鼬は無意味
熊倉中学校に入学から二ヶ月。沙奈の学校生活は、概ね順調だった。ハル以外にも友人と呼べる人物が数人出来て、今日も、昼休みは四人で机を合わせて話を弾ませていた。中間テストの点数や順位、あの引っかけ問題はズルい等の会話から、いつの間にか話はヒトツメのものへと変わっていった。
二ヶ月弱前に起こった、象型ヒトツメによる事件で、沙奈と羊介は再び注目を浴びることになった。校舎にいた生徒が、写真をSNSにアップしていたのだ。ニュースでその画像が流れることはなかったが、例のごとくネットには残り、二ヶ月経った今でも様々な憶測が飛び交っているらしい。事件後、その画像を目にしたというクラスメイトに質問責めにされた沙奈が泰子に答えていいのかと訊いたところ、
『戦闘員のことなら普通に答えてもらって構わないけど……。そうね、名雲君は特殊な訓練を受けている人、久留米さんは……あの中学校に友達が通っていて、心配で付いてきた……ってことじゃあ駄目かしら?』
というわけで、その通りに答えていた。当然それで質問が終わる筈もなく、
『特殊な訓練って?』
『どうやってあの人が選ばれたの?』
『友達大丈夫だった?』
など、更なる質問責めにあったが、その殆どを『詳しくは教えてもらえない』で済ませた。
実際のところ羊介は訓練などせずに、今はテレビでも見ているのだろう。一ヶ月ほど前、ヒトツメに関する資料を読破したらしい羊介は近頃『ヒマだ』『退屈だ』が口癖となってきている。この二ヶ月間、狼型、蠍型、熊型、計三体のヒトツメと戦ったが、どれも羊介を満足させるほどの敵ではなかったらしい。一週間前に戦った熊型なんかは八つ当たりでボロボロにされていた。もっとも、そのおかげで人に戻すことが出来たのだが。
友人達には、これらは内緒の話だと釘を刺しているが、ある程度噂が流れるのは仕方ないことだろうと沙奈は諦めている。それ以上は知らないと言えばしつこく訊いてくることもないし、中学二年生として見れば、この学校の生徒達は物分かりのいい方なのだろう。
名雲さんなんて、未だにゴキブリ発言を根に持ってるし。と沙奈が思っていると、
「ねぇねぇ。あの名雲さんと最近会ったりしてないの?」
友人の一人が、目を輝かせながらそう訊いてきた。
前述した通り、彼女達はヒトツメやEYES、両親のことや立てこもり事件についてしつこく訊いてくるようなことはしない。ただ、やはり思春期、年頃の彼女達にとって、羊介のことだけは気にせずにはいられないらしい。
あの人、私の両親を殺したんですよ。と言ったら彼女達はどんな顔をするだろう。と思いながら沙奈は口を開く。
「一週間前に会いましたよ」
「えー。そうなの? 二人で? どこか出掛けたの?」
戦闘員二人と、計四人で。北海道まで。ヒトツメ退治に。と言うわけにはいかず、沙奈は首を横に振る。
「偶然会っただけですよ。相変わらずカサカサしてました」
超スピードで熊型ヒトツメを追い詰める羊介を思い出しながら言う沙奈に、友人達は「カサカサ?」と首を傾げて自分達の手を顔の前まで上げた。中学生である彼女達の手は、当然ながらカサカサにはほど遠いものだった。
放課後。沙奈は、クマ校から研究所に向かう車の窓から外の景色を眺めていた。
沙奈はEYESの送迎で登下校をしている。当然ながら、沙奈の要望ではなく、万が一にも沙奈に何かあってはならないというEYES側の要望だった。と言っても、放課後や休日の自由がないわけではない。友達と一緒に下校しているときはバレないように後ろを付いてくるだけだし、休日に友達と遊ぶ時もバレないように付いてくるだけだ。おかげで、不審者情報が出る度に、もしや、と思わされる。
沙奈と同じ様な立場に置かれているのは羊介だが、当然ながら彼にはストーカーもとい護衛は付いていないし、だからといって行動が制限されているわけでもない。まぁ、当然といえば当然だろう。泰子も言っていたが、生半可な拘束や監禁は無意味なうえ、羊介に臍を曲げられて協力を拒否されれば、困るのはEYES、そして日本、ひいては世界だ。
そんなわけもあり、自由で、金銭的にも満ち足りている筈なのに、彼は退屈すら潰せずにいた。
『小説……は無理としても、漫画とかゲームをやったらいいじゃないですか。スリルあるやつとか、探せばあるんじゃないですか?』というのは、資料を読み終わった暇になったと愚痴っていた羊介に沙奈が言った言葉だが、
『創作に現実以上のものを求めるなよ。スリルもホラーもグロテスクだって、現実の方が何百倍も上だぜ』なんて返されてしまった。考えてみれば、確かにそれはもう当然だった。
暇なら名雲さんも竹谷さんにお別れしにくればいいのに。
沙奈は窓に側頭部を当てながら思う。
ヒトツメから生きたまま人に戻った初めての例となった竹谷悠生は、心身の治療、EYESへの研究協力などにひとまずの区切りが付き、明日、家族とともに岡山へ引っ越すことが決まっている。今いる場所からなるべく離れたいという家族の希望と、近くにEYESの支部がある場所を選んだ末の結論だった。
厳重な警備が敷かれた門を抜けて研究所にやってきた沙奈は、一階にある一室の扉をノックした。
「はい」と短い返事が聞こえて、ドアノブに手を掛ける。
羊介がいたような窓のない狭い部屋ではなく、テレビも置かれていて、日当たりもよく快適そうな部屋だ。
室内には、悠生だけでなく、彼の母親もいた。沙奈も、悠生の母親とは事件後に一度顔を合わせている。
二人は明日の準備をしていたらしく、部屋の隅には旅行用の鞄が、テーブルの上には私物の日用品が並べられていた。
悠生の母親は沙奈を見て深く頭を下げると、悠生と一言二言交わしてから部屋を出て行った。
その背中を目で追っていた沙奈は、扉が閉まると前に向き直る。彼女の視線を受けた悠生はどこかぎこちない表情で斜め下に目を逸らした。
「……身体の具合はどうですか?」
沙奈の問いに、悠生は肩を軽く跳ね上げてから、どもりながら返事をする。
「だ、大丈夫、です。もともと怪我はあまりなかったし……、うん」
「そうですか」
それだけの会話で、室内に沈黙が流れた。ただ、沙奈が黙っているのは、わざわざ母親を出て行かせたということは悠生には何か言いたいことがあるのではないかと思ったからだ。
「あ、あの……」
意を決したのか沈黙に耐えかねたのかは分からないが、案の定、悠生は口を開いた。沙奈が小首を傾げると、今度は悠生も――様子を伺うようにだが――しっかりと目を合わせる。
「ごめん。ほ、本当は、もっと早く会って、謝ってお礼を言いたいと思ってたんだけど……、その、あのことを知ってる人と会うのは、まだ少し、怖くて」
頷く沙奈に、悠生は深く頭を下げる。
「あの時は、本当にごめんなさい。それと、ありがとう」
「はい。どういたしまして」
悠生は顔を上げると、少し言いづらそうにしながら、
「でも」と言う。
「どうして、久留米さんと名雲さんは危ない目にあってまで僕を助けてくれたの?」
沙奈は再び小首を傾げると、珍しく困ったような声を出す。
「どちらかといえば、私は仕上げくらいしかしてなくて、危ない目にあったのも竹谷さんを助けたのも名雲さんなんですけど……。名雲さんが竹谷さんを助けたのは、私が命令したからです。あの人、私の言いなりですから」
「へ、へぇ……」と少し引き気味の悠生。
「それで、私が竹谷さんを助けたいと思った理由は」
と沙奈が口にした時、背後からドアが開く音が聞こえて、それに続いて後頭部に小さい衝撃がはしった。
振り返るとそこには、顔をしかめた羊介が立っていた。どうやら頭をはたかれたらしい。沙奈は頭頂部の髪の乱れを直しながら羊介を見上げる。
「誰がお前の言いなりだ。そっちから交換条件出してきたんだろうか」
「交換条件?」
思わず、といった具合に悠生が訊く。彼の存在に今気付いたというように顔を向けた羊介は、口角を上げて笑った。
「よう、久し振りだな。えーと、虐められっこ」
「竹谷悠生さんです。でも顔を覚えてるだけでも驚きです」
「当たり前だろ。こいつには久し振りに爆笑させられたからな。制限付きの戦いだったが、ここ最近の奴らと比べれば楽しめたし」
羊介と再び視線が合うと、悠生は少し慌てながら頭を下げた。
「あの、二ヶ月前は本当に――!」
「あぁ、そういうのはいい。別に助けたかったわけでもねぇ。んなことより久留米、ヒトツメが出た。行くぞ」
沙奈は特に表情を変えることないまま頷き、悠生に頭を下げると部屋を出て行った。それに続こうとした羊介だったが、不意に足を止めて振り返った。
「お前、また学校通うのか?」
悠生がぎこちなく頷くと、羊介は嘲るように短く笑う。
