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Dear Killer  作者: 野良丸
5/15

狼は虐め 象は復讐



 名門校として有名な私立熊倉中学校が新学期を迎えて一週間が経った。クマ校という略称で呼ばれているこの中学には新学期ごとのクラス替えはなく、二、三年生の教室には慣れ親しんだ空気が流れている。

 しかし、その中の一室、二年一組の教室だけは、雰囲気がどこかぎこちない。

 給食後の昼休み、一年の頃からの友人同士で集まった生徒達の視線は、時折、窓際の席に向けられる。

 そこにいるのは、クマ校に二学期からやってきた編入生だった。無口な彼女は、誰にも話し掛けられない限り今のように本を読むか、あるいは勉強をしている。

 それ自体は、さほど珍しい光景ではない。名門校というだけあって他の学校と比べると授業の進みが早く、生徒の中には休みの殆どを全て勉強に費やして何とか付いてきている者もいる。現に、編入生の前の席に座っている小柄でショートヘアの少女、枝野ハルも午前中の授業の復習をしている。

 では、何故編入生が注目を集めているかというと、彼女が有名な事件の被害者だからだった。ヒトツメの存在が公になった例の生放送以外では顔にモザイクがかけられているが、ネットで検索すれば彼女の名前はいくらでも出てくる。育ちがいいのか、年の割には大人びた子供が集まった学校のため、それをネタに彼女をからかう、ましてや虐めるような生徒はいなかったが、遠慮ばかりしてしまい、なかなか近付けずにいた。

 今のところ、彼女と普通に接することが出来るのは、テレビもネットも親に禁止されていて、学校外でもそれを律儀に守っているハルくらいだろう。

 シャーペンを額に当ててしばらく難しい顔をしていたハルが、ノートを持って身体ごと振り返った。何やら分からないところがあったらしく、申し訳無さそうな表情で編入生にノートを見せている。両親が亡くなって以来、学校に通っていなかったらしい編入生だが、その学力は学年の上位に食い込むほどだ。ハルの質問にも、迷うことなく無表情のまま答えている。

 ハルが礼を言って前に向き直ると、編入生は読書に戻る。ブックカバーがしてあるため本のタイトルは分からないが、後ろの席の生徒によればヒトツメに関する本らしい。

 編入生とハルのやりとりを横目で見ていた同級生の一人が、自分達も話し掛けてみようかと意を決した時、不意に、まだ冷たい四月の風が教室へと吹き込んだ。

 クラスにいた全員が、編入生の隣、開け放たれた窓を見る。そこには、高校生ほどの男が立っていた。眉間に皺を寄せていなければ、さぞ好青年に見えるであろう顔立ちだが、彼はその表情のまま編入生を睨みつけると、

「おい。ケータイ切ってんじゃねーよ」

 突然の出来事に表情を固まらせていたハルが肩を跳ね上げるほど怒気のこもった声を出した。

 しかし編入生は無表情のまま、

「あ」と口を小さく開けると、校内持ち込み厳禁の携帯電話を平然とポケットから取り出した。

「充電切れてました。すいません、名雲さん」

 真っ黒の画面を眼前に突きつけられた羊介は大きな舌打ちをすると、踵を返して背を向けた。

「学校には連絡入れてあるらしい。さっさと来い」

 今更だが、二年の教室は三階にある。窓の下、僅かな足場にいた羊介は、当然のようにそこから飛び降りた。教室内で小さな悲鳴と戸惑いの声があがり、編入生、沙奈は、羊介の行動が普通でないことにようやく気付いた。

「えっと、ご心配なく。あの人は……、えー……、そう。身軽なので」

 苦しすぎるフォローの後、沙奈は机の横に掛けていた鞄を持って教室を出て行った。

 その後、騒ぎを聞きつけた教師がやってくるまで、教室のざわめきが静まることはなかった。




 学校を嫌いだという子供は多いだろう。少なくとも、好きよりは嫌いの数が多いことは確実だ。

 少年、竹谷悠生も、そのうちの一人だった。

 気弱で優しい性格に反し、がっしりとした大きな体格の彼はどうしても悪目立ちして、そういうタイプの人間に目を付けられてしまう。そこで、やり返さずとも何か一言反論出来れば今のようにあからさまに虐められることもなかったかもしれないが、彼の性格ではそれも難しかった。

 その日、彼は昼休みに呼び出しを受けていた。場所は、校庭の隅にある野球部の部室だ。

 行けばどうなるかなど考えるまでもない。しかし、行かなければ更に酷い目に合わされるのは間違いないのだ。

 給食が喉を通らず、完食に時間がかかってしまった。同じクラスの虐め加害者、黒井羅舞の姿は教室になかったため、既に部室にいるのだろう。

 重い足取りで階段を降りて昇降口へ向かう。途中、すれ違った生徒に指を差して笑われ、悠生は俯いて足早にその場を去った。

 この学校に悠生の味方は一人もいない。ほとんどの生徒や教師はただの傍観者。そして、いじめを許さないと力説する教師に限って、叱れば虐め加害者が改心すると思い込んでいる。自分は正しいことを言っているのだから、相手も言うことを聞くとでも思っているのだろう。まともな思考回路の持ち主なら、そもそも虐めなどする筈もないのに。

 昇降口に着いて靴箱を開き、伸ばそうとした手を悠生は止めた。

 虐めによりボロボロにされて、買い換えたばかりの綺麗な靴。いつか汚されるのは分かってはいるが、どうしても履いていく気にはなれず、体育用のシューズを代わりに履いた。

 校舎を出て校庭の端を歩いていると、サッカーをしていた者達のからかう声が跳んでくる。その声から逃げるように更に足早になり、そんなに虐められたいのかと更に嘲け笑われた。

