7.
それから、冬まで、正太郎はときどき祖母の部屋をのぞきに行き、河童の日の話などをまた聞いたりした。
「あんた、このごろ、ばあちゃんとえらい仲がいいなじゃないの」
母の里子が、からかうように言った。
正太郎が、恥ずかしそうに頭をかくと、
「おまえ、こづかいかなんか、もらってんじゃねえの?」
と、兄の正樹が、正太郎をつついた。
「んなじゃねえよ」
と言いつつも、正太郎は不思議と腹が立たなかった。兄に言われたら、もっと腹が立つもんだったのに。
祖母は、寝ていることが多くなったから、正太郎がちょくちょく部屋をのぞく方がいい。母は忙しくて、なかなか面倒を見てやれない。
「ありがとね。正ちゃん」
ある日、消え入りそうな小さな声で、母が正太郎に言った。
「でもね、正ちゃん、前から言おうと思っていたんだけど、ソロバンは中学になったらやめていいのよ。学習塾にした方がいいでしょ」
正太郎はなんと答えていいのか、わからなかった。もともと、習いたくて習っていたわけではなかったし、やめたいかというと、そうはっきりした気持ちもなかった。
「おばあちゃんにはね、朝倉さんの所に行っているって言えばいいんだから。だって、ほんとうに朝倉さんのところで学習塾もやっているのだもの。うそをついたことにはならないでしょ」
「うーん」
正太郎は、はっきり返事をしなかった。母がそう言えばそれでいいという気もする。でも、正太郎がソロバンを習っているというだけで、祖母はなんとなく、うれしそうな顔をする。
自分で何かすると決めることは、正太郎にとってむずかしいことだった。
その冬、十二月の中頃に雪が降った。あさはきーんと冷たい風が吹く日で、学校の帰りには細かい、ちいさいつぶの雪が降り始め、耳が痛くなるほど冷たい風になった。
ソロバン塾に行く頃には、雪はたくさんくるくると回るように空を舞い始め、足跡が少しくぼむほどになった。
「正ちゃん、大降りになると困るから、今日はソロバン、休んだら?」
母はそう言ったけれど、正太郎は外に出たかった。雪の日はほんのり明るくて、別の道を歩いているような、ふしぎな感じになる。
ソロバン塾の帰りにはもう、雪は止んでいて、まわりは真っ白で、正太郎は、なんだかうれしくなった。
友達と、雪を投げ投げ帰り、木の上にこんもりと丸く積もった雪をすくったり、だれも歩いていない道に、足跡をつけたりした。
いつものように、正太郎だけ別れる場所で、正太郎はふと空を見上げた。
どうだろう。空には、もう雪を降らせた雲はなくて、黒く冷たい空が広がっており、星が点々と見える。
そこに、つーっと星のような光が走った。
「あれ? あれが流れ星かなあ」
正太郎はほんとうの流れ星を、まだ見たことがなかった。それは、すうっと白く明るい線を引いて、地球の向こう側に落っこちた。
雪景色の中で見たせいか・・・・、氷のつぶが光って走っていったようにも思う。いつもと違った空気を感じるのはおもしろい。なんだか得をしたような気分になる。
正太郎は、白い息をはずませて、心もはずませて家に走って帰った。
家に帰ると、なんだか様子が変だった。父が片づけて、なにやら、用意をしていた。
玄関に踏み込むと、わさわさと人が動き、そのわりには話し声が少ない。みな、もくもくと、作業をしている。
正太郎の胸に、ぐっとつまるような感覚があった。
父の隆正が、正太郎の気配に気づき、正太郎のかたを、ぽんとたたいた。
「ばあちゃんがね。ちょっと前に、亡くなったんだ」
正太郎はごくりとつばを飲み込んだ。
「正ちゃん、帰ったのね。そう」
母も、うしろから来て、そっと正太郎の背中を押した。
「ばあちゃんの、顔、見ておやり。なんだか眠っているみたいだよ」
祖母は、皆が集まる畳の部屋の奥で、布団に入って、そこにいた。
確かに眠っているみたいだった。でも、なんだか違う。何か、エネルギーの元みたいなものが、祖母の中から抜けてしまったのだ。
正太郎の頭の中は真っ白になった。
「今日、ばあちゃんの部屋に行ったら、なんだか元気がなくてね、さっきちょっとのぞいた時、寝ているのかと思ったのよ。でも、なんだか、変だなと思って・・・・。近くによったら、息をしてないし、動く感じがしないから、あわてて、お父さんを呼びに行ったのよ」