「ビクついてんじゃねーよ。また虐められるぜ?」
「そ、その時は、名雲さんが言ったみたいに、やりかえしてみます」
悠生はどもりながら言って、やはりぎこちないが、笑みを浮かべて見せた。羊介も今度は不敵に笑う。
「あぁ。精々やってみろよ。桁はちげーけど同じ殺人鬼として応援してやる」
「ひ、人は殺しません。もう、絶対に」
「なら、ぶん殴っても何も変わらなかったら俺に連絡しろよ。色々と楽しませてもらった礼に、何人でもぶっ殺してやるよ」
その言葉に悠生は困ったように笑ってから、
「はい」と答えた。
「随分お優しいですね」
羊介が部屋を出ると、扉の横で沙奈が壁にもたれていた。
「面白い奴が嫌いな奴はいないだろ。てか、先行っとけよ」
「ヘリか車か聞いてませんから」
「ヘリだ。さっさと上に行くぞ」
足早に歩き始める羊介の背中を沙奈は小走りで追う。
「なんか、今日はいつにも増して積極的ですね」
「あぁ」と羊介は振り返り、口角を上げて笑った。
「今回の敵は、久し振りに楽しめそうだからな」
EYES青森支部の各部署責任者と数名の研究員や戦闘員、そして羊介と沙奈がいる会議室には重苦しい空気が流れていた。それもその筈、今回現れたヒトツメにより、既に三十人を超える死者が出ているのだ。しかも、その内の十人はEYESの戦闘員だという。
今まで現れたヒトツメの中で、おそらく最強の敵です、という前振りの後、中年の研究員がスクリーンにヒトツメの画像を映し出した。それを見た沙奈は、思わず目を丸くして、
「イタチ?」と呟き、隣の羊介を見た。
長い胴体に比べて小さな頭、短い脚、そして一際目立つ長い尾。ヒトツメの証である大きな一つの目、塗り潰したような黒色ではあるが、それでもどこか可愛らしい印象を受ける。
「名雲さん、楽しそう、っていうのは、あれですか? 小動物と戯れる的な……」
耳に顔を近付けてひそひそと話す沙奈に、羊介は呆れた顔を向ける。
「んなわけねーだろ。いいから黙って聞いてろ。普通のイタチじゃねーんだと」
その言葉に沙奈は素直に従ってスクリーンに目を向ける。その間に、研究員はこの鼬型ヒトツメの身体が百五十センチ程度、長い尾は百センチほどだと説明していた。身体だけなら、沙奈より僅かに大きい程度。これまでのヒトツメの比べると最小サイズだ。
続いて、研究員は指示棒で鼬型の尾を指す。そこで、沙奈はようやく、そのおかしな点に気が付いた。他の箇所と比べて、尾に光沢がある。まるで、研ぎ澄まされた刃物のような。
「鼬型の主な攻撃方法は切断。そのままの意味で目にも止まらないスピードで動き回り、鎌のように鋭く長い尻尾で人間を一刀両断します」
それを聞いた羊介が、意地の悪い笑みを浮かべて沙奈を見た。
「お前、こいつと戯れたいか?」
沙奈は平然と「まさか」と答える。
「こんな危険生物と関わりたがるのは、正義のヒーローか自殺志願者か底無しのお馬鹿さんくらいですよ」
羊介が短く笑ってから前に向き直ると、指示棒を持った研究員と目が合った。沙奈は小声だが、羊介はいつも通りに喋っているので多少目立つのは仕方がないだろう。しかも、その会話内容は室内の雰囲気と比べずとも軽く、片方がニヤニヤと笑っていては注意されても文句は言えない。しかし、羊介の殺人鬼としての顔を知っているからか、それとも唯一鼬型ヒトツメと戦えるかもしれない存在だからか、それともその両方か、誰一人として羊介と沙奈を注意する者はおらず、研究員も、すぐに、そしてどこか怯えるように、羊介から目を逸らして鼬型ヒトツメの説明に戻った。
先行隊と鼬型ヒトツメとの戦闘時の様子を長々と説明していたが、結局は『速すぎてよく見えません。だからカメラのスローで動きを見てみたけど、速すぎて対処できません』ということらしい。長々とした言い訳なんていーから、最初から出来ないって言えよな、と羊介が大欠伸をする。そして目を開けると、全員の視線が羊介に向いていた。
「あ?」と一秒で喧嘩腰になる羊介に沙奈が言う。
「質問されましたよ。このヒトツメに勝てそうかって」
羊介は顔をしかめる。
「知るかよ、そんなこと。まぁ負ける気なんかさらさらねーけど」
その言葉に、青森支部の面々は期待する表情を浮かべるが、
「俺より速く動く敵なんか初めてだからな。思った通り、面白くなりそうだぜ」
そう続いた言葉に、不安な表情に戻った。前に立っている中年研究員が言い辛そうにしながらも口を開く。
「えー……、名雲さん。この鼬型は、貴方より速いというのは……」
「多分だけどな。その映像に映ってる分だと互角だが、手ェ抜いてそうだし」
その言葉で、一気に室内がざわつく。『あれで全力じゃないのか?』『まさか』という言葉が飛び交う。戦闘員の中には先行隊としてヒトツメの動きを目の当たりにした者もいるらしく、顔面を蒼白にしていた。
中年研究員がざわめきを静めると、羊介に向き直る。
「そう考えた理由を訊かせていただいても?」
険しい表情を浮かべる研究員に、羊介は「理由?」とあほくさそうに答える。
「お前、蟻潰すのに全力出すか?」
静まり返った室内で、沙奈は軽く眉を潜めた。羊介の言葉に腹を立てたわけではなく、なんでわざわざ反感を買うようなことを言うのかと思ったのだ。
沙奈がその表情を浮かべるのとほぼ同時に、軍服を着ている一人の若者が勢いよく立ち上がり椅子が大きく鳴った。
殺された戦闘員の中に親しい者でもいたのか、若者の表情は怒りと僅かな悲しみに染まっている。
「手を出したら駄目ですよ」
「この歳にもなって蟻潰しに興じる趣味はねーよ。ただ、お前と違って全く痛みを感じないわけじゃねーからな。小さな蟻にでも指先噛まれたら腹が立つもんだぜ?」
飄々と話す羊介に対して、若者は周囲の者に制止されながらも怒りを押し殺すように口を開く。
「先行隊の戦いは、ヒトツメにとっては遊びでしかなかったと、殺された人の命は無駄でしかなかったと言いたいのか……!」
声を震わせる若者に、羊介はまるで関心を示さない目を向ける。
「無駄とは言わねーよ。そいつらが殺されたから、ヒトツメは満足して帰って行ったんだろ? 誰かの身代わりにはなったんじゃねーの?」
「それが、命を懸けて戦った人達に向ける言葉か!」
歯を強く噛み締める若者に、羊介は珍しく深く溜め息を吐いた。
「はぁ。お前、アレか。頑張りゃあ許されると思ってるタイプか。いくら命を懸けるほど努力をしても、結果が伴わなけりゃあ意味なんか――――」
そこで、不意に羊介の言葉が途切れた。沙奈が不思議に思って顔を見ると、羊介はどこか固い表情からしかめ面に変わり、腹立たしそうに舌打ちをして椅子に深くもたれた。
到着早々の会議が終わり、本部から来た羊介、沙奈、そして護衛兼監視の任務を受けた青森支部の藤田と生野、計四名は応接室で待機させられていた。
部屋の中心にある足の短いテーブルを囲むように、三人掛けと一人掛けのソファが二台ずつ置かれている。
一人掛けのソファに座っている羊介は会議中のやり取りからずっと不機嫌そうに顔をしかめており、唯一彼に平然と話し掛けられる沙奈は、三人掛けのソファの隅っこに座ってスマートフォンを操作している。
反抗期の兄妹がいる家庭ってこんな感じなのかな、と、二十五歳未婚彼女ありの藤田は居心地悪そうに視線を泳がせながら思う。彼の隣に座っている、三十二歳で五歳の息子と二歳の娘をもつ生野も、藤田ほど露骨ではないがどこか息をしづらそうな様子だ。
「すいません、少しトイレに……」
この場の空気に耐えかねたのか、それともただの生理現象なのか、藤田が頭を低くしたまま立ち上がる。
「あぁ、いや、じゃあ俺も行くかな……」
生野はテーブルの上に置いていた煙草の箱を掴みながら立ち上がり、羊介と沙奈を見る。
「お二方、申し訳ありませんが……」
その言葉に、羊介は反応せず、沙奈はスマートフォンから顔を上げて小さく頷いた。
「はい。ごゆっくり。名雲さんはちゃんと見張ってますから」
応接室を出た二人は喫煙所へ向かって歩き始める。
研究所と併設されている本部と違い、青森支部は支部――総務部とも呼ばれているが――と研究所が別の場所にある。生野達がいるのは青森支部、五階建てのビルだ。元々一般人には秘匿していた組織だったこともあってか、廊下を歩いているだけでは、一見、そこらの会社と変わらない。EYESに勤める前は普通にサラリーマンをしていた生野は、加入直後は特にそう感じた。しかし、掲示板に張られた連絡事項の用紙や殉職者の一覧を見ると、ここがEYESの拠点なのだと再認識させられる。
