天秤は不動
まだ残暑が残る九月下旬。地面に広げて敷いた寝袋の上で眠っていた沙奈の顔に木漏れ日が差した。瞼を開けて上体を起こすと、身体に掛けていたコートがずれ落ちた。
枕元のリュックの上に置かれた腕時計を見ると、朝の七時だった。
当然、名雲さんは寝ていますね、と、互いに手を伸ばせば届きそうな距離で寝ている羊介を一瞥すると、腕時計を手首に着けてからリュックを探って中からコンビニ袋と薄い地図帳、それから小型ラジオを取り出した。昨日のうちに買っておいた朝食が入ったコンビニ袋を脇に置くと、片耳にイヤホンを着けてラジオの電源を入れる。淡々とニュースを読む女性の声を聴きながら、足を横に流して膝の上で地図帳を開く。
EYESを抜けて半年が経った現在、沙奈と羊介は山梨県にある山中にいる。逃亡生活を送る二人だが、特に目的があるわけではないため、その時その時で気の向くままの旅をしていた。
山梨県にやってきた理由は、ラジオで特集を聴いたからだった。昨晩はモツ煮を食べて、今日はほうとうを食べに行く予定だ。
地図帳をめくり山梨県のページを開くと、そこに挟んでいた観光パンフレットを手に取る。
ほうとうを食べるのは昼になるため、それまでにどこか観光スポットに行きたい気持ちはあるが、そこでEYES関係者に遭遇して昼食前に逃げ出さなければならなくなるのは困る。
それに、と考えた時、背後で茂みが揺れる音がして沙奈は振り返った。そこにいたのは一匹の狸で、沙奈と目が合うと一目散に逃げていった。
羊介が反応もなく眠っている以上、危険な相手が迫っているわけではないことは分かっていたが、ここ二ヶ月で妙にヒトツメと遭遇しているため少々敏感になっている。
沙奈は短く息を吐くと、再びパンフレットに目を落とす。
『昨晩、長野県宮田村と香川県内海町にヒトツメが出現しました。香川県のヒトツメはEYESの戦闘部隊により鎮静化されましたが、長野県のヒトツメは現在捜索中とのことです。長野県、近隣の県にお住まいの方は、外出時は十分に注意し、万が一ヒトツメと遭遇してしまった場合は――――』
長野県、と沙奈はパンフレットを見たまま思う。隣の県だ。EYESにいた頃の羊介ならば喜んで向かっただろうが、暴走の可能性がある今は彼も自らヒトツメと戦おうとしない。遭遇した場合も、遊ぶことなく素早く目玉を潰している。
そういえば最近ヒトツメと戦っている割には治癒をしていない、と気付いた沙奈が隣に顔を向けると、ちょうどよく羊介が目を開いた。すぐに沙奈の視線に気付くと、なんだよ、とでも言いたげに眉を顰める。
「おはようございます。ところで名雲さん、黒硬質化の方は大丈夫ですか?」
羊介は「あぁ」と忘れていたような声を出しながら起き上がり、薄手の長袖を肘の辺りまで捲る。ちょうど肘間接を過ぎたところまで黒硬質化は進んでいた。
沙奈はパンフレットと地図帳をリュックにしまうと、イヤホンのジャックを抜いて、ラジオを羊介に向けて置いた。
「またヒトツメが出たそうですよ」と言いながら立ち上がり、羊介の隣に両膝を着いて治癒を始める。
「へぇ。場所は?」
ラジオは既に別の――パンダが出産したというニュースを報じていたため、羊介は沙奈に問う。
「上野……じゃなくて、長野と香川だそうです。香川の方はEYESが討伐したそうですが、長野の方はまだみたいです」
治癒が終わったらしく肩から手を離す沙奈に、羊介は「へぇ」とどうでもよさそうに答えてからTシャツの裾をめくって腹部を見る。黒硬質化はすっかり引いていた。
「今日はアレだろ? 昼にうどん的なやつ食いに行くんだよな?」
「ほうとうです。そうですよ」
