Vogel im Käfig
※唐突に詩が入る。
※企業名までも仮名。
※全部仮名なのをいいことに結構あからさま。
母上様、貴女は異教の誓いに惑わされ、私達の愛の誓いを踏み躙ったのです!
我が娘の幸福を拒む誓いを立てる母がいるとしたら、
その願いを聞き届ける《唯一神》などいないのですわ。
―――ゲーテ『コリントの花嫁』より
***
もう、空は真っ暗だ。
どこをどうやって帰ったのかは覚えていないが何とかマンションに辿り着き、駐車場に車を停めた。
「立てるか?」
桂花は、服が破れ、血で黒く汚れている以外は無傷の状態で足元がふらつかせながら歩いた。
「おいおいおい…他に人がいない時間帯でよかったよ」
(俺の見間違いでなければ桂花の奴、胸をぶっ刺されていた筈なんだが。こいつも、アレと同類なのか?)
自分たちの状態を探ろうと、三村が上着に手を掛けた瞬間。
「あ」
違和感に、気づいた。
「――――手帳が、ない!」
***
「胸ポケットに入れていたから、死なずに済んだのかも知れない。だけど、桂花が張の言葉に反応しなければ、そもそも朱の攻撃を受けていないと思う!」
桂花にシャワーを浴びさせている最中に、三村はタオに愚痴っていた。
「…手帳、見られたらマズいっすね」
「いや、そもそも見られてマズい事は書いてないつもりだけど――――挟んであったんだ」
「何を?」
三村敦宏は―――何処を見るでもない眼で呟いた。
「ひこ丸のテレカ」
「…!」
『ひこ丸』とは、三村敦宏の前所属であり、去年の元日まで横浜に存在していたサッカークラブ、横浜フォーゲルスのマスコットである。
元々は三村の生まれる遥か前、1964年の東京五輪を契機として横浜に作られた市民クラブであった。
1979年から大日本空輸から支援を受けるようになるが、徐々に市民クラブから『子会社』に変わりゆく体制に反発した選手たちがボイコット騒動を起こしたこともある。
1993年のJリーグ開幕に向けて新たにゼネコンの加藤工業を経営に参加させ、ドイツ語で『鳥』を意味する『フォーゲル(Vogel)』を冠して『横浜フォーゲルス』と称されるようになった。
同じく横浜をホームタウンとする日担自動車サッカー部を母体とする『横浜ピラッツ』とは、宿命のライバル関係でもあった。
三村は長崎のサッカー名門校・島見高校卒業後に東京の私大でプレーしていたが、当時の監督の誘いを受けて大学を中退してフォーゲルスに入った。
フォーゲルスは選手間皆が家族の様に助け合い、また『美しく勝つ』事を目標に掲げていたために三村は其処でチームメイトと共に楽園の様な時間を過ごした。
また、三村の1年後輩で同じくサッカー部だった地元・島見町のラーメン屋の息子、『タオ』こと田川道夫も、高校卒業後に横浜中華街で修業をしていたため、プロ入りした先輩である三村の試合を休日に観戦に行くことも可能であった。
タオもまた、いつしか横浜フォーゲルスそのものに魅了されていった。
それが暗転したのは1998年10月28日の深夜である。
日本代表に新監督が就任し、初戦の勝利に日本中が湧いていた最中の一報は、三村に入った。
『加藤工業の経営悪化により横浜Vからの撤退を表明』
『大日本空輸は単独でクラブを支える事は不可能と判断』
『横浜フォーゲルスは、ピラッツと合併する』。
一兆歩譲って『フォーゲルスの身売り』という判断なら、まだ許容できたかも知れない。
何故、よりによって、ピラッツと合併なんぞせねばならぬのか。
何より、何故選手にすら何の説明もなしにマスコミにリークされる段階まで話が進んでいたのだろうか!
