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Dear Killer  作者: 野良丸
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虎は狩り、


「そう。討伐は無事完了したのね。……あぁ、そうね。そちらとしては無事とは言えないわよね。ごめんなさい」

 EYES本部第三研究室室長の大久保泰子は、愛媛支部長との通話を終えて受話器を置く。

 すると今度は、鳥取支部長から同じ連絡が届いた。こちらは被害人数が少なく、名雲羊介と久留米沙奈は無事だという報告付きだったが。

 一カ月前の鼬型との戦いを見ても、羊介は、確実にヒトツメとの戦い方が上手くなっている。おそらく、今までに発見されているヒトツメならば問題なく勝てるほどに。

 だが、ヒトツメの出現頻度が上がっている現状を考えると手放しには喜べなかった。

 羊介達にはまだ知らされていないが、彼らが鳥取に向かった直後に、愛媛県で狼型のヒトツメが出現した。四国にある支部総出で対応し、素早い討伐には成功した。二十名近い戦闘員の犠牲のうえで、だが。

 以前のように、出現頻度が精々一ヶ月に一体程度なら羊介一人でなんとかなっただろう。しかし、近頃のように頻繁に出現されると手は回らず、そしてこのように二カ所に現れると、当然ながら羊介だけではどうしようもなくなる。

 出来ることなら、羊介と同等の力を持つ者が、最低でもあと二名は欲しい。ないものねだりだと分かっていながらも、そう考えずにはいられなかった。

 その時、室長室の机の上で着信音が鳴り響いた。しかし、音の発生源は、先程まで手にしていた会社の電話ではなく泰子個人のスマートフォンだ。

 机の上に置いていたそれを手に取り画面を見ると『岡山支部 輪島』と表示されていた。同支部だけでなく本部への栄転も断り続けている若き天才が電話を掛けてくるのはとても珍しい、というより、こうして個人の電話に連絡が来るのは初めてのことだった。

「もしもし? どうしたの、輪島君。会社じゃなくて私の携帯に直接掛けてくるなんて。何か急用?」

『そうですね。念のために急ぎたい気持ちはあります』と答えてから一拍置いて、輪島は用件を切り出す。

『竹谷悠生君が、こちらの支部を訪ねてきました』

「……竹谷君が?」

『はい。ヒトツメ化が再発したと思う、と』

 泰子は目を瞬かせる。

「そういう言い方をするということは、目に見える変化……黒硬質化が始まっているというわけではないのよね?」

『はい。我々も半信半疑で検査を行った……実は現在もその最中なんですが、今の時点で既に確定したのでお伝えしておこうかと』

 こうしてわざわざ連絡をしてくることを考えれば既に結果を言っているも同然だが、泰子は黙ったまま言葉を待つ。

『確かに、竹谷君の言うとおり、彼の身体からヒトツメウイルスが検出されました。しかし、従来のものと比べると弱い、もしくは治癒の力で弱体化しているのかもしれませんけど、ヒトツメ化は実に緩慢なものです』

「あの子の力が効かない場合があるのかしら? ……いえ、もともとがあの子にしか分からない感覚頼りの力だものね。取り逃しがあっても、おかしくはないのかもしれない。私達、本部の研究者までそれを見逃したというのは言い訳のしようがないけれど」

『まぁ、そういう後悔は電話の後でお願いします』

 そんなことはどうでもいいと言うように泰子の自責の言葉を切り捨てると、輪島はさっさと話を続ける。

『それで、彼、どうして自分のヒトツメ化に気付いたと思いますか?』

 その問いに、泰子の頭は自然と思考を始める。黒硬質化もしていない。痛みもない。

 そして数秒後に出た答えは、

「……まさか、身体能力に変化が?」

『その通りです』

 輪島は語調強く言うと、体力面での検査結果について話し始める。それを聞きながらも、泰子の頭には先程ないものねだりだと捨て置いた考えが浮かんでいた。



「というわけで、明日、竹谷君がこちらに来ることになってるの。学校が終わったら、こっちに直接来てもらえる?」

 会議室で行われたヒトツメ討伐に関する報告会の後、沙奈は泰子に呼ばれて室長室へ来ている。ともに呼ばれた羊介は、眠いと言ってさっさと帰ってしまった。

「すぐに治癒するってわけじゃないけれど、とりあえずどの程度ヒトツメ化が進行しているのか、沙奈さんの力で治癒することは可能なのかとか調べたいの」

 沙奈は頷き、口を開く。

「もう一人の……熊型だった人は大丈夫でしょうか?」

「連絡済みよ。まだ変化はないみたいだけど、近場の支部で定期的な検査を受けてもらうようお願いしたわ」

「そうですか」

 他に質問はないらしく口を閉ざした沙奈を見て、泰子は「竹谷君についてはこのくらいかしらね」と言ってから、

「あと、名雲君の身体に埋め込んでいた発信機のことなんだけど」と続けた。

「部分的なヒトツメ化の影響なのか分からないけど、やっぱりあれ以来反応なしのままみたい。完全に機能停止したと判断するわ。また埋め込むことは無理だろうから、前みたいにはぐれたりしないよう注意してね」