 しかし、不意に勢いよく開いた部室のドアにより、その笑い声は止まる。部室の中から我先にと外へ飛び出してくる虐め加害者達。その表情は恐怖に歪んでいて、校庭の生徒達や悠生は何事かと動きを止めている。

 悠生は「あ、あの……」と、駆けてきた三年生に声を掛けるが、すれ違いざま、うざったそうに肩を押されて地面に倒れた。

 その時、校庭の方から短い悲鳴が上がった。全員の目は悠生に――いや、その後ろに向けられている。

 倒れたまま恐る恐る振り返った悠生の目に飛び込んだのは、部室から出てきた黒井羅舞の姿だった。しかし、その身体は完全に黒く変わり果て、そして今、両目が中央に寄って、巨大な単眼となった。




「場所はここから二十分程度の公立中学校。通報によると、今回のヒトツメは狼型。サイズは七、八メートルといったところだそうです」

 サイレンを鳴らしながら一般道を駆け抜ける黒いセダン車。その助手席から後部座席に顔を出しながら言った若い戦闘員に、沙奈は頷き、羊介は「狼か」と呟いた。

「なんか変わった特徴とかねーの? 前の猿みてーに腕がデカいとか」

「いえ。外見はそのまんま狼が大きくなったものだそうです。ただ、特定の生徒を狙う――あるいは、一度定めた標的を仕留めるまで他を狙わないだけなのかは分かりませんが、そういった動きが見られるそうです」

「へぇー。その狙われてる奴がなんかしたんじゃねーのか? ヒトツメは敵意ある奴を優先的に狙うんだし」

「本人は何もしてないと言っているそうです」

「あっそ」と羊介はまるで信用していない声を出す。その隣で沙奈は鞄から充電器を取り出し、後部座席についたコンセントに差してから口を開く。

「その学校はどんな状況なんですか?」

「そのヒトツメの習性もあって、普段より被害者は遥かに少ないです。ただ、それでも三人の生徒が殺されているため、全員、校舎内で待機中。ただ、一人だけ逃げ遅れた生徒がいるらしく、校庭の隅にある野球部室に逃げ込んでいるようです」

「へぇ。じゃあ気付いてないわけねーな。本当に標的以外興味ないのか」

 男は頷き、言葉を続ける。

「ヒトツメは標的の生徒が逃げ込んだ昇降口をしばらく攻撃していたようですが、今は校庭で三人の遺体の四肢を潰したり、放り投げるなどして弄んでいるそうです。時折、野球部室に顔を向けるような仕草を見せるようですが……」

「前のお猿さんみたいに人を怖がらせているんでしょうか」

 スマートフォンの電源を入れながら首を傾げる沙奈に、羊介はどうでもよさそうな窓の外を向いて答える。

「さぁな。案外、人間の頃に虐められてて、その復讐心が残ってんじゃねーの?」

「そんな事があるんですか?」

「ここ二ヶ月弱で俺が読み漁った過去の資料にはなかったな。だが……、これはヒトツメになりかけたことのある奴しか分からねー感覚だろうが、ヒトツメ化が進む度に、色々吐き出したいような感覚――――まぁ簡単に言えば、本音を吐き出したくなるような感じがある。ヒトツメ化したガキが虐めに対して死ぬほど恨んでいたなら、案外、ヒトツメになっても恨みの欠片程度は残るんじゃねーかと思ってな」

「ということは、ヒトツメになるギリギリまで放っておけば名雲さんの本音が聞けるかもしれないんですね」

 そのブラックジョークに前座席の二人は顔を引きつらせるが、羊介は「ハッ」と短く笑った。

「そりゃあ無理だな」

「……どうしてですか?」

「俺はヒトツメにならなくても本音だけで生きてるから」

「あぁ、なるほど」

 羊介がくっくっくと喉を鳴らして笑うと、前方の道路を閉鎖する警官やパトカーが見えてきた。

 指示に従って車を止めて、運転席の窓を開ける。三十代くらいの警官は後部座席に乗っている未成年二人を見ると怪訝そうな表情をしたが、運転手が黒い手帳を見せると、すぐに封鎖を解除して道を開けた。

「わざわざ道路封鎖してんのか」

「付近の住民の避難にも避難勧告を出しています。そうしないと、ヒトツメを見に学校へ来る物好きな人がいますからね」

「はっきりと、死んでも仕方ねー馬鹿って言っちまえよ」

 吐き捨てるような言葉に前座席の二人は苦笑する。

 羊介は不意に沙奈を見ると、その右腕に視線を向けた。

「お前、ギブス取れたのか」

「はい。少し前に」

 沙奈は右腕を軽く上げながら答える。

「でも、まだ肘や手首が動かしづらいので、リハビリは続けていかなくちゃ駄目みたいです。痛みがない分、無理させがちになるので、ゆっくり気長にやるように、と」

「そうなのか。痛みを感じないってのはつまんねーうえにめんどくせー体質だな」

 その言葉に沙奈は「そうなんです」と答えた。




 ヒトツメは多種多様様々な形態の個体がいるが、最も多いのは狼型の個体だ。ここ二ヶ月、羊介が研究所に閉じこもって読んだ資料の中にも、多く登場し、対狼型ヒトツメに対する戦闘シミュレーションは完璧だった。それを口にしなかったのは、

『なら弱らせることも出来そうですね』と言われないようだった。

 まぁ、どちらにせよ、ヒトツメの姿を視認した四人に、そんなことを考える暇はなかったわけだが。

 中学校の敷地内に入った四人が車窓から目にしたのは、ヒトツメと向き合う大柄な男子生徒だった。引きつった表情でヒトツメを見る男子生徒の前で、ヒトツメはまだ綺麗な遺体を踏み潰し、引き裂いている。

