暫く押さえる。
シェービングクリームを顔の下半分にたっぷりと塗り、そこにT字剃刀を当てる。
電気シェーバーもあったが、それだと音がする。
シェービングクリームを良く落とし、化粧水や乳液を顔全体につける。
手を流した後、今度は整髪料に手を伸ばした。
腰のあたりまである髪全体に馴染ませるのには、かなりの量を消費した。
無駄に爽やかな香りが、辺りに漂う。
居間に戻り、クローゼット前のハンガーにかけてあった三村の私服を適当にコーディネートしていく。
バッグの中から白い紐を取り出し、髪を下の方でひとくくりにした頃には、中華街の胡散臭いおっさんの面影はなくなっていた。
艶やかな黒髪、白い肌、紅をさしたような唇。
それでいて、切れ長の眼や高い鼻梁、そして首の下の筋肉がついた体格は。
一人の美丈夫と呼んでも差し支えなかっただろう。
「…行くか」
バッグを背負い込み、ふらつく足で、夜の闇へ消えた。
***
悪夢など見る余裕もなく、三村とタオは爆睡した。
朝の5時、先に目を覚ましたのは、三村の方だった。
タオを起こさない様に、昨日忘れたシャワーを浴びる為に居間の方へ出ると―――
「あーーっ!!あいつ、俺の服勝手に着てったわ!!」
その絶叫で、タオも目覚めた。
***
「あれみんな、高かったのに……」
20世紀最後の朝を、シャワーを浴びて尚三村は不機嫌に過ごした。
今年の秋に高い金を出して揃えた最新のコーディネートを、みんな持っていかれたのだ。
「でもこれで、厄介払い出来てよかったんじゃないすか?…あの怪物に、命を狙われる危険はなくなりましたよ」
昨日の事は忘れて、20世紀最後の一日を気分良く過ごしましょうよ、とタオは続けようとしたが。
「いや…まだやり残したことがある」
「やり残したこと?」
「あの野郎、一回フェラーリで轢いてやらんと気が済まない。あいつの話を信じれば、腕や足の一、二本吹っ飛んでも直ぐに生えてくるだろうし」
「…それで捕まらないかどうかは別問題として、何処に行ったか解りませんよ、あの人。あのヒイラギ屋敷だって、正確な場所覚えてないじゃないですか」
「そうじゃなくて、張は中華街にホテル持っているんだろ?其処で張に聞けば居場所ぐらいは解るんじゃないか
―――流石に、大晦日で泊り客も多い中で、あの化け物を出せないだろ。上手くいけば、テレカも返してもらえるかも知れないぜ」
「―――でも、先輩に何か話を持ち掛けていた気が。交渉の材料にされるかも知れませんね」
「いざという時の為に、何か対策を考えておくか」
***
「中華街では、明日の新暦の元旦より、旧暦の正月―――春節の方を、盛大に祝うんです。
春節の祝い方は、とにかく爆竹を鳴らすって方法が多くて―――ほら、大分から来たばかりの頃の先輩も腰抜かしていたじゃないですか。『長崎のお盆ってお墓で花火したり爆竹鳴らしたりするんだな』って」
大陸に近く、江戸時代には数少ない外交の拠点でもあった長崎には、オランダや中国などの異国の文化が根付いている。
中国では祭りの際などに爆竹がよく鳴らされるが、その影響を受けて長崎の精霊流しでも爆竹が鳴らされるのだ。
「張のホテル―――『広寒宮』でも、春節用に爆竹売っているコーナーがあるんですよ。万が一ホテル内で怪物が出たら、爆竹ぐらい鳴らしても正当防衛になるでしょう」
「で、その爆竹は何処で買うんだ?」
「この時期なら中華街の何処でも売っていますよ。新暦の正月でも爆竹鳴らしたい人はいますし。あと、効果あるかどうかわかりませんけど、念の為持っていきたいものが」
「念の為?」
「中国で吸血鬼といったら、―――やっぱりキョンシーでしょ」
***
『本日臨時休業』の張り紙が店の扉に貼ってあるタオの店。
その扉の内で、二つの影が蠢いていた。
「こんなにどーしたんだ?ピーチネクター」
「東京の親戚が送ってきたんですよ。店で出す訳にもいかないからちびちび飲んでいたんですけど、こんな形で使う日が来るとは」
「…どうやって使うんだよ」
「昔のキョンシーの映画で『桃の木で作った剣』でキョンシーを倒すっていうシーンがあったじゃないですか。桃自体に邪気を祓う効果があるらしいので、桃ならジュースでもいけるんじゃないかと」
三村とタオが小学校高学年の頃、とある映画によって空前のキョンシーブームが巻き起こった。
キョンシーのポーズは、その時代を知る者にとって共通の仕草である。
「だからって、キョンシーかどうかすら定かでないあの怪物にネクターぶちまけるのか?」
「映画のキョンシーって、大抵キン肉マンのラーメンマンみたいな恰好ですよね?あれは元々清の時代からの髪型と衣装で、それ以前の衣装のキョンシーってあんま出て来ないでしょ?
あいつは明から清へ移り変わるときの人だって言っていましたから、同時期に怪物の浸食が進み、その怪物が中国人によって『キョンシー』と呼ばれるようになったとしたら―――」
「―――効く可能性があるってことか」
「その可能性に、賭けてみたんです。
後、有効打として、先輩が持ってきてくれた鏡餅とお雑煮用のパックの切り餅。もち米も、キョンシーの弱点なんです」
「―――爆竹、ネクター、パック餠。これが、いざという時の武器って事でいいんだな?」
「『いざ』って時が訪れた時の為ですよ。あくまで、平和的解決が第一ですからね?」
恋人を迎えに行くために身だしなみを整えたそうです(巨爆)
新暦では爆竹鳴らす人はそんなにいないかも。
長崎ではお盆の際にお墓で花火をして、精霊流しは爆竹の音が響き渡るのは事実だそうです。
昔、キョンシー映画に嵌っていた子供が『ラストエンペラー』の紫禁城の官服を着た人達を見て『キョンシーの国』だと思った事があるそうです。
明以前の服装のキョンシーもいるそうです。