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広寒宮-横濱奇譚-  作者: はぐれイヌワシ
10/13

蹴鞠


「おや、もう息が切れてきたのですか。貴方の戦える時間は、そんなに長くない。私の様に、戦闘形態へ変化する事もままならないのでしょう?」


肩で息をしながら、桂花が返した。

「そのキメラの様な面が、貴様の全力か」


朱は、顔半分が人間で、もう半分が異形であった。

「まるで、何もかもが違う生き物を無理に組み合わせた―――木に竹を接いだ様な異相だな」


その時、入り口に数人の気配を感じ、桂花も朱も振り返った。


「朱よ。手負いの野良犬にすら止めを刺せぬか」

張の声だった。

背後には、三村とタオが腕を捩じりあげられている。


(まさか、地下通路の話が本当だったなんて)

タオが、切れ切れに三村に囁く。

(ああ、しかも超高速トロッコつきなんてな)


「こちらは昨日の二人を捕えたというのに、やはりお前は出来損ないなのか」

朱は、反論するでもなく哀しげな顔をする。


張は、拘束していた二人を床に叩きつけた。

「…気を失ったようだな。こいつらは何時でも殺せる。繭を護っているというだけでも邪魔者なのに、漢族の誇りを損ねたお前にはどうしても死んで貰いたいのだy―――」


張の台詞が終わらない内に、桂花が張の胸を裂いた。

辺りに鮮血が舞ったが、張の動きは止まらない。


張が服の袖で血を拭った。

服と鮮血の下にあったのは――――

白い乳房と白い喉。

その柔肌に、傷は、なかった。


「女―――!?」

桂花がひるんだその隙に。

張が右腕を―――異形のそれに―――変化させた。

「お前の真の名を知る私が、只人のままだとでも思っていたのか?」


桂花は後ずさりする。大分消耗したらしく、反撃の様子はない。

張は、ゆっくりと踏み込む。

「朱、手出しは無用だ。私が人だった時、何と呼ばれていたか今一度教えよう。大明帝国皇帝・熹宗が后―――懿安皇后だ」



熹宗。

懿安皇后。

桂花はふたつの号に、聞き覚えがあった。


無論その号の持ち主たちとは、直接の面識はない。

桂花が出仕したのは熹宗の次の―――彼の代で明は滅び去った―――毅宗である。


熹宗の称した年号は、『天啓』という。

桂花の父は、天啓年間に出仕している。


父から聞いた話によると、

『熹宗は政事に興味を示さず、その乳母と心の一等ねじくれた宦官とが政事を壟断している』らしかった。


「私は、女としては珍しく書を読むのを好んでな。父に何度言われただろうか、そして私自身幾度思ったろうか。

『男に産まれていれば』、と。

それならば、あの字も碌に読めぬ皇帝や宦官共、宮女共に心を煩わされる事もなかっただろうに」


ああ、そういえば

『懿安皇后はその宦官や乳母の不正を詰ったが故に苦しめられ、帝との御子も流されてしまった』

という噂話も聞いた。


「大工の様な仕事にしか興味を示さぬ皇帝が崩じた後、私は遺命を踏み躙ってその弟に明の希望を託した。彼もその兄と同じ、学問に碌に触れられぬ環境にあったが、私の書に興味を示し、学問に触れた唯一の弟だったからだ」


毅宗があれだけ明の復興に尽力していたのは、よもや桂花の面前に居る女の影響か。


「彼は神宗の頃に半ば滅びていた明を甦らせようと足掻き続けた。

件の乳母と宦官を真っ先に駆除し、清廉の士を呼び寄せた。

―――彼が私そっくりの側女を寵愛していると知った時は密かに笑ったがな」


そうだ、毅宗はあの救い難い国を本気で救おうとしていたのだ。


「だがな、私と彼以外―――呉三桂、お前もだぞ―――はほぼ、腐り切っていた。

だから皆が同じように腐って見え、良果すらも刻んで棄ててしまったのだ。

そして悪い箇所をすべて取り除こうとしたら、明は臓器の全てを失った」


癌細胞で身体を維持していた訳か。


―――桂花も、張も、朱も、床に叩きつけた三村が目を覚ましたのには気付かなかった。



「そして、あの崇禎十七年三月十九日。闖賊が北京に入った日の事だ。

自分の女達には自害を命じ、皇女を自ら斬り捨てた彼はどうやら私には誰よりも安らかな死を願っていたようなのだが―――どうやらそれは宮中で闖賊に通じた者達の為に捻じ曲げられたようだ」