 困ったような笑みを浮かべる泰子に、沙奈は無表情のまま頷いた。

 泰子との話を終えた沙奈は、寮へ戻る車内で羊介にメールをうっていた。

 悠生の身に起こった『再』ヒトツメ化、明日悠生が来ることを一気に書くと大分長文になった。返事は元から期待していないため、メールを送信するとスマートフォンをポケットにしまって窓の外に顔を向ける。

 すると、予想外なことにメールの着信音が鳴り、明日は雪が降るかもと思いながら沙奈はスマートフォンを取り出した。

『新しい戦力にでもするつもりか?』

 どこか確信を突いたような言葉に少しの間思考が止まった後、なるほどと沙奈は思う。ヒトツメ化の進行が遅く、常人には有り得ない身体能力を持つという点では羊介と同様であり、その可能性は十分に考えられた。

『そうは言っていませんでしたけど、そうかもしれませんね』

 そのメールに、返信はなかった。




 羊介の予想は見事に的中していた。

 翌日に沙奈が悠生を診た結果、ヒトツメウイルスの完全除去が可能であることを言っても治癒の指示は出ず、そして数日後、休日の朝から泰子に呼び出されて、そこで初めて沙奈は『適応感染者プロジェクト』を耳にした。

 その内容を簡単に言ってしまえば、羊介の言った通りだ。自我を保ったままヒトツメの力を使える者を育成、ケアするプロジェクト。もともとは羊介のように素の状態でウイルスに抗体を持つ者のためのプロジェクトだったのだが、羊介はあんななので育成もケアもその他もろもろも黙ってされる筈もなく、何より研究者達が怖がっていた。仕方なくプロジェクトは凍結していたのだが、今回、悠生の登場により、解凍されることとなったらしい。

 泰子を先頭としたプロジェクトチームにより、いくつか新しい発見も見つかった。

 悠生のヒトツメ化について。速度も、ヒトツメの力を使うことにより進行が早まることも羊介と同じだった。羊介のようにヒトツメ化をある程度コントロール出来るか否かは、現在、模索中である。

 沙奈は、泰子に頼まれてヒトツメ化、黒硬質化コントロールの研究――というより、トレーニングに参加している。

 何も置かれていない無機質な部屋で、ガラス越しに研究者達に見られながら黒硬質化をコントロールしようと試みる悠生。沙奈がやっているのは、そんな彼を近くで見守るだけの簡単なお仕事だ。もちろん、急激なヒトツメ化が見られた場合はすぐさま治癒にかかる必要があるため、片時も目は離せないが。

