蜘蛛は母
『午後一時頃から四時間が経過した大型ショッピングモール立てこもり事件。未だに進展は見られません。現場と中継が繋がっています。えー、こちらはショッピングモール上空からの映像ですが、ごらんの通り、ショッピングモールを警官隊がずらっと囲んでいます。特殊班や特殊部隊も既に出動していると見られ、現場は余談を許さない状態が続いています。しかし、依然として犯人――連続殺人の犯人だと名乗っているようですが――その狙い、このような事件を巻き起こした目的が分からず……、えー……、分かっていない、というのが現状です。犯人は人質に館内放送を使って指示を出しており、立てこもり直後は『その場から動くな』『カメラで監視している。逃げ出した数だけ、ここにいる警備員と店員を殺す』と人質の自由を奪い、そして三十分ほど前、人質にショッピングモール中心のホール……吹き抜けの大ホールがあるとのことですが、そこに集まるよう指示を出しました。人質を一所にまとめ、監視しやすくする目的と思われ――』
『山根さん、山根さん!』
『はい? えー、現場に向かっていた戸田さんでしょうか。中継は……繋がってる?』
『はい。えー、たった今、現場に到着したところなんですが、ちょうど、人質が数名、ショッピングモールから出てきたとの情報が入ってきました』
『それは、犯人に解放されて、ということでしょうか』
『えー、それはまだ分かっていませんが、人質の中には小さなお子さんを連れた方もいたため、その可能性もあるのでは』
スマートフォンに指が伸びて、次々とチャンネルが切り替わる。指が止まったのは、十名の人質を保護というテロップを見た時だった。
少年は溜め息を吐いて振り返る。監視カメラの映像が映る小型ディスプレイが列べられた警備室内は薄暗く、肘掛け付きの椅子に腰掛けている少年の後ろには、警備員と店員、計十名が座り込んでいる。スマートフォンの音が聞こえたのか、薄暗くても分かるほど顔を引きつらせている者もいた。
「なぁ、俺、人質を解放なんかしたっけか?」
その誰にでもない問いに、人質達は首を横に振る。
「だよな。まぁ、いいか。運良く人数も時間もちょうどいい」
隆一、好香、そして沙奈が事件に巻き込まれたのは、映画の視聴を終え、ショッピングモール内のレストランで昼食をとっている時だった。三十分前までは指示に従ってレストラン内で息を潜めていたが、現在は新たな指示により一階ホールへ移動していた。一階から四階までホールに入りきらないほどの人で埋まっているが、静まりかえっているわけではなく、むしろざわざわと騒がしいほどだった。
沙奈は好香に抱き締められたまま周囲の者に目を向ける。
引きつった表情で叫ぶように話をしている中年男性、狼狽えている年配の女性、余裕ぶっているが笑みが引きつっている若い男性、友人とゲラゲラと笑いあう学生。誰もがそれぞれに五月蝿く、沙奈は耳を塞ぎたくなった。
「今、そこの人に携帯でテレビを見せてもらったが……」
そう言いながら隆一が戻ってきた。隆一も好香も、そして沙奈も、今時珍しく携帯電話を持っていない。
「人質が十人保護されたらしい」
「それって、警備員とか店員の……?」
顔を青くしてガタガタと震えている好香の代わりに沙奈が問う。
「いや、一般人みたいだ」
「……それって」
犯人と一緒にいる警備員や店員が危ないのでは。その言葉は、突如響いた甲高い悲鳴により途切れた。続いて、男性らしき低い叫び声や、また別の声が響くと、一斉に人混みが動き始めた。
押さない、駆けない、喋らないが基本の避難訓練だったらみんな怒られているところだ、と沙奈が思うほどの勢いで、ホールの中心から人々は離れようとしている。前の人を押し、我先にと駆け、そして意味の分からない叫び声を上げる人々。初めから隅の方にいた沙奈達は巻き込まれることなく、その様子を見ていた。
「ど、どうしたんだ?」と狼狽え、逃げる人々を目で追っている隆一、更に震えて沙奈の肩に顔を埋める好香と違い、沙奈は静かに一点を、その騒動の中心地点を凝視していた。逃げていく人が壁となり、まるで様子は分からない。しかし、一瞬、人込みが割れて、ホールの中央が見えた。
そこに立っていたのは、薄茶色のコートを着た少年だった。少年と言っても、沙奈よりは確実に年上だろう。
少年はだらりと下げた右腕に、何か丸い物を持っていた。
人の首だ。二十代前半ほどの男性。警備員か、店員か、首だけになった今では分からない。
また人混みに少年の姿が隠された直後、
「動いたら殺す」と言う平坦な声が響いた。
ホールは一瞬にして静まり返り、少年を遠巻きに囲む形で人々は動きを止めて振り向く。