それは、どういう事だ。


「その女官は、『陛下から賜りました、全く苦しまずに逝くことの出来る毒杯』で御座いますと称して、金の盃に入った真紅の液体を捧げ持ってきた。

私は『苦痛なしに死なせてくれるとは!』と彼に感謝しつつ、盃を一気に呷り

―――この様だ。

光宗の一件で紅い薬は信用出来ぬものと、覚えている筈だったのに」


そう言えば光宗は、紅い丸薬で死んだという話を聞いた事がある。


「暫くすると、私は目覚めた。死に損なっただけだと、私も最初はそう思っていた。

闖賊の慰み物になるまいと、纏足を解き、男の姿をしてひとり後宮を抜けた。

暫くして我が身が空腹を訴えない異常と、眠気の来ない異常を感じた。

しかし焼けつくような喉の渇きの正体に気付くのは、時間がかかった

――― 一晩かかって実家に戻った際、闖賊の手下に殺された父の屍の血を夢中で掬って飲み干してしまうまでは」


自覚の無いままに初めて血を喰らう際には、そういう悲劇が付きまとうんだな。

俺もそうだった。


「そしてその時、自分の纏足が何時の間にか天足に戻っている事に気付いた。其処で漸く、あれは死を齎す毒薬ではなく、死を奪う毒薬であったのだと悟った。

初めは『帝は私を殺すに忍びず、その逆を選んだのか?』とも思ったが考えてみれば『その様な薬が紫禁城にあるなら光宗の死は何だったのだ?』となって、その推論はなしになった」


確かに、そんな薬が宮中にあったら、まず帝が飲んでいるよな。


「闖賊の兵士に紛れ込み、嘗ての明臣達の血を啜って私は永らえる事にした。

何せ彼等の軍は神宗の愛児の血肉を兵士に喰らわせた男を擁いていたのだから、私が飢えることは無かった。

女に狂ったお前の手引きで清が北京に入った後は、髪を剃りたくなかったので落ち目の闖賊を離れ、揚州に身を寄せた」


揚州とは、まさかとは思うが。


―――三村が身を起こし、コートを脱いでもまだ誰も気づかない。


「揚州には、南京で自ら擁立した明の皇族によって更迭された男が一人、清に抵抗を続けていた。

私はその軍中に身を投じ、『無傷の兵士』として他の兵の尊敬を集めた。

―――実際は、幾ら傷ついても陣に戻る頃にはその傷が失せているだけだったがな。

ある時、戯れに瀕死の兵に私の血を飲ませた事があってな

――― そいつは最初、一瞬にして傷が失せたが、やがて理性、知性、記憶そして人の姿をも失って、敵味方関係なく血を喰らった。

悪い事に、そいつが人で無くなるまでは時間があったから、私は自らの血で兵士を癒すどころか内部崩壊を引き起こしてしまったのだよ」


張――懿安皇后は、自嘲するように云った。


「そう、『嫦娥の薬』とはまさに私の体内を駆け巡る血液の事だったのだ!

しかし、私もこの通りヒキガエルの様な姿を持つ事になってしまった

―――お前の有様を見る限り、私が口にした『薬』とお前が口にした『薬』は別物なのだろう。そして、お前の『薬』の原料は―――この、繭の中にあるのだろう!?」


張は、繭に爪を掛けた。

桂花はしかし、動かなかった―――否、動けなかった。


「だからお前はこの繭ばかりを後生大事にしていた。

繭の中の何者かの血が―――お前を20世紀まで生き永らえさせたって事だろう?或いはこの中身はお前を狂わせた女か?

これを部下に命じて持ち去れば、お前は必ずやって来ると確信した。

そしてお前を捕え、その生命の秘密に触れた後に―――繭の中身共々、始末する」


もう、抵抗する体力はなかった。


「なに、始末する方法は知っている。揚州で、清軍が実践してくれたものな!

