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このお話を書くために、牛久に何回か行きました。このお話を書いたころには、子どもの河童の像が駅の近くにあったのですが、今は違うところにあります。
それに、年代も古くなり、お話も古ぼけてしまいました。
でも、せっかく書いたので、投稿してみました。
よろしくお願いします。
そろそろ、六時半を過ぎようというころ、ソロバン塾が終わって外に出ると、もうすっかり暗くなっていた。
ソロバン塾は、朝倉ソロバン塾という名前で、村木正太郎の父親の知人がやっている。朝倉さんちの広い庭に二階建ての教室ができていた。最近では学習塾も始めている。
途中の道までは友達が一緒だったから良かったのだけど、友達と別れて一人になってから、正太郎は、急に心細くなった。
だんだん歩く足どりが速くなって・・・・それが駆け足になっていった。
肩にかけたバッグから、青色のチェックの袋に入ったソロバンのはしっこが少しはみ出していて、正太郎の走るリズムに合わせて、軽やかな音を刻み始めた。
カチャッチャ、カチャッチャ、カチャッチャ、カチャッチャ・・・・。
正太郎は、今、とてもあせっていた。塾に行く前に、スポーツドリンクを飲んでいたのだが、ストーブで暖かくなっていた塾から走り出たとたん、おしっこがしたくてたまらなくなったのだ。
友達と話して歩いているうちは、気がまぎれていたのだけど・・・・。
「ちくしょう! 塾で、トイレに行っておけば良かったよー!」
正太郎は情けない声を上げた。十二月半ばを過ぎ、外はぐんと寒くなって来ていた。
小さい川にかかった橋を渡る時、川からの冷たい風が下から吹き上げてきて、からだのすきまを刺してきた。
正太郎の飲んだスポーツドリンクは、急激に冷やされて、おしっことなって、どんどんたまってきている。あふれる! もうがまんの限界だった。
「ダメだ! もうダメだー」
正太郎は、ズボンの前をモゾモゾやりながら、川べりの道に入る階段を下りた。
まだ七時になっていないはずだが・・・・まわりはもう真夜中のようだ。道をはずれると、外灯の明かりは木々に見えかくれして、あまり届かない。もともと通る人は少ない道なのだ。
大型のトラックが橋を走り抜けると、ぱあっと明るく正太郎の姿が浮かび上がった。
この川のほとりは遊歩道になっていて、よく友達と遊ぶ場所だが、昼とはだんちがい。暗いとなんだかきみ悪い。正太郎はそれでなくても、とても怖がりだったから、いつもならわき目もふらず、走り抜ける場所だった。
でも、今はそんなことは言っていられない。
正太郎はぶるっと身ぶるいすると、川の端にある小さい公園の公衆便所に走り込み、大急ぎでズボンのジッパーを下げた。とたんに
ジョー、ジョー、ジョー
勢いよく小便がほとばしった。
暗く冷たい夜の空気に、ほんわり暖かい小便の湯気が上がり、正太郎は、自分の中からすうっと力が抜けてゆく気持ち良さを感じた。
「ああ、良かった。もう小学校の五年生だからな、もらしたらヤバかったな」
なんだか気味の悪いトイレだったけれどしょうがない、気を付けながらジッパーを上げて…、正太郎はふと、あたりの静けさにぞっとした。
今、またトラックが一台通りすぎた。でも車の音がやけに遠くに聞こえる。川の周りに茂る草や木が、音を吸いとってしまうのかもしれない。なんだか、またいやな感じがして・・・・、ドキドキしながら公衆便所を出て、帰る道の方にゆっくりと身体を回したその時、
「ナ、オメ、ソロバン持ってるだろ。オリ、ソロバンの音、知ってんゾ」
へんな・・・・ふるえるような、か細い声がして、正太郎とちょうど同じような背かっこうの黒い影が、横にぬっと現れた。
正太郎は、その影の正体を見たとたん、心臓がバクバクして、
