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Dear Killer  作者: 野良丸
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猿は始まり

 目を覚ますと、少年は見慣れない部屋にいた。少年が住んでいたアパートの部屋も殺風景なものだったが、ここはそれ以上で、ベッド以外は何もない。フローリングの床、白い壁紙はありがちだが、部屋が狭いうえに窓がないせいか、かなりの閉塞感がある。上半身を起こし、薄水色の病衣をめくって自分の身体を確かめていく。どうやら、あの黒い何かは完全に引いたらしい。だが妙な力がなくなったわけではないらしく、少し力を入れれば、身体に掛かっていた分厚い毛布も引き裂けるし、殴るだけで壁を破壊することが出来るのも分かった。

 少年が顔をしかめて舌打ちをした時、狭い部屋にノックの音が響き、返事を待つことなくドアが開いた。

「おはよう、名雲羊介君」

 部屋に入ってきたのは三十歳前後ほどの女性だった。タートルネックのセーター、膝上丈のタイトスカートの上に白衣を羽織っている。

「あ?」と少年は額に皺を寄せて敵対心丸出しの表情を向ける。

「誰だ、お前。それに俺の名前は――」

 女性はベッドに近付きながら胸ポケットから小さな手鏡を取り出して、少年の眼前へ出す。そこに写った顔を見て、少年は思わず目を見開いた。初対面の者からは怖がられることの多かった顔立ちは、一変して整ったものになっていた。

 女性は笑みを浮かべて言う。

「私は大久保泰子。そして、あなたは名雲羊介君よ」

 泰子が首からぶら下げているラミネート加工された名札と同じものを差し出される。そこに書かれているのは、少年本来の氏名ではなく、名雲羊介という見慣れない氏名だった。少年が一向に手を出そうとしないのを見て、泰子はベッドの上に名札を置いた。その際、少年が泰子の名札を覗き見ると、氏名の上に、第三対策研究室室長という文字が書かれていた。

 それを見た瞬間、少年は常人には反応すら出来ない速度で泰子の首を掴んだ。

「ぐっ」という言葉を漏らし、泰子は少年の手を両手で掴んで苦しげな表情を浮かべる。当然、常人の、それも女性の力で少年の手を引き剥がすことなど出来ない。

 少し遅れて、銃を持った黒スーツ姿の男達が部屋に入ってきて、壁際に並んで少年を囲み、銃口を突き付けた。少年はそんな男達を気にする素振りも見せず、泰子を見上げている。

「研究者ってことは、この力のことも知ってんだろ? よく手足を縛りもせずに寝かせてたな」

「……えぇ。きっと、あなたよりは分かっているわ。その力には、生半可な拘束は無駄でしかないことも」

 泰子は苦しげに顔を歪ませたまま、少年を見つめ返す。

「全て説明するわ。そのつもりで来たのだから」

 少年は首から手を離すと、咳き込む泰子を尻目に、名札を手にとった。

「まずは、人の顔を勝手に変えやがった理由と、この貧弱そうな名前の理由を説明しろ」

 泰子は頷き、呼吸を整えると、周囲の男達に軽く手を挙げて銃口を降ろさせる。

「そうね。でもその前に、あなたが巻き起こした立てこもり事件から二週間が経過していることを言っておくわ」

「……二週間?」

 少年は疑うように眉間に皺を寄せるが、泰子は平然と頷いた。

「えぇ。正直に言うと、これも私達の仕業よ。あなたの身体を検査させてもらうために、ね」

 少年は黙って説明を聞くことに決めたのか、浮かせていた背中をベッドにもたれた。

「あなたの容姿、名前を全くの別人に変えた理由は、本来の名前と容姿が、有名になり過ぎているから」

 泰子は白衣の胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、ニュースを録画した映像を少年に見せる。

 そこには、巨大蜘蛛と戦う少年の姿が映っており、ニュースの最期では、この少年が連続殺人犯だとアナウンサーは告げていた。

「未成年の実名までは報じられていないけどネットではとっくに特定、拡散されている。この映像は生放送で流れてしまったからどうしようもないもの。いくら化け物と戦うためとはいえ、連続殺人犯に協力を乞うのは世間が許さないでしょう」

 画面を無表情のまま見ていた少年は、予想外の言葉に視線を上げる。

「協力?」

「えぇ。二週間前、あなたが戦った――そして、私達が『ヒトツメ』と呼ぶ化け物との戦い。あなたは、ヒトツメと互角以上に戦える唯一の人間よ」

 何も答えない少年に、泰子は身体を横に向けてドアを示す。

「ヒトツメについての詳しい説明は別室でするわ。同じ説明を二度するのは大変だから」

 その言葉に、少年は数秒経ってから従い、ベッドを降りた。用意されていたスリッパを履き、泰子に続いて部屋から出る。後ろから黒スーツの男が付いてきているが、少年も泰子も気にする様子はない。

 病院のような白い床と壁が続く廊下。時折あるガラス窓の向こうでは、泰子と同じように白衣に身を包んだ老若男女が、実験器具に、コンピューターに、見たこともない装置に向かい、何かの研究に没頭していた。

「二週間前までは極秘だったけど、私達は対ヒトツメ組織『EYES』の一員なの。その中で、私達研究部はヒトツメについて研究しているわ」

 白い扉の前で足を止めた泰子に合わせて少年は立ち止まって視線を上げる。扉の上に付けられた札には第三会議室と書かれている。

「どうぞ。実は、もう一人の子を待たせているのよ」

 泰子は扉を引くと、室内に入るよう手で促す。

 少年が会議室に入ると、四角く並べられた机に、それを囲むように置かれた多数のパイプ椅子が目に入る。そして、その中の一脚、大きなスクリーンの近くの椅子に、少女は座っていた。

 生きてたのか。右腕から骨突きだしてダラダラ血を流してたから、てっきり死んだかと思ってた。

 その原因は少年なのだが、まるで悪びれる様子なく、そう思った。

 そして、右腕をギプスで固定している少女、沙奈も、少年を見ても表情一つ変えずに、座ったまま小さく会釈をした。

 相変わらず変な奴だ、と思いながら、少年は沙奈の向かいの席――といっても部屋が広いため大分離れているが――に、投げ出すように腰を降ろす。そこで、もしかして顔を変えたから分かってないのか? という疑問が浮かんだが、

「さっき写真見せたけど、この人が――」

「名雲羊介さん、ですよね」

「えぇ。そうよ。それで、名雲君、こっちの子は……」

「久留米沙奈です」

 律儀に再び頭を下げる沙奈を横目に見た少年は「あぁ」とだけ返す。その間に、泰子はスクリーンと繋がれたパソコンを操作し、スクリーンに映像を映し出した。それは、おそらく巨大蜘蛛と同種、泰子が言うところのヒトツメの画像だった。全身が黒く、唯一の白色があり一つ目は瞼が閉じているようだ。姿だけ見ればライオンのように見えるが、その大きさは、巨大蜘蛛ほどには届かずとも、六、七メートルほどはあるように見える。

 沙奈と少年の視線が向いたことを確認した泰子は、机の上に置いてあった長い指示棒を手に取りスクリーンのヒトツメを指した。

「これは、三ヶ月ほど前に山形に現れたヒトツメよ。この一体を仕留めるのに、戦闘員十名が死亡したわ。負傷者は五名。内、二名は戦線復帰が不可能な身体になったわ。当然、一般人の負傷者まで入れれば、確認されているだけでも、その数は三倍以上になる。二週間前、あれだけ巨大なヒトツメが現れて死傷者が十名もいなかったのは奇跡と言ってもいいくらいよ」

「その前に俺が何十人か殺したけどな」

「沙奈さんには事前に言ったし、目の当たりにした以上、名雲君も分かっていると思うけど、ヒトツメは人間が変化したもの。つい先日、ヒトツメの身体から未知のウイルスが見つかっていて、これが原因と見て間違いないでしょう。ワクチンなどの対抗策、有効策は未だにないわ。感染経路なども不明。当然、予防策も分からないままね」

「つまり、出てきた化け物を殺すしかないってことか」

「現状ではね。初めは極秘裏に処理していたけれど、ヒトツメの出現数が増加傾向にあること、巨大な個体が多いこともあって、一般人にも隠しきれなくなっていた。そんな時に……」

 スクリーンの映像が切り替わり、少年と巨大蜘蛛の戦いの様子が早送りで流れる。

「二週間前のことがあって、ハッキリ言わせてもらうなら、利用させてもらったわ。翌日には、全世界が同時にヒトツメの存在を認めた。今まで秘匿していたことへのバッシング、解決策のない不安の声はあるようだけど、ある日いきなり発表するよりはマシでしょう。それほどに、この映像はインパクトがあったから」

 スクリーンの中で、少年と、彼に首を掴まれた沙奈が同時に気を失い、地面に倒れたところで、映像が停止する。

「今見てもらったとおり、名雲君が沙奈さんに触れて少ししたら、名雲君のヒトツメ化が引いたの。その映像の少し前、久留米好香さんが人に戻るというのも、今までにはなかったことよ。そしてこれは、沙奈さんの持つ特別な力によるものだと分かったわ」

