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河童の日  作者: 辰野ぱふ
3/7

3.

 夏になり、恵美の残した言葉の謎が解けた。夏にある牛久の河童まつりのパレードで、小学、中学、高校生のバトングループが一緒に行進するという。

 情報を持って来たのは坂口で、

「ようよう、一緒に見に行こうぜ」

 と、言い出した。正太郎は誘われるがままに、同級生の橋本と三人で、駅前の通りまでやってきた。

「うちの学校じゃあ、塩野と森本と井上が出てるらしいぜ」

 沿道には人垣ができていて、坂口が、

「ちょっと、すんません」

 と、人を押し退けて前に出てみると、地元の会社の人たちが河童のかっこうをして、通っているところだった。顔を緑色にぬっているのだけど、汗で流れて、どろどろになってきている。

 そのうしろに小学校の鼓笛隊、中学、高校と続いてやって来た。

 アスファルトに暑い太陽の光が照り返して、じりじりと肌を焼いてくる。

「おっ、来たぞ! 来たぞ!」

 と、坂口、橋本が身を乗りだした。鼓笛隊のうしろにオレンジ色のミニスカートをはいた、バトングループが見えてきていた。

「なんかよお。胸のあたりがワサワサして、気もち悪いなあ。こういう所でさ、知ってるやつが何かやってるの見るのってな」

 と橋本が言うと、

「バトンなんか・・・・落としたら、やだろうな」

 坂口がおもしろそうに言った。

 春に駅前でバトンをくるくる回している恵美の姿が浮かび、正太郎の胸もドキドキしてきた。

 行進が少しの間止まり、バトンの演技が始まる。ちょうど正太郎達のすぐ前に恵美の姿が見えた。

 正太郎は、ごくりとツバを飲み込んだ。

「落とすなよ!」

 いきなり坂口が大きな声で叫ぶと、恵美がちらりとこちらを向いた。これでは「落とせ」と言っているようなものだ。だが正太郎は、何と言い返していいかわからないし、どんな顔をしていいかもわからなかった。

 そんな正太郎に恵美は、ベーっと舌をつき出した。どなった犯人は坂口なのに・・・・、

「ちぇっ・・・・なんだか、オレが悪いみたいじゃん」

 正太郎は口の中でぶつぶつ言った。額からどっと汗が吹き出るのがわかった。

「よおよお、塩野って、なんかでっかくなったよな」

 橋本が、正太郎を肘で小突いて、自分の胸のあたりを指して見せた。

「ほら」

 次に橋本が指した先には恵美の姿があった。恵美の胸の小さなふくらみは、音楽に乗って軽やかに搖れている。

 正太郎は、あわてて目をそらした。

「よお! いいぞ! いいぞ!」

 また坂口が叫び、恵美は「フン!」という冷たい視線を送ってくる。

(またかよ・・・・オレが言ったんじゃあないのに)

 と、正太郎は坂口の背中をうらみがましく見つめた。

 バトンのパレードは少しずつ進んで行ってしまい、次は地元婦人会の行列がやって来た。そろいの浴衣で厚化粧のおばさん、おばあさん達が踊っている。

「なんかさ・・・・。あのバトンガールもいつかはこうなるのかと思うとさ。人生の悲哀ってのを感じるよな」

 坂口が言うと、真面目な顔で

「それってヒワイの間違いじゃないの?」

 と橋本が聞き返した。正太郎は何だか、心の中が空っぽになったような感じで、二人のやりとりを見つめた。

 午後五時をまわった頃、家に着いた。昼には屋台の焼きそばなどを食べたが、もう腹ぺこだった。

 だが、玄関の引き戸を開けて、正太郎はうんざりした。どやどやと人のざわめく気配があり、くつ脱ぎいっぱいに、靴が並んでいた。いつも、お盆の前、この河童祭の時に父方の親戚が集まってくる。