「カ、カ・・・・」
心の中では「河童だあ!」と叫んでいるのに、声はのどのところで固まってしまって、どうにも出て来ない。
「ナ、オメ、見してくリヨ。オリ、音は知ってんだけど、見たことねんだもん。見てえな。ナ、見してくリヨ」
ヌメヌメと光った、水にぬれたような手が、にゅうっと正太郎の前に突き出された。黒くかげになったその手には、水かきがあった。
暗くてはっきりと顔まではわからないのだが、背中に甲らをしょっているのはわかるし、お話しの絵の中に出てくるように、頭に確かに水っぽいお皿が、はげ頭のようになっていて、月の光のなかで形がわかった。
正太郎は、じりじりと一歩ずつ後じさりした。
「ナ、取りゃしないっテ。ただ見んだけだもん。見てえナ。見してくリヨ」
河童は、正太郎がうしろに行った分、じりじりと近づいて来た。
正太郎はぐっとヘソに力を入れた。
「ナ・・・・」
まだ、河童が続けて何か言おうとしているところを、
「ヒェーー!」
声というよりは、のどが笛になったようなへんてこな音が出て、正太郎は、一目散にかけだした。それからは、もううしろを振り向かず、ただただ、家を目指して走りに走った。
正太郎の家、「正栄堂」の看板が目に入ると、正太郎はちょっとはほっとしたが、でも、走る速度は落とさず、家の横の作業場から、どっと中に走り込んだ。
正栄堂は和菓子屋で、駅前の本店の他に、駅のスーパーの中にも店を出しているし、家の近くにも出店がある。作業場は家の隣になっていて、ちょっとした菓子工場になっている。 正太郎の父、隆正は和菓子の職人、母の里子も店を手伝っており、このあたりでは大きい、ちょっと有名な店だ。
駅の近くの店は六時にはもう閉まってしまうけれど、手伝いのおばさん数人も残って、作業場ではまだまだ仕事をしていた。これから、暮れ、正月にかけて、箱入りのおかしがいちばん売れる季節なのだ。
正太郎はあんまり勢い良く飛び込んだもので、入り口に置いてあった、ごみ箱くらいの空の缶をしこたまけとばして、
ガンガンドド、ガラガン!
コンクリを打った床に音がはね返り、恐ろしく大きくひびいた。
おまんじゅうの箱づめ作業をしていた母も、手伝いのおばさんたちもびっくりして、いっせいに正太郎の方を向いた。
「あらあら、正ちゃん! どうしたの? やけにあわてて。何かあったの?」
そう言いながらも、母の手はせわしく、おまんじゅうを箱に詰めていた。
「べ、べつに、なんでもないよ」
正太郎はなるべく平気な顔をしてそう言ったが、皆が不思議がるのも無理はない。いつもだったら、この作業場の入り口ではなく、自分の家の玄関を入るのだ。作業場からも中を通っての玄関に行けるけれど、小さいときから、
「用もないのに仕事をしている方に来るんじゃないよ」
と、祖母にも母にも、言い聞かせられていた。
それにこの、天地を揺るがすような音だ。
「あらら、顔が真っ青だこと! どこかからだの調子でも悪いのかい?」
あんこを煮つめる甘い匂い、焼き菓子のむうっとする暖かい空気、働く人の間から立ちのぼる熱気・・・・。そんなもので、正太郎の気持ちはずいぶんと落ち着いてきていたけれど・・・・、
「ここ二、三日で、急に寒くなったからねえ。カゼでもひいたのかしら」
おばさんがたも心配して、作業しながら、ちらちら正太郎の方を見た。
正太郎はうまい言いわけを考えようとした。でも、もともと無口な正太郎に、気のきいた言葉が簡単に見つかるわけはなかった。
それに、ふと、皆の箱づめするおまんじゅうに目が止まり、それに釘付けになってもいた。
「河童饅頭」
毛筆でそう書いてある。
(河童まんじゅう)
と、正太郎は心の中でくりかえしてみた。
そうだ、そうだった。正栄堂の目玉商品はこの河童饅頭だったのだ。