 映像が切り替わり、沙奈と少年の写真が映し出される。泰子が指示棒でスクリーンに当てると、沙奈の写真の横に矢印と、少し遅れて『ヒトツメ化の回復、抑制』という短い文章が表示された。

「沙奈さんには、ヒトツメ化ウイルスを消滅させる力がある。ヒトツメの死体などを使って、この二週間で確証済みよ。そして……」

 続いて、再び指示棒を指すと、少年の写真の横に、矢印と『抗体持ち?』という文章が表示される。沙奈と比べて、なんともハッキリしない。

「まず、名雲君はヒトツメ化ウイルスに感染している。これは確実よ。それで、これは二週間の検査でも理由は分からなかったのだけど、何故か名雲君はヒトツメ化の速度が極端に遅い。先程の映像で見えたように、ヒトツメ化が徐々に進行する例は今までになかったの。ウイルスに潜伏期間があるのかは分かっていないけれど、一度症状……全身の黒硬質化が進行すれば、普通なら五秒ほどでヒトツメ化が始まるわ。そこからは、もうあっという間。腹部から進行が始まるというのも、名雲君がいてようやく分かったくらいだし」

 泰子はそこまで説明すると小さく息を吐き、スクリーンの映像を消した。

「とりあえず、説明はこんなところだけど、何か質問はあるかしら?」

 その言葉に、沙奈は少年に目線を向けて、少年は頬杖を着いたままむすっと黙っている。

「何もないようね。それなら、これからの話をさせてもらうわ」

 泰子はスクリーン前の椅子に腰を下ろすと、二人を順にゆっくりと見て、口を開いた。

「私達、EYESは、あなた達二人に協力をお願いしたいと考えています」

 少年と沙奈は無表情を崩すことなく、じっと泰子を見る。

「自我を保ったままヒトツメの力を使うことが出来る名雲君と、それによって進行するヒトツメ化を回復することの出来る沙奈さんがいれば、常人が何百人束になっても匹敵しないほど心強い戦力になるわ。当然、タダでやってほしいとは言わない。お給料はそれなりの額を出すし……」

 泰子は言葉を区切り、沙奈に顔を向ける。

「沙奈さんはご両親が亡くなられて引き取ってくれるような御親族もいないのよね。私達はその代わりになれるし、お給料と別に、学費とかはこちらで出すし、ここを辞めてからも生活に困らないだけの謝礼は出すつもりよ」

 その言葉に、沙奈は一つ頷いただけだった。泰子は表情を和らげて笑みを浮かべてから、続いて少年に顔を向ける。

「名雲君には、お給料以外のお金は渡せないけど、それ以上の価値はあると思うわ。あなたが協力してくれるなら、私達はあなたが犯した罪をなかったことにして、ヒトツメの脅威が去ったときにはウイルスも取り除いてあげられる」

「へぇ」と少年は愉快そうに薄く笑う。泰子は少し申し訳無さそうな表情を沙奈に向けた。

「……沙奈さんからすれば、納得がいかないでしょうけど」

「いえ」と沙奈は首を横に振る。

「ありがとう。そう言ってもらえると気が楽になるわ」

 沙奈の言葉に込められた了承の意を感じ取ったらしく、泰子は意を伺うように少年に目を向ける。

 少年は泰子と視線を交わすと、口の端を上げた笑みを浮かべて肩をすくめて見せる。

「お願いじゃなくて、脅迫って言った方が正しいんじゃねえの?」

「……脅迫するなら、こんな場は設けないわ」

「協力しなかったら俺は死刑。この力――ヒトツメとかいう化け物の力があれば逃げることも出来るだろうが、その先は化け物になる未来しかねえ。『化け物になりたくなかったら命令を聞け。出来たらご褒美をやろう』って言ってるようにしか聞こえねーんだよ。俺は一粒の餌のためにアホみたいに言うことを聞く飼い犬じゃねぇぞ」

 いつしか笑みを消した少年は、鋭い眼差しを泰子に向けている。端正な顔立ちに変わってもなお、どこか冷たさを感じる表情に、泰子は少し逡巡してからゆっくりと問う。

「じゃあ、どうすればあなたは協力してくれるのかしら」

「とりあえず、俺とそいつが協力することになったとして、化け物と戦う時はどういう手筈になるのか教えろ」

「はっきりとは決まっていないし、その時々で違うことを踏まえたうえで言うなら……、とりあえず、戦闘員の人数は最低でも十名は付けるでしょうね。車、場所によってはヘリに乗って現場に向かってヒトツメと戦い、帰還後に名雲君は進行具合を検査、結果によっては沙奈さんの力を借りることになるわ」

「その十人は邪魔だ。運転手と、一応もう一人、精々二人でいい」

「……それは」

 難色を示す反応を意に介さず、少年は「それと」と、口を挟み、親指で沙奈を指した。

「現場にはこいつも連れて行く。俺はあの化け物と全力で戦いてーんだ。ウイルスの浸食なんぞちまちま気にしてられっか」

「それは」と泰子の語調が心なしか強くなる。

「絶対に了承出来ないわ。沙奈さんはヒトツメを人に戻す力を持っているけれど、それ以外はあくまで一般人なのよ。訓練に訓練を重ねた戦闘員でも簡単に殺されてしまう戦いに連れて行くことなんて――」

「連れて行く以上、こいつの安全は俺が保証してやる。そもそもこいつが殺されたら俺も化け物になるしかねぇわけだしな」

 これが通らないなら、俺は協力しない。そんな少年の思考が透けて見えて、泰子は小さく息を吐きながら、揃えた指を額に当てる。

 沈黙が流れ、しばらくはこの膠着状態が続くかと思われたが、

「あの……」という小さな声が部屋に響いた。

 泰子と少年は、無表情のまま小さく手を挙げている沙奈に顔を向ける。

「私はそれでもいいですよ」

 その言葉に、泰子はすぐさま首を横に振る。

「いや、駄目よ。あなたの力は前線で使うものじゃあないし、何よりも危険過ぎるわ」

「でも、名雲さんの様子を見ていると、私がいなくてもノリで全力で戦ってヒトツメになっちゃいそうですよ」

「うぐ」と、泰子は思わず言葉に詰まる。それは確かにその通りだった。

 若干、失礼とも取れることを言われたにも関わらず、少年は気にする様子もなく、むしろニヤニヤと面白そうに二人のやりとりを見ている。

「でもそれならやっぱり戦闘員を……沙奈さんの護衛として十名はつけるべきだわ」

「名雲さんが鬱陶しがって殺しちゃいますよ」

「あぁ、その手があったか。やっぱり戦闘員の数はどうでもいいぞ。こっちで勝手に調整するから」

 ケラケラと笑う少年を見て、ほらね、と言いたげな表情を向けてくる少女に、泰子はとうとう諦めたように肩を落とした。

「分かったわよ……。今すぐオーケーは出せないけど、上の人に話をしてみるわ。多分、今の私と同じような顔をされるでしょうけど」

「お疲れ様です」

「えぇ。なんか最後にどっと疲れたわ。もう質問はいいかしら」

 沙奈が頷くと、まだケラケラ笑っている少年には顔を向けずに泰子は立ち上がる。

「名雲君も今日から寮に入ってもらうから、二人とも入り口で待っていて。すぐに送迎の人を寄越すから」

 泰子はそう言って右手で頭を押さえたまま部屋を出て行く。すぐに部屋の外から、二人を入り口まで案内するように指示を出す声が聞こえた。

 笑いを引っ込めた少年が気怠げに立ち上がると、沙奈も腰を上げた。

「あの、名雲さん」

 ドアに向かって歩き始めていた少年は足を止めて「あぁ?」と振り返る。沙奈は身体の前で両手――正確に言えばギプスと左手を重ねて、ゆっくりと頭を下げる。

「これからよろしくお願いします」

 少年は怪訝そうな表情を浮かべながらも「あぁ」と返し、沙奈の胸元に目を向ける。深く頭を下げて少し無防備になっている胸元を覗いたわけではなく、少年や泰子が付けている名札を見ようとしたためだ。しかし、顔を上げた沙奈は、首に何もぶら下げてはいなかった。

「お前、名字なんだっけ? お前の母親が何度も叫んでたから名前だけは覚えてんだけど」

「名前呼びでいいです。その方が慣れてますから」

 やっぱり変な奴だな、と少年は思いながらも、平凡な奴よりかは面白いかと、初対面の相手にしては珍しく好印象を持った。当然、それを表情にも言葉にも出すようなことはしないが。

「それに、私、この名前が気に入ってるので」

「へぇ」とどうでもよさげに返事をしながら少年は踵を返す。

 沙奈もそれ以上口を開くことはなく、今日の二人の会話はこれきりだった。





 大久保泰子からヒトツメについての説明を受けた翌日には、少年、名雲羊介の要望が通ったという連絡が二人のもとに届いた。

 それと同時に、平日は一日に一回は必ず研究所に顔を出すこと、それ以外の時間は自由にしていいこと、そして、学業についての質問がいくつかあった。

 年齢だけで言えば羊介は高校一年生、あと二ヶ月すれば二年生だが、高校には進学しておらず、人を殺して手に入れた金や物を売って生活していたという。本人も、学校に通う気などさらさらないようだ。