父はいつものように、母のかたわらで、黙って母がしゃべるのを聞いていた。
「正ちゃんが帰って帰るちょっと前に、お医者さんに来ていただいたんだけど、もう亡くなってるって。あんたに電話しようと思ったけれど、もうソロバン終わって、帰り道だろうなあと思ってたの。なんだか今日はおそかったね」
正太郎は、さっき見た流れ星を思い出した。
「あれ、おばあちゃんだったんだ」
口の中でつぶやいた。
「正太郎、ソロバンに行ったかい?」
祖母が起きあがって、今にも言葉が聞こえるような気がした。
「うん。もちろん、行って来たよ。おばあちゃんが空に行くのも見えたよ」
と、正太郎は、心の中で答えた。
正太郎の両目から、ぼろぼろと涙が流れ落ちた。
正太郎がじっと祖母の死を感じている周りで、ばたばたと、お通夜、葬式と続き、親戚のおじさん、おばさん方、いとこ、近くの人、松栄堂に働く人、店に縁のある人、祖母の知り合い、父母の知り合い、などなどの出入りで忙しくなり・・・・、正太郎はその真ん中で時が止まってしまったように、じっと祖母の棺を見つめていた。
もうばあちゃんのあのしわだらけの口から言葉が出てこないのかと思うと、また胸がつまり涙が出る。正樹が、正太郎の背中をしずかにさすってくれた。
何かの視線を感じでふっとそちらを見ると、猫のアンがじっと見ていた。そういえば、アンの姿をここ数日見かけなかったことに、正太郎は思いあたった。
「どこに行ってたんだおまえ? ばあちゃんを送りに行ったのか?」
正太郎はアンの首をなでた。心なしか、アンは寂しそうな表情をしていた。
学校は、もう、冬休みに入る直前で、正太郎は学校を休んだまま、冬休みは始まってしまった。そしてそのまま正月を迎えた。
正月といっても、喪中だから、お祝いなどしないということだったが、一応、おせち料理は用意してあって、ただ、いつもより静かで寂しい正月になった。
正栄堂の方は、休むわけにはいかない。お年賀としてお菓子が売れる時だ。
「お店を休んだら、おばあちゃんが怒るからね」
母が言い、正太郎も気をまぎらすように、店を手伝うことにした。
家では喪中でも、店には正月の飾りがしてある。祖母には悪いけど、やはり正月は華やかなほうがいいな・・・・と、正太郎は思った。
「やっぱり、村木って、商売熱心だったんだね」
にやにやしながら、店にやってきた恵美が正太郎に話しかけた。
「べ、べつに・・・・」
正太郎は、口ごもった。
「あら、いらっしゃい。いつもお世話ですねえ。塩野さんのおじょうちゃんも、すっかり女らしくなって」
奥から母が出てきて、ちょっと正太郎をつっついた。
「ええと・・・・、河童饅頭の二十個入りを三つください」
「はい、はい・・・・、ほら正太郎」
母は、贈答用にもう包装紙に包んであるおまんじゅうを正太郎に渡し、正太郎は、それを紙の袋に入れた。なんだか、うまく指が動かないような感じがした。
「けっこう、サマになってるわよ」
袋を受け取りながら、小さい声で恵美が言った。
「これ、少しですけど、食べて見て。お父さんがね、新しいお菓子を作ったのよ。河童のお皿をイメージしてね、ちょっと洋風にパリッと焼いてあるのよ。そこにあんこがはさまてるの」
母がこっそり、恵美に小さい包みを渡した。
「やったあ! いつも、すみません。ここのあんこ、ほんとにすっごくおいしいです」
「いえ、いえ。まずかったら、そう言ってね。まだ、開発途中だから参考にするわ。こういうのは若い娘さんに味見してもらうのがいちばんなのよ。うちには、むさい男の子しかいないから」
母が、まだ何か続けて言おうとしているので、正太郎は、思わず母のかっぽう着のすそを引っ張った。
「なによ、いいじゃないの。やっぱり女の子はいいわね」
「あたし、食べるのだけは得意なんです。特に甘い物は。いつでもモニターやりますから」
「ありがとうございました。お母さんにもよろしくね」
「はーい」
正太郎が口をはさむすきはなかった。
その日の夕飯時、父の隆正が、正太郎にふろしき包みを渡した。
正太郎がそれを受け取ると、その手の感触で、それがソロバンであることがすぐにわかった。それも三本も入っている。
「ばあちゃんの部屋を片づけたんだ。そしたら、それがあった。『正太郎さま』という紙袋にはいっていたんだよ」