沙奈からは見えなかったが、少年の左手には拡声器が握られていて、今はそれを口の前に持ってきていた。
「スマホかなんかで見た奴もいると思うが、十人の人質が勝手に逃げ出した。こいつらは、そいつらの代わりに死んだ。俺が殺した」
足元に置いていた旅行バックを軽く蹴ると、中から三人分の生首が転がり出てきた。再び起こる悲鳴は、少年の「黙れ」という一言で収まる。
「これくらいでいちいち騒ぐんじゃねーよ」
少年が面倒くさそうに前髪を掻いた時、ピロリン、という場違いな電子音が、そしてカシャッという音が連続して静寂に響いた。
「あ、やべ」と小さく呟いてスマホを慌ててしまったのは、高校生か大学生ほどの金髪の青年だった。
「おい。そこのアホ面。なに勝手に撮ってんだ?」
怒気を含んだ言葉に、ホール全体に緊張が走る。しかし、当の青年は、少年の言葉が癇に障ったのか、どこか苛立った表情をしていた。
「……まぁ、いいか」
少年の言葉に、僅かに緊張が緩む。
「おい、アホ面、ちょっとこっち来いよ」
生首を持った手で床を指し、青年を呼び寄せる。青年は、躊躇の色を見せたものの、プライドか、それともアホ面呼ばわりされた怒りからか、それに従って少年が指定した場所まで歩いていった。
五メートルほどの距離で、二人は向かい合う。緊張した表情の青年を見上げて、少年は愉しそうに笑う。
「それじゃあ、ルール説明だ」
少年は生首を青年の足元に投げつけてから、ポケットに手を入れて何かを取り出す。それは、小さな鍵だった。それを人質に見せるように、その場で掲げ、ゆっくりと回る。
「ショッピングモール中に爆弾を仕込んだ。このショッピングモールは、あと五時間で吹き飛ぶ」
ざわめきを無視して、少年は言葉を続ける。
「これは、爆弾を解除出来る唯一の鍵だ。この鍵を俺から奪って爆弾を解除出来ればお前らの勝ち、それ以外は俺の勝ちだ。まぁ、奪うんじゃなくて、俺を殺せばあとは逃げるだけで済むけどな」
途端にざわめきが止み、静まり返る人々に、少年は愉快そうに笑う。
「お前らは何人束になってかかってきてもいい。当然、俺は抵抗するが、お得意のナイフとか武器を使うつもりはねえ。なんなら、この場で裸になってやってもいいぜ」
少年は青年に向き直ると、鍵にチェーンを繋げてコートの内ポケットに閉まった。
「てなわけで、メインイベントの前に前座だ」
その言葉に、青年は反射的に構える。武器を使用しないと口にした瞬間から、青年の表情から緊張は抜けていた。
青年は、中学では空手を、高校では剣道を、そして大学生である現在は、柔道をやっている。試合などでは、その道一本でやっている者にはまず敵わないが、ルール無用の喧嘩ならば負けない自信はあった。少年がどのような武術を身に付けているにしても、それを無にするほど二人の体格の差は歴然だ。
青年の身長は百八十五センチ。体格はがっしりとしていて、体重は百キロを超える。
対する少年の身長は、精々、百七十五センチといったところ。体格は、極めて普通だ。コートやジーンズの上から見た限り、身体を鍛えているようには見えない。
ウサギとライオンだ、と青年は思う。
「それじゃあ……、そうだな。その首を上に投げてくれよ。それが床に着いたら、始めってことで」
「…………コインじゃあ駄目か?」
「は? あぁ、汚れるの嫌なのか。別にいいぜ」
青年は頷き、ポケットからゲームコーナーのコインを取り出すと、ジャケットを脱ぎ捨てた。
丸めた人差し指と親指の上にコインを乗せて、一度、深く呼吸をする。キーン、という小さな音とともに、コインが跳ね上がる。例え、少年が嘘を吐いていて、ナイフなどの武器を取り出したとしても、勝てる自信が青年にはあった。
コインが床に触れ、高い音を響かせた瞬間、先に動いたのは意外にも少年だった。一直線に距離を詰める。
だが、その飛び込みも、振りかぶった右手も、青年の目は容易に捉えていた。
青年が真っ直ぐ前に突き出した掌底はカウンター気味に少年の顎を捉える。少年の突進を完全に止める、青年自身が驚くほど綺麗な一撃。ふらつく少年に、青年は両手を伸ばす。
沙奈は、その様子を人混みの隙間から見ることが出来ていた。横に立っている隆一は「どういう状況なんだ?」と身体を揺らしているが、どうやら少年と青年の姿は見えないようだ。
青年が掛けた投げ技は、柔道を殆ど知らない沙奈でも知っているものだった。
背負い投げ。碌に受け身も取れず、少年の背中は床に叩きつけられた。