EYESは、警察や公安、自衛隊など、様々な場から優秀な戦闘員になり得る人材を引き抜いている。そういうことを見れば、生野のような存在は少し特殊だった。一般企業に就職する前は自衛隊に属しており、当時は他の同期より優れていた自覚はあったが、それも何年か前の話だ。
やっぱり、こういうことがあるから人手は確保しておきたかったのかね、と考えながら、透明な壁に囲まれた喫煙所に入る。
中には誰もおらず、生野と藤田は懐から煙草を取り出しながら、室内に三脚ある長椅子にそれぞれ腰掛けた。
煙草に火を点けて深く吸い、疲れの混じった息を大きく吐いた生野は、藤田に目を向けて、
「藤田、歳近いんだから、あの二人となんか話せよ」
「歳近いって……、勘弁してくださいよ。二十五にもなれば学生なんてもう未知の生物ですよ。生野さんだって、お子さんがいるんですから、将来の予行練習と思って……」
「馬鹿野郎。うちの子供に反抗期なんざ来ねぇよ」
同情するような視線を向けてくる藤田を一睨みしてから、生野は再度大きく煙を吐く。藤田はその様子を横目に見てから、膝に肘を置き、前傾姿勢になって俯く。
「今回のヒトツメ、人の身では敵わないですね」
「あぁ。気付けば死んでるってんじゃあどうしようもないな。ここは名雲君の言葉に甘えて俺らは護衛に専念しようや」
藤田は強張った顔を俯けたまま頷き、
「……でも、もし、名雲君が負けたら……」
「名雲さん、大変です」
生野と藤田が出て行ってから数分後、スマートフォンから顔を上げた沙奈が唐突にそう言った。
「は?」と不機嫌面を向けてくる羊介に、沙奈はスマートフォンを指さして言う。
「イタチは危険を感じると肛門からとても臭い液体を出すそうです」
その言葉に羊介は嫌そうに顔をしかめるが、
「……猿だってウンコ投げてこなかったから大丈夫だろ」
「そうでしょうか。もし、その液体を浴びたりしたら、帰りは別のヘリでお願いしますね」
「お前らに臭いを移したら一台で済むぜ?」
眉間に皺を寄せる沙奈に、羊介は短く笑ってから前に向き直る。沙奈はそんな様子を見てから、あらかじめ考えていたように口を開いた。
「さっき、どうして途中で話を止めたんですか?」
そう訊かれるであろう事を羊介も勘付いていたのか、別段表情を変えることなく、沙奈に視線だけ向ける。
「まさか、あの男の人に遠慮したわけじゃないですよね」
「俺が遠慮したらおかしいか?」
「この時期に東京で雪が降る程度には」
「まぁ否定はしねーけど」
羊介はそう言ってから、珍しく、どこか自嘲的な笑みを浮かべた。
「結果が付いて来なけりゃあ過程なんて無意味だってのはクソババア……俺の母親の口癖だったんだよ」
「名雲節子さんの?」
「誰だよ。聞く気ないなら話さねーぞ」
「思わぬ単語に動揺しました」
「なら顔にも少しは出せ。淡々とふざけてるようにしか見えねーんだよ」
「それはすいません」と沙奈は小首を傾げて言ってから腰を浮かせると、テーブルの中心に置かれていたコーヒーポットを手にとって二つのカップに注いだ。
「名雲さんは砂糖かシロップ入れますか?」
「コーヒー飲んだことねーからそのままでいい」
羊介が片方のカップを手前に寄せる。沙奈は自分のコーヒーにシロップと角砂糖を一つ入れるとマドラーを取って腰を下ろす。
「準備オーケーです。続きをお願いします」
カップに入れたマドラーを動かしながら言う沙奈に、羊介は眉間に皺を寄せながらコーヒーを一口飲み、更に顔をしかめた。
「苦ぇ。よくこんなもの飲めるな」
「私だってブラックは飲まないですよ」
羊介は沙奈と同じ様にシロップと砂糖を入れて飲んでみるが、それでも苦かったらしく、顔をしかめてから「そんで」と話し始めた。
「さっき言ったのが俺の母親の口癖で、俺は母親が大嫌いだったから同じこと言おうとした自分にムカついた。それだけだ」
「名雲さんのお母さん……というか御両親は、確か事故で……」
「なんだ知ってんのか」
「ニュースで見ましたから」
「あぁ、そういや、西の奴のせいで、また騒がれ始めたな」
ヒトツメの存在が世間に公表された少し後に現れた殺人鬼は、未だに逮捕されていない。ヒトツメに関してようやく落ち着きが見られ始めたこの頃では、西の殺人鬼に関するニュースや特集が組まれるようになっていた。比較されることの多い東の殺人鬼の話題も度々出ている。
「俺が小六の時だな。居眠り運転のトラックと正面衝突して二人とも即死」
「ニュースでは、それが凶行の一因になったのではないかと言ってましたけど」
「さぁ。どうだろうな」
否定すると思っていた沙奈は、コーヒーカップに口を付けたまま意外そうな視線を向ける。
「事故に遭わなくても俺が殺しただろうからアイツらが死ぬことは変わらねーけど、案外、俺はそれで満足したかもな」
「御両親のこと、なんで嫌いだったんですか?」
「なんだ。そこはニュースでやってないのか」
「……お母さんが、勉強にうるさい人だというのは見ました」
「あぁ。それだ、それ。俺の母親は所謂教育ママってやつでな。ガキの頃から、家にいる時はずっと何かしらの勉強をさせられてた。飯を食ってる時も、風呂に入ってる時も、便所にいる時も、睡眠学習までやってたな」
「……ニュースを見た時は信じられませんでしたけど、名雲さんって実は頭良いんですよね? 中学の成績はトップクラスだったって……」
「頭はイカれてるけど、高一程度の勉強なら今でも人並み以上に出来ると思うぜ。思い出したくもねーほど刷り込まれてるからな」
羊介が側頭部を人差し指でつつきながら言った時、ドアが開いて、生野と藤田が入ってきた。羊介は彼等に振り返ることなく沙奈を見ると、ニヤリと笑っておどけるように、
「まぁ、臭い液体ぶっかけられないように気を付けるぜ」と言った。
「はい。是非そうしてください」と答える沙奈に、生野と藤田は、何の話をしていたんだ、と顔を見合わせた。
翌日の昼前、沙奈達四人は、鼬型ヒトツメが現れたという駅前に来ていた。つい二十時間ほど前に何十人がここで死んだとは思えないほど、いつも通りに人々は駅前を行き交っている。しかし、至る所に備えられている花を見ると、痛ましい表情をする者や合掌する者も時折見受けられた。
「そういや俺の糞親が死んだ時も誰かが花を置いてたな」
「あ、私の両親の時もそうでした」
駅前を見回しながら、中々共感しづらい話をする少年少女に、大人達は気まずい表情になる。
「枯れた花が散らかってるから片付けてくれって電話が来なかったか?」
「来ませんでしたよ?」
「マジでか。俺のとこには連絡が来てな。んなもん置いた奴が片せよってな」
「取りに行ったんですか?」
「その頃はまだ大人が望むまんまの良い子ちゃんだったからな」
「それがどうしてこんな子に……」
無表情のせいでなかなか伝わりにくい沙奈の冗談に羊介は短く笑ってから、とあるビルを指差した。
「あそこだな」
羊介の要望で、沙奈達は支部とは別の場所に泊まることになった。そこで沙奈達は、これまた羊介の要望通り、ヒトツメが暴れた現場に近い宿泊所を探しに来ている。
「ちょうどいい部屋が空いてるかな……」と心配そうに言うのは藤田。羊介は駅前を見張るらしいので、駅前側の部屋を取る必要がある。
「EYESの力で無理矢理空けさせろよ」という羊介に藤田は苦笑しながら返す。
「それは最終手段かなぁ。そういうのやっちゃうと、意外と色々面倒なんだよね」
そんなの知ったことかと言うようにさっさと歩き出す羊介。沙奈は、小走りでその隣に並ぶ。
「犯人は現場に戻ってくるというアレですか?」
「犯人からすりゃあ現場っつーか遊び場だろうけどな。まぁ、他の遊び場を見つけないことを祈りながら待つしかねーな」
「またわざわざこんな街中まで来るでしょうか」
「少なくとも、人が多い場所には来ると思うぜ。潰すことだけじゃなくて、逃げ惑う姿を見るのも蟻潰しの面白いところだからな。たまに刃向かってくる奴を返り討ちにするのも一興だ」
「……名雲さん、蟻潰しがお好きだったんですか?」
「幼稚園に通ってた時にそればっかやってて親が呼び出される程度にはな」
「大好きじゃないですか……」と呆れた表情をする沙奈に、羊介は前を向いたまま問う。
「お前、そういうのなかったのか? 痛みを感じないっつーことは、人に対しての加減も分かんねーんだろ?」
「両親とも医者だったので、そういうこと……自分の身体についてや、人との接し方については小さな頃から上手く教え込んでくれました。あまりの痛みを感じると死んでしまうこともある、なんて言われたら、もう何も叩いたりなんか出来ませんよ。人形とかも実は痛みを感じているんじゃないかと思ってすごく大事にしてました」
「そりゃあ親に溺愛されただろ」
自分が殺したことを忘れているような問いに、後ろを歩く二人はそれぞれ引っ掛かりを覚えたが、沙奈は平然と頷く。