双方のサポーターと選手の憤りは凄まじく、3日後の試合では三村ら選手たちが7-0のクラブ史上最多得点勝利の記録を打ち立てた後、サポーター団体がフロントとの対話を求めて深夜まで座り込んだ。
この時、主将の山内基弘の夫人らが中心となってサポーターにハンバーガーの差し入れを行い、タオはスタンドでそのハンバーガーを口にしている。
すぐにタオ達サポーターは行動を起こした。街行く市民に合併撤回の為の署名に協力してもらい、なんとしても愛するチームを護ろうとしたのだ。
この過程の中で、タオは、『広寒宮』のオーナーにして、ヒイラギ屋敷の主、張と面識を得たのである。
ホーム・三沢球技場の最終戦、当時の監督、ヘルト・メンゲルスは『誰でもいい、助けてくれ!』と絶叫し、
主将の山内基弘はセンターサークルへフォーゲルスのフラッグを突き立て、暫く其処を動かなかった。
『俺達の三沢を、汚させるものか』と言わんばかりに。
だが、決定が覆る事は、なかった。
フォーゲルスの運営会社である大日空スポーツは「親会社による決定事項」への当事者能力を持てなかったのだ。
12月2日、両クラブ合併の調印式が行われた。
Jリーグ閉幕後に開始された第78回サッカー天皇杯。
タオは
『フォーゲルスの残り試合、全部見届けたいんです!遠征、行かせて下さい!!休んだ分は全部出ますから!!』
と修行先の店に無理を言って遠征先までチームについていった。
福岡へ、鳥取へ、神戸へ、大阪へ。
いつの間にかフォーゲルスはその年のチャンピオンシップを戦った強豪の鹿島シュラインズとギュビリオ磐田の2チームを破り、1999年1月1日、国立競技場で決戦を迎える事となった。
試合は2-1の逆転で、フォーゲルスの勝利。
しかし、試合の最中、三村はこの様な異常な状況でなければあり得ない望みを抱いた。
『90分の笛が鳴る前に、同点にしてほしい』
『そうすれば延長戦、もしかしたらPK戦まではフォーゲルスで試合が出来る』
後で聞いた所、山内やタオも全く同じ事を考えていたと明かした。
しかし、時とは人よりもなお無常である。
90分で、全ての終わりを告げる笛が鳴った。
あの10月29日以降全ての試合に勝利して、栄冠を手にして、フォーゲルスはその歴史を終えた。
しかし、三村達が欲しかったのは、その様なものではなかった。
『有終の美』なんかいらなかった。
本当に欲しかったものは、手が届くところにあった筈だった。
***
さて、白い鳥は大日本空輸の鳥籠から出されぬまま、海に沈められた。
翼はあれど、鳥籠から出されなければどうにもならない。
フォーゲルスの練習場をピラッツが接収したので、練習場は今までと変わらなかった。
ピラッツでの初練習日、『染髪、ピアス禁止』が掟だったピラッツに、金髪とピアスといういでたちで現れたのは三村だった。
三村はピラッツでも頭角を現し、代表にも呼ばれるようになった。
しかし、ピラッツのサポーターから愛されたかというとさにあらず。
彼に押し出されるようにしてピラッツを去った選手たちのファンの一部からの怨嗟。
『元フォーゲルスの選手…来たからには応援するしかないか』という大多数のピラッツサポーターからの腫物扱い。
タオも、フォーゲルスへの思い入れが強すぎた事と、独立に向けての準備が忙しくて、ピラッツのサポーター集団の中には入る事が出来なくなった。
自分の店を持ったことによって、タオの足はサッカーそのものからも遠のいた。
『2年経ったら海外に移籍させる』というスライド加入時の条件も、有耶無耶になった。
―――三村の、サッカーの場面での笑顔が減っていったのは、それからである。
だから、『ピラッツを出たい』という意思が先行する形で松見の誘いに乗り、ベルデと共に東京へ移ろうとした矢先に、この騒動だ。
「桂花さんが…言っていました…。シャワーを浴びたら、今まで隠していた事…信じて貰えないと思うけど…全部話すって…」
唐突な『コリントの花嫁』は、実は吸血鬼の話だったりします。
古代ギリシャの神々を信仰していた娘は、(当時新興宗教であった?)キリスト教に『惑わされた』母の病気を治す為に生贄として殺されたのですが、(母子間の宗教上の相違の為に?)吸血鬼として復活してしまいます。
ゲーテの時代に『キリスト教側(母)を悪役として書く』のは、結構勇気がいるのでは。
副題の『Vogel Im Kafig』は、『籠の鳥』という意味で、進撃のサントラから取りました。
いい曲ですので、一度お聞きくださいませ。
和訳はこちらです
ドイツ語で『羽毛』を意味する『フェーダー(Feder)』でフェーダーズと言うのも考えたんですが。
『羽毛』ってなんか弱そうだし、フォーゲルの方が『本来の名称、というか響き』に近い気がしたので。
頭文字変わっちゃったけど。
Jリーグ以前のボイコット云々は削るかどうか迷いましたが、『元々は市民クラブだったものが、ある企業の手によって…』と言うのを書きたかった。
タオの申し出は、果たして労基法(当時)で許される者だったろうか。