首を刎ねるか、焼き尽くして灰にしてしまえばもう蘇ることは無い。

しかし清軍はどれが人に化けた異形であるかを見抜く術までは知らなかったから、異形の存在を確認した城塞では、全てを殺戮していく他なかったらしい。

揚州十日、嘉定三屠、庚寅之劫…。どうやら私が身を潜めた所以外でも、あのまがい物の『薬』は漢土に拡散していたようだ」


誰が拡散したのだ、そんな劣化版を。


「明の皇統が全て途絶えるまで、私は男装のまま一人彷徨った。お前が昆明で最後の一族を殺した後は観念して、頭を剃った。

だが、清を滅ぼして明を復するという希望は失ったわけではない。密かに研究を重ね、私の『薬』は服用者一人一人の体質に沿って作用する事、体質が合う者なら『薬』の量を間違えなければ従順な兵が出来る事を悟った」


―――白い服装に身を包んだ三村が、鞄を探っている。



「地下で『反清復明』を唱える組織は絶えた訳では無かった。幾度も複数の男の姿を借りて、その組織を陰から一つに纏め上げ、抵抗を続けた。

清も清で、我等に対抗するために極秘に部隊を組織していたようだがな。

西欧の教えを曲解した男の元で、女状元として政策を纏める事もあったが、その男は『教え』に縛られ、手玉に取られ、ついに私の理想郷すら叶えてはくれなかった」


円明園に拠点を持っていた―――そして円明園と運命を共にした―――血滴子が戦っていたのは、こいつだったのか。


「大陸内での活動に見切りをつけ、此方に移ったのは丁度日本が港を開いたからだ。人もまばらだった漁村がまあ、よくもここまで成長したものだ。

同胞相手の旅館事業を拡大し、革命を掲げた男を内密に支援したが

―――その男が清を地上から消したと思ったら、王朝そのものも中華の大地から消してしまった!!」


―――この街の、全てを見てきた訳か。ならば、俺達を嗅ぎ付けるのも訳はなかったのも無理はない。


「さあ、最早あの紫禁城は観光客相手の時代遅れの宮殿だ。

生きる目的を亡くした私は唯、この『広寒宮』で醜く姿を変えた嫦娥の様に、今はもう何処にもいない羿の為に『薬』を生成して、異形の子分共を造り出しては悦に浸るだけだった

―――お前らの所在を知るまでは、な。

***よ。この繭の中身こそが―――明も清も敵に回してまでも我が手に囲い込もうとした女か?」


頷くことも、首を振る事も出来なかった。

このままでは、活動が停止してしまう。


「まあ、構わない。

この繭こそが―――私をはじめとする人々を修羅に追いやった異形の頂点だとしたら、お前は其れを守護するための最強の下僕なのだろう。

だが、その下僕は血を失い、虫の息だ。

今こそ私がお前らの全てを手にする時だ。その時こそ、私が完全な存在となる時!

お前らを始末すれば、私一人が完全なる存在だ!

お前は父を殺し、祖国の希望を潰し、子を殺し、一族を絶やした男。

そしてこいつは存在自体が災厄の様な繭。さあ、災厄の時は終わりd――――」


桂花の頸動脈に爪を振り下ろそうとした張の耳に、風を切るような音が背後から入った。


予想外の攻撃?に張が顔を上げると、



その鞠は、


左右に揺れながら、



桂花の首と張の手の間に挟まった。





「鞠…!?」


張が後ろを向き、桂花が顔をやっとの事で上げると、




其処には、横浜フォーゲルスの白いユニフォームを身に着けた三村敦宏が立っていた。


額からは血が流れているが、それでも彼等の方を睨みつけていた。



天啓帝兄弟は父・泰昌帝が万暦帝に半ばネグレクト喰らっていた事から碌な教育環境がなかったそうで。

(というか崇禎帝に至っては母親が父親のDVで殺されているみたいだし)



光宗の紅い丸薬のレシピがアレだった。


清があちこちで大虐殺を繰り広げた真相だったりして。

異形の存在を隠すしかないからみんなまとめて殺すしかなかった。


反清復明の組織は、結構な数があったそうですが、別々に動かしていたそうです。

太平天国では、男女平等が唱えられたらしく、女性の状元が様々な政策を打ち立てたとか。


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