大の字に倒れる少年を、青年は一度長く息を吐いて見下ろす。動ける筈がない。顎に掌底をくらったうえに、固い床に叩きつけられたのだ。瞬きをしているところを見ると意識はあるようだが、まともに動くまでに少なくとも十分はかかるだろう。
「勝った?」「勝ったの?」という小さなざわめきが起こる。
「……笑ってる」
犯人の少年の横顔をじっと見ていた沙奈の小さな呟きは、大きくなっていたざわめきに掻き消された。
青年は脱ぎ捨てたジャケットを拾うと、軽く叩いてから羽織り、周囲の人に声を掛ける。
「しばらくは動けないと思う。今のうちに縛ってしまおう。誰かロープを持ってないか?」
その言葉に歓声が大きくなる。
少年が何事もないように上半身を起こしたのは、勝ちを確信した誰かが「勝ったんだ!」と叫んだ時だった。
近くの人からロープを受け取ったところだった青年は、目を大きく見開く。
少年はそんな青年に顔を向けて、口角を上げて笑った。
「なんだよ? 俺にそんな趣味はねーぞ?」
動ける筈がない、筈だった。少なくとも、このようにすらすらと言葉を話し、
「よっこいせ」
普通に立ち上がることなど、出来る筈がないのだ。
青年の中に焦燥が生まれる。しかし、自分以上に狼狽えている周囲の人間を見ることで、冷静になることが出来た。青年は真っ直ぐに少年を見据え、再び先程と同じ距離まで近付いていく。
「また同じ目に遭いたいのか?」
「いや、マジで勘弁。視界が一回転すんのは初体験でなかなかにスリルあったけど、めちゃくちゃ背中痛てーし」
痛みを感じない体質の人間がいるという話を思い出していた青年は、その言葉に幾分安堵した。今度は、開始の合図はない。青年は一気に距離を詰めると少年の顔面に軽い一撃――目くらまし目的のフラッシュパンチを当てる。
「うお」という少年の驚きの声に、青年の顔に思わず笑みが滲む。その視線は、既に少年の右腕にしか向いていない。
「……目、閉じてない」
そのため、遠くから戦いを見ていた少女でも気付けたことを、容易く見落とした。いや、ここはそれに気付いた沙奈を誉めるべきだろう。おそらく、そのことに気付いたのは、このホールの中で一人だけなのだから。痛みを伴う攻撃が迫っているのだ。目を閉じて当然だと誰もが考える。少なくとも、痛みを知る人間ならば。
青年に腕を掴まれた少年は、それを振り払おうとして暴れ、二人はもつれるように倒れ込んだ。その結果、青年は運悪く、少年に背中に跨られるかたちになってしまった。少なくとも、周囲の者にはそう見えただろう。目敏い沙奈でさえ、その一連の動きは自然な成り行きにしか見えなかった。
それが少年によるものだと気付いているのは、本人を除けば青年のみだろう。
青年の腕を払おうとするように見えた少年の動きは、実際は有無を言わせぬほどの力で青年を振り回していた。おそらく、本気を出せば、簡単に振り払えただろう。それをせずに、わざわざこの状況に持ち込んだ理由とは一体何なのだろう。
素早く首に腕が回され、右腕でロックされる。青年は首を圧迫する左腕を両手で掴み、爪を立てる。
この状態のまま起き上がることが出来ないのは、背中に掛かる未体験な圧力で嫌でも感じ取れる。
しかし、腕を外すことはおろか、肌に爪を立てることすら適わない。感触も温度も人の肌のそれだが、皮膚の下に鉄でも入っているのではないかと思うほどにびくともせず、そうしている間にも腕が首に食い込み、意識が薄れていく。
抵抗の意識がなくなっていくのを感じながら、青年は思う。初めの一撃、顎に綺麗に決まり、背負い投げに繋げた一連の動きは、偶然でしかなかったのだろうか。
いや、とすぐに否定する。あれは必然だったのだ。少年が言っていたではないか。この戦いは前座でしかないと。
仲間がライオンに瞬殺される姿を見て、自分も挑もうと思うウサギがいるだろうか。少年は、敢えて攻撃を受け、偶然を装って勝つことにより、自分を弱い存在に、ウサギに見せているのだ。
なら、きっと俺は殺されずに済む。その考えが浮かぶと、抵抗の意志はいよいよ無くなり、青年の両手から力が抜けていった。
青年が完全に失神すると、少年は腕を解き、ふぅ、と小さく息を吐く。一転して静まり返った人々をざっと見回して、ゆっくりと立ち上がり、近くに落ちていた拡声器を拾う。
「今の奴みたいに素手でかかってきてもいいし、武器を使ってもいい。さっきも言ったが、複数でかかってきてもいい。ようするになんでもありだ。とにかく、俺を殺せればお前らの勝ちになる」
今度は、少年は鍵のことを口にしなかった。そして、人質達も、既に鍵のことなど考えていない。この状況ならば、少年を殺すとまではいかずとも、動きを奪ってしまうほうが早いのは分かり切っている。当然、誰もが同じことを考えているわけではないが、血気盛んな若者達の中には今の戦いを見て複数ならば間違いなく勝てると考えた者が少なからずいた。