「……アイツか? 逃げ遅れた愚図生徒って」

「校舎と反対方向にいるから多分そうでしょうね」

 右手の校庭を見ていた沙奈がチラリと真っ正面にある校舎に目を向ける、一階から四階の殆どの窓から生徒や教師が顔を覗かせていた。しかし、男子生徒を心配するような顔だけではなく、中には事の成り行きをニヤニヤと楽しむものもある。

「というか、早く助けてあげてください」

「はぁ? なんで俺がそんなことしなきゃいけねーんだ」

 二人が話をしている間、運転席の戦闘員が窓を開け、運転をもう一人に任せると、大型拳銃を取り出してヒトツメに向けて引き金を引いた。

 ヒトツメのすぐ後ろの地面を抉った銃弾に、少年が遠目にも分かるほど肩を跳ね上げて驚く。

「てか、なんでアイツわざわざ外に出てきてんだよ」

「名雲さんがヒトツメを倒すところを見て自分もやれると思ったんじゃないですか? つまり名雲さんのせいです」

「どこがだよ」

 ヒトツメがこちらに身体を向けたのを見ると同時に車が止まり、隊員二人が飛び出す。助手席に乗っていた隊員に手を引かれて沙奈が車外に出た時、ヒトツメは完全に四人を標的に定めたらしく、砂煙を撒き散らして地面を蹴った。

 羊介は不敵な笑みを浮かべると車のドアを蹴り開けて外に出る。

 その頃には、ヒトツメは既に前脚の爪を立ててワゴン車に飛びかかっていた。

「あ、スマートフォン……」

 隊員に手を引かれて避難している沙奈の小さな呟きをかき消すようにワゴン車は押し潰される。

 スクラップになったワゴン車に前脚を乗せたままヒトツメは顔を上げて、逃げていく沙奈を見る。その横っ面を、羊介が蹴り飛ばした。

 首ごと身体が仰け反るほどの威力に、ヒトツメはワゴン車から飛び降りると、宙で一回転して羊介と向き合う。

「流石に猿よりは素早そうだな」

 中心がヘコみ、沈没していくタイタニック号のようになったワゴン車のボンネットに乗り、羊介は不敵に笑う。その力を感じ取ったのか、ヒトツメは牙を剥き、小さく唸り声をあげた。

 もう一人の隊員は、ヒトツメを警戒しながら校庭を横切っていた。言うまでもなく男子生徒を保護するためだが、その男子生徒は何かを叫びながらこちらに向かって走ってくる。

 手で戻るようジェスチャーをするが、男子生徒の目にはヒトツメしか映っていないらしく、まるで言うことを聞こうとしない。

「止まれ! 近付くのは危険だ!」

 その声でようやく隊員の姿に気付いたのだろう。男子生徒は驚きを浮かべるが、すぐに首を横に振り、そのまま隊員の横を通り抜けようとする。訓練を積んだ自分達でさえ足手纏いにしかならない戦いの場に、素人を行かせるわけにはいかない。第一研究部室長の泰子や同僚の岡田から聞いた話が真実なら、最悪、羊介に殺されてしまうことだって有り得る。

 隊員は男子生徒を後ろから羽交い締めにするが、それでも何とか抜け出そうと暴れる。

「は、離してください!」

「危険だと言っているだろう! 君が行ったところで邪魔になるだけだ!」

 羊介とヒトツメの戦いは既に始まっている。そして、羊介はヒトツメの攻撃すべてを完璧とも言えるほどに見切り、弱点である目を的確に突いていた。その度に低い唸り声をあげるヒトツメを見て、男子生徒は「あぁ」と悲痛な声を出す。

「お願いします! あのヒトツメは……黒井君はまだ、僕の言うことなら聞いてくれる筈です!」

「そんな筈……」

 ない、と言おうとした時、隊員の脳裏に、羊介と沙奈の車内での会話が蘇る。ヒトツメに変貌しても、人の心が僅かに残る可能性。そして、男子生徒の言葉が真実なら、ヒトツメを元に戻すことだって、沙奈がいる今なら出来るのだ。

「……とりあえず、話を聞かせてほしい。このまま、君をあの場にやることは出来ない」

 男子生徒は、こうしている間にも攻撃を受け続けているヒトツメを見てから、すっと顔を俯けた。

「僕は黒井君達に虐められていました。今日だって、きっとそれが目的で部室に呼び出されていました。でも、あの姿になる前に、黒井君は言ったんです。『本当はこんなことしたくなかった。ごめん』って。それでも僕は怖くって部室に逃げ込んだら、黒井君は僕を虐めていた人達を……こ、殺し始めて、それで、もう大丈夫って言うみたいに、僕の方を見たんです。それで、怖かったけど、さっき少し話をしてみて、黒井君はもう喋れなかったけど、僕を襲うようなことはしなかったです」

 それが本当なら、ヒトツメがEYESを敵と認識したのは、自分の威嚇射撃が原因なのではないか。その考えが隊員の頭に浮かび、僅かな後悔の念が押し寄せる。

「……分かった。君の言葉を信じよう。でも、まずはもう一人の協力者と合流する。だから君も、先走らないでくれ」

 男子生徒が頷いたのを見て、隊員は立ち上がると、腰に掛けていた無線機を手に取り、もう一人の隊員に繋いだ。

 隊員は、状況を説明しながら男子生徒とともに走り出す。

 自分達だけで行っても、ヒトツメを人に戻すことが出来ないどころか、羊介に殺される可能性もある。沙奈の存在は不可欠だ。

 石碑の裏に隠れて戦いを見ていた沙奈と隊員は、無線から聞こえてくる言葉を黙って聞いていた。

『……ということですが……』

「じゃあ、やってみましょうか」

 軽く言う沙奈に、隊員は心配そうな顔を向ける。

「大丈夫です。もしヒトツメが言うことを聞いてくれなくても、お猿さんの時と違って名雲さんにも余裕があるみたいですから、ちゃんと守ってくれる筈です」



 はっきり言って、羊介は遊んでいた。攻撃パターンも、動きも、今まで現れた狼型ヒトツメと何ら変わりない。今はわざと身体を狙って遊んでいるが、実際はいつだって目玉を潰せた。