「なら午前は久し振りに風呂でも行くか。探しゃあ銭湯くらいあんだろ」
逃亡中の身分である二人は宿に泊まることを控えているため、たまにマンガ喫茶などでシャワーを浴びる程度の入浴しか普段はしない。
最後に銭湯に入ったのはおそらく二ヶ月ほど前となるのだから、その提案を沙奈が断る理由はなかった。いや、全身に残っている傷痕は理由に該当するかもしれないが、そのことを気にする彼女ではない。
行きましょう、と力強く言うため、軽く息を吸った時、ラジオから『たった今入った速報です』という声が聞こえて、沙奈は口を閉ざした。
『関西を中心に起こっていた連続殺人事件。その犯人と思われる少年を逮捕したと警察が発表しました。逮捕時の状況や少年の様子など、詳細は不明です。繰り返します。関西を――』
「健斗さんでしょうか」
「そうだろうな」
二人は短い会話を交わしてから、再びラジオに気を向ける。
しかし、それ以上のことは何も言うことなく、新たな情報が入り次第お伝えしますという言葉で、また別のニュースに移った。
「とうとう捕まったか。まぁ保った方じゃねーの? ネットに写真をバラ撒かれてたことを考えりゃ」
「死刑ですよね」
「お前の親を数えなくても六人殺してんだ。間違いねーだろ」
四十五人を殺した殺人鬼はそう言うと枕元に置いていた手提げ鞄を引き寄せ、中を探った。
「ご飯ならここですよ」
沙奈がコンビニ袋を取って差し出す。それを受け取った羊介は、袋からおにぎりとパンを取り出して沙奈に返した。いつか逃げる時のために、羊介は給料を銀行に貯金することなく全て手元に保管していた。当然、いつも全額を持ち歩いているわけではないが、生活に困らない程度の金銭はまだまだ残っている。
沙奈はコンビニ袋から二種類のサンドイッチを取り出した。
「どうせなら銭湯じゃなくて温泉に行きましょうか。富士山が見えるって有名なところがあるらしいですよ」
「俺はどこでもいいから勝手にしろよ。どうせ午前は暇だしな」
午前は、と羊介は言ったが、昼食が終われば午後からも特に予定はない。近くでヒトツメも出たことだし、さっさとここを離れようかと考えながら、沙奈はサンドイッチを小さくかじった。
「ちょっと君達」
温泉に向かう道中、パンフレットを持っている沙奈と、その隣を歩く羊介は、背後から呼び止められて振り返った。排気音が後ろからゆっくりと近付いてくるのが聞こえていたため予想は出来ていたが、声の先、反対車線には、パトカーの運転席から顔を覗かせる警察官の姿があった。
沙奈達が足を止めると、パトカーを路肩に停めて二人の警察官が降りてきた。二人ともまだ若く見える。二十代か、せいぜい三十代前半といったところだろう。
「君達学生だよね? 今日学校は?」
「あぁ?」
若干横柄な態度が癇に障ったのか喧嘩腰になる羊介だが、沙奈に服を引っ張られて一歩後ずさった。そんな羊介と警官の間に沙奈が割って入る。
「すいません。兄はこの通り口が悪くて……」
「あぁ、兄弟なの。親御さんと旅行にでも来てるの?」
「いえ。長野のお爺ちゃん……祖父が亡くなったので、その葬儀に向かうところなんです」
「君達二人で?」
「はい。父と母は先に行ってます」
「それで、なんで山梨に?」
「こっちにも親戚の人がいて……あ、昨日はそちらに泊まらせてもらったんです。その人と祖父の家に向かうことになっていて、でもヒトツメが出たと聞いて出発が延期になり、今日は観光を……」
「親戚の人の名前は? あぁ、あと君達の名前も聞いていいかな」
「はい。私は高橋小夜、兄は高橋羊介、叔父さんと叔母さんの名前は、渡辺……えっと……」と沙奈は羊介を横目に見るが、軽く流された。しかし、それでいい。