「はい。まぁそれ以上に両親がラブラブでしたけど」
駅前の横断歩道を渡り、ビジネスホテルに入る。時間帯のせいか、それともヒトツメのせいか、フロントに客の姿はなく、暇そうにしていたホテルフロントが来客に気付いて表情を引き締めた。
「じゃあ事情を話して手続きしてきます」と言って藤田がカウンターへ向かう。羊介はさっさと入り口近くのソファに腰を下ろすと、背もたれに右腕を置いて駅の方に顔を向けた。
「小型のヒトツメってことは、もしかして元はちっさい子なんでしょうか」
その隣に座りながら訊く沙奈に、羊介はどうでもよさそうに「さぁな」と答えてから生野に視線を向ける。
「お前ら、どうせそういうことまで調べてんだろ?」
生野は頷きながらも「だが」と口にする。
「俺達は何も知らされていないし、知りたいとも思わないな。そんなことを知ってもやりにくくなるだけだろう」
沙奈はなるほどというように頷いた時、藤田が戻ってきた。しかし、手続きが終わったという様子ではない。
「すいません、部屋割りってどうしましょう。二人部屋と一人部屋しかないみたいなんですが……」
生野は「あぁ」と思案顔で沙奈を見る。
「普通なら久留米さんと名雲君をそれぞれ一人部屋にってところだが、護衛(と監視)役として来ている以上、そうはいかないからな。久留米さん、悪いけど、おっさんと同室でいいか?」
その言葉に沙奈は気にする様子もなく頷いたが、藤田は小声で「えぇ」と言った。何が不満なのかは聞くまでもないため、生野はその抗議を黙殺すると、さっさと手続きして来いと追い払うような仕草をした。
その動きを見て思い出したのか、羊介は沙奈の顔を見てから、少し視線を下げた。
「きゃっ。どこ見てるんですか」
「右手だ。お前、リハビリがどうこう言ってただろ。あれ終わったのか?」
沙奈は右手を前に出し、ゆっくりと掌を返しながら答える。
「まだですよ。肘もそうですけど、特に手首が変な感じです。日常生活を送る分にはさほどの不便さは感じないですけど」
「へぇ」と生返事をして駅前に視線を戻す羊介の横顔を見ながら、沙奈は小首を傾げる。
もしかして、実は右腕のことを気にしているのだろうか。そんなはずないと思うし、万が一そうであっても、本人に訊いたところで否定一択なのは分かりきっているが。
ぼーっと駅前を眺める二人を見ながら、生野は少し前に岡田から聞いたことを思い出していた。
『あの二人ですか? 意外と仲が良い……って言っていいのかは微妙ですが、険悪なわけではないですよ。たまに冗談を言い合ったりしていますし』
にわかには信じられなかったが、確かに二人は普通に――昨日会ったばかりの自分や藤田と比べると、遥かに仲が良さそうだった。殺人に対する罪悪感が抜け落ちている羊介は置いておくとして、それに普通に応じている沙奈がまるで理解出来なかった。実は両親を憎んでいた、ということはないだろう。両親が死んだ時、彼女が涙を流したということはニュース番組でも報じられている。痛みを感じないと、憎しみという感情にも鈍くなるのだろうか。
手続きが終わったらしく、こちらに向かってくる藤田に気付き、生野は思考を打ち切る。その傍で、沙奈が「行きますよ」と羊介に声を掛けていた。
ビジネスホテルに宿泊し始めてから二日が経った。沙奈達の到着を待っていたかのように梅雨がやってきて、ここ二日は土砂降りの雨が続いている。そんな中、沙奈達三人は羊介に付き合って窮屈な生活を強いられていた。
羊介は言葉通り、ホテルの部屋から駅前をひたすら見張り続けている。どこかに出掛けることもなく、休憩することもなく、朝から晩まで。
任務中の単独行動を原則禁止されている沙奈や護衛兼監視の二人が羊介を置いて出掛けるわけにもいかず、買い物時以外は四人揃ってビジネスホテルにほぼ缶詰め状態だった。
三日目の朝。七時頃に藤田が目を覚ました頃には、既に羊介は大きな窓の前に移動させたソファに座って退屈そうに駅前を眺めていた。そして、その隣にある机では沙奈が勉強をしている。室内に生野の姿はなく、どうやら先に起きた沙奈だけがやってきたらしい。
「藤田さん、おはようございます」
身体を起こした藤田に気付いた沙奈が顔を向けて言う。
「あぁ、おはよう。早いね。生野さんはまだ?」
「はい。寝ていました」
「そっか」
目を覚まして久留米さんがいなかったら文字通り飛び起きるんじゃないか、と考えながら着替えを持ってバスルームへ行く。
ホテルに引きこもっているのにスーツに着替える必要があるのかと自問するが、これも仕事だという答えで納得する。バスルームを出ると、すぐ右手にあるドアがノックされた。
藤田がドアを開けると、そこには少し顔をしかめた生野が立っていた。
「おはようございます。久留米さんならこっちにいますよ?」
「おはよう。あぁ、書き置きがあった」
流石にしっかりしている。
「じゃあどうして変な顔をしているんですか?」
「護衛対象よりぐっすり寝てた自分に呆れてんだよ」
この二日間、護衛対象よりぐっすり寝ていた藤田は、あー、と目を逸らしてから「なるほど」と言った。
生野が部屋に入っていくと、先程の会話が聞こえていたらしく、沙奈は「生野さん、おはようございます」と挨拶してから、
「あまりお気になさらず。私、たまにすごい早く起きてしまう時があるので」と言った。
「おはよう。……ちなみに、何時に起きたんだ?」
「えっと、確か五時くらい……」
「五時!?」と目を見開いて驚きの声をあげたのは藤田だった。
「もしかして、その頃からここにいたの? いや、鍵が開かないか……」
オートロック式のドアだ。カードキーを持っていなければ外から開けることは出来ない。しかし沙奈は首を横に振り、羊介に顔を向けた。
「名雲さんも起きていたみたいで、鍵を開けてもらいました」
「起きてたっつーか、隣の部屋の誰かが動く気配で目が覚めたんだけどな」
「おや、それはすいません」
沙奈は小首を傾げて謝ってから、藤田と生野に向き直る。
「それで、勉強しようとしていたら名雲さんから『なにしてんだ』というぶっきらぼうなメールが着まして、それに私が『今からそっちに行っていいですか?』と返して、今に至ります」
「メールで会話が成立しないってすげーよな」
そこで使う連絡方法がラインじゃないのがこの二人らしいと思う生野の横で、藤田が「えぇー」と少し照れ臭そうな声を出す。
「やだなぁ。僕、何か寝言とか言ってなかった?」
その問いに沙奈が羊介に顔を向ける。
「毎晩毎晩女の名前呼んでるぞ」
窓の外を見たまま答える羊介に藤田は苦笑しながら、
「あはは……。彼女の名前かな」
「何人彼女いるんだお前。チヨだの、サクラだの、トモヨだの」
生野から呆れた表情を、沙奈からもどこか冷たい目を向けられて、藤田は両手を前に出して首と一緒に振る。
「浮気とかじゃないですよ!? 千代は妹だし、佐倉は名字で男ですし、知世は……えっと、最近読んだ漫画のキャラ……」
「そこに彼女の名前がないってどうなんでしょう」
小首を傾げる沙奈の悪気のない問いが藤田の胸に突き刺さる。
「しかも、一番多いの妹だったぞ」
「……藤田、お前その歳で妹にべったりなのか」
「違……わないかもしれないですけど! 歳の離れた妹なんだからしょうがないじゃないですか! 今年高校に上がって色々環境が変わってるから心配で……」
妹の話を始めた藤田から、羊介は元より沙奈も顔を背けて勉強に戻る。その行動の速さに生野は顔をしかめて、生返事をしながらテレビを付けて会話の遮断を試みたが、藤田の話は一向に止まなかった。
事態が動いたのは、近くのスーパーマーケットで買ってきた惣菜を並べただけの昼食を終えて三時間ほど経った頃だった。
飽きもせずに机に向かっていた沙奈が窓の開かれる音に振り返ると、そこに羊介の姿は既になくなっていた。
一瞬早くその動きに気付いていた二人のうち、生野が羊介を追って部屋を飛び出し、藤田が沙奈を振り返った瞬間、開かれた窓の向こうから多数の悲鳴が聞こえてきた。
沙奈と藤田が部屋を出た時には、羊介は既に駅前の道路でヒトツメと向かい合っていた。竹谷悠生――象型ヒトツメを戦った時ほどまでに黒硬質化を進行させる。
ヒトツメの傍らには、上半身と下半身が見事に分かれた中年女性が転がっている。駅前を歩いていたほとんどの人々は既に逃げ始めているが、腰を抜かしているのか地面に座り込んだまま立ち上がろうとしない者や、物陰に隠れるだけの者が少数いる。ヒトツメを見掛けたらその場からすぐに避難してください、という言葉は、近頃またテレビを見始めた羊介でも聞き飽きたくらい耳にしているのだが。また、よくよく見ると、一般車やタクシーの中にも人が残っていた。車に乗っていれば安心とでも思っているのだろうか。
