終章
次に三村が目を覚ましたのは、中華街からほど近い病院のベッドの上である。
辺りが眩しいから、目を凝らすと、太陽が天空に輝いていた。
―――どうやら気を失っている間に、21世紀になってしまったらしい。
山下公園の汽笛も、結局聴けなかった。
「うわ~~~~ん、もう!!先輩のバカバカバーーーーカ!!!こっちはもう目を覚まさないかって思ってたんですよ!!!」
三村が身を起こしたと同時に、タオが抱きついてきた。
三村がタオに先ず問うたのは。
「タオ…桂花達は何処行った?」
無論、タオに解ろう筈はないのだが。
「俺にはわかりません。
だけど、何か大きな悪魔みたいな翼を持った長い髪の人が、女の人をお姫様抱っこして飛んで行った様に見えました…見間違いだと思いますが…」
三村は、「じゃあ、あいつは逢えたんだな、自分の最愛に」と笑った。
「それと」と、タオはある物を三村に提示した。
「先輩を搬送した救急隊員の人に聞いたんですが、先輩は焼け跡じゃなくて現場から少し離れた場所で見つかったそうなんです。その時、手に握りしめていたのがこれだそうで」
タオが提示したのは、炎の中に永遠に失われたと思った、ひこ丸のテレカだった。
端の方が少し焦げているが、ひこ丸の部分は無事だった。
「―――ニュースでは、何て」
「ちょっと待っててください。一面トップですよ」
タオが、鞄から神奈川新聞を取り出す。
「31日夜、中華街の老舗ホテル『広寒宮』のロビーから出火、ビル全焼。死者6名、負傷者30数名。ホテルのオーナーの張と建築家の朱が行方不明。また、同時刻に張氏の自宅も全焼。こちらは遺体は発見されず、無人であった物とみられる。神奈川県警は、出火の原因を捜査中―――だそうです」
「やっぱり、あの怪物については触れないんだな」
「でしょうね。全国紙もみんな調べてみたけど書いていませんでした。
増して『現役のサッカー日本代表が火災現場の近くで、しかも所属していた、消滅した横浜フォーゲルスのユニ姿で倒れていた』なんて、何処にも書いていませんでしたよ」
「書いていたら、今頃この病室にはマスコミや警察が詰めかけていたと思うぞ」
と、TVからサッカー天皇杯のアンセムが流れた。
画面を見ると、紅いユニフォームの選手が、三村達が丁度2年前に掲げた銀杯を空高く掲げていた。
「三冠とか鹿島、強すぎ!」
三村は、思わず呟いた。
***
消防が駆けつけた頃にはホテルもヒイラギ屋敷も皆炎の海で、焼け跡からは怪物の死体も、張や朱と見られる死体も見つからなかった。
当然、『屋上から現場を後にした長髪の中国人』も見つからず。
神奈川県警は出火の原因を『ホテルのショップで販売していた爆竹への引火』と断定。
市内の通り魔事件を含む一連の事件は全て迷宮入りの扱いとなった。
プロサッカー選手の三村敦宏が当日現場にいた事はとうとう報道されずに終わった。
というかそもそも、三村が入院していたという事実も報道されなかった。
三村は幸い、手の擦り傷と額に軽い切り傷を作っただけで、仕事に響く様な怪我はしなかった。
***
そして、21世紀も20日ほど過ぎた後。
もうすぐ行われる中華街の旧正月も、年末のホテル火災によって、爆竹は行政の指導で自粛気味らしい。
その中華街から少し離れたところで再開した、小さな中華料理店で。
店主らしき男が、電話をかけている。
「先輩、スポーツ紙見ましたよ。ベルデでも頑張ってくださいね!!」
「ああ。あの騒動で自覚したよ。俺、ピラッツに余程いたくなかったらしい」
横浜V・ピラッツ及びベルデ川崎改め東京ベルデの両チームは、三村敦宏の完全移籍を発表した。
ピラッツとベルデはJリーグのプロ化以前からの因縁のライバルチーム同士で、この両チーム間の移籍は今尚一種の禁忌と思われている。
新体制発表も終わってキャンプイン目前の移籍発表にベルデサポーターは歓喜し、ピラッツサポーターは懊悩した。
合併という名の消滅でライバルチームだったフォーゲルスから流入した彼がようやくピラッツに馴染んだという段階でのもう一つのライバルチームへの移籍はピラッツサポーターにとって激しい憎悪を引き起こした。
事実、開幕までに三村の穴を埋める事が出来なかったピラッツは、前年のステージ優勝から一転、J1残留を賭けた争いを繰り広げる事となるのである。
「先輩、そう言えばあの後図書館行って調べたんですけど」
「何を?」
「あの張のバケモノ邸に行く途中で話した嫦娥の話。異説があってですね」
「異説?」
「嫦娥は夫を裏切ろうとしたわけではなく、不老不死の薬を狙った羿の弟子に薬を渡すように迫られて、咄嗟に全部飲んで仕舞ったらそのまま独りで空中へ舞い上がってしまいました。
それでも夫を見守る為に月に留まる事にしたそうです。
羿は帰ってきた後で事の次第を知らされて、月まで追いかける事も考えたんですが薬が地上になくてはそれも出来ず。
嫦娥がいる事で美しく輝いている月を眺めながら考えた羿は、せめて妻の好きな食べ物をと、毎年旧暦の八月十五日に果物を月から見える場所にお供えするようになって、それが中秋節―――お月見の起源だそうです」
「成程、それなら嫦娥は男が夢見るに値する存在だな」
三村敦宏は、納得したとでも言いたげな声を出した。
***
同時刻横浜市某所、サッカーの練習場。
その横を通り過ぎる男女の姿があった。
ふと、男の方が立ち止まり、ピッチ上の選手たちをしばらく見つめた。
やがて長髪を下の方でまとめた、色の白く鼻梁の高い、切れ長の眼を持つ男はその隣を歩く、輝く瞳を持つ美しい女の怪訝そうな顔に気付いた。
「失礼、先を急ぎましょう。町田…でしたよね?」
男は女をコートの中へ抱え込み、水色の旗が立つ練習場を足早に立ち去っていった。
男が見ていたチームの名は、横浜FSC。
消滅を余儀なくされた横浜フォーゲルスのサポーター有志が立ち上げ、
この2001年度からJリーグに加盟するチームであり、
―――後に、三村敦宏が現役を終えるチームである。