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Dear Killer  作者: 野良丸
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人は裏切り




 再ヒトツメ化の治癒は不可能である。

 その事実が明らかになってから、一ヶ月が経った。この間に完全治癒を望んだ適応感染者は五名。戦うことを選んだ者のうち、一名が暴走で死亡した。しかし、その事実が分かっていてなお適応感染者として戦うことを選択する者もいて、数は十人前後を行ったり来たりしている。

 そんなことには全く興味がない羊介は、相も変わらず任務に行くか資料を読むかという生活をしている。

 その日も、羊介はいつもどおり昼前に起床し、EYES本部研究所へ来ていた。資料室のドアに張られている飲食禁止の文字など見えないらしく、廊下を歩く彼の手にはコンビニ袋がぶら下げられている。

 彼の耳には壁を隔てた室内の会話が聞こえており、どうやら適応感染者の暴走について話をしているようだった。前よりもボソボソと小声で話しているのか聞こえにくいが、次の言葉だけははっきりと聞こえた。

「このペースが続けば、次に限界を迎えるのは特殊検体だ。その前に何とかしないと……」

 特殊検体? と羊介は眉を潜める。それから部屋の前を通り過ぎるまで僅かに聞こえてきた会話から、それが誰を差す言葉なのかは推測出来ない。

 しかし、特殊といえば、二人しかいない。沙奈か、自分だ。そして、暴走の話から繋がるのは、どう考えても沙奈ではなく自分の方だった。

 適応感染者や沙奈ほど協力的ではないが、羊介も最近は簡単な検査なら受けることがある。そこで何かが分かったのだろうか。

 しばらく考えて、羊介は思う。

 そろそろ逃げる頃か。問題はアイツだよな……。



 羊介の言うアイツ、久留米沙奈は、午前中にあった検査を終えて室長室に来ていた。

 去年の夏から急増したヒトツメの出現によりどうしても学校を休みがちだった沙奈だが、成績が優秀なこともあり、無事、三年に進級した。しかし、相変わらずヒトツメ討伐に追われており登校出来る日は少ない。

「パッと見た感じ、身体の方は問題なさそうね。身体的にも精神的にも大変なことが多い職場なのに」

 自席ではなく三人掛けのソファに腰掛けている泰子は、簡単な検査結果が記された診断票のコピーをテーブルに置きながら言う。

「学校の方は大丈夫? 勉強とか付いていけてるかしら」

「はい、なんとか」

 テーブルを挟んだ向かいに座っている沙奈は、その問いに頷いて答えた。

「任務先でも勉強はしてますし、名雲さんも教えてくれますから」

「そうなの? あの名雲君が……」

「はい。最初は断られてましたけど、しつこく、会う度に同じことを訊いていたら折れてくれました」

「名雲君にそんなことが出来るのは沙奈さんだけね……」

 沙奈は緩んだ口元に、紅茶の入ったカップを運んだ。

 話をしているうちに残り少なくなっていた紅茶を飲み切った時、室長室のドアがノックされた。泰子が返事をすると扉が開き、白衣姿の男性が入ってきた。

「失礼します。室長、今、お時間よろしいでしょうか。先日出現したヒトツメについてご報告したいことが……」

 その言葉に、沙奈はゆっくりと立ち上がる。

「それじゃあ、私はそろそろおいとまします」

「ごめんなさいね。それと、いつも協力ありがとう」

 笑みを浮かべる泰子に一つ頭を下げて、沙奈は室長室から出た。早速報告を始めたらしい研究員の声を背中で聞きながら沙奈は歩き出す。

 空腹を感じ、この時間なら資料室に行けば羊介がいるかもしれないと考えた。だが、資料を読んでいるときの羊介のいつにも増す無愛想っぷりを思い出して、そのまま入り口に向かって歩く。

 普段なら先に迎えの者に連絡を入れるのだが、近頃は昼を過ぎると既に待っていることもよくあるため、今日は駐車場を確認してから電話をするつもりだった。

 駐車場に着いた沙奈は、全体を見渡して迎えの車がないことを確認すると、コートのポケットに手を入れながら、屋内に戻るため踵を返した。春にしては肌寒いらしい今日。一応厚着をしているが、外で待つようなことはしない方がいいだろう。

 しかし、沙奈の足は一歩踏み出しただけで止まった。そして、手を入れている右ポケットに目を向けて首を傾げる。普段は決まって右ポケットにスマートフォンを入れているのだが、その感触はない。左手で左ポケットを軽く、それから一応スカートのポケットも叩いてみるが、やはりスマートフォンはなかった。

 検査が終わって私服に着替えた際にはあったため、落としたのならそこからだ。しかし、廊下に落とせば流石に音で気付くと思う。となれば、室長室でソファに座っていた際、滑り落ちた可能性が高い。