 父の隆正は五人兄弟。姉一人、兄三人の末っ子だが、正栄堂店を継いでいるから、ここに皆集まって来るのだ。

 お盆の頃は店が忙しいので少し時期を早めて、祭をきっかけに、皆、思い出したようにやって来る。

 正太郎は、玄関で立ち尽くし、苦い顔をした。どうも、人が集まる場所は苦手だった。

 最近、兄の正樹は調子が良くて、さっさとあいさつをすると、部屋に引っ込んでしまう。

 玄関を上がったすぐの所に、八畳間が二つ続いていて、部屋の間の障子を取っぱらって、大きい部屋にしている。

 自分の部屋に行くにはこの大広間の横のろうかを通らなければならない。

 この夏の暑い時期、エアコンも付けていないので、ろうか側も窓側も戸は開け放してあるはずだ。正太郎が通れば、いやでも皆の目に入る。

 ぐずぐずと玄関でとまどっている正太郎を、三枝おばさんが目ざとく見つけた。

「あらあら、正ちゃん、お帰り! あらー、大きくなったねえ」

三枝おばさんは、父隆正の一番上の兄さん、正男おじさんの奥さんだ。どっしりと、ふっくらとしていて、頬はいつもぴんぴんに張って、光っている。その太い腹から出る声はよく通って、皆がいっせいに正太郎の方を見た。

「もう、図体ばかり大きくなってねえ。でも、まだまだ子供よ。お兄ちゃんに比べたら」

 店を早めに切り上げてきた母は、お茶を入れたり、夕飯の用意をしたりと、くるくる働いていた。

「もう、小学校も最後。来年は中学だものねえ。あたしたちも年をとるわけよねえ」

 父の姉の貴久子おばさんは、男兄弟の中のたった一人の女だ。男の中で育ったせいか、さばさばしていて、口調もきっぱりとしている。

「隆正も静かな子供だったけど、正太郎もおとなしいなあ」

 長男の正男おじさんが、目を細めた。

「ほら、お腹すいたでしょ、ここ、座って」

 三枝おばさんが、自分の前の空いている座布団を指さした。

「あ、ああ」

 はっきりしない正太郎の背中を、貴久子おばさんが押した。

 扇風機が二台置かれて、風を送ってくる。大きいテーブルを二つつなげてあり、から揚げや、いなり寿司などが並んでいる。正太郎は黙々と食べ始めた。

「おばあちゃん、どうしたの? こっちに来て食べないの?」

 二男、忠正おじさんの奥さんの君子おばさんが、正太郎の母、里子に聞いた。

 おばあちゃんというのは、父の母、正太郎の祖母、貴美のことだった。

「なんだかね、お店の方から、手を引いてからね。静かになっちゃって・・・・。さっきから声かけているんだけれど、『あたしはいい』って言うばかりなの」

「そうそう。引っ込んでから、ますます頑固になったわね。私がさっき声をかけた時には、返事もしなかったわよ。実の娘だっていうのにねえ」

 貴久子おばさんも言った。

「ボケないかなあ。閉じ込もってばかりいちゃあ、身体にも悪いだろう」

「いやあ、母さんは、少しボケたくらいで、ちょうどいいかもしらんよ」

「でもなあ、店に顔出すくらいのことは、した方がいいんじゃあないかな。少し、自分が役に立っているということが、はげみになるだろう」

 忠正おじさん、三男の正寛おじさんが代わる代わる話した。

 ただただ食べる正太郎の頭の上を、大人の会話が行ったり来たりしていた。

「それがねえ、ここのところ、元気もなくてね。入院も長かったでしょ。あのあと、立ち動くのがつらいらしいの。どこが痛いのと聞いても、言わないから。医者に行っても話しが先に進まなくて・・・・」