兄の正樹が父と正太郎のやりとりをにやにやとながめ、
「おいおい、なんか高価なもんじゃないの? オレにも半分ね」
と、正太郎にウインクした。
正太郎は、答えを言うかわりに、ふろしき包みを大きく降って見せた。
ジャ、ジャ、ジャジャ・・・・
ジャ、ジャ、ジャジャ・・・・
ソロバンも三本そろうと、なかなか立派な音が出る。
「げーっ! またソロバンかよ! ばあちゃん・・・・死んでもソロバンのこと、おまえに言いたいんだな」
正樹はあきれるように笑った。
(でも、これは、オレにくれたんじゃあないんだ・・・・)
正太郎は心の中でつぶやいて、ふろしき包みをそっと置いた。
次の日の朝早く、正太郎はヌシと会った川べりにやって来た。
まだぼんやりとうす暗くて、足下の草には霜が白くおりている。ざくざくと、草を踏んで、正太郎はあの木を捜した。
ほんとうは昨日の夜来ようと思ったのだが、心のしんまで寒くて、外に出る気にはなれなかった。
正太郎はソロバンを枕元に置いて寝た。そのせいかどうか、夢に貴美が出てきて、正太郎は一緒にソロバンをしたのだった。
貴美はまちがいなく、ばあちゃんの貴美なのだが、正太郎の同級生でもあり、一緒に学校に通っていた。一人だけ、大きい花柄の昔の・・・・どことなく変な着物を着ている。
貴美はソロバンを三つ並べて、一度に計算をする。それは神わざのようで、周りを取り囲んでいたクラスメイトから、どっと拍手がおこった。
正太郎は、自分がほめられたようにうれしくて、誇らしくて、一緒にバカみたいに力を込めて拍手をしていた。
夢のことを思い出しながら歩いていると、おかしくて、口元が自然ににやけてしまうのだった。
ここで、まず松の木を探そうと思っていたのだが、松はなかった。
「河童と松ってかんけいないのか?」
くだらないことで、正太郎はちょっとがっかりして、しばらくぼんやりしてしまった。
スズメがチョンチョン鳴き始め、活動を始めた。うっすらと明るくなってきて、草や木もゆるやかに起き出しているように感じられた。
「やべー、早くしよ。人が来たらみっともねえもんな」
正太郎は小脇に抱えてきたふろしき包みを高く掲げて、思い切り振ってみた。
ジャ、ジャ、ジャジャジャ・・・・
ジャ、ジャ、ジャジャジャ・・・・
あたりをぐるりと見回して見たが、人気はない。
「おーい! ヌシ! 出て来いよお!」
正太郎は、貴美の話に出てきたように、飛びはね、踊り、猛烈にソロバンを振り回した。
ジャカジャカジャカジャカ、ジャカジャカジャカジャカ・・・・
「ヌシー! ヌシー!」
目の前には静かに川が流れているだけだった。
十分ほどもそうしていただろうか。
寒いと思って、厚手のセーターの上に、兄のダウンジャケットを羽織って来ていのだが、体はびっしょりと汗にまみれていた。
正太郎は、木の枝にふろしき包みの結び目を引っかけて、ジャケットを脱いだ。
橋の方に人影が見えた。正太郎が動いていたから、何かと・・・・こちらに目をこらしているようだ。
正太郎はすこしバツが悪くなったが、何でもないふりをして、川を見つめた。
「じゃあな。ヌシ。ここにソロバン置いてくから、あとでゆっくり見ろや。おまえにやるよ」
正太郎は川に向かって言ってみた。
河童は喜んだとき、どんな顔をするだろう。
そんなことを思いながら、正太郎はゆっくりと来た道を戻り始めた。
ヌシが現れるような気がして、何度も振り返った。だが、ソロバンの包みは、木の枝にぽつりと・・・・
「なんか木がソロバン塾に行くみてえ・・・・」
正太郎は、くっくっと笑うと、普通の速度で歩き始めた。
橋の上にあがって、もう一度振り返ると、もうどの木にソロバンを吊したのやら、目をこらしても、ほかの木と区別がつかなかった。
また、あした、確かめに来てみよう。
正太郎は、朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、川を背に、走り出した。
手塚治さんの漫画「雨降り小僧」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E9%99%8D%E3%82%8A%E5%B0%8F%E5%83%A7
にヒントを得て書きました。
ありがとうございました。