 ちなみに、悠生がヒトツメ化コントロールのコツを羊介に聞いたところ、

『力む必要も何か意識する必要もねぇよ。つーか、やろうと思ってやれねーなら無理だから諦めろ』とのことだったらしい。

 その言葉通り、トレーニング開始から三日が経っても、悠生は黒硬質化のコントロールを全く出来ずにいた。悠生曰わく、

『感覚は掴めてきてるんですけど、なんというか、固くてまったく動かないというか……』

『あぁ、便秘中みたいな感じ?』

『輪島君、その例えは若い子には伝わらないと思うわ』

 その後、沙奈が『泰子さんは分かるんですか?』と訊いたら笑顔を返されたことは記憶に新しい。

「ごめんね、久留米さん。今日も進展無しで」

 トレーニングの付き添いを終えて、研究所の一階隅にある小さな休憩所でスマートフォンをいじっていた沙奈の元に、両手に缶ジュースを持った悠生がやってきた。

「いえ。私、ぼーっとしてるの得意ですから」

 いつも通りのぼーっとした表情で言う沙奈に悠生は「あはは」と笑ってから両手に持った缶を軽く前に傾ける。

「どっちがいい?」

 右手にはコーヒー、左手には紅茶がある。

「ありがとうございます」

 紅茶を取った沙奈の向かいに悠生は腰掛けて、プルタブを開けた。微糖のコーヒーを普通に飲む悠生を見ながら、沙奈は口を開く。

「黒硬質化のコントロールに成功したら、竹谷さんはヒトツメと戦うんですか?」

「うん」

「家族の人は?」

 しっかりと頷く悠生だったが、沙奈は更に問うと、苦笑を浮かべた。

「あはは……。まぁ、猛反対されてるよ」

 その答えに沙奈は、やっぱり、と納得するが、

「久留米さんも反対みたいだね」と続けられた言葉に、自分でも気付いていなかった心を突かれた気がした。

 確かにそうなのかもしれない。今回の件にはどこか乗り気になれずにいる。

 沙奈がなんと返すべきか考えていると、悠生が俯き気味に呟いた。

「名雲さんはどう思ってるんだろう」

「何も言ってこないってことはどうでもいいんだと思いますよ。なら協力してくれてもいい気もしますけど」

「色々忙しいんじゃないかな」

「まさか。私の知る限り、孤独死まっしぐらな老人みたいな毎日を送ってますよ、あの人」

 悠生は笑みを浮かべて「そうなんだ」と言う。沙奈は、その笑みの理由に気づかぬまま「そうなんです」と答えた。

 悠生はテーブルの上に置いた缶に視線を下ろし、ゆっくりと、どこか照れくさそうに口を開く。

「こんなこと言ったら名雲さんに失礼かもしれないけど、僕は名雲さんみたいになりたいんだ」

「駄目ですよ」

 思わず即答してしまった沙奈に、悠生が小さく吹き出して笑う。

「違うよ。性格とかじゃなくて、ヒトツメから普通の人を守れる存在になりたいんだ。それに……」

 そこで言葉を途切れさせた悠生は、僅かに顔を上げて、

「岡山の学校、すごく楽しいんだ」と、まったく関係のないように思える言葉を口にした。しかし沙奈は、黙ったまま頷いて話を聞く。

「友達も出来たし、部活も始めてみたんだ。クラスメートの柔道部員に誘われて。本当に、こっちにいた時からは考えられないほど毎日が楽しいんだ」

 そう語る悠生の表情は晴れやかで、学校生活を満喫していることが伝わってきた。だが、不意に、その表情に陰りが差す。

「でも、だからこそ怖い。自分の仕出かしたことを、いつか忘れてしまいそうで」

「別にいいじゃねーか。忘れられるなら忘れちまえよ」

 その声に二人が顔を上げると、いつの間にか羊介がすぐ傍に立っていた。昼寝でもしていたのか、目は半開きで、髪には寝癖があるうえに、服装は寝間着っぽいジャージだ。

 黒硬質化の進行により研ぎ澄まされた感知能力でも接近に気付けず驚いた表情を浮かべる悠生に、羊介はしかめ面を向ける。

「つーか、お前がそんなんだからコントロール程度のことも出来ねーんだよ。おかげで俺が呼び出し受けるはめになったじゃねーか」

 羊介は頭を乱暴に掻きながら言う。どうやら寝起きで機嫌が悪いらしく、言葉がいつもより刺々しい。しかし、悠生はそれよりも気になるところがあったらしく、羊介に向かって軽く身を乗り出す。

「そんなのだから出来ない、というのは、どういうことですか? やっぱり何かコツがあるんですか?」

 羊介は舌打ちをする。

「コツじゃなくて当たり前のことだ。お前が使おうとしてんのは、ヒトツメの力だぜ? 他人を助けたいとか自分の罪を忘れないためとか、そんな人間らしい目出度い頭で使えるわけねーだろ。むしろ、そういう感情を全部隠すほどの殺意を……って言って出来るもんじゃねーからな。だから、やろうと思って出来ないなら諦めろっつったんだよ」

「なるほど……」

 悠生は話こそしっかり聞いていたようだが、羊介が言うように諦めるつもりはないらしい。

 そこで沙奈のスマートフォンに迎えの到着を知らせる連絡が届いた。沙奈は、まだ飲みかけの紅茶を持ったまま辞去する。

 玄関から出る際、振り返ると、羊介と悠生はまだ話を続けていた。




 それから一週間後、羊介、沙奈、悠生、そして岡田の四人は、ワゴン車に乗って栃木に向かっていた。この組み合わせを見れば説明するまでもないだろうが、ヒトツメが現れたのだ。

「虎型ヒトツメ。前に現れた時は、まだ名雲君がいなかったからね。多くの戦闘員が殺されてしまった」

 ハンドルを握ったまま言う岡田に、その後ろに座っている羊介が鼻を鳴らす。

「でも人間だけで倒せたんだろ? まぁ、デビュー戦にはちょうどいい相手なんじゃねぇの? 同じ型でも力まで同じとは限らねーけど」

 その言葉に肩を震わせたのは、助手席に座っている悠生だった。

 羊介の助言のおかげか、黒硬質化のコントロールに成功した悠生は、家族の反対を押し切り、今回、初の討伐任務に駆り出された。

 そんな理由もあり、今回は沙奈だけでなく羊介も同行しているのであった。

 悠生の震える手には、過去に一度現れた虎型ヒトツメについて記された資料が握られている。

『狼型の能力をスピード寄りの平均タイプとするならば、虎型は力寄りの平均タイプである』

 その資料を暗記している羊介は、そんな一文を思い出しながらにやりと笑う。

「それに、パワータイプってんなら、ちょうどいいだろ。象と虎。力比べしたらどっちが勝つかなんてガキでも分かるぜ?」

 その象に勝った馬に言われても……と、友人達とラインで話をしながら思う沙奈だったが、極度の緊張状態にある悠生は心強く思ったのか、顔を強ばらせたまま大きく頷いた。

「お前、本当にコントロール出来るようになったんだろうな?」

 悠生はコクコクと頷くが、羊介は変わらず疑いの目を向ける。コントロールに成功するところは沙奈も見ているため間違いないのだが、今の悠生を見れば、羊介がそう考えてしまうのも無理はないだろう。