 一方、沙奈は小学生に間違えられる外見だが、実際は中学一年生、彼女もあと二ヶ月で二年生となる。小学生の頃から不登校気味で、両親が殺されてからは完全に不登校となっていたが、本人には学校へ行きたい気持ちはあり、そういった旨の返事をした翌日には、寮から最寄りの私立校への編入が決まった。

 早くも身の回りのことが落ち着いてきた二人――この二人の順応力が高すぎるということもあるだろうが――に反して、世間ではヒトツメについて未だに騒がれている。ニュースではヒトツメに対抗する組織としてEYESが紹介され、ヒトツメ化ウイルスの進行が極端に遅い者がいるということも公となっている。腹部、臍の辺りから黒硬質化が始まる。そういった症状が出れば、とCMでもやっているほどだった。

 沙奈が勉強道具一式を揃えるために文房具屋へ行くと、同じ歳くらいの女子グループがヒトツメについて話していたこともあった。やはり直接見たことない者にとっては映画や漫画の世界と同じようにしか考えられないのか、笑い混じりに話していた。

 EYESの男性寮と女性寮は少し離れた場所にあり、羊介と沙奈は、ヒトツメの説明を受けた日以来、研究所ですれ違う際に(沙奈が)挨拶をする程度にしか顔を合わせることはなかった。その際、沙奈が首からぶら下げていた名札を見て、羊介はようやく久留米という名字を思い出したのだった。

 そして、三月上旬の今日、二人は久し振りにちゃんと顔を合わせて、ワゴン車に同乗して羽田空港に向かっていた。ワゴン車の後部座席は自由に動かすことが出来るらしく、今は電車のシート席のようになっている。

 後ろ隅で眠たげに外を眺めている羊介。その隣――というには距離がかなり空いているが――には二十代後半ほどの男性がいて、彼の向かいには、沙奈と、大学生のような見た目の女性が、座席の間に置かれた低い机に向かって座っている。四人とも私服姿で、ワゴン車を運転しているのが五十代の男性なので、端から見たら親戚の集まりか何かに見えるだろう。

 女性二人が机に向かって何をしているかというと、沙奈の勉強だ。大学生くらいの女性の父親がEYESの研究者で、偶然研究所で沙奈と知り合ってからは、暇を見てはこうして家庭教師をしている。当然、彼女の立場で四国まで付いてこられるわけはないが、沙奈を見送りに来てくれたのだった。

「いやぁ、沙奈ちゃん、どんどん吸収していくから教える方も面白いよ」

「里香さんの教え方が上手なんだと思います」

「えぇー? そうかなぁ。えへへ。いやぁ、それほどでもー」

 リラックスした様子で勉強を進める女性二人。

 それに対して、向かいに座っている男性は、どこか緊張した面持ちだった。しかし、それは仕方のないことだろう。ヒトツメとの戦闘は、何十人もの部隊で行うものだ。だが今回、戦闘員はたったの二人。しかももう一人は現地合流と来ている。ヒトツメの存在が確定していないとはいえ、通常なら、こんな少人数は有り得ない。ヒトツメの力を持った殺人鬼と同乗していることも緊張の原因の一つだろう。男性の同期、そして直属ではないにしろ上司でもある大久保泰子の『大丈夫よ。多分』という言葉が頭から離れなかった。

 男性の強風吹き荒れる内心など知らず、当の殺人鬼は大きな欠伸をする。今の時刻は朝の七時半。羊介が起きたのは七時だった。それだけ見れば一般的且つ健康的な生活だが、羊介にとっては普段ならまだまだ寝ている時間である。大嫌いな勉強の話など聴いているだけで眠気は増して、羊介はいつしか眠っていた。

 それに気付いた男性は、ようやく羊介の顔を直視することが出来た。ショッピングモール立てこもり事件で三十五人、それ以前に十人、計四十五人の人を殺した殺人鬼。被害者の中には、向かいの席に座る少女の両親も含まれている。EYESの力で逮捕後の彼に関する報道は控えさせていたが、近頃、関西の辺りで同じような連続殺人が発生しており、自然と彼のことも話題になってしまっていた。関西の殺人犯は西の殺人鬼と呼ばれ、羊介は今では東の殺人鬼となっている。

 男性は、向かいに座っている少女に目を向ける。

 何を考えているか分からないといった点では、彼女もまた同じだ。今日中にヒトツメと遭遇するかもしれないのにこの落ち着き様。男性が初めて任務に出たときなど、ろくに煙草も吸えないほど震えていたというのに。彼女が痛みを感じない体質であることは泰子から聞いているが、そうだとしても恐怖心がないわけではない筈だ。しかし、彼女を見ていると、恐怖心はおろか、怒りも、悲しみも、憎しみも、人を人たらしめる感情の全てが抜け落ちているかのように見える。

 彼女の右腕はまだギプスで固定されている。その大怪我を負わせただけでなく両親の仇でもある少年と平然と共に行動し、今朝顔を合わせた時など、礼儀正しく『おはようございます』と挨拶をしていた。

 歳を取れば若者の考えが分からなくなることは仕方のないことだと思っていたが、これは若者どうこうといった話でもないような気がする。

 まぁなんにせよ、と男性は無理やり思考を切り替える。この二人はEYESにとって、そしてヒトツメに脅かされている世界にとって切り札となりえる重要な存在だ。特に戦闘能力のない少女は自分が守らねばすぐに殺されてしまうだろう。

 ふと、男性の視線に気が付いたのか、顔を上げた沙奈と目が合う。どうかしましたか、と問うように首を傾げられて、男性は掌を向けて首を横に振る。沙奈はそれだけ見ると、すぐに勉強に戻った。




 どうやら羊介はどこでも眠れるタイプのようで、初めて乗るという飛行機の中でも爆睡していた。羊介と男性に挟まれて座っている沙奈は、発進前からイヤホンを付けていた。音楽でも聴いているのかと思ったが、そのうち沙奈が取り出した英語の参考書を見て、リスニングの勉強をしているのだと分かった。なんとも自由で緊張感のない二人に男性が不安を感じながらも、飛行機は一時間ほどのフライトを終えて岡山へ降り立った。

「えっと、岡田さん。ここから現場に直行するんですか?」

 ターミナルビルを出たところで、沙奈が訊いた。その隣では羊介が寝癖のついた頭を乱暴に掻いている。男性、岡田は、周囲を見ながら答える。

「えーっと……、支部の方から迎えが来るはずだから、まず支部へ。ヒトツメらしきものを発見した時の詳細や、何か変わったことがないかを聞いて、それから探索へ行く。多分午後からになるんじゃないかな」

「へぇ」と反応したのは羊介だ。バスに乗って、あるいはタクシーを捕まえて足早に去っていく人達を見送りながら彼は言う。

「んで? その迎えってのは?」

「あぁ。もう少しで着くって連絡が来てるんだけど……」

 岡田は携帯を見てから、羊介と同じように周囲に顔を向けて、肩に掛けている旅行鞄を背負い直す。ヒトツメを討伐するまで滞在する予定なので荷物もそれなりの量になるが、沙奈と羊介は事前に宅配便で送ったらしく、沙奈は勉強道具などが入った手提げ袋を持っているのみ。羊介なんかはポケットに財布とスマートフォンを入れているだけで手ぶらだ。

 岡田は二人から数歩離れると、携帯電話を耳に当てて通話を始めた。

「到着しました」「はい」「あー、そうですか」という言葉を聞きながら、不意に沙奈が振りかえった。岡田を見ていた羊介と目が合う。

「……なんだよ」

「ヒトツメ化の進行は大丈夫ですか?」

「あぁ。臍から三センチくらい進行してっけど、これくらいはないと力が出ねーし、普通に生活してりゃあ進行スピードも遅い。出来るなら常時このぐらいに保っておきたいんだけど、お前の力ってそこまでのコントロールは出来るのか?」

 沙奈は迷うことなく頷く。

「ヒトツメの死体を使って試してみましたから。回復具合を見ながらになるので、お腹は出してもらわないと駄目ですけど」

 その時、通話を終えた岡田が戻ってきて、携帯電話をポケットにしまいながら申し訳無さそうに二人を見た。

「渋滞に引っかかってるらしい。ここでずっと待っているのもなんだし、支部までの道も分かるから、僕達も歩いて向かおうと思うんだけど……」

 沙奈は素直に頷く。羊介は舌打ちをしながらも文句は言わず、沙奈と岡田が並んで歩き始めると黙って付いていった。

 歩きながら、先程使っていた携帯電話とは別に持っていたらしいスマートフォンを鞄から取り出し、拙い手付きで操作を始めた岡田だったが、どうやらすぐに分からなくなったらしく、沙奈にいくつか質問していた。その沙奈も、スマートフォンは数週間前に買ってもらったばかりの初心者なのだが、既に岡田よりは詳しいらしく画面を見せながら何かのやり方を教えていた。

 見た目小学生のガキと、見た目三十代のおっさん。親子に見えなくもねーが、そうなると俺が邪魔だな。少し距離が空いているから他人に見えるかもしれねーけど。ま、他人からどう見えようが知ったこっちゃねぇ。