 ちょうど一年前、祖母の貴美は本店の階段からころがり落ちた。その時、右足の骨を折って・・・・、病院から退院した後も、ずっと奥の自分の部屋で寝てばかりになった。

 以前は、元気がありあまるような人で、店でも一番えばっていたのに。店のこともちっとも気にならなくなって、ぐうんと年をとって、小さくなってしまったように見えた。

 違う人になったみたいだ・・・・と、正太郎も思っていた。

「そう。母さんは昔から、人に弱いところを見せないんだ。気力で乗り切ってきた人だからなあ」

 正寛おじさんが、何かをもぐもぐ食べながら、母に答えた。

「それでも、後で帰るときに顔を出さないと、ひねくれるわよ。ときどきだれかが見に行って相手しておかないと・・・・」

 喜久子おばさんが、からからと笑った。

 正太郎はすぐにおなかがいっぱいになってしまった。

「正太郎はあれかい? まだソロバンを習っているのかい?」

 正寛おじさんが、急に正太郎に話題をもってきたので、正太郎はどぎまぎした。

「そうなのよ。これはだけはね。おばあちゃんの言いつけにしたがっているの。昔から、計算が大事って。年をとるにつれて、やけにうるさくなってね」

「でも、ねえ。もう中学生になったら、ソロバンでもないわよね。学習塾に行った方がいいんじゃあない?」

 母の答えを受けて、君子おばさんが言った。

「そう思っているのよ。でもねえ。きっと、正太郎がソロバン習っているって言ったほうが、おばあちゃんが元気でいられるような気がするのよ」

「あらあら、そんな・・・・。正ちゃんの将来の方が大切でしょうに」

 自分の耳が真っ赤になっていることが正太郎にはわかった。自分が話の中心になってしまったから、熱くほてっている。

 そんな正太郎の顔を、母がそっとのぞきこんで、

「正ちゃん、これ、おばあちゃんのところに持って行ってよ。おばあちゃん、部屋で食べるって、強情だから」

 と、おぼんを差し出した。おぼんの上には、小皿にわけた夕飯から食後のスイカ一切れまでがそろっていた。

 正太郎は立ち上がって、そのおぼんを受け取った。この場から早く出て行きたいと思っていたところだったので、ほっとした。

 ろうかを祖母の部屋に向かう正太郎の背中に母が言づてを付け足した。

「おばあちゃんが食べるまで、一緒にいてあげてね。のどにつまらせたりしたら大変だし・・・・。空いた食器を台所まで持って来てよ」

「ちぇっ・・・・」

 と、正太郎は舌打ちした。これから自分の部屋で、借りてきたマンガを読もうと思っていたのに・・・・。

 でも、あの部屋で、大人の中にいるよりはいいかもしれない。

 正太郎はそろそろと、おぼんを祖母の部屋へと運んだ。

 祖母の部屋のすぐ前には、小さい庭があり、最近、天気が良いと、ろうかに座布団を出して、日かげで、よく祖母はうとうと居眠りをしていた。

 正太郎は、ろうかの先に目をやったが、もう夕方の日に変わったからか、祖母の姿はなかった。

 庭には小さい水場があり、ちょろちょろと、竹筒の先から水がたれている。その音を聞くと正太郎はいつも、小学校の水飲み場の、壊れた水道を思い出すのだった。

 障子を開けるため、正太郎はおぼんを足元に置いた。

 するすると障子を開けると、中はほの暗かった。朝から昼にかけては、日がまぶしいほど入るのだが、太陽が西に傾くにつれて、日が入りにくくなる。

 部屋の真ん中に、祖母の貴美が座っていた。だが、暗くて、顔までよく見えない。

「お、おばあちゃん! 起きてるの?」

 正太郎は、なんだかこわくなって、外からすっとんきょうな声をかけた。

 返事はなかった。

「おばあちゃんたら! だいじょうぶ?」

「起きとるよ」

 かすれるような、か細い声が返された。

「ねえ。もう、中は暗くなってきたから、電気くらい点けたほうがいいよ」

 おぼんを持ちあげた正太郎は、部屋の中に足を一歩踏み込みながら言った。何か言わないと・・・・。なぜかはわからないが、こわくなりそうだった。

「そうだねえ」

 また、消え入りそうな声がして・・・・祖母は動きもしないのに、突然電気がついた。

 正太郎はぎょっとして、おぼんを揺らし、お茶を半分もこぼしてしまった。

「おや、おまえ、正太郎かい」