「ねえ、これ・・・・どうして、河童饅頭なの?」
いつも見慣れたおまんじゅうの包み紙。墨絵で書かれた影絵の河童。正太郎は生まれた時からずっとこの包みを見て育った。一度だって人に聞いてみようなんて思うことはなかった。
正太郎のこのマヌケな質問に、母もおばさん方も、奥のかまどであんこを練る父までもが、どっと声を上げて笑った。
「あんた、なに今ごろそんなこと言っているのよ! ほんとうに頭がどうかしちゃたのかしら」
そう母が言うと
「ここは牛久沼に近いでしょ。牛久沼は河童伝説で有名だから、河童が付くに決まっているでしょうが」
「そうそう、どこでもそうでしょう。富士山が見えれば、富士山せんべいとかさ・・・・」
「ウナギが取れれば、ウナギパイ。白糸の滝のそうめんとか、伊豆の踊り子のおまんじゅうなんてのも、あったよねえ確か」
「何でも、名所とか、有名なものにおかしの名前だけをつければいいわけよ、ねえ」
おばさん方はにわかに活気づき、もう一度どっと笑い声を立てた。
「最近は、ほら、サブレとか、マドレーヌとか、正栄堂だっておしゃれなお菓子を売ってますよ」
ここ数年で新しく開発された洋菓子を詰めていたおばさんが、高く、包みをかかげて見せた。
包みも洋風になり、レースの模様をあしらった透明の袋に一つずつきれいに入っている河童サブレは、箱に描かれた河童もドレスを着て、日がさなんかさしている。
「それに、どらえもんや、マンガだって、チョコレートやら、スナック菓子になるでしょ。同じようなものよ」
正太郎の質問が口火となり、やれどこに旅行に行った時に買ったおかしがおいしかったとか、あの宿は良かったねえ・・・・なんて、おばさんがたの間で旅行の話しが盛り上がった。おばさんたちが、ぽんぽんと話しのやりとりを始めると、話はあふれるようで次々に出てくる。正太郎の入るすきまはなくなってしまった。正太郎はぽつんと一人取り残された。
しょうがないから、正太郎はすごすごと自分の部屋に帰ることにした。
「正ちゃん! 手をせっけんで良く洗って、うがいもするのよ! 体温をはかって! 熱があったら、言いに来なさいね!」
母は、やはり作業の手を休めず、正太郎の背中に呼びかけた。
たしかに、正太郎の住んでいる牛久では、河童伝説にちなんで、河童の銅像などもあるし、河童はマスコットのような存在になっている。
小さい頃、河童の話はよく聞いた。河童の存在も信じていた。だが、もう小学校の五年生だ。「お話し」と「現実」の違いはわかっているつもりだった。
河童のことが急に気になった正太郎は、だれかに話したり、相談したりしてみたいとも思ったのだが・・・・、もともと口べただし、話し出すまえに、しりごみしてしまうのだった。
それに、そんなバカげたことを言ったら、兄の正樹にとことんからかわれるに決まっている。正樹は正太郎がこわがりだからおもしろがって、今までにもさんざんおどかしてきたのだ。
この事件の後、冬の間、正太郎は必ず塾を出る時にはトイレに寄り、あまり冷たい飲物を取らないように心がけた。
冒険好きの活発な少年だったら、あるいは川に河童を捜しに探検に行ったかもしれない。でも、正太郎はおとなしくて、恐がりで、もう二度と本物の河童など見たくはなかった。できれば忘れてしまいたいくらいだった。
だから、それからは川にも近づかず、いつもよりスピードを上げて、一気に橋を走って渡った。
ありがたいことに春に向かって日は長くなってくる。風も暖かくなってくる。暖かい空気は、こわい気持ちをほんわりとほぐすようだった。いつも同じ帰り道、日ごとにうすぼんやりとあたりが明るくなってくるのは、心強いものだ。
それに四月になれば六年生だ。一つ学年が上がるというのは、ただそれだけで、なんだかちょっと強くなれるような感じになる。