 そんなことを考えながらダラダラと歩いている羊介の横の道路を、タクシーやバス、自家用車が通り過ぎていく。その中の一台、黒い軽自動車が羊介の横で不意に速度を落とした。なんだこいつ。と僅かな苛立ちを顔に出して横を向くと、カップルだろうか。若い男女が、スマートフォンを見ながら話をしている。助手席に座っている女が運転席の男にスマートフォンの画面を見せ、時折二人で顔を上げて、岡田の身体で隠れている沙奈を覗き込むように見る。そのうち、沙奈が気付いて顔を向けると、カップルは顔を見合わせて笑い合っていた。女の方は、ほら、と口を動かしているように見える。

 またか、と羊介は思う。ショッピングモール立てこもり事件以来、沙奈は半端なタレントよりも世間に顔を知られていた。ニュースではモザイクをかけられていたが、生放送はどうしようもない。ネットを探せばモザイクなしの無修正動画などいくらでもでてくる。そのため、沙奈は羽田空港でも少し目立っていたし、たまに話しかけられてもいた。中にはシャッター音の鳴らないアプリを使って写真を撮っている者もいた。

 このカップルの女も、彼氏と見せ合っていたスマートフォンを、今度は沙奈に向けた。カップルに気が付いていた岡田が足を止めて、沙奈を自分の背中に隠す。

 そうこうしている間に後ろからタクシーが来て、カップルは岡田と羊介を睨みつけてから車のスピードを上げた。

 しかし、それより速く羊介は地面を蹴ると、勢いままに助手席側のサイドミラーに跳び蹴りをかました。当然、羊介の力で蹴られてはサイドミラーなど一溜まりもない。鏡に細かい亀裂が走り、根元から折れて遙か向こうを転がっていった。

 唖然としたのは、羊介と沙奈以外の全員だろう。カップル車の後ろにいるタクシーの運ちゃんも、ポカンと口を空けている。

「な、なにやってるんだ、名雲君!!」

 岡田が駆け寄ると同時に、少し先でカップル車が停車し、助手席と運転席のドアが開く。

「なに、って。喧嘩売られたから買ったんだよ。お前だってムカついただろ」

「そりゃあ、非常識だとは思ったけど、それでもこれはやりすぎだ!」

「安心しろって。今更人間殺してもつまんねーし、殺しはしねーよ。ちゃんと正当防衛で収まる範囲でやる」

「この時点で正当性の欠片もないんだが……」

「おい!」

 車から降りてきたカップルの男が怒りの形相を浮かべて金髪を揺らしながら近付いてきた。しかしその身体は羊介と同じくらいにひょろいため、迫力はまるでない。その横にいる女も、男ほどではないが羊介をキツく睨みつけている。

 咄嗟に岡田が間に入ってカップルを落ち着かせようとするが、当の羊介はそっぽを向いて反省の色がまるで見られないため、怒りが収まるはずもない。そのうち、岡田を押しのけると、羊介の前まで行って鋭く睨み付ける。

「お前、マジどうしてくれんの? とりあえず修理代と慰謝料と迷惑料で五十万払えよ。払えねーなら土下座しろ。そしたら修理代だけで済ませてやるよ」

「やさしー」

 女がニヤニヤ笑いながら言うと、男も同じような笑みを浮かべて「だろ?」と言った。

 そんな様子を見て、羊介は馬鹿にするように言う。

「おいおい。揃って脳足りんかよ。そのままの意味でバカップルだな。少し前にニュースにもなってたが、土下座の強要は立派な犯罪だぜ」

 馬鹿と言われて怒りに赤くなっていた顔が、犯罪という一言で一気に血の気が引いた。

「ついでに、さっき岡田の写真撮っただろ。肖像権の侵害って知ってるか?」

 顔を見合わせるカップルを見て、羊介は鼻で笑う。

「はっ。流石だな。いいことを教えてやると、この二つを合わせれば、慰謝料百万は軽く取れる。なんならそこから五十万払ってやるよ」

「う、うっせぇ! 元々はてめぇが――」

「何言ってんだ。元々はお前らが盗撮しようとしてたんだろ」

 羊介は意地悪く笑い、言葉に詰まる男を見ている。女は百万という言葉を聞いた時から、青くなって黙り込んでいたが、不意に男の腕を掴むと、

「もういいじゃん。行こうよ」

「あぁ!? 何言ってやがる! 元々はお前があのガキの写真なんか撮ろうとするからこんなことになったんだろうが!」

「な、なにそれ! 自分だって乗り気だったじゃん! 私だけのせいにしないでよ!」

 喧嘩を始めたカップルの横を、今まで黙って成り行きを見ていた沙奈が通り過ぎていき、岡田を見上げて何か言いながら入り口の方を指差した。

 どうやら、早く行こうと言っていると気が付いた羊介も、喧嘩するカップルに「んじゃ、そういうことで」と言って立ち去ろうとする。

「おい! まだ話は終わってねぇぞ!」

「なに? 百万払ってくれんの?」

「ちょっと! 余計なこと言わないでよ! せっかく見逃してくれてるのに!」

「だからそれはお前が――!」

 また喧嘩を始めたカップルを尻目に、羊介は先に歩き出している二人に付いていく。

 空港を出てしばらく歩いたところで岡田が振り返り、先程のことに関して長々と注意を受けた羊介だったが、やはり反省の色は見えず、岡田はこれからのことを考えてがっくりと肩を落とした。そんな岡田を無表情のまま見上げていた沙奈だったが、ふと、歩く速度を緩めると、羊介の横に並んだ。

「今度はなんだよ。俺がキレたのはいきなり睨まれたからだぜ。まさかお前のためにやったとか思ってんじゃねーだろうな」

 沙奈は当然のように首を横に振る。

「思ってないです。羽田空港で同じようなことがあった時は無反応でしたし」

「てか、お前が一番キレろよ。赤の他人に写真撮られるとかすげー気分悪いだろ」

「まぁ、それはそうですね」

 まるで気にした様子もなく言う。

「ところで、さっき言ってたことって本当ですか? 慰謝料百万円って」

「知らね。そもそも肖像権なんてあってないようなもんだし、土下座の強要が何罪に当たるのかも知らねー」

「あれだけ馬鹿馬鹿言ってたのに……」

「俺みたいな馬鹿に騙されるんだから馬鹿だろ」

 したり顔で笑う羊介の言葉に、沙奈はなるほどと納得してしまった。そして、もう一つ、気になっていたことを口にする。

「人を殺す気がないっていうのは、意外でした」

「そうか? 人殺しより面白いヒトツメ殺しを見つけたんだから当たり前だろ。まぁ、殺したいほどムカついたら殺すけどな」

 当然のように答える羊介に、沙奈は「へぇ」と返してから質問を重ねる。

「じゃあ、ヒトツメを全部殺して名雲さんが人間に戻ったら、また人殺しをするんですか?」

「知るかよ。そうかもしれねーし、人殺しじゃあ満足出来ない身体になってて退屈のあまり自殺するかもしれねーし。先のことなんか考えたって意味ないだろ。もしかしたら今日中に俺ら三人ともヒトツメに殺されるかもしれねーんだぜ?」

「……楽勝、とか思ってないんですね。意外です」

「負ける気はさらさらないけどな」

 ヒトツメとの戦いが待ち遠しいのか、羊介は少し弾んだ声で言ってから、沙奈を横目に見た。

「戦いの間、お前は隅の方で隠れてろよ? ヒトツメは敵意を持った奴を優先して狙うから、俺が殺されない以上、お前が狙われることもない」

「心配してくれるんですか?」

「大久保にお前の安全を保証しちまったからな。仕方ねーだろ。てか、お前も自分で気をつけとけよ? 無痛症だっけか? 大怪我してても気付かないとか、気付いたらポックリ逝っててもおかしくねーんだし。戦いの最中まで気にしてられねーからな」

 沙奈は頷きながら、まだ小さな頃に両親から口を酸っぱくして同じように言われていたことを思い出していた。

 やっぱり普通に話しているな、と思っているのは、一人で前を歩きながらも背後の二人を気にしていた岡田だ。二人の関係と置かれている現状的に年相応の会話とはいかないが、決して険悪なわけではないらしい。しかし、両親を殺しておきながら、そして殺されておきながら、平然と先程の会話をしていると考えると、安堵よりも違和感や不安感、僅かな恐怖心が先に浮かび上がった。

 空港を出てしばらく歩くと、事故があったらしく、正面衝突したようなヘコみ方をしている車が二台あった。そこから道路はずっと渋滞している。そのため、立ち往生している車の中から沙奈へ視線が向けられることも少なくなかったが、岡田が気にしていた限り、先程のカップルのような者はいなかった。

 迎えの車がこの渋滞に巻き込まれているのだとすれば、万が一見逃すと面倒だ。岡田は携帯電話を取り出すと、迎えの者に電話を掛けた。

『はいもしもしー』

 電話から聞こえてくるのは、若い女性の声。

「あ、岡田ですが」

『はいはい。どうかされましたかー?』

「先程から渋滞しているところを歩いているんですが、一応見落とさないようにと車種を訊いておこうと思いまして」

『あー、なるほど。分かりました。車種は…………あれ?』

「草壁さん?」

 突然、声が途切れた草壁に岡田が不思議そうな表情をした時、十メートルほど前にあった白く丸っこい軽自動車の窓が開き、ショートヘアの女性が顔を出した。その手には、スマートフォンが握られている。