「ならもう少し落ち着けよ。それとも武者震いか?」

「き、緊張震いです。すいません」

「まぁそうだろうな」と呆れた表情をした羊介の隣で、先ほどから黙ったままスマートフォンをいじっていた沙奈が不意に顔を上げた。

「あの、栃木にはレモン牛乳というものがあるそうです」

 何の脈絡もない、そして雰囲気にそぐわない言葉に、三人は呆れやらなんやらで返す言葉が咄嗟に出ず、車内には沈黙が流れる。しかし、当の沙奈はまるで気にした様子もなく、スマートフォンを横目に見ながら言葉を続けた。

「今日学校を休んだ理由がまた風邪じゃあ怪しいので、旅行ということにしておいたんです。そしたら、友達からお土産を催促されまして。冗談でしょうけど、たまには買っていこうかと」

 スマートフォンの画面には、飼い犬なのかチワワの写真から吹き出しが出ており、

『お土産は食べ物がいいなぁ』と書かれていた。その画面は動物番組のようだ。可愛らしいが、なんともシュールである。

「というわけで、ヒトツメを倒した後、お土産屋さんに寄ってもいいですか?」

「あはは……。えっと、名雲君も竹谷君もいいかな?」

「え? あ、はい」と我に返ったように頷いた悠生を見て、羊介は、

「お前もこのくらい力抜いとけ」と口角を上げて言った。




 突如商店街に現れた虎型ヒトツメは、半径二百メートルに渡って暴れまわり、その範囲にいた一般人を殺害した。自分の縄張りとしたつもりなのか、現在はその中心地点、商店街の通りで眠っている。

 自動販売機に隠れている羊介と悠生の視線の先には、事前に聞いた報告通り、地面に伏せて大きな目を閉じている虎型ヒトツメの姿があった。

 羊介は、相変わらずガタガタ震えている悠生の後頭部にビデオカメラを向けると、その背中を強く蹴った。

「うわぁ!」と叫んでから三回ほど地面を転がった悠生に、虎型ヒトツメが気付かない筈もなく、目を開け、のそりと身体を起こした。

 羊介はそんな様子を撮影している。今後の研究のために、と泰子に頼まれたことだ。初めこそ面倒に思っていた羊介だったが、ビデオカメラなど構うのは初めてだし、他人の戦いをただ見ているよりは面白いと、今では内心楽しんでいた。何よりも、緊張でひきつった悠生の顔が、羊介の笑いのツボだった。

 まさにその顔を撮して「くくく」と笑いを押し殺す羊介だったが、不意に悠生の表情が引き締まった、そしてどこか怒りの混ざったものに変わった。

 その視線がヒトツメから逸れていることに気付き、その先にカメラを向けると、そこには人の死体が山積みされていた。

 相変わらず良い子ちゃんだな、と羊介は呆れるが、まぁいい、と悠生とヒトツメが写るようカメラを引く。理由はどうであれ、怒りは殺意に繋がるからだ。

 その感情を感じたのか、悠生をじっと見ていたヒトツメが、威嚇するように唸り、牙を向いた。

 動くぞ、とカメラはそのままに羊介は悠生に目を向ける。

尻餅を付いていた悠生が起き上がろうとした瞬間、ヒトツメが動いた。前脚を突き出して飛びかかってきたヒトツメを、悠生は横に跳んでなんとか避ける。立ち上がり、体勢を整えて表情を引き締めるものの、抉れた地面を見てすぐに顔を青くする悠生に羊介は今度こそ声を押し殺せずに腹を抱えて笑う。

 悠生はその笑い声を聞きながら、

『いざとなったら名雲さんが助けてくれます』という沙奈の言葉を思い出していたが、怪しい気がする。助けるにしても、きっとボロボロになってからだ。

 そこで悠生は軽く首を振って敵を見据える。

 初めから助けを期待してちゃ駄目だ。今は、名雲さんが言ってたように……、

『言っただろ。力む必要も、何か特別なことを意識する必要もねぇ』

 敵に対する感情全てを、怒りも、恐怖さえも殺意に変えて、

『ぶっ殺せ』

 再び飛びかかってきたヒトツメに鋭い眼光を向けた悠生は、黒硬質化させた両腕を交差して、その一撃を受け止めた。この虎型と比べても鈍重な自分では、羊介のように避けてすぐさま反撃に移ることは出来ない。だが、その代わりに、耐久性と単純な力ならば、遥かに勝っている。

 悠生は交差させた腕を振ってヒトツメを払いのける。それだけで、四メートルを超えるヒトツメが地面を跳ねた。

「マジで馬鹿力だな」

 呟く羊介の視線の先で、悠生がヒトツメとの距離を詰めて攻撃を繰り出す。その一撃一撃は、見るだけで分かるほど重たいもので、攻撃速度も申し分ない。だが、動きが遅いため、ヒトツメは軽々と悠生の正面から移動して側面や後方から襲い掛かる。その度に、悠生は顔をひきつらせて攻撃を受け止めていた。