 祖母がにやりと笑い、正太郎はぞっとした。

「な、なんで電気、ついたんだろう」

 いつもだったら、心の中で言う言葉を、正太郎は全部口にした。そうしないと、静かすぎるような気がした。

「そんなに、びっくりすることはねえ。ほら、隆正が買ってくれた。便利なもんだ」

 なんのことはない、天井の電灯からひもが長くつながって、スイッチになっている。ただそれだけだった。

「こ、これ。夕飯だから。食べてよ」

 正太郎は祖母の前にぼんを置き、

「オレ、お茶をこぼしちゃったから、またもらって来るよ。食べててよ」

 落ち着かないような、あせるような気分で部屋を出ようとした。その、正太郎のズボンのすそを祖母は引っ張った。

 正太郎は一瞬「ひ!」と声を上げた。なんだかすごくびっくりしてしまったのだ。

「だいじょうぶ。ここにもお茶があるからね」

 と、祖母は電気ポットを指さした。

「ああ、そうか」

 正太郎は覚悟を決め、どっかと祖母の前に座りこんだ。

 祖母はおぼんをのぞきこんで、

「わしゃ、あんまり油もん食べちゃあ、いけないって言われてるのに」

 と、から揚げを箸でつまんで、ほいっと、口に放り込んだ。

「あ、おばあちゃん、あんまりでっかいの、一度に入れないほうがいいよ。のどにつまったら困るだろ。半分くらいに、切って食べろよ」

 いつになく、正太郎はおしゃべりだった。そうしないと、この部屋の妖気のようなものに、飲み込まれそうな気がしていた。正直言って、正太郎はこの部屋があまり好きではなかった。年寄りの古い匂いがたちこめているからだ。

「おまえ、ちゃんと、ソロバン習ってるか?」

 急に祖母が聞いた。

「う、うん」

「朝倉さんのとこだろ」

「う、うん」

「あすこはね、ずっと昔から、おじいさんのおじいさんくらいから、ずっと教えてるんだ。いろいろとね」

 これは、何度も何度も繰り返し聞いたことのある話しだった。それに続く言葉も正太郎は知っていた。

「計算は大事だ。計算がちゃんとできなくちゃあ、商売はできないからねえ。釣り銭ごまかされたら、困るからねえ」

「わかってる」

 (ほらね)と、正太郎は思った。これから、しばらくは自分もやはり昔はソロバンを習っていて、いかに成績が良かったか。小さいときから暗算が得意で、大人もみな、自分に聞きにきた・・・・、と話しが続いていく。店が繁盛したのも、祖母がしっかり計算をしたからだと・・・・。

 正太郎は、少し、落ち着いてきて、うん、うんと適当にあいづちをうち始めた。

 猫のアンが正太郎のかたわらに来て、額をズボンにこすりつけた。外国の猫とあいの子で、灰色の毛足の長い猫だ。

 正太郎は、猫をなでながら、ぼんやりと祖母の声を聞いていた。

「皆は、広間にまだいるのかい?」

 お決まりの話しが終わった後、ぽつりと祖母が聞いた。

「うん。まだ食べてる。きっと夜十時ころまではいるよ。いつものことだもの」

 祖母は意外に食べるのが早くて、もうスイカに手が伸びていた。

 スイカにかぶりつくために、ぱっくり開けた口の中が、ねっとりと暗くて、正太郎は思わず目を下に向けた。

「隆正は、店だろう?」

 食べながらしゃべる祖母のあごにかけて、スイカの汁がつつーっとたれた。

「ああ! ばあちゃん、こぼしてるよ!」

 ふと下を見ると、そのほかにも、食べこぼしが散らばっていた。

「ったく・・・・」

 正太郎はしぶしぶ立ち上がり、ティッシュペーパーを取ってやったが、自分で拭いてやる気にはなれなかった。

「もう八十を過ぎたもの。大目に見ておくれや」

 祖母が消え入りそうな声でつぶやくので、正太郎はぐっと胸が重たくなった。

 正太郎がよく知っていた祖母は、店や作業所でガミガミと、店員や母をしかり、いつでもけわしい顔をしていた。

「ばあちゃんは、強いから。巻かれるしかないんだよ」というのが、母の里子の口ぐせになっていたのだ。

 今見る祖母は、その面影もなくて、小さく、ちんまりと座布団の上に丸まっていた。

 祖母の部屋から食器を運び、台所で正太郎はふっと、息を吐いた。居間ではまだ、がやがやと話し声があふれていた。


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