 そろそろ殺すか。と羊介は視線を軽く上げながら思う。ヒトツメ化の進行にも余裕があり、本当ならもう少し遊びたいところだが、校舎の窓から突き出されたスマートフォンと、たまに光るフラッシュが最高に癪に障った。

 見るからに弱り、時折身体をふらつかせるヒトツメを前に、羊介は口角を上げて笑うと、拳を固く握って軽く膝を曲げる。

 だが、背後から感じた気配に臨戦態勢を解くと、不愉快そうに振り返った。

 そこにいたのは、沙奈と二人の隊員、そして、男子生徒だった。

 羊介が背を向けた隙をついて、ヒトツメが飛びかかる。駆け寄っていた四人が口を開く前に、羊介は既に振り返っていた。

 危ない、と危険を伝えようとした隊員と男子生徒は言葉を飲み込む。ただ、沙奈だけはそのまま言葉を発した。

「ストップです!」

 目玉を狙ってカウンターで突き出された拳が、その言葉によって僅かに軌道がズレる。それは、羊介自身もほぼ無意識のうちの行動だった。

 拳は目玉に掠り、ヒトツメは再び距離を取る。

 そして、羊介は両拳を力強く握り締めて、怒りの表情を浮かべて四人を振り返った。

「邪魔すんじゃねえよ雑魚共! 一緒にぶっ殺されてえのか!」

 その表情と言葉に、沙奈以外の三人は身体を強ばらせる。

 ただ、沙奈は気にした様子もなく男子生徒の手を取ると、男子生徒を背中に隠しながら羊介に、ヒトツメに近付いていく。

「さっき、名雲さんが車の中で言ってましたよね? ヒトツメになっても、少しは人の時の心が残るかもしれないって」

 羊介は腹立たしそうに顔をしかめながらも沙奈の言葉を黙って聞く。

「もしかしたら、この人の言葉なら、ヒトツメが言うことを聞いてくれるかもしれないそうです」

「……で? 殺しちまった方がはえーだろうが」

「私の力は名雲さんだけのためにあるわけじゃないですから」

 羊介は舌打ちすると、ヒトツメに向き合ってから乱暴に腰を下ろして胡座を掻いた。

 その隣まで歩いてきた沙奈は、男子生徒に目を向けて、後ろから隣に移動させる。

 ヒトツメは三人を見ながら小さく唸り、口からは――血なのか唾液のようなものなのか、黒い液体を流している。

 男子生徒は生唾を飲むと、大きく口を開いた。

「黒井君! 竹谷……竹谷悠生だけど、まだ僕のことが分かる? この人達は悪い人じゃないんだ! だから、戦うのはもう止めてよ!」

 ヒトツメの呻き声が大きくなっていく。まるで、何か葛藤するように。

「……おい、久留米。今って、ヒトツメ化してからどのくらい時間が経った?」

 ゆっくりと立ち上がる羊介の言葉に、沙奈は校舎についた時計を見上げて答える。

「一時間弱……四、五十分くらいでしょうか」

「なら、そう報告しておけよ」

 ヒトツメは葛藤を振り払うかのように天に向かって大きく鳴くと、三人に向かって地面を蹴った。

「ヒトツメが心を保てる限界は、精々その程度の時間だけだってな」

 そして羊介も、ヒトツメを迎え撃つように地面を蹴った。

 そのまま中心で激突した両者のうち、どちらが勝利したかは、言うまでもないだろう。

 ヒトツメの身体が崩れ落ち、羊介が目玉から腕を引き抜くと、少し遅れて大きな歓声が校舎の方からあがった。

「うぜ……」と顔をしかめ、背を向けて歩き出した羊介と、入れ替わるかたちで、男子生徒、竹谷悠生が、息絶えたヒトツメに駆け寄った。崩れるように地面に膝を着くと、目玉が潰れた顔にそっと触れる。

 羊介は振り返ることなく沙奈の前まで歩くと、

「……ヒトツメ化の回復、やる気なくなったか?」

 と、見下ろしながら聞いた。

 沙奈は羊介ではなく悠生を見たまま首を横に振る。

「やる気云々は元々微妙ですけど、やりますよ。今の判断は、間違っていないですし。ここでやりますか?」

「いや、大分余裕だから、帰りの車でいい」

「……せっかく勝ったのに、テンション低いですね」

「最後の最後で水差されたからな」

「……歓声に応えてあげたらどうですか」

 誤魔化すように沙奈が口にした言葉に、羊介は先程以上に顔をしかめた。

「絶対に嫌だね。こんなに気持ちわりー声、聞きたくもねー」

 そう言って、羊介は沙奈の横を通り過ぎていく。沙奈は振り返ることなく、ヒトツメの傍に腰を下ろしたまま肩を震わせている悠生を見ていた。

 その歓声は、当然、悠生の耳にも届いていた。その声に悲しみは掻き消され、沸々と怒りが沸き上がってくる。

 このヒトツメが誰なのか、彼らは知っている筈だ。二年生の中ではスクールカーストも最上位で、学年関係なく異性にモテて、野球部の大会がある度に何かしら活躍して、次期キャプテン間違いなしと言われていた黒井羅舞だ。悠生にとって、一時間ほど前まで彼は虐め加害者でしかなく、はっきり言って嫌っていた。だが、彼は基本的には人気者だった筈なのだ。では、何故彼は今、死んで喜ばれている? 化け物になったから? 校舎を破壊したから? それとも――