「すいません。名前は分かりません」
「あー、そう。じゃあ身分を証明出来るものとか持ってない? 携帯電話で親戚の方か御両親とお話出来れば一番早いんだけど……」
「すいません。私達、携帯電話は持ってなくて……」
どんな田舎から出て来たんだという警察官の内心が露骨に表れたが、沙奈は気にすることなくリュックから財布を取り出した。普段使っている、札が多く入るタイプのものではなく、ダミー用に端金を入れている薄黄色の可愛らしい財布だ。
「あれ? 学生証いれてなかったかな……」と呟きながらいくつかポイントカードを抜き取った。警官から丸見えとなったカードには高橋小夜という名前が記されている。
「そっちの君は?」
沙奈に関してはそれで納得したらしく、続いて警官は羊介に顔を向ける。
羊介は後ろポケットからこれまたダミーの長財布を抜き取ろうとして、動きを止めた。
「まず手帳見せろよ」
警官はその言葉に不愉快そうな顔をしながらも警察手帳を取り出して沙奈と羊介に順に見せた。
「これでいいかな?」
「もう一人もだ」
一歩引いて職務質問の様子を見ていた警官は、特に表情を変えることなく、同じように警察手帳を見せた。
それを確認した羊介は警官に向けて長財布を放る。横から手を伸ばして受け止めた沙奈が謝りながら改めて手渡した。
「君も学生証はなしか」
「兄は高校に行ってなくて……」
「あ、そう」
沙奈と同様、ポイントカードの名前欄を確認すると、警官は「まぁ問題なさそうだけど、平日の昼間から学生が歩き回ってたらやっぱり怪しいからね。これからは気をつけて」と言ってパトカーに戻っていった。
「もう。変なことしないでくださいよ。もし偽物の警官でも偽物同士で問題ないじゃないですか」
沙奈は走り去っていくパトカーを見ながらそう言った。温泉とほうとうのためになるべく穏便に事を済ませたい沙奈にとって、先程の羊介の要求な余計なものと感じた。
「後ろにいた警官、どっかで見た顔だと思ったら、俺の親戚だな」
その意外な言葉に沙奈は目を丸くする。
「そうなんですか?」
「あぁ。見覚えある気はしてたけど、名前見て思い出した。俺の糞親の葬式に来てた筈だ」
「へぇー……」と返事をしながらダミーの財布をリュックにしまい、再び歩き出す。
「名雲さんのお母さんは教育ママでしたよね。ならお父さんはどんな人だったんですか? 教育パパですか?」
「なんだよ、急に」
「いえ。前々から聞いてみたいと思ってたんですけど、チャンスがなくて。流れ的に今でしょ、と」
「朝から聞くような明るい話じゃねーぞ」
その言葉に沙奈は「ふむ」と少し考えるが、すぐに顔を上げた。
「これからテンション上がりまくることばっかりあるので、どうぞ。私、嫌いなものを先に食べるタイプの人間ですから」
「嫌なら話さねーぞ」
「言葉の綾ですよ」
さらっとした答えに顔をしかめてから、羊介は頭の中で軽く話をまとめて口を開く。
「俺の親父か。ま、お前の父親ほどトチ狂っちゃいなかったが、普通の虐待野郎だった。母親は人に勉強をさせるのが大好きなヒステリックババア。父親は出来の悪い息子に『色々な』お仕置きをするのが大好きな変態野郎だった。俺が噛み切ってからはただの暴力野郎になったけどな」
「……色々」
強調された部分を沙奈が繰り返すと、羊介は短く笑った。