「岡田さんですかー?」

 手を振りながら大きな声で訊く女性に軽く手を挙げてから振り返る。沙奈は無表情のまま、羊介は顔をしかめて草壁を見ていた。

「おい。まさかアレがもう一人の戦闘員じゃねーだろうな」

「安心してくれ。違うよ。戦闘員は総出でヒトツメの捜索に当たっているみたいでね。あの人は事務の草壁さん」

「そりゃよかった。あんなポワポワしてそうな奴が戦場にいたら興醒めだぜ」


 三人が車に乗ると、草壁は簡単に自己紹介をしてから、

「早速なんですが」と真剣な表情で切り出した。

「行き先を変更させていただいて、ここから百キロほどの山中にあるキャンプ場に向かいます」

「もしかして、ヒトツメが見つかったんですか?」

 岡田の問いに草壁は車をUターンさせながら答える。

「はい。二時間ほど前、そのキャンプ場にヒトツメが現れました」

 その言葉に岡田は生唾を飲み、沙奈は無表情のままで、羊介は愉しくなってきたと言わんばかりに口角を上げた。

「キャンプをしていた五名の男女が殺害されました。現在、戦闘員総出でキャンプ場付近を捜索しています。被害者が残した動画には、巨猿型のヒトツメが映っていたそうです。大きさは三メートルほど。でも、身体に比べて両腕が極端に太く、遺体は全て見るも無残なものになっていたそうです」

 車内に沈黙が流れる。それを破ったのは、沙奈だった。

 沙奈は隣に座る羊介に訊く。

「ちなみに、名雲さんが本気で人の顔にパンチをしたらどうなりますか?」

「やったことねーけど、首は千切れると思うぞ」

 岡田は口元を引きつらせるが、草壁は「あー……」と別の意味で苦笑を浮かべていた。

「なら、力比べは止めた方が無難でしょうねー」

 その言葉に岡田はぞっとする。ヒトツメによる被害者は総じて酷い状態のものが多い。岡田も遺体は見慣れている。

それでも、ヒトツメに対する恐怖心は消えることはない。そしてそれは、ヒトツメと戦う者として必要な心だと思っているし、今は亡き先輩達に言われたことでもあった。しかし、草壁の言葉に心底愉しそうな笑みを抑えきれずにいる羊介や表情一つ変えない沙奈を見ると、自分が酷く臆病者に思えた。

「名雲さん、ヒトツメ化を気にしながら戦えとは言いませんが、限界はちゃんと見極めてくださいね。ヒトツメ化した名雲さんを元に戻すなんてきっと無理ですから」

「分かってる。力馬鹿でも鈍足なら、手数が少ない分この前の蜘蛛より早く終わるかもしんねーぞ」

 その蜘蛛と沙奈の関係を知っている岡田と草壁は言葉に詰まるが、沙奈はさらっと聞き流して言う。

「でも、あの時だって実は結構ギリギリでしたよね? ヒトツメ化が一気に進んでいましたし、あそこで決められてなければ――」

「あそこで決めたから俺の勝ちなんだよ。それが全てだ。勝ち負けにギリギリだの辛勝だの惜敗だのつまんねー言葉で水差すなよ」

 どうやら沙奈の言葉に気分を害したらしい羊介は、むすっとして窓に顔を向けた。沙奈も反対側の窓から外を向く。

 先程とは別の気まずい沈黙が流れる車内で、今度は草壁が口を開いた。

「まぁ確かに、動画を見る限り、今回のヒトツメはそれほど素早くはないみたいですよ。もちろん、ヒトツメの中では、であって、私のような一般人からすれば断然速いんですけどねー。それで、私達支部の人間が気にしているのは、どちらかといえばタフさですね。有名なボクシング漫画の主人公のように、とにかくタフなんじゃないかと」

「すいません、私、漫画は読まなくて……」

「あくまで予想ですけどね。でも、ヒトツメ討伐のベテランさんの予想ですから、それなりに考慮していいかとー。あ、久留米さんに軽く説明すると、その漫画の主人公は一発逆転のパンチ力を持っているんですけど、大抵、最初は殴られ続けます。後遺症確実だろってくらい殴られます。それでも最後は一発逆転して勝ちます。まぁ、その主人公さんは足が遅いってわけじゃあないんですけどね」

「……悪役っぽい名雲さんにも一発逆転される可能性が?」

「ねーよ」

「まぁ、これはあくまで拳を使った場合の話ですから。殴り合いじゃなくて真剣同士、互いの攻撃力が同じ戦いなら当然速い方が有利です。なので、名雲君も何か武器を持つべきかと」

「あー、そうすっか。今回は武器なしのハンデもねーし」

「でも」と沙奈が小さく首を傾げる。

「武器って何を使うんですか?」

「慣れてるのはナイフだが、流石に化け物相手じゃあ心許ねーからな」

「えっと、じゃあバールとか?」

「ヒトツメ相手に殺人鬼気分出してどうすんだよ」

 ジト目でツッコんだ羊介に、草薙が思わず小さく笑った。人数が増えても結局緊張感の無さは変わらず、岡田はただ一人、呆れた表情で、そして自分の恐怖心を誤魔化すように溜め息を吐いた。




 山道を抜けて、キャンプ場の駐車場に到着する。警察による現場検証中なのか、パトカーが数台止まっていた。それよりも多い乗用車はEYES戦闘員のものかと思ったが、現場へ行くと黄色いテープが張られた周囲を囲んでいるマスコミの姿が見えた。どうやら、彼等の車らしい。

 車のサイドに書かれた社名に気付いていた草壁と岡田は気にせずに歩いていくが、不意に沙奈が二人を呼び止めた。

「あの、私、見られても大丈夫でしょうか」

 沙奈の顔は一般人にも深く知れ渡っている。マスコミには知らぬ者がいないほどだろう。しかし、草壁は笑みを浮かべて頷いた。

「大丈夫大丈夫ー。ヒトツメに関するニュースの生中継とかは全部禁止してるし、久留米さんのことを記事にしようとしてもちゃんと圧力掛けるから」

 人畜無害な笑顔に似合わないその言葉通り、記者やカメラマンは四人に気付いても、近付いたり、カメラを向けたりもせず、取材したそうな目をするだけだった。

 四人が黄色いテープをくぐると近くにいた警官がとんできたが、草壁が胸ポケットから黒い手帳を取り出して見せると、さっと横にずれて道を譲った。

「どうもー」と言ってから奥へ向かう草壁に、他の三人はついて行く。沙奈が警官の前を通り過ぎる時、軽く頭を下げると、警官は僅かに目を見開いてから小さく会釈を返した。

 現場に遺体は既になかったが、ぺちゃんこに潰されたテントや幹の折れた太い木、キャンプファイヤー用の組木が折れて散らばるなど、まるで力を誇示するように暴れまわった痕跡が残されていた。

 潰されたテントの近くを通った時、ビニールに黒い染みが付いていることに四人全員が気付いたが、誰一人言及しなかった。

「草壁さん!」

 その声に、草壁以外の三人も反応して顔を向ける。少し離れたところにある屋根付きの休憩所から手を振っているのは、どことなく冴えない顔と服装をした青年だった。

 草壁は小さく手を振り返してから、青年の元へ向かう。青年は近付いてくる四人を、席から立って待っている。

「草壁さん、この人達が本部の? だよね?」

「そうだよー。女の子が久留米さん、男の子が名雲君、残ったのが岡田さん」と草壁は微妙に失礼な紹介をしてから、三人を振り返り、次は青年を紹介するように右腕を広げた。

「岡山支部研究部所属の輪島君ですー。研究部は人手不足で――まぁ支部は大抵どこもそうなんですけどー……、うちの研究部は特になので、輪島君は私と同い年ながら研究部のリーダーをやっているんですよー」

「なにその凄いんだか凄くないんだか微妙な紹介……。まぁ、実際、リーダーって言っても本当に大したものじゃないんだけどね。十人くらいをまとめてるだけだし、みんなが研究に集中したいからって僕に押し付けただけだし」