「人を、コロしたから?」

 沸々と、沸き上がる。怒りの感情に比例するように、悠生の身体が。

 羊介が勢いよく振り返り、それを見た隊員はようやくその事態に気付く。そして沙奈は、悠生に向かって駆け出した。

 全身が黒く変色した悠生がゆっくりと立ち上がり、校舎を見上げる。一つになった目からは、透明な涙が流れていた。

「オマえらは、ダれのミかタなンダ」

 その瞬間、悠生の身体が大きく膨らみ、連続して大きな爆発が起こった。黒い液体が辺りに飛び散り、今までのヒトツメの比でないほど、巨大な身体が形成されていく。

 沙奈が爆発に足を止めていると、追い付いてきた隊員二人に連れられて悠生から遠ざかっていく。

 羊介は、高さだけでも十メートルは越えるであろう、そのヒトツメ――象型のヒトツメを見ながら、

「へぇ」と微かに笑みを見せた。

「今度は、なかなか楽しそうな相手だな」

 羊介はゆっくりと歩き寄りながら、ヒトツメに対して明確な敵意を向ける。しかし、ヒトツメは羊介を見向きもしないどころか、完全に背を向けた。

 予想外の行動、そして自分を無視する行動に、羊介は「あ?」と眉間に皺を寄せる。

 しかし、ヒトツメと向き合った校舎の生徒や教師にとっては、それどころではない。これから何が起こるのか。最悪な想像しか浮かばなかった。

 そしてそれは、現実のものとなる。

 ヒトツメは前脚を上げて大きく――象というよりも、怒り悲しむ獣のような声で鳴くと、校舎に向かって駆け出した。

「ぶはっ」と思わず吹き出して笑う羊介とは対照的に、校舎からは多数の悲鳴が聞こえてくる。

 高さ十メートル、全長は十五メートルほどありそうな巨体が、校舎にぶつかる。たった一度の突進で、校舎の中心部分は完全に潰れて、軋む音を立てながら倒壊していく。しかし、ヒトツメはそれを待つことなく、一度身を引くと、更に突進を繰り返した。

 悲鳴が起こり、崩れる校舎の中で人が潰れるのが遠くからでも見えた。時折、窓から跳んで逃げようとする者もいたが、ヒトツメはその一人一人を乱暴に、しかし逃すことなく踏み潰していった。

 隊員二人は沙奈に避難するよう言ってからヒトツメに駆け寄り、潰れた車の中から取り出しておいたライフルを撃つ。ヒトツメ相手にもなかなかの効果があるが、反動が強すぎて扱いに難しい特注のライフルだ。象型ヒトツメは巨体なだけあって、弱点の目玉も一段と大きい。銃口から発射されたライフル弾は見事に目玉を捉えるが、ヒトツメはまるで反応を見せずに破壊活動を続けている。

 再びライフルを構えた隊員を、笑い転げていた羊介が目に溜まった涙を拭いながら止めた。

「やめとけやめとけ。弾の無駄だ。さっきの、完全に弾かれてたぜ」

 絶句する隊員二人と、あー笑った笑った、と愉しげに言う羊介達の視線の先で校舎が完全に崩落した。

 裏口から逃げ出した人々の後ろ姿、瓦礫と化した校舎から聞こえる呻き声や泣き声を前にしてじっと立っていたヒトツメは、ゆっくりと振り返り、一点、羊介を見下ろした。

「やっとこっち見やがったか」

 羊介が駆け出すと、ヒトツメは前脚を上げて大きく鳴き、コンクリートの瓦礫を粉々に踏みつぶしながら足を下ろした。羊介は周囲に舞う砂埃の中を突っ切ると、強く地面を蹴り、一瞬にしてヒトツメの眼前まで跳び上がった。振りかぶった右拳を、一際巨大な目に叩き込む。

 ヒトツメの目玉には、攻撃を防ぐための薄い膜が張ってある。羊介でも、それを一撃で破ることは不可能だ。先程の銃撃を見て、目玉を潰すまでそれなりに手間が掛かることも想像出来ていた。しかし、完全に攻撃を弾かれたのは、予想外だった。堅いわけではない。異常なまでに、弾力があるのだった。岡山支部の草壁が言っていた刀が今更欲しくなったが、それは無い物ねだりでしかない。

 羊介は上から襲いかかってきた長い鼻を宙で避けると、地面に着地して短く笑う。

「すげーな。バランスボールかよ」

 とりあえず、このままの力では攻撃が通らない。力の増幅、ヒトツメ化の進行を待たなければ。

 羊介とヒトツメが校舎の上から移動したら生徒達の救助に向かおう。そう考えていた隊員二人の元に、避難するよう言った筈の沙奈が駆けてきた。

 隊員が何かを言う前に、沙奈は呼吸を乱したまま口を開く。

「あの、ヒトツメ化を……」

「ヒトツメ化?」と隊員の一人が聞き返してから、羊介と戦っているヒトツメに振り向き、首を横に振る。

「ヒトツメ化を回復させるとしても、今のままでは無理です!」

 沙奈は息を整えながら頷き、校舎とは反対方向を指差した。そこの地面には、完全に目玉が潰れた狼型のヒトツメの死体が残されている。

「あのヒトツメを戻したところで……」

 沙奈は「分かってます」と再度頷き小さく息を吐くと二人を見上げた。

「でも、人に戻った姿を見たら、竹谷さんも少しは正気に戻ってくれるかもしれません」

 その言葉に、隊員は顔を見合わせる。

「しかし、先程の狼型のように、既に意識が消えている可能性も……」

「いや」と、もう一人の隊員が否定する。

「あのヒトツメは、真っ先に敵意を向けて挑発した筈の名雲君を無視して、校舎の破壊、生徒や教師の命を奪うことを優先した。それを考えると、まだ竹谷君の意識が僅かに残っていても不思議じゃない」