「まぁ、きっと想像通りだと思うぜ。それからすぐにトラックに潰されてぽっくり逝っちまったわけだが、遺したのは借金くらい。そのうえ親の評判も最悪だから、俺の引き取り先なんかいなかった。でもまぁ世間体ってのがあったんだろうな。ちょうど中学に上がった頃だったし、金持ちの親戚から援助を受けて一人暮らしを始めた。まぁ、俺の家のことは色々噂になってたし、警察の現場検証でクスリやなんやらのヤバいもんも見つかってたからな。噂になって、中学では散々やられた。正義の名の下に――って具合にな。そうして殺人鬼の出来上がりってな」
羊介は笑みを浮かべたまま続ける。
「まぁ殺人鬼を作るのに親の死も虐待も虐めも関係ないけどな。結局、殺す奴は殺す。それでしか退屈を晴らせない奴にとって殺人は麻薬みてーなもんだからな。模倣犯……西の殺人鬼みたいな奴が出て来るとニュースや特番じゃあ『狂気が狂気を呼ぶ』なんて言うが、殺人鬼を生むのは狂気なんかじゃなくて退屈だぜ?」
珍しく饒舌な羊介に、ふんふんと相槌をうちながら沙奈は思った。
なら、名雲さんは殺人やヒトツメ退治に代わる麻薬を手に入れたのだろうか、と。
「混浴じゃなくて残念でしたね」
その言葉を完全に無視して男湯の暖簾をくぐった羊介を見送ってから、沙奈は隣の女湯に入る。平日の午前ということもあって人は少ないらしく、脱衣所の籠は殆ど空っぽだった。
着替えとタオルを棚に置いて服を脱いでいく。胸部や腹部、太股や足の付け根など普段は隠れている箇所が露わになる度、大小様々な傷痕が姿を見せる。
それらは全て見慣れたもので、沙奈も今更まじまじと見るようなことはない。
しかし、今日に限っては、凝視せずにはいられなかった。
沙奈は無表情のまま腹部、臍の辺りを指でつつく。固く、滑らかな感触が伝わってきた。
沙奈は治癒能力を持っているため、ウイルスに感染することはない。
そんなことを言っていた泰子の笑顔を思い出して、
「……やっぱり、嘘吐きですね」
沙奈は小さく呟いた。
「はぁ!?」
珍しく大声をあげた羊介に、沙奈だけでなく周りの客も驚いて顔を向けた。沙奈は周囲に軽く頭を下げると、羊介に非難の目を向ける。
「大きな声出さないでくださいよ。マナー的にも私達の立場的にも話の内容的にも」
まだ人が少ない時間でよかった、と呑気に考える沙奈の向かいでは、羊介がいつも以上に眉をひそめている。
店内にまばらにいる客の注目が外れたことを確認してから、沙奈は小声で口を開く。
「まだお臍の辺り一センチ程度なので大丈夫ですけど、そのうちヒトツメ化しちゃうと思います」
「……つーことは、治癒は駄目だったわけか」
沙奈は頷いてお冷を飲む。二人が黙ると、店員がやってきて空の皿を下げていった。
「で、どうすんだ?」
「どうもしません。研究所で名雲さんが盗み聞きした『特殊検体の限界』っていうのが私のことなら、EYESに戻ってもどうしようもないでしょうし」
沙奈は他人事のように言葉を続ける。
「このまま旅行をして、いよいよ危なくなったら名雲さんを完全治癒します。そしたら、名雲さんは私を殺してください」
羊介は眉をひそめた表情のまま答えず、伝票を持って立ち上がった。
「出るぞ」
沙奈は頷き、隣の椅子に置いていたリュックを手に取った。
会計を済ませて外に出た二人は、国道から外れた狭い二車線の通りを歩く。道路の両側に立っている家や店は古く、寂れた印象を受けた。
「お前を殺すのは構わねーけど、問題は一度目の完全治癒をした後だな」
前を見たまま羊介が言うと、沙奈も頷いて同意する。
「その状態でヒトツメと鉢合わせたりなんかしたら一巻の終わりですからね」
「確か再ヒトツメ化が始まるまでは平均一ヶ月、早くて三週間くらいだったな。その間は外に出ないで済むように長期滞在向けのホテルに引きこもる」
「色々と買い溜めしとかないといけないですね。あと、万が一にも気付かれないように変装も……」