ヒトツメは二本脚で立ったまま羊介を見て時折首を傾げるような仕草をしていたが、羊介が敵意を向けると前脚を下ろして毛を逆立てながら威嚇するように「シャー!」と繰り返し鳴いた。
「へぇ。蟻潰しにハマるような雑魚なら逃げるかと思ってたぜ」
羊介がそう言い終わると同時に、ヒトツメの姿がその場から消える。しかし羊介の目は、一直線に接近してくる姿をしっかりと捉えていた。
突進を紙一重に避けられる程度に動いた羊介に対し、ヒトツメは超スピードのまま身体を横に向けた。身体に隠れていた長い尾が現れて、羊介は顔をかばうように両腕を前に出す。鎌のような尾が黒硬質化した前腕に当たり、甲高い音が響く。ヒトツメ化の影響で一般人と比べれば遥かに頑丈な身体を持つ羊介だが、これを生身部分にくらえばただでは済まないことが感じ取れた。
止まることなく突進からの攻撃を繰り出すヒトツメに、羊介も徐々にスピードで対抗し始める。互いに人の目では追いきれない速度で動き、激突する。ヒトツメは自慢の尾を振り回し、羊介はそれを上手くいなして反撃に出る。
一進一退となった攻防の中で、羊介にかわされた尾が看板や車を紙切れのように切り裂いていく。その様を見て戦慄を覚えたのか、一台のタクシーがバックで急発進した。当然、羊介もヒトツメもすぐに気付くが、違ったのはそこからの動きだった。
横目で一瞬確認しただけの羊介に対して、ヒトツメは迷うことなく身体ごと振り返って地面を蹴った。
タクシーが縦に切断されて、急発進の勢いままに地面を転がった半分の車体から運転手が投げ出される。そして彼の身体もまた、タクシーと同じように縦に二分された。だがヒトツメの攻撃は止まらず、彼の身体を細切れにしていく。
ストレス溜まってんな。俺のせいか? と考えながら、羊介はホテルの方をチラリと見た。
沙奈達三人はホテルの入り口の陰に身を隠しながらこちらの様子を伺っている。タクシー運転手の末路を見て険しい表情をしている藤田と生野により沙奈の視界は遮られているが、目の当たりにしたところで、あの無表情が変わるとは羊介には思えなかった。
ヒトツメが三人に気付いていない筈もなく、あの運転手のようにひとたび目立つ行動をすれば途端に襲われるだろう。羊介からすれば藤田と生野はどうでもいいが沙奈に死なれるのは困る。そして何かあった時、銃を持っているとはいえ、あの二人では沙奈を守ることは出来ないだろう。
やはり遊びに本気は出していなかったらしく、単純なスピードだけなら羊介よりもヒトツメの方が勝っていた。しかし、目と身体はその速度についていける。敵の動きの見切りも、反撃の精度も一撃ごとに上がっており、ヒトツメもそれに気付いているのか、細切れとなった肉片から羊介に身体を向けると、先程以上に強く威嚇した。
スピードで劣る以上、羊介の懸念は二つ。暴走気味のヒトツメが沙奈に目を付けること、体力の余っている状態でヒトツメが逃走することだ。
まだ闘る気なら有り難いと、羊介は足を広げて迎え撃つ姿勢を取る。黒硬質化が人目に付かないように着ていた薄手の長袖は、ヒトツメの攻撃によって肘当たりから切り裂かれ、黒い腕が露わになっている。そして、とうとう指先にまで浸食が進み、羊介の両腕、見えないが両足も、完全に黒硬質化した。
羊介の意志によるヒトツメ化の進行であるため、見た目ほど危険な状態ではない。顎下までの黒硬質化も、今は浸食を止めている。
対するヒトツメは、簡単に殺すことの出来ない相手に若干の恐怖を感じていた。誰かが死ねば他の者は逃げ出す。それが、ヒトツメの知る人間だった。しかし目の前の人間は、逃げ出すどころか顔色一つ変えずにいる。隠れているつもりらしい他の人間は、気配だけでも怯えていることが分かるほどだというのに。
ヒトツメは全力で突進する。狙うのは、生身である首から上の部分だ。縦に回転し、脳天目掛けて振り下ろした尾は突き上げられた掌底によって弾かれ、次の瞬間には逆の拳が迫っていた。ヒトツメは宙を蹴り、その一撃を回避して、絶え間なく突進と攻撃を繰り返す。
羊介の拳が自分を捉えつつあることに対してもう少し考える頭がヒトツメにあれば、この時点で撤退を選んだだろう。しかし、このヒトツメはただ思い通りにならない敵に気を高ぶらせるだけだった。
細かな攻防まで目で追いきれない常人から見れば、切り裂かれていく洋服だけを見て羊介が蜂の巣にされているように思うだろう。生野と藤田も、険しい表情のまま沙奈に聞こえないほど小さく言葉を交わす。
その時、目にも止まらない速度で突進を続けていたヒトツメが、唐突に十メートル以上吹き飛んで地面を転がった。それが羊介の拳によるものだと常人が気付いたのは、ヒトツメが転がりながらも姿勢を整えた時だった。拳を振り切ったまま動きを止めていた羊介は、腕を引きながら口角を上げて笑う。
怒りか、それとも痛みを堪えているのか、ヒトツメは歯を食いしばったまま押し殺したような声を出した。その左半身は、羊介の拳を受けたところから蜘蛛の巣のような亀裂が広がっている。
目玉、あるいは今と同じ場所に当てれば、あと一撃で終わる。
だが、再度構えた羊介に対して、ヒトツメは背を向けるという予想外の行動を取った。
「なっ……!」
ふざけんな、テメェ! と羊介が口にする前に、視界の隅にホテルから飛び出して銃を構える生野と藤田の姿が見えて思わず顔をしかめた。
なんで出てきやがった、と羊介は舌打ちしたくなるが、訊かずとも答えは分かる。ここでヒトツメを逃がすわけにはいかない。EYESの戦闘員としては間違っていない。だが、彼等は羊介ほど、このヒトツメについて理解していなかった。人を殺すことを、怯える様を見るのを楽しむ残酷な性質を。
何をしても変わらなかった敵の、羊介の表情が変わったのを横目に見た瞬間、ヒトツメは地面を蹴った。
二人の引き金を引く頃にはヒトツメは懐まで飛び込んでおり、そして、銃声と同時に、二人の身体が腰の辺りから切断された。
そこでヒトツメの動きは止まらず、ホテルの中にいた沙奈を視界に捉えると、低く構える。しかし、跳び出す前に羊介が一気に距離を詰め、斜め後ろから蹴りを振り下ろした。それを大きく横に跳んで避けたヒトツメは、羊介の表情を見て「ククク」と鳴いてから、再び背を向けて逃走を図る。
羊介がヒトツメを追っていくと、途端に、駅前は静寂に包まれた。上半身と下半身が分かれた遺体が二体、初めに殺された中年女性の遺体は戦いに巻き込まれて、タクシー運転手と同じ様に肉片と化している。
自動ドアを抜けてホテルから出た沙奈は、生野と藤田の遺体を見てから、羊介を追って駆けだした。
羊介が追跡の足を止めたのは、木々の隙間から夕焼けが差し始めた頃だった。都市部を抜け、田畑の広がる田舎町を駆け、この山の中を走り回った。途中からは姿を見失い気配だけで追っていたが、とうとうそれすらも感じられなくなった。
羊介は腹立たしげに舌打ちをすると、踵を返して歩き出す。黒硬質化は止まったままだが、これ以上、ヒトツメの力を使うのは危険だ。スマートフォンはホテルの部屋に置きっぱなしのため連絡を取ることも出来ないし、そもそもこの山奥に電波が届いているかすら怪しい。
羊介は方角も分からぬまま歩を進める。そして辺りが薄暗くなると、戦いの緊張と興奮が冷めてきたせいかヒトツメ化による痛みが徐々に激しくなっていった。
無駄に深追いし過ぎた、と顔をしかめる。そもそも、逃げられたら追い付けないことは分かっていた筈だった。
完全に日が暮れて、月明かりすらまともに届かない山中を、激痛により息を切らし、足を引きずりながら歩く。
そのうち、特に激しい腹部辺りの激痛が身体をゆっくりと這い上がってくるような感覚を覚えて、羊介は顔をしかめる。いつだか沙奈に話したことのある、ヒトツメ化に伴い本音が口から出そうになる感覚がこれだった。おそらく、この痛みが顔にまで達すると、両目がよって一つの大きな目となり、久留米好香や黒井羅舞、竹谷悠生のように、心底からの言葉が出てヒトツメとなってしまうのだろう。
小さな無数の虫が体内を食い荒らしながら這い上がってくるような激痛に、羊介は胸を押さえて膝を着く。
「クソが……!」
歯を食いしばり思わず悪態を吐いた時、不意に感じた妙な、しかし覚えのある気配に羊介は顔を上げる。人間と似ているが、どこかが、決定的な何かが違っている気配。それは間違いなく、沙奈のものだった。
他に気配は感じない。まさかここまで一人で来たのか? と考える羊介の耳に、
「名雲さーん」という緊迫感のない平坦な声が聞こえた。