 そのたびに噴き出していた羊介だったが、しばらく繰り返されると流石に飽きてきたのか退屈そうな顔になり、そして見るからに苛立ってきた。

 今回のヒトツメは、出来る限り殺さず人に戻すよう泰子から頼まれている。いつものように動けなくなるほど痛めつけずとも、悠生の力ならばヒトツメを抑えつけることも可能だろうと。それを悠生一人で出来るか、という試みもあったのだが、ここまでグダグダした戦いを見せられると、短気な羊介は自分が痛めつけて悠生が抑えた方が早い、という考えになってしまう。

「おい」と羊介は声を張るわけでもなく口を開く。今の悠生には、この声量で十分届くだろう。

「もういい。俺がやる。勢い余って殺しちまうかもしれねーけど」

 その言葉に目を見開いた悠生は、飛びかかってきたヒトツメの前脚をもろに受けて、地面に押し倒された。頑強な身体を持っている悠生も流石に一瞬息が詰まらせたが、すぐさま目に力を宿し、肩を抑えつけられたまま足を曲げ、一気に解放してヒトツメの胸を蹴り上げる。ヒトツメの巨大が僅かに浮いた隙に懐から転がり抜けると、地面に手を付いて跳び上がりながら踵による後ろ蹴りを更に一撃。その攻撃が目に掠って怯んだヒトツメの側面に回り込み、脇腹に重たい拳を叩き込んだ。

 その拳は硬質化した肌を貫き、柔らかい肉にまで届いた。振り払われた右前脚を後退して避けた悠生の前で、ヒトツメが低く太い唸り声を上げる。その口からは、脇腹同様黒い液体が垂れている。

 敵がどう出るか見極めようと悠生が低く構えた時、一歩後ずさったかと思うと、ヒトツメは身を翻した。

 しまった、と悠生が追おうとした瞬間、彼のすぐ横を、羊介が駆け抜けた。

 一瞬でヒトツメの横に移動した羊介は、傷付いた脇腹に蹴りをいれる。ヒトツメは悲鳴を上げて怯み、ようやく追い付いた悠生が、のし掛かるように首を両手で掴んで地面に抑えつけた。ヒトツメは前脚を背中に伸ばすが、体勢のせいで力が入らず、攻撃が当たっても悠生は気にしていない様子だった。しかし、その行動が気に入らなかったらしい羊介は、再度ヒトツメの脇腹に蹴りを入れた。ヒトツメは痛みに叫び抵抗を激しくする。

「ぼ、僕は大丈夫ですから、早く久留米さん達を……」

「アホか。こんな暴れてる奴に一般人を近付ける気かよ。まぁ、今から呼べばちょうどいいくらいか」

 羊介はポケットからスマートフォンを取り出すと、沙奈に電話を掛けた。

「終わったぞ。さっさと来い」

 開口一番そう言う羊介の声を聞きながら、そういえば、カメラはどうしたんだろう、と悠生は自動販売機の方に顔を向ける。すると、こちらを向いた状態で置かれたカメラと目があった。変なところで律義だ、と悠生は羊介に向き直る。

「あ? 叫び声? 少し大人しくさせてるだけだ。気にすんな」

 ゲシゲシと蹴られ続けているせいで、ヒトツメの声は、段々と小さく弱いものになっていく。いつしか悠生への攻撃も止み、抑えつけられ、なす術なく殴られる姿が、少し前までの自分と重なった。

「名雲さん、もう十分なんじゃ……」

 その言葉を遮るように、羊介は一際力を込めた蹴りをヒトツメに叩き込んだ。悠生の身体が浮きそうになるほど、ヒトツメが悲鳴とともに大きく跳ねる。

「あ? 気にすんなっつってんだろ。いいからさっさと来い」

 そう言ってスマートフォンをしまった羊介は、鋭い眼でヒトツメを見下ろした。ヒトツメはその視線と殺気に身を震わせる。

「全然十分じゃねぇ。ここまでやって、最低限だ」

 その言葉に顔を上げると、羊介がヒトツメに向けた目を今度は悠生に向けていた。

「お前の時みたいに瀕死状態にするか、そうじゃなきゃ手足を潰す。その両方をやって、ようやく十分だ」

 羊介はヒトツメの顔の前にあぐらを掻き、大きな単眼に人差し指を伸ばしながら言う。ヒトツメは目を瞑るが、構わず瞼の上からつつく。人で言えば、胸を剣先でつつかれているのも同然だ。ヒトツメの恐怖が、身体の震えで悠生にも伝わってくる。