 今までにない巨体相手に、あの羊介でさえ手こずっているように見える。もし、彼が戦いに敗れた場合、どれほどの規模の犠牲が出るのか分かったものではない。

 やってみるか? 確認するように、隊員が互いに視線を交差させたのを見て、沙奈はまた駆け出した。隊員がその腕を掴もうと伸ばした手が、途中で止まる。一度考えた可能性に縋りたい気持ちが、彼等の中に芽生えていた。

 沙奈がヒトツメの傍にしゃがむと、隊員はそれぞれ両側に立つ。沙奈は両手を狼型ヒトツメの鼻先に重ねる。すると、白い光がヒトツメを包み、見る見るうちに身体が縮小していった。

「何やってんだ、あいつら!」

 象型ヒトツメの踏み潰し、そこから連続して襲いかかってくる鞭のような鼻――もっとも、当たればミミズ腫れでは済まないだろうが――の一撃をかいくぐりながら羊介は舌打ちする。

 象型ヒトツメも白い光に反応して攻撃を止めて沙奈の方を見る。そして、そこにいる人物に気付き、鼻先を高く上げながら大きく鳴くと、ゆっくりとした落ち着いた足取りで歩き始めた。

 羊介は状況を察したらしく、舌打ちしながらもヒトツメの後ろに付いて歩く。新種である象型のヒトツメともっと戦いたい気持ちは当然あるが、人に戻せるようなら戻すという約束だった。

 黒井の遺体を抱く沙奈の前で足を止めたヒトツメの横を通り、羊介は怪訝そうな顔を浮かべて隊員の一人に声を掛ける。

「なぁ、アイツらってどういう関係なんだ? 友達には見えねーけど」

 人に戻った黒井は、金色の長髪に、両耳にはピアスの穴が空いている。今は裸だが、学生服を着崩している様が容易に想像出来た。ヒトツメになる前の悠生は、もさったい黒髪に、制服は首元のフックまでしっかりとしていた。明らかに二人は対照的で、とてもではないが一緒に遊ぶような仲には見えない。

 隊員が羊介に事情を説明している間、ヒトツメは黒井の遺体を鼻先で突っついていた。

「……虐め?」

 珍しく、羊介が緊迫感のある声を出した時、沙奈がヒトツメの鼻先に手を伸ばした。しかし、指先が触れた瞬間、その手は軽く払われ、代わりに両前脚が高く上げられた。沙奈達を、踏み潰すように。

 舌打ちが聞こえると同時に沙奈の身体は横から抱えられて低空を移動した。しかし、黒井の遺体から手は離れて、大木のような脚に轟音と共に潰される。

「……なんで」

 近くにいては邪魔だと、沙奈を抱えたまま校門に向かって駆けていた羊介は、その呟きに顔をしかめて返事をする。

「……痛みを感じないお前には分からないかも知れねーけど、そういう類の恨みなんざそう簡単に消えるもんじゃねぇよ。ましてやアイツは今、本音が剥き出しの状態だ」

 その言葉に、沙奈は羊介の胸元を両手で掴む。

「じゃあ、竹谷さんは何で校舎を壊したんですか? 何に対してあんなに怒ってるんですか?」

「ああなると、もう人に対してじゃねーんだ。自分の周りにある全てが敵で、アイツは世界に対して怒って、世界をぶっ壊そうとしてる」

 沙奈は息を飲んで目を見開くと、諦めたようにそっと俯いた。

 ようやく大人しくなったか、と羊介は短く息を吐き、沙奈を校門の陰に置いた。陰からヒトツメを覗くと、傍にいる隊員二人に見向きもせず、黒井の――既に何も残っていないが、遺体のあった場所を一心不乱に踏みつけていた。

「名雲さん」

 その呼び声に、羊介は「なんだよ」と振り返った。



 一つの動作をひたすら繰り返していたヒトツメがその動きを止めたのは、歩いて近付いてくる羊介の姿を目にした時だった。

 怒り狂うように鳴くヒトツメに、羊介は短く笑う。

「そいつを殺した俺への恨みも一応残ってんだな。めんどくせー奴」

 羊介は戦いに気を高ぶらせる。そうでもしなければ、ヒトツメ化進行に伴う激痛により、まともに動けなくなってしまうという理由もあった。

 赤黒い血液と肉片が付着した足の裏が頭上に迫り、羊介は懐に飛び込むように地面を蹴る。

 このヒトツメの攻撃パターンは少なく、動作も遅いため、鞭のようにしなる鼻による攻撃以外、避けることは容易い。しかし、羊介の攻撃も依然として有効打になり得なかった。

 岡山の猿型ヒトツメを岩というならば、今回のヒトツメは山でも殴りつけているような気分になる。目玉以外の弱点も一見では見当たらない。

 限界までヒトツメ化を進行させたとして、果たして有効打を与えられるようになるのかすら怪しかった。

 ヒトツメにも、この象型や猿型のように力と耐久性に特化したもの、狼型のようにスピードに特化したもの、蜘蛛型のように手数と攻撃速度に特化したものなど、様々な個体がいる。羊介がヒトツメ化を遂げた場合どのような姿形になるのかは分からないが、彼は間違いなくスピード型だった。次点で力、一番低いのが、人の身体ということもあって耐久性だろう。だからこそのスピードとも考えられるが。