「まぁ、誰もかかってこないんじゃあつまらないからな。そん時は、十分ごとに誰か一人適当に殺すことにする」
そして、その言葉に、家族を持つ者も何人か戦いの意志を固めた。
「開始の合図は……今度はいいだろ。準備が出来た奴からかかってこいよ。半端な数でかかってきても無駄だと思うけどな。その間、俺は何もしねえ。当然、逃げようとしたら殺すけどな。あ、それとコイツ、じゃまだから誰か持ってけ」
少年は青年を足で指して言うとその場に胡座を掻いて座る。拡声器を横に置き、ポケットからスマートフォンを取り出すと、テレビを見始めた。
人質が微妙に動き、青年の友人らしき男性二人が青年を引きずって運ぶ姿を最後に、沙奈から少年の姿は見えなくなる。そこで、いつの間にか好香の震えが止まっていることに気付いた沙奈は、そっと視線を下げる。この状況に慣れたわけではなく、あまりの恐怖に気絶しているようだった。
「母さん――好香は……?」
隣に片膝を立ててしゃがむ隆一の問いに、沙奈が答える。
「大丈夫です。気を失ってるだけですから」
「そうか。それならよかった」
隆一は立ち上がり、ざわめく周囲に目を向ける。彼がこれから何をしようとしているのか、沙奈にはすぐに察しが付いた。
二十代から四十代ほどの男性が集まり、真剣な表情で話をしているのを見つけた隆一は、再び沙奈に目を向ける。沙奈は、そんな隆一をずっと見ていた。
「きっとこの中には犯人と戦うことを決めた人達がいる筈だ。私はその人達と一緒に戦おうと思う」
隆一の言葉に、沙奈は黙ったまま頷く。先程から犯人の少年に感じている妙な感覚や、好香のことを考えれば、止めるべきであることも分かっていたが、それを口にすることは出来なかった。
「ありがとう」
一言、隆一は言うと、沙奈に背を向けて人混みの中へ入っていった。
残された沙奈は、何が『ありがとう』なのだろうと小さく首を傾げる。
少年が再び動き出したのは、それから五分が経った頃だった。
胡座を掻き、背中を丸めてテレビ視聴をしていた少年は、不意に身体を捻り横に飛んだ。次の瞬間、少年がいた場所には観葉植物の植えられた大きな植木鉢が落下し、破片と土を辺りに撒き散らした。短い叫び声が上がる中、無理やり横に跳んだ状態からスマートフォンを持っていない方の手を地面に着き、両足を地面に付けて立ち上がった少年は、それを見て苦笑いを浮かべる。
「あっぶねー。影が見えなけりゃ直撃して――」
軽口を叩く少年に、再び影がかかる。少年が振り返ると、目前に巨大な拳が迫っていた。
少年は人間離れした反射神経と動きで避けるが、攻撃は休まることなく続けられる。その間に、少年は十人ほどの若者達に囲まれていた。少年と同じほどの歳、高校生くらいの学生一派だ。その容姿服装は、お世辞にも優等生とは言いづらいものだが。
それぞれ四方から攻撃を加えて、それを交代しながら十人で行う。手慣れた動きで、端から見ると少年は為すすべもなく防御だけで精一杯のように見える。実際に攻撃を加えている少年達も、いつものリンチと違ってよく攻撃を防ぐ標的だったが、たまに攻撃が入るため、さほど気にしてはいなかった。
防御を固め、その包囲網を僅かに抜け出した少年は、一番近くにいた者の顎を拳で打ち抜く。そこからしばらくは、ひたすらそれの繰り返しだった。少年が殴打する箇所はこめかみだったり鼻先だったりと様々だが、その一撃で確実に一人一人を沈めていく。
人数が半数の五人になった時、六人目の鳩尾に拳を叩き込んだ少年の身体が揺らいだ。そして、少年の拳を受けた高校生は平然と立っている。
その光景を見て、弱っている、と考えなかった者がいるだろうか。
再び見え始めた希望に、人質達の表情から悲痛なものが消える。また一人、高校生が倒されると、希望の火を消すまいと一人、また一人と、戦いに加わっていく。いつしか、少年は何十人を相手に戦っていた。
「……いじめみたい」
人混みが動き、ようやく戦いの様子が――と言っても、ほとんど、少年を囲む男達の背中しか見えないが――見えた沙奈が、小さく呟いた。高校生くらいの少年を囲み、暴行を加える男達。確かに、その光景だけ見れば、どちらが犯罪者か分からない光景だった。
少年を囲む男達。その中に、隆一の背中を見つけた。いつでも飛び出せるように、他の男達と同じように前傾に構えている。
