★☆★プロローグ★☆★
その日は朝から曇り空だった。
窓を開けると、どっと冷気が押し寄せて熱を奪っていく。私は、ひとつ身震いをすると静かに窓を閉め、マッチを擦って石油ストーブに火を灯す。しばらくはストーブの前で暖をとっていたが、部屋が暖まり出した頃、朝食の準備のためにおもむろに腰を上げた。
今日の朝食は、白いご飯にワカメとジャガイモの味噌汁、白菜の漬物、鮭の切り身である。夫が生きていた頃にはもう少し手の込んだ料理を作っていたと思うが、私ひとりのために時間をかけて料理をする気にはなかなかなれない。
簡単な朝食を食べ終えると、急須に茶葉を入れて、沸かしておいた湯を注ぎ込む。朝食を食べている間に、ちょうどよい温度まで下がっていた。緑茶に限っては、熱湯よりも幾分か冷めた湯で煎れると深い味わいが生まれるのである。それは、日本に渡ってきたばかりの私に、義母が最初に教えてくれたことであった。あれから、もう40年が経つ。私の赤茶色の髪にも、白髪が目立つようになってきた。
空になった湯呑に、2杯目のお茶を注ごうと急須に手をかけた時、
「おばあちゃん!」
がらりと玄関の引き戸が開けられたかと思うと、元気のよい声が家中に響いた。
「メリークリスマス!」
幼い女の子が駆け寄ってくる。孫娘のレナだ。その後ろからは、レナの4歳離れた姉であるアリサが顔をのぞかせた。
「あら、まあ。アリサ、レナ。いらっしゃい」
私が笑いかけると、レナは屈託のない笑顔で私に抱きついてくる。それを見つめながら、アリサもはにかんだように笑った。
「お父さんとお母さんは?」
私が尋ねると、
「用事を済ませてから来るって言ってたよ」
アリサがそう言った。
「どうかしたのかい?」
どこか難しい表情のアリサが気にかかり、そう声をかける。
「アリサ?」
「たぶん、クリスマスプレゼントを買いに行ったんだよ」
「ああ、今日はイブだものねえ」
「なに言ってるの?」
私とアリサの話を聞いていたレナが、声を上げる。
「クリスマスプレゼントは、サンタさんから貰うものでしょ?」
その言葉に対し、アリサは盛大なため息を漏らした。
「ほんとに、レナったら子供なんだから」
「なに、それ? お姉ちゃんだって子供じゃない!」
「レナほどじゃないよ。サンタなんか信じてるんだもん。それが子供の証拠だよ」
「お姉ちゃんの言うこと、わからないよ。だって、サンタさんはいるもん。毎年プレゼントくれるもん!」
「だから、それを今、パパとママが買いに行ってるんでしょ!」
「ちがう…ちがうもん! サンタさんはいる! お姉ちゃんの嘘つき!」
「あ、レナ…!」
私の呼びかけにも振り向かず、レナは玄関の戸を開け放ったまま外に飛び出してしまった。
「アリサ…」
私が声をかけると、咎められるとでも思ったのか、アリサの肩がわずかに震えた。私は、その肩にそっと手を置く。
「アリサ、どうしてあんなことを言ったの?」
「だって…サンタなんか、いないから」
「どうしていないなんてわかるの?」
「いるわけないもの」
「おばあちゃんはそうは思わないよ」
「もういいよ、そういうのは!」
突然の大声に、私はアリサから手を離した。アリサは私から目を背けると、叫ぶように続ける。
「パパもママも、おばあちゃんも…みんなさ、子供に夢を与えようって頑張ってるのはわかるよ。だけど、いないものはいないんだよ! どうせいつか壊れるんだから、そんなものいないって早いうちに知ってた方がいいと思うの」
「アリサ、落ち着きなさい。いったい、どうしたの?」
「…一昨年のクリスマスの日にね、枕元にプレゼントが置いてあったの」
一度叫んだことで少しばかり落ち着きを取り戻したらしいアリサが、一昨年のクリスマスの思い出を語り始めた。
「私、その時までサンタを信じていた。でも、本当はいなかった。そして、パパとママに騙されていたことを知ったの」