「久留米が死ねば、俺も死ぬ。それか、こんな糞化け物になっちまう。お前もな。もしお前の甘さで久留米が死ぬようなことがあったら、俺がお前を殺すぜ?」

 淡々とした口調だが、それが本気であることは悠生にも分かった。

 その後、岡田や戦闘員達とともに駆けつけてきた沙奈により、虎型ヒトツメは暴れることなく人に戻った。虎型ヒトツメとなっていたのは二十代ほどの綺麗な女性で、彼女にのし掛かっていた悠生は慌てて跳び退いた。

 毛布に身体をくるまれた女性が車の中に運ばれるのを見ながら、沙奈は隣の羊介に口を開く。

「あの、若い女性の身体をツンツンしていた名雲さん」

「身体じゃねーよ。眼だ」

「うわぁ。マニアックですね」

「大体、それを言うならコイツだって馬乗りになってただろ」

 二人の後ろに立っていた悠生は唐突に親指で指されて「えっ」と驚く。沙奈は振り返り、小首を傾げた。

「何か弁解はありますか?」

「え、えっと、ないです。ごめんなさい」

「肌の感触はどうでしたか?」

「え!?」

「なに聞いてんだよ、お前は」




『西の殺人鬼にとうとう目撃情報が出ました。西の殺人鬼が目撃されたのは、ここ、昨日、元市長の古都吉蔵さんが遺体となって発見された路地裏です。犯行推定時刻頃、この路地裏から犯人らしき人物が出てくるところを目撃した方がいました。犯人は、グレイのTシャツの上に紺色のシャツを羽織り、白いズボンを穿いていたそうです。服装と似顔絵が既に公開されております。……はい。それがこちらとなります。えー、見て分かる通り、かなり若い顔立ちです。目撃者によりますと、中学生か高校生ほどの少年だったとのことです。当時十六歳の少年による関東連続殺人に続き、またしても、少年事件となる可能性が浮上してきました』

 笑うと爽やかそうな少年の似顔絵を映すカーナビから逸らした目をコンビニに向ける。雑誌コーナーの隣、脚を畳めば人が入れる程度の大きさのアイス用冷蔵庫を覗き込むように沙奈が、そしてその斜め後ろに岡田が立っていた。目当てのレモン牛乳は買えたのだろうか。

 助手席に座っている悠生は、ニュースを映すカーナビをじっと見ている。無差別に人間を殺していた東の殺人鬼と違い、西の殺人鬼には殺しの動機がはっきりしていた。今回殺された元市長も、その前に殺された政治家や夫婦、進学校の生徒五名など、誰もが犯罪に手を染めながらも罪に問われなかった者達だ。元市長は収賄、政治家は飲酒運転による死亡事故を隠蔽し、夫婦は幼い子供への虐待殺人を事故に見せかけ、進学校の生徒五名は集団強姦により被害者を自殺に追い込んだ。そのどれも、不起訴、証拠不十分、あるいはネット上で噂される程度のものだったが、西の殺人鬼により、証拠品や、殺す前に自白させた音声などをネットに投稿されて白日のものとなった。故に、表立ってはいないが、本音を言えば西の殺人鬼に同調している者は少なからずいる。

 殺人鬼とはいえ所詮は人間。好敵手にはなり得ない。そんな理由でまるで興味がない羊介でも、ぼーっとニュースを見ていればこのくらいのことは自然と覚えていた。

 しかし、同じような立場にいる悠生は、羊介に反して画面を真顔で凝視し続けている。果たして悠生は西の殺人鬼に賛成派か反対派か。

 聞かなくても分かるか、と羊介は座席に深く背をもたれる。

 その時、ほぼ同時に運転席と後部座席のドアが開かれ、沙奈と岡田が乗り込んできた。

 ニュースを見て若干表情を暗くした岡田に対し、沙奈はコンビニ袋を羊介と悠生の間に持ってきて、中身を見せるよう広げて見せた。

「アイスどれにします?」

 袋の中には、レモン牛乳と、四種類のカップアイスがある。

「僕達から選んでいいの?」と悠生が訊く間に、羊介は袋からレモンシャーベットを取り出していた。

「はい。私と岡田さんの好みで選んだので、お好きなのをどうぞ」

 その言葉に甘えて悠生がバニラアイスを取り出すと、沙奈は抹茶アイスを取り、残ったチョコチップアイスを岡田に手渡した。車内こそ涼しいが、外の気温は三十度近い。アイスを口に運ぶと、身体が一気に冷えていく感覚が心地良かった。もっとも、痛覚と同時に温感もない沙奈には、そんな気分は味わえず、ただただ抹茶アイスの味だけを味わっていた。

「ところで名雲君」と、大分羊介にも慣れたらしい岡田が振り返る。

「竹谷君が一人で戦えるか確認して欲しいって室長から言われてたけど、どう報告するんだい?」

「まぁ、戦えるは戦えるんじゃねーの。痛めつけるか殺すか出来ない限り何があってもおかしくねーけど」

 その言葉に悠生は肩を縮める。

「つーか一人で戦えたとしても、久留米が一人しかいないんじゃ意味ねーだろ」

「まぁ確かに不安ではあるけど、例えばヒトツメが二カ所で同時に出現した場合は、どっちかが一人で戦闘に当たる必要も出てくると思うよ。最初の頃は竹谷君に付いてもらうことになるんじゃないかな」