 あはは、と輪島は笑うが、その表情に哀愁が感じられて、岡田は内心同情した。

「今日だって久し振りの休みだったのに、みんなから連絡が来て、お前リーダーなんだから行ってこいって言われちゃってさ……」

 どうやら役職持ちを利用されていいように使われてしまっているらしい。研究員らしく白衣を着ていないのも、それが理由のようだ。

「それで輪島君、何か用だったの? あ、この辺に戦闘員の誰かいないかな? ヒトツメ捜索に私が一緒にいても足手まといだし、お任せしたいんだけど……」

「今はいないけど、ここを拠点に動いてるから、そのうち来ると思うよ。そうそう。それで、なんで呼び止めたのかだけど……」

 輪島は踵を返すと、休憩所のテーブルの上に置いてあったノートパソコンの前で中腰になり、四人を手招きして呼ぶ。

「被害者がヒトツメを撮った動画だよ。あー、結構グロテスクな映像だけど……、えっと、女の子」

「久留米さんだってば」

「そうそう。ごめんね。人の名前を覚えるのは少し苦手で。それで、久留米さんはグロテスクなのは大丈夫?」

 沙奈が平然と頷くと、輪島は軽く肩を竦めて「それは心強い」と言った。

 沙奈が椅子に座り、羊介と岡田が後ろから覗き込む。輪島が横からマウスを動かして再生ボタンを押すと、少し荒い映像が流れ始めた。

 その動画は、どうやらテントの中から隠し撮りしたものらしく、画面の両端は黒く塗りつぶされたようになっている。

 そして、中心に映っているのは、砂煙に紛れて見づらいが、真っ黒な猿の後ろ姿だ。

『おい。あれって、ヒトツメってやつだよな?』

 ヒソヒソと話す男の声に、女の声が答える。

『多分、そうでしょ。ねぇ、ここにいて大丈夫かな? 気付かれてない今のうちに逃げた方がよくない?』

 その質問には、また別の女が口を挟む。

『その前に警察に連絡した方がいいんじゃない?』

『いや、相手がヒトツメなら……EYESだっけか? あそこがいいだろ』

 そう言ったのは最初の男とはまた別の男だ。

『だから! ヒトツメ関連のことなら警察からEYESに繋いでもらえるの!』

『そ、そうなのか。ごめん』

「テントの中にいるのは大学生四人。高校時代からの友人だったらしいよ」

 輪島の補足に、沙奈と岡田が小さく頷く。

 不意に、画面の中のヒトツメが振り返り、誰かが、あるいは四人全員が、短く息を吸う音が聞こえた。巨猿の顔半分ほどある巨大な一つ目を見た反応としては、当然のものだ。

 その後も、四人はあーだこーだと話し合い、ようやく警察に連絡をしてからも撮影を続けていたが、不意に女がこう言った。

『ていうか、綾子に連絡しといた方がいいよね? 起きたら来るって言ってたし』

 ヒトツメはしばらく周囲を徘徊したり、たまにテントの方を振り返ったりしていたが、不意に腕を大きく振り上げると、近くに生えていた木に拳を叩き込んだ。巨大な拳により幹の一部分を粉砕された木は、揺れる余裕すらなく、足を掬われたように倒れる。ヒトツメは自分の方に倒れてきた木を両手で受け止めると地面に叩き付けて、両拳で殴り続けて粉々にしていく。

 四人はその光景に言葉を失っているらしく、物音一つ立てない。

「……あのヒトツメ、こいつらに気付いてるだろ」

 羊介が輪島を見て口にした言葉に、岡田と草壁は驚きの顔を向ける。

 輪島は笑みを浮かべ、

「やっぱり分かるんだね」と肯定した。

「この距離に動物がいて気付かないわけねーからな。話なんてしてたら尚更だ」

「あぁ。ヒトツメの行動や知能は個体によって様々だけど、きっとこのヒトツメは比較的頭が良い個体で、今は狩りを楽しんでいるんだろうね。木を殴り倒す、テントを振り返るといった人の恐怖を煽るような行動を繰り返しているようだし」

「自分より格下を怖がらせて遊んでるってわけか。まぁ、猿らしいっちゃー猿らしいな」

 羊介の誰にでもない言葉の語尾と僅かにかぶる形で、男の声がパソコンから聞こえてくる。

『あ、あぁ、そういや、そうだな。じゃあ綾子に電話を……』

『う、うん。……やば。凄い手震えてるんだけど』

『実は俺もさっきから全身ガタガタしてる』

 はは、と力ない笑いが四人の口からこぼれて、テント内の空気が少し和らいだような気がした。しかし、どこからか、若者に人気のロックバンドの歌が響き、一瞬にして空気が凍った。

 動揺を表すようにカメラがぶれるが、すぐにその動きは止まった。

『……これって』

 小さな呟きが聞こえた瞬間、着信音に反応して顔を上げていたヒトツメが画面から消えた。

 画面外から聞こえた轟音に反応してカメラが追い付くと、キャンプファイヤーの組木がヒトツメの拳によって吹き飛ばされていた。一瞬遅れて、その陰から一人の女性が悲鳴をあげながら飛び出してくる。

「彼女が被害者の一人、岸田綾子さん。多分、この映像の少し前に現場へ来ていた彼女は、運悪くヒトツメと鉢合わせそうになって、咄嗟に物陰に隠れていたんだろうね」

 輪島が説明している間に、綾子は足をもつれさせて転び、その背後からヒトツメが地面を蹴って接近する。

 立ち上がることが出来ないまま後ずさる綾子に向けて、ヒトツメは人の顔よりも巨大な拳を振り上げる。その瞬間、綾子は確かにテントの方を見た。ただ単に助けを求めたのか、誰も助けてくれないことへの怒りを伝えたかったのか、それとも特に理由などなかったのか、引きつった表情からは恐怖以外の何も感じ取れないまま、綾子の姿がヒトツメによって隠れ、拳が振り下ろされた。

 しかし、次の瞬間、四人の耳に聞こえたのは拳が地面を殴った音だった。

『……外した?』

 男が小さく呟く。ヒトツメはゆっくりと腕を上げると、唐突に振り返り、その腕に持っていたものをテントに向けて投げつけた。

 それは、顎から上が爆発したように残っていない綾子の身体だった。

 映像が大きくブレて、女二人と男一人の悲鳴が響く。それを注意しないところをみると、悲鳴をあげなかった男も冷静というわけではないようだ。

『こ、こっち来る!』

 その言葉に慌ててスマートフォンを落としたのか、画面が暗くなった。

 四人が慌ただしく逃げ出す音、テントが潰された音が聞こえた時、輪島が映像を停止した。

「こんなところかな。これ以上は見続けても悲鳴しか聞こえてこないから」

 沙奈が今の映像を見てもまるで無反応とはいえ、この後に控えた、足を潰したうえでの拷問の様子を聞かせるのは――人が海老反りに無理やり、それもゆっくりと曲げられる悲鳴や、首を徐々に引っぱられ、千切られていく悲鳴を聞かせるのは、輪島の良心の方が耐えきれなかった。

 ここまででさえ、五人の間には沈痛的な沈黙が――

「まぁ、本気じゃあねーだろうが、確かに鈍足っぽいな。俺ならあいつが拳を振り下ろすまでに、あの女の首を三回は跳ねられるぜ」

 というのは輪島の勘違いだったらしく、羊介は不敵な笑みを浮かべながらそう言った。

「それは頼もしいですね」と言葉を返す沙奈も、沈痛さはまるで感じられない。むしろ、みんなが黙ってたから黙ってました、という感じだった。

 その時、デフォルトの着信音が響き、岡田は思わず肩を跳ね上げた。「あ、私の携帯ですー」と言う草壁の声を聞きながら、誰にも見られなかったかと横目で周囲を気にすると、沙奈とばっちり目があった。

「…………えっと、私もびっくりしましたから、お気になさらず」

 普段と変わらない平然とした表情で言われてもなんの慰めにもフォローにもなっていなかった。

 がっくりと肩を落とした岡田だったが、草壁の、

「ヒトツメが見つかった?」という言葉に、すぐさま顔を上げた。

「私達はキャンプ場にいます。……はい。本部の方と一緒です」

 何度か言葉を交わした後、草壁は「了解です」と電話を切って、他の四人に顔を向けた。

「えっと、いま言ったとおり、ヒトツメが発見されました。まだ戦闘にはなっていないようですが、おそらく先程の動画同様、様子を見ているだけだと思うので、そのうち戦闘になるかと」

「で? 場所は?」

 羊介の問いに草壁は頷いて答える。

「案内役に戦闘員が一人、こちらに向かっているそうです。彼の合流後、皆さんは現地へ向かってください。……ところで名雲君、武器はどうしましょう。支部に戻れば刀くらいはありますけど……」

「いや、いらねー。さっきの見たら殴り殺したくなった」

「名雲さん、出来るなら人に戻すよう大久保さんから言われたの覚えてますか?」

「覚えてるっての。出来る限り、だろ?」

「そうですか。ならいいです。なんか、力の限り殺しちゃいそうな気がしたので」

 当然、羊介としては殺さないように戦う気など一切なく、全力で戦って偶然いい感じにギリギリ生きていたら、その時は沙奈に力を使わせる気でいた。沙奈はどうやらヒトツメを人に戻す気でいるようだが、それが容易く可能なら、泰子とて『出来れば』などと言わない。

 ヒトツメの弱点は目玉だ。好香の時のように、目玉を完全に潰せばヒトツメは死ぬ。しかし、目玉以外の黒く硬質化した部分は銃や刀を使っても傷一つ付かない。羊介のヒトツメの力ならば硬質化した皮膚を砕くことも可能かもしれないが、特に頑丈そうな今回の相手にそこまでしている余裕はないだろう。つまり、目を狙う以外の選択も、力を抜いて徐々に弱らせていく余裕もないのだった。

 全力で戦って勝てるかどうかという敵だからこそ、羊介の表情から笑みは消えない。彼はヒトツメの力を手に入れてから、ずっと退屈していたのだ。殺人にも以前のような高揚感やスリルを得られなくなった彼がヒトツメと初めて対峙した時の心内は想像に難くないだろう。




 キャンプ場から数キロしか離れていない山中では、すでに戦闘が始まっていた。迷彩色の軍服を着た五名がヒトツメを囲むように絶えず足を動かし続ける。その手には狩猟用のライフルや大型拳銃があるが、誰もが移動と回避にのみ集中していた。