「騙されてだなんて…アリサ、なんでそんなことを…?」
「だって、騙されていたんだもの。いないものをいるように思わせられてたんだよ?」
「その時のクリスマスプレゼントに、なにか嫌なものでも入っていたのかい?」
「…レシート」
「え?」
「プレゼントの袋の中にね、レシートが入っていたの」
真剣な表情のアリサには申し訳ないが、私は思わずくすりと笑ってしまった。だが、すぐに笑顔を引っ込める。幸いにも、アリサには気づかれなかったようだ。
「それは、お父さんとお母さんが悪いねえ」
「だから、私はクリスマスが嫌い。パパとママは、私がまだサンタを信じてるって思ってるんだよ? だから、今日だって、こそこそと2人で買い物に行ってるんだから」
「アリサはいい子だねえ」
「え?」
「嘘だってわかっていても、信じてるふりをしてあげてるんでしょう? お父さんとお母さんのために」
「……」
「なのに、どうしてレナにはあんなこと言っちゃったんだろうねえ」
私は、アリサの頭を優しく撫でた。すると、先ほどまでの喧々とした表情が和らぎ、アリサがはにかんだように私を見上げて言う。
「おばあちゃん、私、レナを探してくる」
「そうだねえ。おばあちゃんも一緒に探してあげるよ」
「うん…」
「大丈夫だよ。そんなに遠くには行ってないだろうから、すぐに見つかるよ」
「うん!」
そうして、私とアリサは家を出たのだった。
「レナ…ごめんね」
「うん…」
アリサが謝ると、レナはすぐに機嫌を直したようだった。
レナはすぐに見つかった。
レナの足では遠くに行くことはできないだろうと思ってはいたが、遠くどころか家の敷地から出てすらいなかったのだ。
家を飛び出したレナは、庭の片隅にある花壇の近くに座り込んで泣いていたのである。怒って出て行ったレナだったが、しばらく誰も探しにきてくれないことに不安を感じていたのだろう。見つけられた途端、泣きながら駆け寄ってきてアリサに抱きついたのだ。
「さあ、アリサ、レナ。家に入って火にあたりなさい」
私の言葉に、2人は素直に従った。
「アリサ、レナ。サンタさんはちゃんといるんだよ」
お茶とお菓子を出しながらそう言うと、アリサはあからさまに渋い顔をし、それとは反対にレナは目を輝かせた。
「だって、おばあちゃんは会ったことがあるんだもの」
「おばあちゃん…」
制するように言うアリサに、
「まあ、聞きなさい」
そう言って、私は続けた。
「おばあちゃんが昔どこに住んでいたか、わかる?」
「フィンランド!」
レナが元気よく答えた。
「そう。おばあちゃんは、昔はフィンランド人だったんだよ」
「サンタさんと同じなんだよね?」
「そうだよ」
にこにこと言うレナに、私は答えて言った。
「おばあちゃんは、おじいちゃんと結婚してからは日本人になったんだけどね。おじいちゃんからの最初の贈り物はね、『花子』っていう日本人としての名前だったんだよ」
「でも、なんで『花子』なの? もっと可愛い名前にすればよかったのにね」
レナがむくれたように言う。アリサもうなずいた。
「そうかい? でも、おばあちゃんはとても気に入ってるよ。日本人らしくていいと思ったんだよ。それにね、昔は、高貴な女の人の名前には『子』が多く使われていたんだそうだよ」
「へえ、そうなんだ」
「それじゃあ、フィンランドではなんて名前だったの?」
アリサの問いに、私は懐かしく思い出しながら答えた。
「アダ、だよ」
私の脳裏に、名前とともにかつての記憶が呼び起こされる。
「それじゃあ、お父さんとお母さんが戻ってくるまで、フィンランドでのことを話してあげようかねえ」
半分興味のなさそうなアリサと、興味津々に身を乗り出しているレナを前に、私は少女時代にフィンランドで体験したことを語り始めたのだった—。