 沙奈は来た道を戻っていく。一応、受付に落とし物の有無を尋ね、室長室への道中も注意しながら廊下を見ていたが、やはりスマートフォンは見つからなかった。

 室長室の扉の前に立つと、中からは依然として研究員の声が聞こえてきた。

「ところで室長、先程、松川智代と、名雲羊介の話をしていたようですが」

 ノックしようと上げた右手が、その言葉で止まる。

「一応確認しておきたいのですが、まさか『ヒトツメの殲滅が完了した場合、連続殺人の罪を問わない』というふざけた口約束を守るわけはありませんよね?」

「当たり前よ」と泰子は即答する。

「安心してちょうだい。ヒトツメがいなくなった世の中に、彼のような危険人物を放り出すつもりはないわ」

 泰子は、何一つとして間違ったことを言っていない。ヒトツメがいなくなり、ウイルスを完全に治癒してしまえば、沙奈にとっても彼は危険人物となり得る。

 しかし、沙奈にはその言葉を肯定し、聞かなかったことにして部屋に入ることは出来なかった。

「まぁもっとも、ヒトツメがいなくなる頃に彼が生きているかは怪しいけれど」

 そんな言葉に背を向けて、気付けば沙奈は駆けだしていた。

 向かう先など考えずとも身体が勝手に動く。

 沙奈は駆ける勢いままに資料室の扉を開いた。床に適当な本を敷いて座っていた羊介は、手にしていた資料の束から顔を上げ、しかめ面を沙奈に向けた。

「何さっきからウロチョロしてんだよ」

 その普段と変わらぬ様子に、沙奈は少し冷静になった。荒い呼吸を整えながら後ろ手で扉を閉めて、羊介に問い掛ける。

「今、この部屋の近くに人はいないですか?」

「隣に一人いるけど、寝てるな」

「適応感染者の人達は……」

「三階に一人」

 羊介は簡潔に答えてから口角を上げる。

「なんだ? 俺に、ってなら分かるが、俺以外に聞かれたら困る話か?」

 楽しむような、どこかからかうような口調を気にすることなく沙奈は頷く。

「泰子さんは、名雲さんとの約束を守るつもりはないそうです」

「約束?」

「EYESに協力すれば名雲さんの罪を免除するという約束です」

「あぁ」と羊介は思い出したように顔を上げ、呆れた表情で沙奈を見た。

「あんなの守るわけねーだろ。人間が守るのは自分の身だけだぜ?」

「じゃあ名雲さんはヒトツメがいなくなったら死刑になるって分かってて戦ってたんですか?」

「ヒトツメと戦いてぇから戦ってただけだ。殺されるつもりはさらさらねーよ」

 それに、と羊介は研究員達の会話を思い出す。あれが自分のことだとすれば、残された時間はおそらく少ない。それまでに、なんとか目の前の少女に完全治癒をさせて逃げる必要があった。しかし、一度の治癒でウイルスが完全に消滅しないことを考えると、それはあまりに困難だ。

 そんなことを考えていたためだろうか。

「なら、逃げちゃいますか?」

 その言葉に、羊介は驚きを顔に出さないよう眉をひそめて沙奈を見上げた。驚きの要因の一つとして、まるで誘うような口調だったこともあるだろう。

「お前が大人しく付いて来るってなら今からでも逃げるけどな」

 短く笑って返した羊介の前にしゃがむと、沙奈は無表情のまま頷いた。

「はい。一緒に逃げましょう」

 その言葉に、今度こそ羊介の表情から笑みが消えた。

 久留米沙奈が、松川智代がEYESからいなくなればどうなるか、彼女が分かっていない筈がない。羊介が沙奈を連れて無理やり逃げ出さなかった理由は、そこが大きかった。沙奈は適応感染者という人間擬きを見捨てることは出来ない。羊介はそう考えていたのだ。

 状況だけ見れば羊介にとっては願ったり叶ったりだ。しかし、十人ほどの適応感染者を見捨ててまで一緒に逃げようと提案する沙奈の心理がまるで理解出来なかった。

 いつか逃げ出す時のために、他の人間に比べて沙奈には友好的に接してきたつもりではある。顔に出ないだけで、それが予想以上に効いていた? 有り体に言ってしまえば、他を犠牲にするほど情が移っていたのかと沙奈の目を見るが、やはりその無表情からは何も感じ取れなかった。

「どうします?」と沙奈は夕飯に何を食べるか問うように軽い口調で首を傾げる。

 何故突然、このようなことを言い出したのか、訊いてみたい気持ちは、羊介にもあった。普段は無関心な彼だが、この沙奈の行動は本当に予想外だったのだ。しかし、いらないことを訊いて沙奈の考えが変わってしまうのは馬鹿らしい。

 羊介は資料を閉じてから立ち上がる。

「なら、逃げるか」

 その言葉に頷き、沙奈も腰を上げた。

 手にしていた資料を近くの棚に突っ込み、さっさと資料室を出て行こうと歩き始める羊介。その背中についていきながら、沙奈は思う。

 急にこんなことを言い出した理由を訊かれなくてよかった。そんなの、自分でもよく分かっていない。訊かれたって正確な答えは返せない。

 でも、私を動かしたのは、愛とか恋とか、そんなあやふやな感情じゃない。

 約束を守る殺人鬼と、約束を守らない嘘吐き。私の中では後者の方が許せないという、きっと、ただそれだけのことなんだろう。




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