戦いの様子がよく見えない一階の人質達は、勝ちが目前といった期待のこもった表情を浮かべている。だが、沙奈がふと階上を見ると、妙なざわめきが起こっていた。彼らの視線は、階上からなら丸見えであろう戦いの中心に向けられている。
中心で戦っている者、中心に近い場所で戦いをよく見ている者は気付いているが、先程から、四方からの攻撃が少年に一発も当たっていない。代わりに、四人のうち一人は、必ずカウンターで倒されていた。
そしていつしか少年は、つまらなそうな表情を浮かべていた。
「あのさぁ」
男の横っ面をカウンターで殴り飛ばしてから、少年は次の攻撃にも構わず口を開く。拡声器を通していないその声は小さく、周囲の者にしか聞こえないだろう。
「いつまでやんの? これ」
四方からの攻撃を軽々避けて、再び、一人沈める。
「そろそろ素手じゃ無理だって気付けよ」
当然、立てこもり犯のそんな言葉に従うものはおらず、攻撃が止むことはない。少年の退屈そうな表情に若干の苛立ちが混ざる。
「やっぱ一般人相手じゃつまんねーわ。警察との戦いの前座にもなんねー。こんな糞試合じゃあ、前座で客が帰っちまうっての」
倒された者の代わりに入った隆一の拳を、少年は軽々と避けると、交差させるように右手を突き出し、隆一の首を掴んだ。
ぶちっ。その決して大きくはない不快な音が、不思議とホールに響いた。
少し間が空き、隆一の身体が揺れて、ゆっくりと倒れた。少年により握り潰され、皮一枚で繋がっていた首が、その衝撃で身体から離れ、転がった。
その光景に、叫び声を上げる隙は与えられなかった。少年は近くにいた男に向かい、目にも止まらぬ速度で間合いを詰めて顔面を殴り飛ばした。数メートル吹き飛び、後ろにいた別の男に当たってようやく止まったその男の顔面は鼻を中心に拳の形にへこみ、そして、呼吸も、心臓も既に止まっていた。
連続して常識外のことが現実に起こった衝撃により、少年を囲んでいた男達の動きは完全に停止している。
「ほら、手が止まってんぞ。さっさとかかってこいよ」
嘲るような口調に、六人の男が大声を発しながら少年に殴りかかる。その咆哮は、少年に対する怒りか、それとも、恐怖に固まる自分を鼓舞するものだったのかは、本人達にも分からなかった。分からないまま、彼等は殺された。
今度こそ、何が起こったのか誰にも分からなかった。少年に向かっていった六人の男が、まるで見えない壁に当たったかのように急停止すると、そのまま仰向けに倒れ込んでしまったのだ。階上の人質からすれば、下手なコメディでも見ているような光景だった。
「何人殺せば警察は本気出すんだろうな」
独り言のように呟いてから、少年は口角を上げて愉しげに笑う。
「まぁ、とりあえず向かってきた奴は皆殺しだな」
少年が若干姿勢を低くしたのを見て、沙奈は俯き目を閉じた。
実際に目にせずとも、短い悲鳴や断末魔で、何が起きているのかは大体分かった。
どのくらいの間、目を閉じていただろう。周りの人質からも悲鳴や逃げる足音が聞こえていたが、今は静まっている。その時、好香の小さな呻き声が聞こえて、沙奈は目を開けた。
床に倒れる人、人、人。その中心には、ただ一人、犯人の少年が、拳を赤く染めて立っていた。
そして、周りに人がいないのは、少年だけでなかった。沙奈の視界を遮っていた人の壁はいつの間にか消えて、一階にいた人質はすっかりいなくなっていた。上からはざわめきが聞こえるため上階にはまだ人がいるらしいが、この場にいるのは沙奈と好香、少年の三人のみだった。
互いに無表情のまま、二人は視線を交差させる。
目を覚ました好香は、そんな沙奈の様子を見て、その視線を追い、少年を見た瞬間、目と口を大きく開け、甲高い悲鳴を上げた。
耳に響く声に少年は顔をしかめる。沙奈は、気にした様子もなく、好香を落ち着けようと声を掛け続けている。
「大丈夫だよ、お母さん、落ち着いて」
「さ、沙奈、お父さんはどこ!? 早く逃げないと!」
好香は、沙奈の両肩を掴んで揺する。その力は細腕からは信じられないほど強く、尖った爪が肩に食い込んでいた。顔は死人のように青白い。
「先に行ってるよ。私達も早く逃げよう」
だが、沙奈は気にする様子もなく、好香を落ち着けるように言うと、肩に腕を回して立ち上がろうとする。
「そこのガキ、ちょっと待て」
その動きを、少年が止めた。
肩を大きく震わせる好香とは対照的に、沙奈は表情を変えることなく顔を上げて、少年を見る。
「……私?」
「そっちのババアがガキに見えるか? お前だよ。さっさとこっちにこい」
それはそうだ、と沙奈は内心で同意して、好香を立たせる。
「お母さん、先に行ってて」
好香は顔を引きつらせたまま、首を横に振る。
