嫦娥奔月
会計を済ませ、店を出る。
少し離れた駐車場へ向かっていたその時。
「やあ、タオ」
「あっ、朱さん!!」
『朱さん』というその男の元へ、タオは駆け寄った。
「タオ、誰だその人?」
「朱さんはねえ、中華街では有名な大工さんで、俺の店のデザインもこの人が考えたんですよ!」
三村は後輩が世話になった朱さんに挨拶をする。
「はじめまして、横浜V・ピラッツの三村敦宏です。こいつは高校の後輩です」
「はじめまして、三村選手。朱と申します。確かシドニーオリンピックやアジアカップにも出場されていましたよね?それで独特のフリーキックを得意としているそうで。TVで見ましたよ」
「ええ。朱さんはサッカーよく見るんですか?」
「見るというか、結構サッカーファンの方とよくお話しする機会が御座いますので」
「へえー」
その時、朱が桂花の方を見て様子が変わった。
「桂花さん…!」
名を呼ばれた桂花は、警戒したように視線を向けた。
「何だ?」
「貴方の噂は聞いています。生き別れの恋人を探しているんですよね?」
桂花は、表情を崩さなかった。
「―――彼女の行方について、噂で聞いたのですが」
一瞬、桂花の瞳が紅く輝いたように―――三村には見えた。
「中華街の、広寒宮にいるそうですよ」
『広寒宮』という単語に、今度はタオが反応した。
「また、『広寒宮』か…あそこか…」
「なんだ、何に反応したんだ?」
「広寒宮ってのは、中華街の中にある立派なホテルです。経営者は河南省の張さんって人で、俺も前に『署名』を集める時に世話になった人なんですけど、変な噂が多くて…ホテルに地下通路があって、何処だかへ続いているだとか、張さんらしき人を何十年も前から変わらない姿で見ていると主張する人もいるんですよ」
「何十年も?もし本当だったらそいつこそ、巷を騒がせる吸血鬼とやらじゃないのか?」
三村は、冗談のつもりだった。
しかし。
「三村選手、吸血鬼騒ぎとは何のことですか?」
朱は聞き逃さなかった。
「あ…。えっと…最近、中華街の近くのあちこちで変死体見つかっているじゃないですか!こいつの店に神奈川県警の鑑識って人が食いに来て、その人によると『死体はみんな水分が抜けてミイラになっていた』そうです!…俺は本気にはしていませんよ??」
嘘である。
話している内に、桂花が対峙していた異形の事を思い出したのである。
一般的に、吸血鬼とは人とあまり変わらぬ容姿をしているとされる。
しかし、あの、人とは遠くかけ離れた異形は、自分に何をしようとしていたのであろうか?
よもや、この事件の犯人は人ではなく――――
(そう言えば、こいつも謎の中国人どころか人間かどうか疑わしかったんだった!!)
三村は桂花に疑惑の眼を向けた。
「―――鑑識の方が、仰っていたのですか?」
「は、はい」
「本当は捜査に関する情報は機密事項でしょうが、あえて話すという事は真実なのかもしれませんね」
「えっ」
「―――今から、張さんの別邸にご案内致します。少々遠いので、今日はお車ですか?」
「あっはい。良ければ、道案内お願いします!」
***
真紅のフェラーリが、黒いスカイラインの後をついていく。
フェラーリの運転手が、助手席の人物に尋ねる。
「なあ、『広寒宮』ってどんな意味なんだ、タオ」
「広寒宮というのは、中国の伝説で、月の中にあるとされる宮殿の事です。月の女神とされる嫦娥や、臼と杵で薬を作っている兎、月に生えている桂―――中国だから金木犀ですね―――の大木を伐り続ける呉剛などが住んでいるそうです」
「えっ、月にいる兎って餅つきしているんじゃなかったのかよ」
「それは日本に伝わってからの話ですね。中国では、不老不死の薬を作っているという話になっているんです。それを飲んで、月に登ったのが嫦娥です」
「嫦娥?」
「桂花さん、恋人の事を『嫦娥がこの地上に舞い降りたかの様』と言っていたんですよ。
嫦娥というのは日本で言うかぐや姫みたいなモノです。中国の神話では、元は仙女で、羿と呼ばれる弓の名人の妻になったんです。
一方、最高神の天帝は10人の太陽神を息子に持っていました。
彼等は交代で一日に一人ずつ地上を照らす役目だったんですが、ある時、10の太陽が争い合うようにいっぺんに現れるようになってしまったんです」
「太陽がいっぱい…暑そうだな」
「暑そうどころの話じゃないですよ。作物もみんな枯れて、人間が蒸発しそうになったそうなんです。このままでは全ての生物が死に絶えると考えた天帝によって地上へ遣わされた羿は、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたんですが、効果がありませんでした。そこで仕方なく、一つを残して残りの九つを射落としました。その後も羿は中国各地で怪物を退治して民に慕われていたんですが―――天帝に嫌われてしまったんですよ。『儂の息子達を殺せとは言っていなかった』ってね」
「理不尽な話だな。元はと言えば天帝の教育不足が原因じゃないのか」
「とにかく、天帝の不興を買ってしまった羿夫妻は神としての地位を剥奪され、天に戻れなくなってしまったし、神の特権である不老不死すら奪われてしまいました」