「はぁ?」と不満げに眉をひそめた羊介に岡田はフォローを入れる。

「でも、基本的には名雲君に出動してもらうことになると思うよ。同時出現とかで竹谷君が出る場合、久留米さんがそちらに付くっていうだけで」

 不満顔の変わらない羊介に沙奈が首を傾げる。

「名雲さんなら大抵のヒトツメは楽勝だから大丈夫じゃないですか?」

「アホか。ヒトツメ化なんぞ気にしながら戦うのが嫌だって最初に言っただろ。『戦う時は久留米を同行させること』だ」

「あぁ、そういえばそうでした。どうしましょう」

 アイスのスプーンをくわえたまま顔を向ける沙奈に、岡田は苦笑する。

「それは反故になってもしょうがないんじゃないかな。その頃とは状況も大分変わってきてるし」






『ごめんなさい。でも状況が違うのは分かっているでしょう? 協力してくれないかしら』

「沙奈ちゃん?」

 泰子の言葉を思い出して手を止めていた沙奈は、隣に座っている里香に名前を呼ばれて顔を上げた。

「すいません。ぼーっとしてました」

「随分余裕だな、おい」

 そう言うのは、斜め向かいの席に座っている羊介だ。

 羊介は「で」と鋭い眼を隣の悠生に向ける。

「なんで余裕ぶっこいて呆けてる奴よりお前は馬鹿なんだよ」

 頭に手を置いて髪が抜けそうなほどわしゃわしゃとする羊介に、悠生は返す言葉もないのか、意気消沈した様子でされるがままになっている。

 外に立っているだけで全身から汗が出る八月中旬の猛暑。四人は、EYES本部研究所の食堂に集まっていた。

 元々は、近頃ヒトツメが頻出して授業に遅れ気味のまま夏休みに入ってしまった沙奈のため、以前のように里香が家庭教師を買って出たのだが、そこに、同じく勉強がおろそかになっている悠生が参加を希望し、二人同時に見るのは里香が大変だろうという沙奈の気遣いにより羊介が呼び出されたというわけだ。羊介は嫌がるだろうという気遣いは出来なかったようだが。

 とはいえ、大したニュースがないこの頃。ヒトツメが現れない限りは羊介もヒマを持て余していたらしく、渋々悠生に勉強を教えている、のだが。

「名雲さん、教え方が下手くそ……ではないのですが、あまりに教科書通り過ぎる気がします」

 沙奈の言うとおりだった。例えば悠生が分からないところを訊くと、教科書を指して『これ見ろ』としか言わない。説明して欲しいと言っても教科書を読むだけだ。分かり易いよう自分の言葉ややり方で説明する里香とは正反対だった。教科書に書いてあることが分からないから訊いているというのに。

 しかし羊介は沙奈の言葉に「はぁ?」と呆れたような表情を浮かべる。

「当たり前だろ。教科書に書いてあんだから、それをやればいいだけだ」

「覚えやすかったり効率が良かったりする勉強方法とか教えてあげればいいじゃないですか」

「まさかお前、俺が効率良く勉強出来てたとでも思ってんのか? 出来てたら勉強漬けになんかならなかったっつーの。教師はお前が言ったみたいに教科書通りの教え方しか出来ない奴ばっかりだったし、家庭教師や塾の金もなかった。ババアなんか馬鹿過ぎて自分が分からねーから『勉強しろ』と『教科書読め』しか言わねー。効率の良いやり方を自分で調べたり考えたりすれば『そんなことは教えてない』。そんな環境だぜ?」

「自主性のない子供が育ちそうな環境ですね」

 何か言いたげな視線を向けてくる沙奈に、羊介は短く笑った。

「まぁこうなったのは反動もあったんだろうな」

「へぇー、意外。名雲君ってもっと自由奔放に育ったのかと思ってた。親は放任主義、みたいな」

 そう言うのは、二人の会話を真顔で聞いていた里香だ。羊介の話に、内心どう反応すべきか悩んでいた悠生も、二度頷いて同意する。

 悠生と里香は、羊介の正体を知らない。里香はともかく悠生には知られていそうなものだが、上役の判断で今は箝口令が敷かれている。

「放任主義な親ねぇ……」と呟く羊介に沙奈が問う。

「もしそんな両親に育てられていたら、どんな名雲さんになってたでしょうね」

「さぁな」

 羊介はどうでもよさそうに返してから隣に目を向ける。

「動き止めてないでさっさとやっちまえよ」

「あ、はい」と悠生はノートに視線を落としてから「えーと……」とすぐに顔を上げた。

「名雲さん、ここが分からないんですけど」

「ここ見ろ」

 うなだれる悠生に里香が苦笑しながらアドバイスするのを横目に沙奈が羊介に顔を向ける。

「虎型だった女性、ヒトツメと戦うことを決めたそうですよ」

「へぇ。アイツも再ヒトツメ化したのか」

「泰子さんから聞いてませんか? 一度の治癒でウイルスを完全に消すことは出来ないみたいです。最近人に戻した方々の中にも、再ヒトツメ化が起これば戦うと言っている人もいるそうですよ」