 ヒトツメは目が弱点とはいえ、そこには不可視の膜のようなものが張られていて、どのような攻撃でも一撃で貫けることは、まずない。人間相手では高威力過ぎて使い勝手の悪い銃をもってしても、それは同じだ。

 一ヶ月ほど前、テレビカメラの前でヒトツメを圧倒した少年の到着を彼等は待っていた。

 ヒトツメが一人の隊員に狙いを絞り、一気に距離を詰めて左腕を振りかぶる。間一髪、隊員が横に跳んで避けると、その拳は木を叩き折った。ヒトツメは倒れ掛けた木を右手で掴むと、棒でも振るかのように薙いだ。その先には、回避行動をとったばかりの隊員がいる。

 隊員の横っ面を捉える寸前、太い幹は別の木にぶつかり、怪力に耐えられず持ち手の辺りから折れた。木が地面に落下した際の軽い揺れを感じながら、隊員は背中に冷や汗を掻いていた。今まで十数人の仲間が死んでいくのを見てきた。今、少しでも場所がずれていたら、少しでも木が短ければ、自分は彼等と同じ結末を迎えることになっていたのだ。

 彼の戦慄など知る由もなく、ヒトツメは折れた幹を見て首を傾げている。発見されているヒトツメの中では知能のある方とはいえ、所詮は猿レベルだ。だが、生物の頂点に立つ人間の知能をもってしても及ばないほどの暴がヒトツメにはある。

 その時ヒトツメが、何かに反応するように、傾げていた首を真っ直ぐに戻した。背筋も一緒に伸ばすと、何かを探すように辺りを見回す。自分を囲む戦闘員の姿は、既に見えていないようだった。

 現在は名雲羊介という名と顔に変わっている少年、世間に浸透している通り名で呼ぶならば『東の殺人鬼』は、外見だけなら普通の少年だった。格闘技どころか部活にも入った経験はなく、身体はかなり細い。しかし、彼に殺害された被害者の中には、プロレスラーやキックボクサーもいた。

 では、東の殺人鬼はどのようにして格上の彼等を殺したのか。

 答えは簡単だ。普通に道を歩いているキックボクサー、オープンカフェでコーヒーを飲んでいるプロレスラー、日常の中にいる彼等にナイフを突き立てるだけで、呆気なく終わるのだから。

 奇襲が通じない相手は、東の殺人鬼にとって初めてだった。

 ヒトツメの察知能力ギリギリまで近付いて、そこから奇襲を掛けるつもりでいた羊介は、愉しさを堪えきれないように笑みを浮かべながら木の陰から姿を現し、軽く地面を蹴ると、ヒトツメから十メートルほどの場所へ移動した。

「お前ら、邪魔だからどっか行け」と、周囲の戦闘員達に目もくれず言ってから、ヒトツメをじっと見上げ、

「おい、クソ猿。アリ潰して面白ぇーか?」

 その言葉に反応したのか、それとも獲物ではない敵の出現に興奮したのか、ヒトツメは猿というより怪獣か恐竜のように鳴いている。

「なに言ってっか分かんねーけど、やっぱ一番面白ぇのは同族殺しだろ」

 腰を落とした羊介に、ヒトツメは威嚇するように両手を上げる。

 そこから先に動いたのは羊介だった。地面を蹴り、ヒトツメの目玉を狙って左足の跳び蹴りを放とうとする。しかし、眼前まできて蹴りのために身体を横に倒そうとした瞬間、羊介を叩き落とすように、ヒトツメの左掌が振り下ろされた。

 それに対して羊介は宙で身体を捻り、蹴りの軌道を変えて迫り来る掌を蹴り飛ばす。体勢を整えて地面に足を付けた途端、残りの右掌が振り下ろされ、羊介はすぐさま地面を蹴って大きく横に跳ぶ。

 太鼓でも叩くように掌が地面に叩き付けられ、轟音とともに、地面に手形が残る。しかし、それを見ている者は誰一人いない。羊介は跳んだ先にあった木に足を付けてヒトツメを、そしてヒトツメも羊介の動きを目で追っていた。互いに、人間相手には見せた遊び心は感じられない。

 羊介はそのまま木を蹴り、ヒトツメの前方に着地すると、止まることなく稲妻を描くように地面を駆けてヒトツメに接近する。

 半歩後退りながらも、ヒトツメは苦し紛れに拳を振り下ろす。しかし、羊介はその拳を紙一重のところで躱して跳び上がると、逆に己の拳をヒトツメの目玉に叩き込んだ。

 羊介の脳裏に、巨大蜘蛛の悲鳴が蘇る。自分より巨大な、強大な力を持った相手が鳴き叫ぶ姿、声。それは何よりも、羊介に高揚感を与えた。

 だが、想像した悲鳴が来る前に、左足をヒトツメに掴まれた。

 やべ、と口にする暇もなく振り上げられ、力のままに地面に叩き付けられる。

 声すら出ない激痛を全身に感じながら地面を転がった羊介はなんとか立ち上がる。後頭部を打たなかったのは幸いだが、背中全体が燃えるように熱い。

 前を向くと、ヒトツメが目を押さえて叫び声をあげていた。しかし、先程の衝撃によるものか、その声が羊介には聞こえず、最悪だと言わんばかりに顔をしかめて舌打ちした。

 不意に、背中の熱が引いた。その瞬間、胃の中のものを全て吐き出しそうになるほどの激痛が全身にはしる。羊介は思わず顔をしかめて片膝を着いた。

 この感覚には覚えがあった。巨大蜘蛛との戦いが終わり、気を抜いた瞬間に襲いかかってきた、身体から力が抜けるほどの激痛。ヒトツメ化が急速に進行しているのだ。しかし、あの時ほど大して無茶な動きをしていないこのタイミングで何故、と痛みの波が引いていくのを感じながら羊介は思う。そして肩に手を振れて、その異変に気が付いた。

 ヒトツメ化が進んでいるのは、後半身、たった今、攻撃を受けた背中から肩に掛けた箇所のみだった。

 痛みと同時に燃えるような熱が消えていることに気付いた羊介は、少しでも隙を見せたら乗っ取る気か、と舌打ちする。

「おい、大丈夫か!?」

 聞こえた声に、羊介は眉を潜めて横を見る。木の陰に隠れるように張り付いている四十代ほどの髭面の隊員がそこにはいた。ヒトツメにばかり集中していたが、落ち着いてみれば戦闘員は全員、戦闘に参加しないだけでその場に留まっていた。

「てめぇ! どっか行けっつっただろ!」

 羊介の怒声に、髭面隊員はサムズアップして答える。

「心配無用だ! 自分の身くらいは自分で守れる!」

「邪魔だっつってんだよ!」

 そう叫んだ時、視界の隅で、体勢を低くするヒトツメを捉えた羊介はすぐさま前に向き直る。

 せっかくの戦いを邪魔されたらたまったもんじゃねぇし、周りの奴ら殺しとくか?

 跳び掛かってきたヒトツメから繰り出される力任せな攻撃を避けながら羊介が考えていると、視界の隅で撤退する戦闘員達の姿が見えた。どういう心境の変化だ? と疑問は生まれたが、それ以上に戦いの場が整ったことに対する高揚が勝った。

 頭を狙ってきた巨大な拳を避け、勢いままに身体を回転させてヒトツメの手の甲を殴りつけた。巨大な岩同士が激突したような轟音が響き、ヒトツメの左腕が跳ね上がると、羊介はすぐさま姿勢を低くして横へ回り込む。狙いは、腕と比べると細く短い脚。

 左足に、低い軌道の、払うような蹴りを放つ。当然、それだけで体勢を崩すわけはないが、それでも片足が浮けば攻撃は止まる。その隙に羊介は跳び上がると、ヒトツメの左肩に着いた両手を軸に回転して、目玉に強烈な蹴りを入れた。衝撃を殺されたような手応えしかなかった先程とは違い、目玉が僅かに潰れるような、気持ちのいいとは言えない感覚が足先にあった。

 蹴りを入れた足目掛けて伸びてきた手を楽々避けて、羊介はヒトツメの背後に着地する。

「同じ攻撃くらうわけねーだろ。猿じゃねーんだから」

 その言葉に反応したのかは定かではないが、ヒトツメは狂ったような叫び声とともに振り返りながら右腕を斜めに振り下ろした。

 羊介はそれを軽々と跳んで避けると、今度は拳を目玉に叩き込んだ。更に、下瞼に手を引っかけると身体を引き寄せて、膝蹴りを入れた。

 ヒトツメの巨体が揺れて地鳴りを起こしながら倒れる様を、沙奈は戦闘員に借りた双眼鏡で離れた場所から見ていた。

「おぉ」という感嘆の声が、同じように戦闘の様子を見ていた隊員数名からあがる。

 その中の一人である髭面の隊員は、双眼鏡から目を離し、隣の沙奈に顔を向ける。

「予想以上に凄いな。もうヒトツメを追い詰めたぞ、あの少年。えーっと……、名前はなんだったか? 確か、たか――」

「名雲羊介さんですよ。今は」

 沙奈は双眼鏡に目を当てたまま言う。

「あぁそうだったな」という髭面の隊員の笑い声は、沙奈にはすでに聞こえていなかった。双眼鏡の向こうで、また戦いが動き出していた。

 羊介は、倒れたヒトツメに追い討ちを掛けようとはせず、その様子を黙って見ていた。ヒトツメはピクリとも動かないが、まるで下手な死んだフリのように万歳された両腕が、あからさまに怪しかった。

