4.
正太郎はふと気になって、作業所をのぞいて見た。
父の隆正が、もくもくと、かまどに焼き菓子の生地を並べていた。
「な、何か、手伝おうか」
そっと近づいた正太郎は、隆正に声をかけた。隆正はびっくりすることもなく、
「ふうん。ずいぶん、珍しいこというなあ」
と、正太郎をじろじろとながめた。正太郎は居場所がないような、不安な気持ちになってしまった。
「それじゃあ・・・・。そこの、おまんじゅうを箱に 詰めてもらうかな」
「うん」
正太郎の無口は父に似たものだ。皆にそう言われる。だからこの二人が作業しても、器械の音や箱詰めの音がするだけだった。
そうやってどのくらいいたのだろうか。正太郎が、
「夕飯食べたの?」
と、ぽっそり聞いた。
「さっき」
そして、また沈黙が続いた。
「ああら、珍しい。雨が降る。雨が降る。正ちゃんが手伝うなんて、いったいどういう風の吹きまわしだろう」
母が、作業所に顔を出し、ぱっとあたりがにぎやかになった。それは、白黒の画面が急にカラーに変わるような感じだった。
「正ちゃん、夏休みの宿題なの?」
「えっ?」
と、聞き返す正太郎に、
「家のお手伝いをするようにって、夏休みのプリントに書いてあったものね。ちゃんとやってもらわないと」
と、正太郎の返事も待たずに
「お父さん、お姉さん達がそろそろ帰るから、ちょっと顔出して下さいな。おみやげもね、四軒分、お願いしますよ」
さっさと自分の言いたいことだけ言って、行ってしまった。
父も行ってしまった。
正太郎は、河童饅頭の包み紙をながめていた。みんなが動く気配は、かすかにこの作業場まで聞こえてきていた。
3
夏が過ぎ、秋分の日が過ぎた。
日の落ちるのが早くなると、どんどん心細くなる。帰り道に橋をわたるたび、河童のことを思い出したが、冬に近くなるにつれて、それがだんだんこわくなってきた。
ある雨の日。また、母から用事をたのまれた。近所に甘くておいしい柿のなる木のある家があって、もらった柿を母がむき、正太郎が祖母に持って行くことになった。
「さっき、夕飯を持って行く時に、忘れちゃったのよ」
と、母は、つやつや光るオレンジ色の実ののった、四角いガラスの皿を正太郎に渡した。ずうっと心のどこかで、祖母に聞きたいことがあった。今日は、その日なんだな・・・・と、正太郎は思った。
学校から帰ったばかりで、まだ六時前だったが、雨のせいもあって、どんよりと暗い日だった。
この間と同じように、祖母の部屋の障子はしまっていた。そして、片手で障子を開けると、案の定、電気をつけていない暗い部屋に祖母はぽつんと座っていた。
「ばあちゃん! 暗い時は電気つけろって言っただろ」
「はーあ」
くぐもったような、へんてこな返事が返ってきて、正太郎は、どきんとした。
「だいじょうぶか? ばあちゃん!」
「はあ。隆正か」
「違うよ、正太郎だよ」
「そうかい」
正太郎は、部屋の中に踏み込んだが、祖母のぼんやりとしたシルエットがわかるだけで、なんだかきみが悪かった。
「だいじょうぶか? ばあちゃん!」
「さっきからねえ、スイッチが見つからんのよ」
正太郎は皿を置き、電灯からぶら下がっているひもの行方をたどった。
それは、祖母の目の前にあった。
「あ、あるよ。こ、ここに」
なんだか知らないが、胸がどきどきした。
蛍光灯がつく時、じーっと電気がいきわたる感じが、正太郎は嫌いだった。
「この蛍光灯、もう、変えた方がいいな」
祖母の部屋の電気は特に、接触が悪いように思えた。
祖母は、何も言わずに座っている。
「ほら、これ」
と、正太郎は皿をさしだした。
「は」
と、祖母は皿を見つめて、
「おまえ、食え。わしゃ、いらんから」
ぼっそり言った。
「だって、かあちゃんが、ばあちゃんのためにむいてくれたもん。食べれば」
「そうだね」
そう言いながらも、祖母は半分眠っているようだった。
言葉が途切れると、世界が終わったような感じだ・・・・。と、正太郎は思った。黙っていると、この部屋の湿気はいつもにも増して重くなる。
「こういう暗い日は、時間がわからない。ずうっと眠っていると、一日が終わってるんだよ」
祖母は、柿の実を小さく切って口に運んだ。
「ソロバンには、行ってるかい」
またか・・・・と、正太郎は思った。でも、いつもどおりのことを言われると、ほっとする。やっぱり、いつもの自分のおばあちゃんなんだ・・・・という感じがした。
「あのさあ、うちのさあ、おまんじゅうなんだけどさあ・・・・」
答える変わりに、正太郎から質問を始めた。ソロバン塾のことを思い出したら、すんなりと口に出てきたのだ。
「河童の伝説ってのはわかるんだけど・・・・、ほかに、何か意味があるのかなあ。最初に名前をつけたときに・・・・」
「ふふ・・・・。そりゃ、わしがつけたんだよ。伝説と言っても、こんなに有名になったのはつい最近のことだもの」
「じゃあ、最初の名前は何だったの?」
「名前なんかないさ。ただの茶饅頭。それだけで、名前なんかなかったよ」
祖母は、もう冷めきっているようなお茶をずずーっとすすった。
「正太郎。おまえ、河童を信じるかい?」
じろっと、正太郎に視線を移した、その祖母の目に強い力があることに、正太郎はちょっと、びっくりした。
「わしが、河童に会ったことがあると言ったら、信じるかい?」
正太郎の背筋に冷たい感覚が走った。電気が頭に抜けていくようだ・・・・と、正太郎は思った。
「信じるよ」
正太郎は、今また、祖母の前にどっかりと腰を下ろしていた。こうやって話しを聞く情景を、もうずいぶん昔から知っていたように思えた。
「『じゅずだま』って知ってるか?」
「ああ、そこらに生えてる草だろ」
「あの実がなってたんだから、今ごろだったろうと思うよ。冬が始まる前だったんだよ」
祖母も長い話をしようとしていた。そして、ゆっくりと祖母の昔話しが始まった。
「昼でも、こうやって暗い中にいると、夢かどうかわからなくなることがあるんだよ。どこからどこまでが頭の中のことか、どこからが今なのか・・・・。そのうち、本当にわからなくなる日が来るのかもしれないねえ」
そう言っている祖母の顔をおそるおそる正太郎はのぞき込んだ。祖母は目を閉じていて、寝ているんだか、起きているんだか・・・・、その境界線をさまよっているように見えた。
そして、たてに深くしわのきざみ込まれた祖母の口から、ぽつぽつと、言葉が紡ぎ出された。