大量の汗が流れる羊介の顔に微かな笑みが浮かぶ。
「おい! こっちだ!」
空を仰ぐようにして力の限り叫ぶと、やはり緊迫感のない声で「はーい」と返ってきた。
「結構やべぇ状態なんだよ! 走ってきやがれ!」
「走ってまーす」
「まじかよ」と呆れたように羊介が呟いた時、横の茂みから沙奈が姿を見せた。羊介の姿を見ると、何も言わずにしゃがんで、右肩に両手を重ねた。
「……お前、一人か?」
痛みが引いていくのを感じながら羊介が問うと、沙奈は首を横に振った。
「道路があるところまではEYESの人に車で送ってもらいました。でも灯りがないと林の中には入れないというので、こっそりと来ました」
その言葉に短く笑っただけで何も言わない羊介に、沙奈は首を傾げる。
「訊かれないんですね。どうしてこの場所が分かったのか、って」
「どうせ発信機でもどっかに仕込んでんだろ?」
「ご明察です」
そう言って立ち上がった沙奈に羊介は目を向けて、眉を潜めた。
「お前、腕から血が出てるぞ」
沙奈は右腕と左腕を順に見て、それから膝丈のスカートから覗く足を見下ろす。上に羽織っている長袖のカーディガンは左腕の二の腕辺りが切れて血が滲んでいた。
「木の枝か何かに引っ掛けたみたいです」と沙奈は平然と言う。
確かに灯りは必須だと羊介が考えている間に、沙奈は再びしゃがむと、カーディガンを切れたところから千切り、綺麗な部分を傷口に当てていた。
「ここから道路までって近いのか?」
「いえ。大分歩き……走り回りました」
やっぱ歩いてやがったか、と顔をしかめた羊介だったが、沙奈が走ることの危険性も今は理解出来たため口には出さなかった。
「なら、とりあえずはここでEYESの奴か朝が来るのを待つべきだろうな」
羊介はそう言うと、重ねた両手を枕にして地面に寝転んで瞼を閉じる。草花が生えていない上に木の根でところどころ盛り上がっている地面は、とてもではないが寝心地が良いとは言えないだろう。しかし、口には出さないが、羊介は寝心地の悪さなど気にならないほどに疲弊していた。
羊介は片目を開けると、隣にしゃがんだままの沙奈を見る。
「お前も寝たきゃ寝ろよ」
「でも、狼が……」
「……熊なんかはいそうだけど、狼はいねーだろ。むしろ見つけたら大発見じゃねーの?」
羊介は呆れた表情で言ってから、再び目を閉じる。
「とにかく、なんかが近付いてきたら俺が気付くから平気だっての」
「一見羊に見えても中身は狼。男とはそういう生き物だと泰子さんが……」
その言葉に、羊介はしかめ面を沙奈に向ける。
「あのババア、言うことがいちいち年寄りくせーな……」
「しかも、名雲さんは名前に羊が入ってる典型的な……」
「偽名だっつーの」
羊介は溜め息を吐きながら上体を起こす。沙奈はわざとらしく、座ったまま半歩遠退いた。
「襲うつもりなんかねーよ、って言っても無駄なんだろうな」
「名雲さんは私の顔が好きだと前に言ってますからね」
「言ってねーよ。客観的に見て平均より上ってだけだろ」
「泰子さんが、男なんて所詮顔しか見ていないと」
「あのババアいちいち余計なこと言うな」
「あと、生野さんと藤田さんにも同じような事を言われました」
「あいつらだって男だろーが」
「そうですけど、名雲さんくらいの歳の男性は特に、と。色々気を遣ってくれて、色々心配してくれました。二人とも、良い人でしたから」
その言葉に、羊介は無表情のまま反応を見せなかったが、不意に頭を乱暴に掻いてから、
「俺、ついてねーから」
と言った。
無表情のまま固まった沙奈だったが、ゆっくりと首を傾げながら視線を下げた。
「名雲さん、女の子だったんですか? 羊子ちゃんですか?」
「ちげーよ」と羊介は顔をしかめる。
「正確に言えば、千切れてて使い物にならねーんだ。だから、お前を襲うわけがねぇ」
「……ヒトツメとの戦いで……じゃないですよね?」
羊介は当然というように頷き、寝転がって両目を閉じてから口を開いた。
「俺がお前くらいの歳の頃だったな。教育クソババアのせいでストレスが溜まりまくってて、とあるストレス発散法をしてた」
「はぁ」
「お前、フェラって知ってるか?」
「……絶対しませんよ?」
「くわえさせるモノがねーよ。まぁ知ってんなら話ははえー。じゃあセルフフェラってのも、なんとなく想像はつくな?」
うげ、と珍しいくらい露骨に顔をしかめた沙奈の気配を感じたのか、羊介は目を閉じたまま「くくっ」と笑う。
「それが、その頃の俺のストレス発散法だった。だがある時、絶頂と同時に口を閉じちまって……ってわけだ。小魚とか海老の踊り食いなんてしたことねーけど、あんな感じに跳ねて動くのかもな」
沙奈は口角の下がった引き気味の表情のまま口を開く。
「そ、それなら安心ですね……」
そう言いながら出来る限り距離を取る沙奈を横目に見て、羊介は再び小さく笑った。
夜更けに迎えに来た青森支部の者達により、沙奈と羊介は保護された。青森支部に帰還後、仮眠室で再び眠りについた二人が目を覚ましたのは、すっかり日が高くなった頃だった。
青森支部長室に呼ばれて、そこで二人が訊いたのは、羊介達の働きを労う言葉、そして、生野、藤田の告別式への出欠の問いだった。
「私はもう遺族の方とお会いしたが、その頃にはお二方とも落ち着いたご様子だったよ。君達に気付く者がいれば、若干注目を浴びることにはなってしまうだろうが、そこは故人の前だ。騒ぐような者はいないだろう」
机に両肘を付き両手の指を組んだまま言うのは、口髭を生やした五十代ほどの男性、青森支部長である柳田だった。研究部上がりなのか白衣を着ていて、後ろに倒した髪は白というより灰色だ。
挨拶もそこそこにソファに腰を降ろしている羊介は、柳田の問いに答えることなく顔を横に向けた。その視線を沙奈は横目に見返しながら口を開く。
「それなら出席します。名雲さんも付いて来てくれるみたいですし」
その言葉に、柳田が確認するように羊介を見る。
「まぁ仕方ねーだろ。葬式なんてヒトツメが出そうなところに一人で行かせるわけにはいかねーよ」
面倒くさそうに言う羊介に柳田は小さく頷いた。
ヒトツメのウイルスは、激しい感情によって発症、進行する。明言はされていないが、研究者だけでなくヒトツメに関わる者なら誰もが察していることだった。
「そしてこれからのことだが……すまないが、私達だけでは鼬型ヒトツメに対応出来ないのが正直なところだ。二人には……特に学校に通っている久留米君には申し訳ないが、もう少しここに滞在してほしい」
沙奈は気にした風もなく頷く。
「大丈夫です。いざとなったら名雲さんに勉強を見てもらいますから」
露骨に顔をしかめる羊介を見て見ぬ振りをした柳田は、
「ありがとう」と軽く頭を下げてから右手を顎に当てて思案顔をする。
「さて、どうにかして、あのヒトツメを倒す方法を考えねばならんな。どこかに閉じ込める、あるいは袋小路に追い込むことが出来ればいいんだが……」
「なぁ、おっさん」と羊介が唐突に口を挟む。
「本部の大久保が言ってたんだが、身体の一部だけヒトツメ化した例ってのはあるのか?」
「身体の一部が……? いや、私は聞いたことがないが……」
目を丸くする柳田に羊介は当てが外れたように顔をしかめた。
「大久保室長がそんなことを?」
「いや、はっきりと言ったわけじゃねーけどな。なんとなく覚えてたから気になっただけだ」
「そうか。まぁ、なんにせよ、試しにやってみようなどとは思わないでほしい。久留米君がいるとはいえ、あまりに危険な行為だからね」
羊介は分かってるというようにだらんと脱力した手を振ると、ソファから立ち上がる。
「話は終わりか?」
「いや、あと君達の宿泊場所について……」
「自分達で探すから気にすんな。ここから近くの宿なら文句ねーだろ?」
自分『達』? と沙奈は羊介に視線を向けるが、完全に無視される。
何か言いたげにしながらも柳田は頷き、それを見た羊介は踵を返してさっさと部屋を出て行った。支部長さんとしては支部にいて欲しいんだろうな、と思いながらも、沙奈は羊介についていき、ドアの前で頭を下げてから部屋を出た。
既に廊下を歩き出していた羊介を小走りで追って隣に並んでから、沙奈は前を見たまま口を開く。
「泊まるところ探すんですか?」
「あぁ。その方が部分ヒトツメ化の邪魔が入らねーだろ」
「やっぱりやるつもりだったんですね」
「やらねーとまた逃げられるだけだからな」
その言葉に、沙奈が羊介を見上げた。
「私知ってますよ。部分ヒトツメ化について」
「あぁ?」と羊介は疑うような顔を向ける。
「またゴキブリがどうこうほざくんじゃねーだろうな」