 羊介は近くにあった拳大の石を拾うと、頭上の木の枝に飛び乗り、ヒトツメ目掛けて投擲した。体勢の悪さはあるものの、全力で投げられたそれがヒトツメの目玉の中心に直撃し、ぐちゅ、という不快な音がした瞬間、痛々しい悲鳴が響いた。

「やっぱり元気じゃねーか。セコいっつーか小賢しいっつーか、まぁまんま猿知恵だな」

 目を押さえて地面を転がるヒトツメを見て、羊介は薄く笑って地面に降りる。

 その足音に、ヒトツメは肩を跳ね上げた。目を押さえていた大きな両手を恐る恐る外す様に羊介は吹き出して笑った。

「はっ。びびってんじゃねーよ。獣は手負いの状態が一番恐ろしいんだろ? それとも元が人間だから臆病になってんのか?」

 当然、ヒトツメは何も答えない。ただ、弱々しく鳴いてから、左手を顔に当てて目を覆い隠し、残る右腕をゆっくりと構えた。

「おいおい……。まさかそれでやるつもりかよ」

 確かに弱点はなくなったし、ヒトツメの察知能力があれば、目が見えずとも多少は問題ないだろう。しかし、相手は目が見えていても翻弄されるほどのスピードを持っている羊介だ。力も、一撃で致命傷にはならずとも、受け続ければ危ないほどにある。羊介から見ても、この戦法ではジリ貧になるのがすぐに分かり、思わず訊いてしまったが、当然ヒトツメは何も答えない。

 ただ、それを遠くから見ていた沙奈は、

「……案外、良い方法かもしれないですね」と呟いた。

「良い方法? あの戦い方がかい?」

 髭面隊長とは反対隣にいる岡田が双眼鏡から目を離して沙奈に問う。

 戦闘、というより一方的な攻撃が既に始まったが、そこには興味がないのか、沙奈は顔を上げて頷いた。

「あれじゃあ弱らせるにしても時間がかかるでしょうから。名雲さんのヒトツメ化の方が早いかもしれません」

 平然と口にした言葉に、隊員達はざわめく。髭面隊長は「ふむ」と顎髭を撫でながら思考顔をしてから、

「よし。私達も名雲少年の加勢に――」

「止めてください」

 沙奈はいつも通り平坦に、しかしハッキリと言う。

「さっきも言いましたけど、戦いの邪魔をしたら名雲さんに殺されちゃいますよ。危なくなったら私がヒトツメ化を抑えに行くのでご心配なく」

「でも、そうなったら君が危険なんじゃないか?」と言うのは、沙奈達を迎えにきた若い隊員だ。

「大丈夫だと思います。何かあったら名雲さんが助けてくれると言っていましたし、そうでなくても私が死んで真っ先に困るのは名雲さんですから」

 死ぬ、殺す、など、大人なら遠回しに表現してしまいそうなことを、沙奈は滔々と口に出す。子供だからと言えばそれで終わりだろうが、そこには死を知らない子供故の非現実さはなく、それがどういうことか知ったうえで口にしているように思えた。両親が、そして、目の前でたくさんの人が死ぬところを見たことにより、死に対する感覚が少し麻痺しているのかもしれないと、髭面の隊長は思った。彼も、この仕事を始めて長い。そういった経験は、一般人と比べればイヤと言うほどしてきていた。

 沙奈達が言葉を交わしている間にも、羊介の一方的な攻撃は続いている。向かってくる右腕をかわし、拳を叩き込む。そして更に、懐に飛び込んで攻撃を繰り出す。それを繰り返し行っているうちに、ヒトツメの消耗具合が動きに見えてきた。右腕による攻撃の速度は明らかに低下し、羊介の攻撃を回避しなくなったどころか、一撃くらう度に身体をフラつかせる。

 しかし、羊介自身は戦いによる高揚で感じていないが、彼のヒトツメ化は大きく進行していた。手首、首元まで黒硬質化が進んでいることに気付いた沙奈は、双眼鏡を若い隊員に返すと、

「ちょっと危なそうなので行ってきます」と言って、隊員の制止も聞かずに走り出した。今の弱ったヒトツメなら人に戻せるかもしれない、という思いもあったが、口には出さなかった。

 しばらく走っていると、後ろから足音がすることに気付き、行ったら殺されるって言ったのに、と思いながら振り返る。そこには、どこか複雑そうな表情の岡田がいた。

「あ、いや、私は一応、君の護衛の任も受けているんだ。名雲君がいるとはいえ、流石にヒトツメのところに一人では行かせられない」

 どこか言い訳をするように言う岡田に、沙奈は、それなら仕方ないかと頷いて前に向き直った。

 すると、すぐに後ろから「あー……」とどこか言いにくそうな声が聞こえて、再び振り返る。

「だから、すまないけど、名雲君に私を殺さないように言ってくれないか?」

 その言葉に沙奈は首を傾げる。

 あの人が必要としているのは私の力だから、私が頼んだところで邪魔なら殺しちゃうと思うけど……、

「まぁ、言うくらいなら」

 少し表情を和らげた岡田に沙奈が再び首を傾げた時、一際大きなヒトツメの叫び声が響き、それを最後に、山中に静寂が訪れた。

「……終わったのか?」

 岡田の呟きに、沙奈は走る速度を上げる。ショッピングモールでは、戦いが終わった途端、羊介のヒトツメ化は一気に進行していた。今回も同じなら、余談を許さない状況も有り得る。

 戦闘現場に到着した沙奈と岡田が目にしたのは、目玉が完全に潰れ、右手と左わき腹が砕け、悪臭を放つどす黒い液体――血、なのだろうか――を漏らしているヒトツメと、その横で地面に座り込んでいる羊介の姿だった。

 後ろ手を地面に着いて身体を支えたまま荒い呼吸を繰り返していた羊介は、二人に気付くと口角を上げて笑う。

「よお。いいタイミングじゃねぇか」

「そうみたいですね」と沙奈はヒトツメの死体を一瞥しながら言うと、羊介の横にしゃがんで、左肩にそっと両手を重ねた。

「お腹が見えるように服をめくってください」

 羊介は呼吸を整えながら服を上げる。当然、その胴体は完全に黒硬質化していた。

 沙奈がスゥと息を吸い、両手に小さく力を入れると、ヒトツメ化進行の症状である黒硬質化と激痛が羊介の身体から消えていく。それに伴い、羊介の呼吸も安定してきた。

「……もう少し早く来たら、このヒトツメを人に戻せたでしょうか」

 沙奈の問いに、羊介は「無理だろ」と即答する。

「少なくとも、両腕を潰さない限り近付くことは俺が許さなかった」

 そして、口には出さないが、これ以上長引けば羊介の身も危険だった。

「お前、そんなにヒトツメを人に戻したいのか? 俺ほどじゃねーけど、こいつだって立派な殺人鬼だぜ?」

 その問いに沙奈が答えずにいると、代わりに岡田が少し躊躇いがちに口を開いた。

「まぁ、ヒトツメだって元は人間で、被害者なんだ。そう思ったっておかしくはないんじゃないか?」

「被害者ねぇ。ヒトツメなんかになっちまったのはソイツが弱いからだろ。自業自得だ。それとも、何も分からねーノーナシなら何してもいいってか? なら俺も、次に誰かを殺した時はアホかキチガイのフリをしてやろうか」

「……何十人も人を殺してるんですから、一般人からすれば立派なキチガイさんですよ」

 ヒトツメ化進行具合の微調整をしながら言った沙奈に、羊介は短く笑った。




 その夜、沙奈と岡田は岡山支部の面々と焼き肉屋へ来ていた。当然、まだ十三歳の沙奈はアルコールを飲めないが、乾杯から一時間も経つと、酔っ払って好き勝手に席を動き始める者も出てくる。

「沙奈ちゃん退屈してない? 名雲君も来ればよかったのにねぇー」

 チビチビと焼酎を飲んでいた岡田を押しのけて草壁が隣にやってきた。その顔はうっすらと赤く、口調はどこか舌足らずになっている。

「ご飯が美味しいですから楽しいですよ。それに名雲さんが来ても話し相手にはならないと思います」

「若い子がいるってだけで大人はテンション上がるものなのよー」

「それが殺人犯でもですか?」

「今は名雲羊介君なんでしょ? 私が聞いた限り、名雲君はヒトツメ以外を殺したりはしていないし」と草壁は目を細めて笑う。

 沙奈はサラダに箸を伸ばして口に運び、咀嚼しながら何か考えるような顔をしていた。草壁は笑みを浮かべたまま沙奈の横顔を見てから、ゆっくりと口を開いた。

「名雲君は色々あったから分かるけど、沙奈ちゃんはどうして久留米沙奈ちゃんでいるの?」

 沙奈は草壁の笑みを無表情のままじっと見つめ返してから不意に口元を緩めて微かに微笑んだ。

「なんとなくです」




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