「そんなに増えても邪魔だろ」

「最近、ヒトツメの同時出現が多いじゃないですか。戦える人はいくらいても困らないと思いますよ。みんなが名雲さんみたいに余裕をもって戦えるようになれば、各支部に配属してもらうことも出来るでしょうし」

「んなことしたら俺が暇になるだろうが」

「まぁそうですね」とだけ言ってノートに視線を落とした沙奈に、羊介はしかめ面のまま頬杖をつく。そして、何気なく悠生のノートに目を向けて、

「それ間違ってんぞ」としかめ面に呆れを混ぜた表情で指を差した。

 悠生を見ていた里香も気付かなかったらしく、

「あ、本当だ……。あはは」と苦笑を浮かべてから、気を取り直すように両手を合わせて立ち上がった。

「よし! ちょっと休憩しよう! 効率良くスキルアップするには適度な休憩が必要! てなわけでお姉さん達がジュースを奢ってあげよう!」

「達?」と顔をしかめる羊介の後ろに回り込んだ里香は、彼の右腕を掴んで無理矢理に立ち上がらせる。

「お前一人で行けよ」

「いいからいいから」

 半ば引きずられるように食堂を出て行く羊介を見送ってから、沙奈はシャーペンを置いた。

「じゃあお言葉に甘えて休憩しときましょうか」

 悠生は頷き、長く息を吐いてから背もたれに身体を預ける。その表情には疲れが浮かんでいた。それは当然だろう。いつもはぐうたらしている羊介や力を使っても体力を消耗しない沙奈と違い、悠生は普段から訓練漬けの毎日を送っているうえに、近頃は単身でヒトツメと戦うことも少なくない。大抵、沙奈と羊介が別の任務地から急行しているとはいえ、ヒトツメ化を抑えられる者がいない状態での戦闘は精神的にも辛いだろう。悠生は羊介と違いヒトツメを殺す気がないため、余計に。そういう面を見ると、やはり戦力の増加は有り難い。

「お疲れですね」と沙奈が言うと、気遣い屋の悠生にしては珍しく、否定せずに苦笑を浮かべるのみだった。

「……竹谷さん」

 小さな呼び掛けに悠生が「ん?」と目を向けると、沙奈は深々と頭を下げた。

「ごめんなさい。ちゃんとウイルスを消せていれば、こんなことにはなりませんでした」

 その謝罪に、悠生が咄嗟に何か言おうとすると、それを遮るように沙奈が再度口を開く。

「謝っても困らせるだけというのは、なんとなく分かってます。前に、竹谷さんの気持ちを聞いた時から」

 でも、と沙奈は言葉を続ける。

「竹谷さんがヒトツメ化した時、名雲さんが言ってたんです。竹谷さんは『世界に怒っている。世界を壊そうとしている』って」

 その真偽を問うような視線を向けられた悠生は怯みながらも、やがてぎこちなく頷いた。

「そう、かもしれない。世界とかは考えてなかったけど、自分の周りにあるものを全部壊してしまいたかった。それで自分が変わるわけでもないのに」

「きっと、そう考えてしまうのは悲しいけど珍しいことじゃないんだと思います。だから、名雲さんじゃないですけど、忘れられるなら忘れた方がいいんじゃないかなと考えてしまいます。こんな風に再ヒトツメ化が起こらなければ、と」

 俯く沙奈に、悠生は困ったように笑う。

「ごめん。久留米さんがそんな風に考えてくれてたなんて、全然気付かなかった」

 悠生がヒトツメ化した時の一件から、普段の雰囲気よりずっと優しい人だということは分かっていたのに、と悠生は僅かに後悔する。しかし、それ以上に嬉しかった。

「ありがとう、久留米さん。でも、本当に僕は大丈夫だよ。初めこそ……前に言ったみたいに、前向きとは言えない感情から決めたことだったけど、今はこんな風に毎日が楽しいし、僕と同じようにヒトツメ化してしまった人を助けられることにやりがいも感じてる」

 顔を上げた沙奈が見たのは、晴れやかな笑顔を浮かべる悠生だった。

「だから、ありがとう」

 その笑みに珍しく照れたのか、沙奈は顔を逸らしながら小さく頷いた。

 そんな二人の様子を、ジュースを両手に持った里香と羊介が食堂の入り口から隠れて見ていた。

「うひひ」と小さく笑う里香に呆れ顔を向けていた羊介は顔を上げて室内の二人を見ると、気が抜けたように小さく息を吐く。その口元は、微かに緩んでいるように見えた。




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