 敵の攻撃を一発耐えられれば御の字。対して、羊介は――

『竹谷さんを殺さないでください』

 唯一の弱点である目玉への攻撃を、潰さない程度に抑えて、身体能力が一般人である沙奈が近付き、力を使うまでの間、暴れ出さない程度に弱らせなければならない。

 羊介は不敵に笑う。更なる力を求める彼に応えるようにヒトツメ化の進行速度が上昇し、襟首からはみ出るほどまで黒硬質化が進んだ。

 痛みは感じるが、不思議と激痛というほどではなかった。それよりも、身体が羽根のように軽くなったことに対する驚きが大きい。

 そして、拳を握るだけで分かるほど、先程までとは桁違いの力。

 羊介はヒトツメの鈍重な攻撃を軽々と避けると、一瞬で背後に飛び上がった。その動きは、間近のヒトツメだけでなく、遠くから見ていた沙奈でさえもまともに追えず、瞬間移動したようにも見えた。

 羊介は宙を蹴って急降下すると、その勢いままに拳を背中に叩き込む。硬質化した肌が割れることもヒビが入ることもない。しかし、その攻撃に、ヒトツメは初めて嫌がるような素振りを見せた。

 身をよじり、背中の上にいる羊介を狙って鼻をしならせる。だが、鼻が背中を叩いた頃には、羊介は再び宙に跳んでいた。高く跳び上がっていることとは無関係に、明らかに浮遊時間が伸びていた。まるで水に浮かんでいるような感覚を覚える。そして一番の違いは、宙を蹴って移動出来るようになったことだろう。

 ヒトツメ成体は鳥かなんかか? と羊介は思いながら再度ヒトツメに向かって宙を蹴る。

 縦横無尽の方向から襲い掛かる攻撃は人の目には捉えきれず、ヒトツメが単独で暴れているようにすら見えた。

 しばらく立ち尽くしていた隊員二人が我に返り校舎の方へ向かったのを横目に、羊介は更にスピードを上げていく。

 徐々にヒトツメの鳴き声は弱々しいものへと変わっていき、反撃の力も速度も格段に落ちた。

 そして、懐に飛び込んだ羊介の突き上げる一撃により、硬質化した腹部の肌にヒビが入って、亀裂から黒い液体が滴った。

 ヒトツメは悲痛な鳴き声をあげると、身体を丸くして、防御に徹する体勢になった。それを見て羊介は舌打ちする。

「ヒトツメになっても変わんねーな、おい。そうやって丸くなってるから殴られるんだろうが。どうせ殴られるなら一発ぶん殴ってみろ。その後に何倍返しされても、思い出す度に笑えるくらい面白ぇ表情が見られるぜ」

 まぁ、と羊介は薄く笑うと、振り返って沙奈に目を向ける。

「そのままでいてくれた方が、俺としては有り難いんだけどな」

 その言葉と同時に、羊介は校門まで一足で移動する。その動きもやはり目では追えなかったらしく、沙奈は目を微かに見開いていた。

 羊介はニヤリと笑うと、沙奈を肩に担いでヒトツメの前まで戻る。意識が飛びそうなほどの速度に、肩から降ろされた沙奈は足をフラつかせながらヒトツメの傍まで歩いた。その様子に気付いた隊員二人のうち一人が駆けてくる。

 大木のような前脚に両手を重ねると、巨体から小さな震えが伝わってきた。それは、白い光が沙奈達を包み、また消えても、変わることはなかった。

 人の姿に戻ったヒトツメ――竹谷悠生は、身体を丸めたまま震えている。隊員がワゴン車から持ってきた毛布を身体に掛けて、沙奈はその背中をさすりながら、羊介に振り返った。

「……まさか本当にやってくれるとは思いませんでした」

 羊介は短く笑う。

「俺は人殺しで嘘吐きだが、約束は守るぜ。なかなか良い交換条件だったしな」

『名雲さん、竹谷さんを殺さないでください。その代わりに、もう同じお願いはしません』

「これから好きなように戦れるならこの程度安いもんだ」

 羊介は黒硬質化した首を軽く叩きながら言う。いつの間にか羊介の黒硬質化は更に進行していて、長袖のコートから出るほどまでになっていた。

 沙奈は立ち上がると、羊介の右手を掴んでヒトツメ化の回復を始めた。腹部が見えるように羊介が服をめくると、沙奈はしばらくじっと見てから不思議そうに首を傾げる。

「……露出癖があるんですか?」

「腹見えるようにしてやってんだろうが」

「あぁ。別にいいですよ。この前ので感覚は掴めてますから」

「お前と違って俺はフツーに寒ぃんだから、そういうことは早く言えよ。腹壊したらぶん殴るぞ」

 隊員が本部に連絡する声を聞きながら、沙奈は微かに笑って、羊介を見上げた。

「はい。すいませんでした」



「完全なヒトツメを人間に戻せたのは初めてだから、よくやってくれたと誉めるべきなんでしょうけど……、三百人を超える死傷者を考えると、なかなか言葉にしにくいわね」

 本部へ戻る道中の車内。助手席に座っている、EYES本部研究部室長の大久保泰子が何とも言えない複雑な表情で、後部座席の二人を労った。

 二人は表情一つ変えずに、沙奈はじっと泰子を、羊介は頬杖を着いて窓の外を見ている。

 その様子をバックミラーで見た運転席の岡田は、相変わらずだな、と内心苦笑する。羊介はともかく、沙奈は学校に通って同年代の子供と触れ合えば、少しは年相応の表情を見せてくれるようになるかもしれないと思っていたのだった。