「何言ってるの? 早く逃げましょう。あなたまで殺されてしまうわ」
「多分、大丈夫だから」
そう言っても、好香は沙奈の腕に抱きついたまま首を横に振る。その様子を黙って見ていた少年は、とうとう痺れを切らしたように口を開く。
「おい、いつまでやってんだよ」
少年は顔をしかめて、沙奈達に近付いていく。
「こ、こないで!」
好香は沙奈をかばうように前に出る。沙奈は、そんな背中を呆然と見ていた。
少年は舌打ちをしてから、好香の前で足を止める。だらりとぶら下がっていた右手が僅かに動いたのを見た沙奈は好香のコートを掴み、思い切り引いた。
次の瞬間、好香の顔があった空間を、少年の右腕が切り裂いた。
尻餅を着く好香の隣で、入れ替わるように沙奈が立ち上がる。少年はそんな沙奈をまじまじと見てから、ゆっくりと口を開いた。
「……お前、俺のこの妙な力のこと知ってんのか?」
それこそ妙な問いに沙奈が首を傾げる。だが、少年に対して、何か奇妙な雰囲気を感じていることも事実だった。
質問の詳細を求めようと沙奈が口を開こうとした時、左腕に軽い衝撃を感じた。目を向けると、好香が抱きつき、少年から離れさせようと腕を引いていた。
前方から舌打ちが聞こえた瞬間、沙奈は好香の顔の前に右腕を出した。少年の拳が右手首に叩き込まれて、鈍い音が響く。好香を庇った沙奈の右腕は、手首と肘の間辺りから完全に折れて、骨が皮膚を突き破っていた。
その事態に悲鳴を上げたのは、沙奈ではなく好香だった。当の沙奈は大怪我を気にする素振りも見せず、悲鳴を上げ続ける好香を落ち着かせようと声を掛けている。少年は、そんな沙奈を興味深そうに眺めていた。
その時、一瞬だけ、好香の悲鳴が止む。しかし、安堵する暇もなく、先程以上の絶叫がホールに響いた。
先程のような、錯乱によるものではない。顔を押さえる彼女の声は、激痛に満ちていた。
「お母さん? 急にどうし――――」
思わず、沙奈は動きを止めた。左腕を掴んでいる好香の両手が、黒く変色、硬質化していた。
「沙奈、サナ、さな」
好香は俯きながら最愛の娘の名を呼ぶ。しかし、少しずつ、その言葉は不明瞭なものへ変わっていった。俯いていても、沙奈からも僅かに見える。黒い何かが、好香の顔にも浸食していた。
「サな、さナ、さなさなさなさなさなさなさなさなさなさ――――」
声が途切れ、勢いよく顔を上げた好香に、沙奈は「ひっ」と短く息を吸い、跳ぶように後ずさって尻餅を着いた。
その顔は完全に黒く変色し、そして、瞳が中央に寄って、大きな一つ目となった。
ギョロリと目が動き、沙奈の姿を捉えると、好香は小さく口を開く。
「ダレだ、おマえ」
その言葉を言い終えると同時に、好香の背中の衣服が弾け飛び、六本の黒く長い棒が、急成長する植物のように飛び出した。
再び悲鳴を上げる好香の全身は完全に黒に浸食されて、身体のところどころが沸騰した液体のようにボコボコと膨らんでは弾けていた。いつしか人としての原型は完全になくなり、背中から生えた六本の棒――否、脚を地面に付けた時には、完全な巨大蜘蛛へと変貌していた。全長十メートルはあるだろうか。全身は塗りつぶしたような黒色で、ただ一カ所、大きな一つ目の白目部分だけが例外だった。
階上からの悲鳴が響く。沙奈は尻餅を付いたまま後退り、少年は狂気を感じさせる笑みを浮かべていた。
「おいおいおい、なんだそれ。どこのSFだよ」
その声に反応した単眼の蜘蛛が振り返る。少年の姿を認識すると、威嚇するような声を上げ、両前脚を高く上げた。
その状態から振り下ろされた左前脚を少年は飛んで避ける。しかし、そこを狙い済ましたかのように右前脚が襲いかかり、少年を真横に吹き飛ばした。壁に叩きつけられる前に体勢を立て直した少年は、壁に両足を付けて、再び巨大蜘蛛に向かって蹴る。攻撃を防いだらしい左腕は衣服が鋭く避けて、血が滲んでいた。
巨大蜘蛛は二本の前脚を振り回して迎え撃とうとする。しかし、先程と違い、少年は素早く地面を蹴り、その攻撃全てをかいくぐって接近していく。巨大蜘蛛の攻撃速度は、沙奈には目で追うことすら難しかった。そして、鋭利な跡が残る床や壁を見ると、普通の人間ならば、一撃食らっただけで真っ二つであろうことも分かる。その攻撃の雨を、少年は笑みすら浮かべながら突っ込んでいく。ある意味で、見る者を魅力する、狂気的な笑みだった。
少年はある程度まで接近すると、力強く地面を蹴り、一気に距離を詰めた。そして、堅く握り締めた右拳を、巨大蜘蛛の目に叩き込む。手応えを感じて少年の表情が緩む。その瞬間、狙っていたわけではないだろうが、巨大蜘蛛の目の下、口があるであろう辺りから、黒い塊が吐き出された。塊は少年の腹部に直撃して、再び吹き飛ばす。それに少し遅れるかたちで、巨大蜘蛛は怒りと痛みを訴えるような叫び声を上げた。