「不老不死だったものが不老不死じゃなくなるって、酷いな
―――まるで、何処かのサッカー協会みたいな神様だ」
そう言った三村の瞳は、タオには酷く恐ろしいものに見えた。
「げ、羿は西王母という仙女のボスみたいな人に頼み込んで、月の兎が作った不老不死の薬を特別に二人分分けて貰ったんですが、それは天に帰るには不足でした。其れが悲劇のもとになったんです」
「天に帰るには不足?」
「一人分だと、不老不死に戻れるけど天には帰れなくて、二人分飲んでしまえば天に帰れるようになるになる分量だったんです」
「天に帰れても、どちらか一方は置き去りだよな、何れ死ぬ身で」
「羿は『天に帰れなくても、嫦娥と二人時を重ねられるなら』と二人で分け合おうと考えていたんですけど、嫦娥は『こんな穢れた地上には一日たりともいたくない』と、望郷の念を募らせていきました。
そして、旧暦の八月十五日、月が地球から最も美しく見える夜の事です。羿が一晩かけて狩りに行っている最中に、嫦娥は薬を飲み干してしまいました」
「夫よりも、天上をとったのか」
「さて、嫦娥の体はふわふわと漂い、天に帰る前に一休みしようと、月へ降り立ちました。
―――しかし、月へ降り立ったその瞬間、彼女の身体に異変が起こりました。
肌の色が変わり、
イボだらけになり、
髪は抜け落ち、
口が裂け、
背がひしゃげ、
腹がせり出して。
―――嘗て美しかった仙女は、今や巨大なメスのヒキガエル。
それっきり、跳躍してみたって天へは帰れません。
夫の所に戻ろうとも、地球へ飛び降りる事も出来ません。
西王母は、夫を裏切った嫦娥を罰したんですよ。
画して天に戻る機会を永遠に失った羿は、『こいつを殺せば俺が世界一の射手』と考えた弓の弟子に殺されたそうです。
嫦娥は今尚月から動けず、醜いヒキガエルのままで死ぬ事も出来ずに。嘗て羿と過ごした、みすぼらしくも幸せだった日々に想いを馳せているそうです。恐らく、これからも、ずっと」
「…桂花も、何でそんなのに自分の恋人を例えるんだ。自分を嫌いになって目の前から消えたわけではないと解っているんだろ?」
「やっぱり、何処の国でも蛙よりは美女の方がいいに決まっているからじゃないですか」
と言った瞬間、彼等の前を走るスカイラインが小道に入った。
「随分と山の中だな」
***
さぞかし豪華な宮殿の様な別邸を想定していたのだが。
「…平屋じゃないか」
「本当のお金持ちは平屋が一番だそうです。にしては、随分と質素な作りですね―――まるで、昔の中国のお屋敷に、元町の洋館のテイストをプラスしたみたいです」
フェラーリを降りると、桂花と少し違う花の香りが辺りに漂っているのに気づく。
「なんだろう、これは」
邸の生垣は、辺り一面鋭い、棘を持つ葉に覆われた白い花が咲き誇っていた。
タオが、白い花に近寄る。
「これは…柊ですね。桂花と同じモクセイ科だから、香りも似ているそうですよ。葉がトゲトゲだから、外敵が入らない様に、こうやって生垣や魔除けにするそうです」
「その割には、この時期なのに赤い実がついてないじゃないか」
「あれは西洋ヒイラギといって、別の植物です。しかし、変ですね。こっちの柊だって、こんな年の瀬の横浜でにまだ枯れ朽ちずに咲き誇っているなんて」
「えっ、冬に咲く花じゃないの」
「冬に咲く花といっても、せいぜい11月が限界の筈ですよ」
「ああ、御三方。今からご案内致します」
朱は、邸の扉を開けた。
***
「一応邸の主が中国人ですので、靴は脱がなくて結構です」
朱は、少し前へ進む。
「外観は質素ですが、中は上品ですね」
「中国人の建てる家って、もっと派手なものだと思っていたんだけどな」
「調度品もマッチしていて、成金趣味な所が微塵も感じられないです。中国に皇帝が居た頃の貴族達は、こういう家に住んでいたんでしょうね」
話しながら進む二人を尻目に、桂花は車を降りた時から落ち着かない様子だった。
「よんでいる…かんじる…きこえる…」
道をそれようとする桂花の腕を、朱が引いた。
「そっちじゃなくて、こちらです」
桂花が信じられないものを見る目を見開いた。
「ここです」
朱が扉を開き、先ず桂花が飛び込み、三村とタオがそれに続いた。
―――次の瞬間、部屋の床が抜けた。
中国サッカーの悪評は、私の記憶が確かならアジアカップ2004からで、それ以前は特に何も言われていなかった筈。これは2000年の話なのでアジアカップはレバノンでやった奴です。
横浜中華街に『広寒宮』という店が実在したらごめんなさい。
美形(男女問わず)がモンスター化するTF、結構好きです。
中国では『多層住宅に住むのは貧乏人』という考え方があるようです。
乾隆帝が西洋人にヨーロッパの邸宅を見せられて『空中に住むなんてヨーロッパは土地不足なんだな』と言ったとか。
元町、実は昔行った事あります。
洋館で世紀末美術や薔薇に耽溺しました。
そのテイストも反映させたかったのですが、何分力不足。
この邸の柊は「ヒイラギモクセイ」と言って、クリスマスのアレとは別です。
節分にイワシの頭を刺したりするやつです。