「そんなにしつこい人じゃないですよ、私。そのことを知っているのは、それをやったのが私だからです」
眉を潜めた羊介だったが、すぐに合点がいったのか、
「あぁ」と小さく呟く。
「ヒトツメの死体を使った実験ってやつか」
「はい。名雲さんのおかげで新しい死体がいくつか手に入りましたし、私も力の使い方に慣れてきたので、泰子さんの指示で色々やってみました」
「それで出来たのが、一部ヒトツメ化した人間ってわけか」
「正確には一部人間に戻ったヒトツメですけどね」
沙奈は前に向き直ってから横目で羊介の足元を見た。
「部分ヒトツメ化させたいのは足ですよね?」
「あぁ」と返した羊介に、沙奈は顔を俯ける。
「……やっぱり止めておいた方がいいんじゃないですか?」
「心配してると見せかけてゴキブリの足が生えたところ想像してんだろ」
「バレましたか」
平然と顔を上げた沙奈に、羊介は短く笑った。
沙奈と羊介がヒトツメ化を目撃したのは、ショッピングモールでの久留米好香、中学校での竹谷悠生の二度だ。二人のヒトツメ化が始まった時の感情として当てはまるのは、好香は恐怖、あるいは焦燥、そして悠生は怒りとなる。
なんとなく、悲しみだけでヒトツメ化することはないような気がする、と沙奈は考えながら、焼香を終えてパイプ椅子に腰を下ろした。すぐに、隣に羊介、その隣に柳田が座る。
あれから三日が経ち、沙奈達は藤田の葬儀に参列していた。
祭壇に向かって右側の前の席では、五十代ほどの夫婦と制服を着た高校生ほどの少女が嗚咽を漏らしている。特に少女は、沙奈達が入ってきた時から止むことなく涙を流し続けていた。
老衰以外の葬式はこれが普通なのかね、と羊介はスーツのネクタイを緩めながら思う。
昨日行われた生野の葬儀も同じ様な雰囲気だった。生野の子供二人は幼く状況が飲み込めていなかったようだが。
横から伸びてきた小さな手に、ネクタイを苦しいほどに締め直されながら思い出すのは、自分の両親の葬儀だった。
実質絶縁状態になるほど親戚一同に嫌われていた両親の葬儀は、驚くほど無機質なものだった。たまに聞こえる話し声は、羊介の引き取り先についての口論のみ。親に無理やり連れてこられたらしい中学生や高校生くらいの子供は、寝ていたり、スマートフォンでゲームをしたりしていた。結局羊介の引き取り先はなく、しかし世間体を気にした裕福な親戚が一応の保護者となり、中学を卒業したら働くことを条件に援助を受けながら一人暮らしを始めたのだった。
昔のことを思い出したのなんか久しぶりだな、と何気なく思いながら、沙奈を横目に見る。
両親の葬式では号泣していたらしい少女は、今は無表情のまま祭壇を見ている。他人の葬式ならそんなもんかと思う反面、そもそも本当にこの少女がそんなに号泣していたのかという疑問も浮かんだ。
その時、不意に柳田が立ち上がると、沙奈と羊介に付いて来るよう小声で言ってから歩き出す。
二人が少し遅れてホールを出ると、険しい表情をした柳田が、駐車場が見える大きなガラス窓の前で携帯電話を耳に当てて誰かと話をしていた。
ヒトツメ、駅前、被害者という単語が沙奈の耳に届き、おそらくしっかり聞こえているであろう羊介は闘争心をくすぶらせるように笑う。
「なんて言ってたんですか?」
「駅前にイタチが出て一人殺したってよ」
「……一人だけですか?」
「あぁ。その後、しばらく駅前をウロついてから移動したらしい。どーやら俺に用があるみたいだな」
「いざとなったら逃げればいいや、アイツ足遅いし、ってことですかね?」
「お前が言うとなんかムカつくな」
「それはすいません」と沙奈が言った時、柳田が携帯電話を胸ポケットにしまいながら振り返った。
「ヒトツメが現れた。とりあえず私達は支部に戻ろう」
「別に俺はいいが、気配ってのは結構残るからな。ここに来たヒトツメが俺の気配を感じて暴れても知らねーぞ?」
「なっ」と柳田は口を開いたまま固まる。ヒトツメに殺された者の葬儀で同じ事が起こるなど、絶対にあってはならない。
「それに、アイツのスピードなら、いつここに着いても……」
おかしくない、そう続けるつもりであっただろう言葉を突然止めた羊介に沙奈と柳田が怪訝そうにした時、突如轟音が響き、三人は駐車場に顔を向ける。
舞い上がった砂煙が晴れると、めくれあがったアスファルトの中心で毛を逆立てている鼬型ヒトツメの姿が見えた。
「お前ら一応どっか隠れてろよ」
「い、いや、その前に一般人を避難させないと……」
さっさと歩き出した羊介だったが、柳田の狼狽えた声に振り返る。
「いらねーよ。すぐ終わる」
前に向き直り、歩きながら窓枠を沿って見る。
鍵付いてないのか。じゃあしょうがねーな。と羊介は軽く地面を蹴って、そのままガラスを割って外に出た。
その時、沙奈達の背後でホールのドアが開き、式場のスタッフらしき男性が顔を覗かせた。先程の轟音はホールの中まで聞こえていたらしく、隙間から参列者達の不安げな表情が見える。
「あの、今の音は……――っ!!」
割れたガラス、そしてその向こうにいるヒトツメに気付いた男性は大きく目を見開いた。開かれた口を柳田が咄嗟に押さえて顔を近付ける。
「騒がないでください。私達はEYESの者です。どうか、気付かれないようそのまま葬儀を続けてください」
距離を空けたまま睨みあっている羊介とヒトツメを横目に確認しながら言う柳田に、男性は顔面蒼白になりながらもなんとか頷いた。
そうしている間に、沙奈はヒトツメから見えないよう壁の陰に隠れている。ホールの扉をしめてから柳田も同じ行動をして、不安げな表情で隣の沙奈に問う。
「名雲君は大丈夫だろうか。前はかなり苦戦したと聞いたが……」
それに対し、沙奈は壁から顔を少し出して駐車場を覗きながら「大丈夫だと思いますよ」と即答した。
「しかし……」と言いながら、柳田は沙奈と同じように壁から顔を出し、
「ぅえ?」と間抜けな声を発した。
いつの間にか、ヒトツメの目玉の僅か数センチ横に亀裂が入っていた。
勝負は、たった一度の攻防でついた。数日前と同じように突進したヒトツメに、羊介は完全に拳を合わせた。目玉を狙った一撃は僅かに避けられたが、それでも敵の戦意を削ぐには十分過ぎるほどだった。
先程までの威勢は消え、じりじりと後退るヒトツメに対し、羊介は自分から距離を詰めた。しかし、ヒトツメは大きく後ろに跳ぶと、そのまま羊介に背を向けた。
もう逃げる気かよ、と舌打ちしながら羊介が顔を向けたのは、ヒトツメではなく、沙奈達の方だった。
なんだ? と目を丸くしている柳田の隣で、沙奈が壁陰から出る。ヒトツメの姿が消えたのを横目に羊介はガラスを更に割って葬儀場に入り、沙奈を見た。
「行くぞ」
返事も待たずに沙奈を肩に担いで外に出てヒトツメの後を追う。
どうやらヒトツメは屋根の上を跳んで、あるいは空を跳んで逃げているらしく、羊介はすぐに高く跳び上がる。
「アレ、やるんですか?」
下半身に強い風圧を受けながら沙奈が訊く。
「じゃなきゃわざわざお前つれてこねーよ」
「それもそうですね。あと、スカートが風でバタバタしてなんか嫌なので裾の方を持ってもらえますか」
「持ちにくいから我慢しろ。てか、さっさとやりてーんだけど」
「私の方はいつでもどうぞ」
「スカートどうこうよりそれを先に言えよ」
沙奈はそれには答えず、集中するように目を閉じて羊介の腰の辺りに両手を重ねた。
ヒトツメ化を治す時と、要領は殆ど変わらない。ただ、治さずにヒトツメ化の進行に意識を集中させるだけだ。
ヒトツメ化が羊介の全身に、だが僅かに下半身のみが早く進んでいることを感じながら、沙奈はここ三日間のことを思い出していた。
EYES青森支部付近にあった高級ホテルに宿泊していた沙奈と羊介は、またしても引きこもっていた。しかも、三食ともルームサービスで住むため、本当に外に出ることがない。
そこで何をしていたかというと、支部で羊介が言っていたように『部分的なヒトツメ化』だった。
しかし、これがまるで上手くいかない。大抵、全身の黒硬質化が進み、完全ヒトツメ化の一歩手前までいくだけだった。今のように初めは一部分だけ進行が速かったとしても、身体の先端にいくほどコントロールが難しいのか、それともただ単にそういうものなのか、いつの間にか他の箇所が追い付いてしまうのだ。それは沙奈の力で下半身以外の黒硬質化を抑えても同じだった。
そして今も、他より速く進んでいた下半身の黒硬質化は足首の辺りで急激に速度を落とし、その間に他の箇所が追い付け追い越せと言わんばかりに進行していく。結局、足先まで黒硬質化が進む頃には手先も同じ状態になっていて、ここからは顎下辺りから黒硬質化が進行する。 羊介は失敗だと判断して、舌打ちをした。今までは、それを合図に黒硬質化の治癒を始めていた。