「やっぱり、弱点はその目玉だったか」
立ち上がった少年は、口から垂れる血を拭いながら笑う。黒い塊の一撃で衣服が破けて、腹部が露わになっている。少年はうざったそうに残った服も脱ぎ捨て、上半身裸になる。沙奈が見ても、貧弱と言わざるを得ないような細い身体付きだ。この巨大蜘蛛と張り合っていると言って、誰がそれを信じるだろうか。だが、少年の身体には、一点だけ、常人と異なる箇所があった。少年の腹部、臍の辺りが、黒く光沢のある肌に変化していた。そう。巨大蜘蛛に変貌する前の好香と同じように。
「弱点丸出しとか、アクションゲームのチュートリアルボスかよ」
少年は嘲るように言うと、そのまま地面を蹴った。接近する少年、前脚を振り上げる巨大蜘蛛。先程と同じ攻防が繰り広げられる。巨大蜘蛛の攻撃には口から飛ばされる鋭利な糸と、それを口の中で固めた黒い塊も混ざるが、少年はそれら全てを紙一重に回避し続ける。出血による視界のぼやけでその攻防を殆ど目で追えない沙奈にも少年の動きが徐々に速くなっていることは感じ取ることが出来た。
隙を突いて近付き目に攻撃を加え、すぐに離れて、また隙を窺う。少年は一切攻撃を受けることなく、それを何度も繰り返した。そうして戦っている少年の表情を見た沙奈は、玩具を与えられた赤ん坊のようだと思った。
対する巨大蜘蛛は、まるで攻撃が当たらない苛立ちか、それとも体力の限界が近付いているのか、
「ぎぎぎ」と妙な声を漏らしていた。そして、少年が更に一撃を加えた瞬間、巨大蜘蛛は両前脚を振り下ろし、
「ぎいぃぃぃぃ!」と大きく鳴くと、少年から目を逸らして、二人から離れた場所で壁にもたれかかっている沙奈に顔を向けた。
叫び声を上げながら、巨大蜘蛛は突進する。沙奈は出血により意識が朦朧としており、逃げることはおろか、反応することも出来なかった。
物凄い音と揺れと共に、ショッピングモールの壁に巨大な穴が空く。少年がその先を見ると、いくつもの穴の向こうに、外の景色が見えた。
「あのヤロー、いいとこで逃げる気か」
少年はすぐさま穴を通って巨大蜘蛛の後を追う。その際、穴のすぐ横で僅かに突進を免れた沙奈が倒れていることに気付いたが、少年が足を止めることはなかった。
『それではここでもう一度、連続殺人事件の犯人を名乗る男が立てこもっているショッピングモールの様子を見てみましょう』
『えー、警察によって照らされたショッピングモールから、先程から人質が続々とショッピングモールから出てきています。解放された方の話から、建物内に爆弾が仕掛けられている可能性があり、我々報道陣もこうして少し離れた場所から現場を見守るしかないという状況です。しかし、人質が続々解放されていると――』
『戸田さーん』
『いうことで――っはい。何でしょうか』
『保護された人質の方は、怪我とかはなく、皆さん無事なんですか?』
『えー……、逃げる際に転倒したりといった理由で負傷された方はいらっしゃるようですが、犯人に何かをされたという方は、今のところいないようです。しかし――』
『それはなにより――はい? 戸田さん、なんでしょうか』
『はい。まだ確認は取れていないのですが、人質の方の中には、中で犯人が人を殺した、複数の人を殺したと言っている方もいるようです』
『えぇ? それでもまだ、警察の方に動きは見られないんですか?』
『そうですね。むしろ爆弾の存在の発覚により、余計に身動きを取りづらくなったようにも感じられます。それに、まだ半数ほどの人質が建物内に残されているということもあり、すぐには動けないのではないでしょうか』
『あー、なるほど……。あぁ、上空からも中継が繋がっているようです。ショッピングモール上空からの映像をご覧ください。あ、また数名の人が出てきて、警官隊に保護されたようです。爆弾が仕掛けられているかもしれない、とのことですが、このような巨大な建物を崩壊させることは可能なんでしょうか』
『いやぁ、それはなかなか難しいと私は思いますよ。しかし、犯人は人質をホールに集めているんです』
『ホールに爆弾が仕掛けられている可能性が高いということですか?』
『というより、間違いなく一つは仕掛けられていると――――』
その瞬間、画面に映っていたショッピングモールの一角の壁が吹き飛んだ。スタジオでも驚きの声が上がるが、その爆発の原因を目にすると、誰もが言葉を失った。
眩しいほどの照明に照らされているのは、巨大な黒い蜘蛛だ。