「竹谷さんはこれからどうなるんですか?」

 沙奈の問いに、泰子は少し考えるような沈黙の後に答える。

「ヒトツメ化していた時のこととはいえ、本人に記憶はあるらしいし、精神的なケアは必須でしょうね。いち研究者としては、ヒトツメ化から人に戻った貴重な例として今すぐにでも協力を頼みたいけど、そっちの方が一段落してからになるわ。学校とかこれからのことについては御家族とも話さないといけないから何ても言えないけど、今まで通りこの辺で暮らすというのは難しいでしょうね」

 今回の事件に関して箝口令は敷くようだが、人の口に戸は立てられない。死者が出ているなら尚更だ。

 沙奈が「そうですか」と返すと、羊介が短く笑う。

「転校先でまた虐められてヒトツメ化したりしてな」

 当然、同調して笑う者はいなかった。しかし、羊介は気にした様子もなく笑い混じりに言葉を続ける。

「あのままじゃあ、どうせまた虐められるぜ、アイツ」

「よく分かりますね」と沙奈は淡々と言う。

「分かるだろ。なんとなく」

 羊介は軽く上げた左手で沙奈を指さす。

「お前はなんだかんだでうまくやるタイプだな。性格は無愛想だが、相手によっちゃープラスだし、マイナスでも顔がいい分でチャラだろ。その体質のせいで目立つは目立つが、教師とか周囲の大人、あと友達が出来りゃーそいつらが常に気を配ってるから、虐めの標的にはならない」

「……当たり。意外です」

「へっ」と得意気に笑う羊介を、今度は沙奈が指差す。

「虐めっこタイプ。性格は壊滅的、元の顔は少し怖い感じ。もう典型的過ぎて何も言えない」

 羊介が顔をしかめる、という沙奈の想像に反して、羊介は口角を上げて笑うと、

「ハズレだ」と言った。

「小学、中学とも、俺は竹谷と同じ虐められっこだったぜ?」

 その言葉に、岡田は思わずバックミラーに目を向けた。沙奈は無表情のまま微かに眉を寄せる。

「……冗談?」

「マジだっての。お前知ってるか? 俺が最初に殺した相手」

「えっと、男子高校生でしたよね」

「あぁ。あれ、中学の時の虐めの主犯格。その後に殺した女子中学生は虐め仲間の妹、OLはまた別の奴の姉。まぁ、途中で無関係の奴も殺してるけどな」

「……復讐して、満足しました?」

 沙奈の問いに、羊介は嘲笑を浮かべる。

「はっ。お前、復讐は何も生まないだなんて言うんじゃねーだろうな。いいんだよ、それで。何かを生み出したくてやったわけじゃねえ。アイツ等への怨恨憎悪憤怒を消したくてやったことだ。復讐は何も生み出さなかったが、俺の心はスッキリしたぜ? 復讐なんて、そんなもんだろ」

 あと、と羊介は更に付け加える。

「言っとくけど、復讐目的で殺したのは最初の一人だけだぜ? そこからは殺すことが目的になったからな。虐めっこの親兄弟を狙ったのは、殺りたい時、近くに手頃な奴がいなかった時だけだ」

 そう区切ると羊介は窓の外に目を向けて、車内には沈黙が流れる。それを破ったのは沙奈だった。

「私、名雲さんに親を殺されているんですけど……」

 その言葉に、泰子と岡田は心臓が跳ね上がるような錯覚を覚えた。

「その恨みを消すためなら復讐は許されますか?」

 羊介は窓の外を見たまま「あぁ」と肯定する。

「世間や法律は許さねーだろうけど、俺は許すぜ」

 つっても、と羊介は沙奈をチラリと見て、こう言った。

「お前、俺のこと毛ほども恨んじゃいねーだろ」

 沙奈はじっと見つめ返してから、先程と同じように羊介を指差して、

「当たり」と言った。

「はっ。本当に変な奴だな。おかげで殺す気にもなんねぇ」

 そのやり取りを最後に、二人はそれぞれ窓の外に目を向ける。その会話を黙って聞いていた泰子と岡田からすれば、一般人から見れば二人とも十分すぎるほど変だと言いたかった。

 泰子は気を取り直すように細く息を吐くと、助手席から少し身を乗り出して、後ろの羊介に目を向ける。

「え、えっと、名雲君のヒトツメ化が大分進行した時の変化についても色々聞きたいんだけど、いい?」

 羊介は頬杖を着いたまま泰子に視線を向けた。泰子はそれを了承と取ったらしく、胸ポケットから手帳を取り出してボールペンの頭を押してメモを取る用意をする。

「変化ねぇ……」と羊介は呟きながら、窓の外に顔を向けた。

「痛みは前ほどなかったな。あと、身体が妙に軽かった」

「空跳んでましたよね。殆ど見えなかったですけど」

「へぇ……。身体の一部――例えば足とかがヒトツメ化したわけではないのよね?」

「あぁ。硬質化も手足の先っぽまで進んだわけじゃねーしな」

「ということは、やっぱりヒトツメの能力は姿形に左右されるものではないのかしら。むしろ、能力にあった形態に変化していると言った方が……」

「でも」と沙奈が言う。

「名雲さんの戦い方を見てると、なんとなくヒトツメ成体の姿は想像出来ましたよね」

 その言葉に羊介は訝しげな目で、泰子は「本当に?」と目を輝かせて沙奈を見る。

「はい」と沙奈は自信満々に頷き、

「目にも止まらない素早い動き、自由自在に空を飛ぶ姿、黒光りする身体。これはもう確実にゴキ」

「ぶっ殺すぞ」




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