しかし今回、沙奈は止めなかった。
「おい」
「もう少し待ちましょう。ギリギリまで粘って、ヒトツメ化する寸前で私が足以外を治します」
その言葉に、羊介は即答しなかった。今までも、安全な範囲内でギリギリを見極めてやってきた。最悪でも、鼬型との一戦目、森でなった状態、痛みが這い上がってくる感覚が胸元まで来たところで止めている。それ以上は、ヒトツメのものか人間としてのものかは分からないが、本能が危険だと拒絶していた。
だが、このままでは鼬型ヒトツメには追い付けず、そして、今回で相手も流石にどちらが格上か思い知っただろう。羊介に挑んでくることはおそらくない。それどころか、顔を見ただけで逃げることだって有り得る。
人殺しとヒトツメ殺しは高揚感こそ同等だ。しかし、殺しを達成した時に高揚を得る殺人とは違い、ヒトツメ殺しはその過程、殺すまでの戦闘が一番愉しい。そういう点では、普段の羊介なら、鼬型ヒトツメに興味を失っていてもおかしくはなかったし、彼自身、それをおかしく思っていた。だが、どうしようもない。これも多分本能なんだろう、と羊介は思う。
「……よし。やってみるか。今すぐアイツをぶっ殺したくてたまんねーし」
沙奈は頷き、再び目を閉じた。
それを気配で感じていた羊介の腹部に、例の這い上がってくるような激痛がはしった。
身体を上ってくる。ゆっくりと、食い荒らしながら。胸を過ぎ、痛みが喉に入った途端、あまりの激痛に羊介は体勢を崩して、ビルの屋上に落下した。
高速で移動していた勢いそのままに、二人の身体は屋上を転がる。
先に起き上がった沙奈は全身の擦り傷に目も向けず、羊介に小走りで駆け寄った。沙奈がこの程度の怪我で済んでいるのだ。おそらく羊介に落下による怪我はないだろう。それでも、彼は両手で首を押さえたまま起きあがれずにいた。
「名雲さん、大丈夫ですか?」
激痛に歪んだ顔を覗き込みながら問うが、返事はなかった。口を動かしてはいるため、もしかしたら声が出ないのかもしれない。
痛みを感じないことが如何に危険か熟知している沙奈だが、それでも痛みがどういうものなのか理解することは出来ない。そんな彼女が考えていたヒトツメ化ギリギリのラインは、両目が寄って一つ目になる寸前だった。
でも、と沙奈は僅かに焦燥を顔に出す。普通の人は痛みで死んでしまうこともある。羊介が感じている痛みはその域に達しているではないのだろうか。
逡巡した末、沙奈が両手を伸ばした瞬間だった。激痛に悶えていたことが嘘のように羊介は一瞬で動きを止めて、ゆっくりと沙奈に顔を向ける。その目は焦点が合っておらず、虚ろなものだった。
沙奈はすぐに羊介の胸に手を当てて、
「おマエのオヤは……」
その言葉に、思わず治癒を止めて羊介の顔を見る。
私の親がなに? 出来ることならば、そう問いたかった。しかし、目が寄って既に端同士が付いた状態までヒトツメ化を進行させた羊介を見ると、沙奈はすぐさま治癒に戻った。
見渡す限りの田畑が広がる中、鼬型ヒトツメは小屋の屋根の上で逃走の足を止めると、追っ手がないことを確認するように振り返る。パキ、という小さな音とともに、亀裂の入った頬部分の皮膚が欠けて屋根に落ちた。
ヒトツメは基本的に人間を格下と見なしている。それはこの鼬型も例外ではなかった。
それ故に、認めがたい。外見や大きさは他の人間と変わらない羊介が、自分より勝った存在であることを。
このようにスピードだけなら勝てる。しかし、あの鋭い目と素早く重たい拳は、自分を確かに捉えていた。
その時、遥か遠くに黒い点が見え、少し遅れて感じた気配で僅かに毛が逆立った。黒い点が羊介だと気付いたヒトツメは、踵を返して再び宙を駆け出す。異変に気付いたのは、ほんの数秒後だった。
背中に感じる気配が、小さくなるどころか大きくなっていく。宙を蹴りながら振り返ると、既に、姿がしっかり見える距離まで羊介は接近していた。
その姿は、人間と呼べるものではなかった。上体、腰の辺りまでは、先程までの羊介と変わりない。しかし、腰から下は別の動物――馬の胴体に変わり、ギリシア神話に登場するケンタウロスのような姿になっていた。
半人半獣といった姿で、地鳴りが聞こえそうなほど乱暴に宙を蹴って一直線に突き進んでくる姿は、そこらの獣よりもずっと獰猛に見えた。
何故、人間の姿が変化したのか。ヒトツメには理解が出来ない。ただ、敵が自分以上のスピードを手に入れたことは、おそらく分かっていただろう。
それでも逃走を止めなかったヒトツメを、笑える者はいないだろう。間近に迫った津波から逃げるように、無駄だと分かっていてもそれ以外に出来ることなどないのだから。
徐々に距離を詰め、そして最後は一息に接近した羊介の前脚により、ヒトツメの頭部が完全に踏み潰される。一度大きく身体を跳ねさせた後、完全に動かなくなったヒトツメから脚を上げた羊介の表情に、先程までの高揚感は消え失せていた。
「呆気なく終わりましたね」
「あぁ。こいつが向かってきたらもう少し楽しめたんだけどな」
背中に乗っている沙奈の言葉に、羊介はヒトツメを見下ろしたまま答える。
沙奈が慣れない動きで背中から降りると、足腰に力が入らずに尻餅を着いた。それを見て、羊介が短く笑う。
「乗り心地は最悪だったみたいだな」
「はい。自転車の二人乗りをしてるような気持ちを味わえるかと思ったんですけど、しがみつくだけで大変でした」
「まぁ、そもそも一人乗りだしな」
「名雲さんは、私の胸の当たり具合はどうでしたか?」
「なんだそれ、自虐ネタか?」
立ち上がることを早くも諦めた沙奈は、失礼な言葉には答えず羊介を見上げる。
塗り潰したような黒色の馬の胴体部分以外は人間のままだが、柳田に借りた(すっかりボロボロの)喪服を着ているため、全身真っ黒に見えなくもない。
「……馬、なんですかね。名雲さんがヒトツメ化したら」
「そーなんじゃねーの? ゴキブリじゃなくて残念だったな」
「いえ。よく考えたら下半身だけゴキブリとか気持ち悪さマックスなので、これでいいです。馬だと空を跳ばないから少し不思議に思っただけですよ」
沙奈は大した疑問じゃないように言うと、すぐに別の問いを口にした。
「部分ヒトツメ化、意外と大丈夫みたいですね」
「あぁ。むしろギリギリを保つよりも安定してるぜ? まぁ、方法がアレしかない以上、多用は出来ねーけど」
「なんとなく感覚は掴めましたよ?」
首を傾げる沙奈に、羊介は思い切り顔をしかめる。
「めちゃくちゃ痛ぇんだよ。お前には分からねーだろうけど」
「でも、死ぬほどの痛みじゃなかったですよね? なら我慢すればいいんじゃないですか?」
本当に分かっていないかのように――いや、本当に分かっていないのだろう。そう問う沙奈に、羊介は怒りと呆れが混ざった表情で、こう言った。
「お前を殺す時は、死にたくなるほどの痛みを感じさせてからぶっ殺してやるよ」
対する沙奈は、キョトンと首を傾げてから微笑みを浮かべる。
「はい。楽しみにしてます」
羊介は舌打ちをして顔を逸らす。沙奈は「よいしょ」と年齢にそぐわない言葉を口にしながら羊介の脚を掴んで立ち上がった。
「それじゃあ、そろそろちゃんと人に戻していいですか?」
拗ねてしまったらしい羊介から返事はなく、沙奈は無言を肯定と受け取って、馬の胴体の側部に両手を重ねる。
白い光が羊介を包み、あっという間に人の姿に戻った。
「………………」
「………………」
ただし、ヒトツメ化の影響で下半身だけ衣服を身に付けていない状態だったわけだが。
「……千切れてないじゃないですか」
若干ぎこちない動きで見上げてくる沙奈に、羊介は舌打ちをしながら目を逸らす。
「えっと……、私のスカート穿きますか?」
「変態が二人になるだけじゃねーか」
羊介はしかめ面のまま喪服を脱いで腰に巻き付けた。
「少し礼装した原始人って感じですね。意外と似合ってますよ」
「そりゃどーも」
野外下半身露出という状況が意外と堪えているのか、羊介は投げやりに言うと辺りを見回した。見渡す限りの田畑の中には、ポツポツと小屋も見える。
あの中に作業着でも置いてねーかな。という羊介の思考を読んだように、同じ方向に顔を向けた沙奈が「行ってみますか?」と首を傾げた。
その問いには答えないまま一人で歩き出した羊介の背中(と、チラチラ見える尻)を見ながら、沙奈は先程の言葉を思い出していた。
お前の親は――。あの後、羊介はなんと言うつもりだったのだろう。訊いたところで、どうせ彼は答えない気がする。
まぁいいか。と沙奈は小走りで羊介を追う。
嘘を吐いているのも、隠し事があるのも、どっちもお互い様なのだから。