『え? なにこれ』という言葉がメインキャスターの口から零れる。
同じように呆気に取られていた警官隊の最前列にいた数名が、巨大蜘蛛の前脚の一振りによって真っ二つに切り裂かれる。
その映像を最後に、中継は途切れた。
『……え? なに、いまの』
『蜘蛛……のように見えましたが』
そのやりとりでスタジオには沈黙が流れ、そして何の前触れもなくCMに入ったのだった。
CMが明けると、メインキャスターや出演者達はどこかぎこちないながらも冷静さを取り戻したように口を開く。
『えー、先程、信じられない光景が飛び込んできましたが、どうやら現実のようです。現場の戸田さん』
映像が切り替わり、顔を引きつらせながらもどこか興奮した様子の戸田アナが映る。周囲は別のマスメディアや野次馬で騒がしく、戸田アナは声を張って話し始める。
『えー、本当に信じられない光景です! 先程、ショッピングモールから姿を現した巨大な蜘蛛! それだけでも十分、非現実的ですが、なんと現在、その蜘蛛と戦っているのは、警官隊ではなく一人の少年なんです! こちらは、つい一分ほど前の映像になります。かなりズームで少々見にくいですが……』
画面には、蜘蛛と戦い、そして圧倒する少年の姿が映し出されている。
『えー、この少年、そしてあの蜘蛛は一体なんなのか。未だに分かっていませんが、これは現実に起きていることです。間違いなく、現実に起きていることなんです!』
アナウンサーが分かりきったことを力説している頃、一階に降りてきた人質達の声で目を覚ました沙奈は、呼び止める声にも応じず、少年と同じように穴を通って外へ出た。
巨大蜘蛛の登場で混乱状態にあったこと、途中で脱いだコートを右腕に巻いて傷を隠していたこともあり、警官隊には呼び止められることはなかった。
意識が朦朧として、時折何も見えなくなるほどに視界が霞む。それでも、二人が戦っている方向は、なんとなく分かった。
殆ど足を引きずるように歩く。痛みを感じずとも、どれほど身体に無理をさせているかは理解していた。それでも、行かなければならない気がした。
「キミ! それ以上近寄ると――――」
誰かが沙奈の肩を掴んだ時、巨大蜘蛛の絶叫が周囲に響いた。沙奈が顔を向けると、少年の右腕が巨大蜘蛛の目玉に突き刺さっていて、そして、そのまま腕と一緒に目玉を抜き取った。
巨大蜘蛛の更なる絶叫、少年の狂気に満ちた高笑いに、沙奈は善意の手を払って駆け出した。右腕に巻き付けていたコートがずれ落ち、傷口が露わになって周囲から軽い悲鳴が上がるが、それすら気に掛けない。
空を仰いで高笑いしていた少年の身体が不意に揺れた。フラツきながら数歩後退り、地面に崩れ落ちた少年の横を沙奈が駆ける。その際、横目で少年を見ると、首の辺りまで例の黒色が浸食していた。
足先を僅かに震わせるだけの巨大蜘蛛の側にしゃがみこんだ沙奈は、躊躇することなく、その顔に触れた。人の肌とは違う、硬い感触。
だが、白い光が巨大蜘蛛を包んだかと思うと、その姿は見る見るうちに縮小し、元の姿、好香に戻った。ただ、その目に眼球ははまっておらず、そして呼吸も今にも止まりそうなほど弱い、瀕死の状態だった。
「誰? 私の顔を触っているのは誰なの?」
沙奈の膝に頭を乗せたまま、好香は手を僅かに上げながら小さく問う。巨大蜘蛛と化す寸前の好香に言われた言葉を思い出しながらも、沙奈はその手を掴み、
「私だよ、お母さん」と言った。
「沙奈なの?」
「うん。そうだよ」
好香の表情が幸せそうに緩む。
「あぁよかった。最期に会えて。ありがとう。ありがとう」
何度、ありがとうと口にしただろう。好香はふっと言葉を止めると、柔らかな笑みを浮かべて、最期の言葉を口にした。
「ありがとう、優しい子」
頭の中を犯されているような不快感、顔がねじ曲がりそうなほどの激痛を堪えながら立ち上がった少年は、好香の手を握ったまま一筋の涙を流す沙奈に向かって重たい一歩を踏み出す。
自分の手を見ると、両手とも既に指先まで黒くなっていた。
少年は先程の光景を思い出す。沙奈が触れた瞬間、人に戻った巨大蜘蛛。偶然、そのタイミングで人に戻っただけ、と少年は思わなかった。沙奈に対して感じている奇妙な気配。その答えがこれであるならば納得だ。何より、このまま自我のない化け物になるなど少年は死んでもごめんだった。
少年がすぐ後ろまで来た時、沙奈はようやくその存在に気付いて振り返る。その首を、少年の右手が掴んだ。徐々に力が込められ、意識が遠くなっていくのを感じている沙奈の脳裏には隆一の最期が浮かんでいた。
沙奈の意識は、そこで途切れた。