梟は絶望
蛾型ヒトツメ討伐後、沙奈達三人は、暴走した適応感染者である清水――梟型ヒトツメの捜索に参加したが、結局見つからず、日が沈んだ頃に解散となった。と言っても宿は同じで、羊介は岡田と、沙奈は若木と津森と同室となっている。
梟ということは夜行性なのでは、と思うところだが、数ヶ月前、ヒトツメ化した清水は日中に行動していたことを誰もが知っていたため、そう口にする者はいなかった。
「呑気に空飛んでりゃあ叩き落としてやるってのに」
宿へ向かう車内で苛立たしげにそう呟いていた羊介は、シャワーを浴びて弁当を食べると、さっさとベッドに入って眠ってしまった。
隣のベッドに腰掛けている岡田は、羊介の背中をチラリと見てから、手元の資料に目を戻す。以前梟型ヒトツメを捕獲――というより戦闘不能状態にしたのは羊介だ。適応感染者がヒトツメ化すると以前よりも戦闘力が増すというのが研究者達の通説だが、それを踏まえても羊介なら苦労せず勝てる相手だろう。どちらかといえば、問題は相手を殺さないでくれるかだ。泰子を筆頭とした研究員達からは、暴走したヒトツメをなんとか人に戻すよう頼まれている。しかし、それを自分が羊介に言ったところで聞いてくれるとは思えないし、むしろ余計に殺す気を煽ってしまう気がした。唯一、彼が言うことを聞いてくれそうな沙奈に頼んでみたが、
『ごめんなさい、無理です』と断られてしまった。
泰子達の頼みを聞くなら、やはり若木や津森が梟型ヒトツメを発見する方が好ましい。だが、沙奈の話を聞いた後では、彼等を戦闘に駆り出すことに躊躇いを感じていた。ヒトツメの力を使えば暴走の可能性がある。沙奈の話を聞くまでもなく、誰もが分かっていたこと。今更過ぎる葛藤だと思いながらも、そのことを一人で悩み続けた沙奈の心に気付いた今、考えずにはいられなかった。
しかし、と岡田は視線を上げて、羊介の背中を見る。
彼はどうなのだろうか。一度ヒトツメ化していないというだけで、彼もヒトツメの力自体は使っている。それも、適応感染者すらまるで敵わないほど強大な力を。自然とその可能性を排除しているが、いつか限界を迎えるのではないか。
そして、もし彼が暴走すれば、それを止めることが可能な者はいるのだろうか。
パーカーフードを深くかぶって俯き気味に歩いていた中学生か高校生ほどの少年は、とあるホテルの前で足を止めた。宿泊目的ではない。自身の現状を考えると、このような場所に泊まることは自殺行為だ。こうして足を止めていることすら危うい。ただなんとなく、言うなれば勘でしかないが、そこを見ていれば誰かが現れるような気がした。
そして、その勘は的中する。
受付横奥のエレベーターから降りてきた少女を見て、少年は驚いたように、そしてどこか嬉しげに口を開いた。
「……松川智代?」
「ん?」というどこか不機嫌そうな声とともに、羊介は上体を起こした。隣のベッドには資料だけが置かれていて岡田の姿はない。大浴場にでも行ったのだろうが、羊介は気にする様子もなく、ベッドから降りて窓を開いた。
見下ろすと、ホテルの正面入り口が見える。そこでは沙奈が暗い色のパーカーを着た人物と話をしていた。しかし、友好的な雰囲気ではない。二人の距離は普通に会話をするには遠く、沙奈もどこか警戒している様子だった。
それもその筈だ。少年がパーカーフードを外すと、その顔が羊介の目にはハッキリと見えて、いつか悠生と車内で見た西の殺人鬼の似顔絵、そして近頃全国に指名手配された写真と重なった。
羊介は左手を窓枠に置き、外に飛び出る。空中で着地点を調整して二人の間に降りると、少年は「うわっ」と驚きの声を上げた。
「え? どこから?」と乱入者とホテルの上階を交互に見ていた少年だったが、羊介に鋭い視線を向けられると僅かに肩を震わせて怯んでから、
「あは」と愉しそうな笑みを浮かべた。
「もしかして同類さん?」
その問いを無視して、羊介は沙奈を振り返る。
「おい、こいつ――――」
「渡部健斗さん。西の殺人鬼さんだそうです。あ、この無愛想な人は名雲羊介さん。元、東の殺人鬼です」
「へ?」と素っ頓狂な声をあげた少年、健斗に背を向けたまま羊介は沙奈に問う。
「で、なんでお前がコイツと話をしてんだよ」
「……えっと、それがですね、私もまだ半信半疑なんですけど……」
沙奈は珍しいくらい言い淀みながらも、最終的にさらっとこう言った。
「私の親を殺したの、名雲さんじゃなかったみたいです。というか、名雲さんじゃなかったんですね」
小首を傾げる沙奈に顔をしかめてから羊介は振り返り、西の殺人鬼と初めて顔を合わせる。
西の殺人鬼は早くも目の前の少年を同類、東の殺人鬼だと認識したらしく、爽やかな笑みを浮かべた。
「はい。智代さんの両親、松川夫妻を殺したのは、僕ですよ」
東の殺人鬼さんは憧れの存在です、と西の殺人鬼、渡部健斗は目を輝かせて口にした。
場所はホテルから少し離れたところにある人気のない公園。健斗はブランコに腰掛けて、沙奈と羊介は周りの柵にもたれている。
憧れと言われても変わらない仏頂面を気にする素振りもなく、健斗は言葉を続けた。
「元々、僕が人殺しを始めたのも、たか……じゃなくて、名雲さんのおかげなんです」
羊介の一つ年下だという健斗は、沙奈の中の殺人鬼イメージを覆す、丁寧な口調で話す。内容が内容なので、好感はまるで持てないが。
「名雲さんが殺してくれた人の中に、大学生がいたと思うんです。男で、チャラい感じの。名前は手越亮」
「覚えてねー」
「そいつ、僕の幼なじみを虐め殺した一人だったんです。いつか仕返ししてやろうって考えてたんですけど、法的に訴えようとすると大人が止めるし、そうこうしている間に加害者の一人には逃げられるし。そんな時、加害者が引っ越し先で名雲さんに殺されたって聞いて、これしかないと思いました」
「へぇ」と羊介はどうでもよさそうな相槌をうつ。しかし、相槌をうつということはそれなりに興味があるのだと沙奈は思った。
「まずは他の加害者を殺して……もちろん自白させてからですよ? それから、名雲さんに会いたくて関東へ行ったんです。智代さんの両親を殺したのはその時です」
「……コイツの親ってアレだろ? 患者からも同僚からも信頼されるお医者様」
羊介の茶化すような言葉に、沙奈は顔を向ける。
「知ってたんですね」
「当たり前だろ。テレビだけならまだしもネットじゃ騒がれまくりだし、空港とか駅でお前が見つかった時はそっちの名前で囁かれてるしな。むしろなんでわざわざEYESの奴らにまで久留米沙奈呼びさせてんだよ」
「なんとなくです。強いて言うなら、最初に会った頃、名雲さんが勘違いしてたのが面白かったからです」
しれっと答えた沙奈に、羊介は思い切り顔をしかめる。確かに、知り合ったばかりの頃は沙奈の正体に気付いていなかったのだ。
「久留米沙奈って、名雲さんが殺した中学生の名前じゃないですか。気付かなかったんですか?」
健斗は可笑しそうに言う。
「狙って殺した奴ならまだしも、そうじゃない奴の名前なんていちいち覚えてねーよ。殺した覚えのない松川とかいう夫婦の名前は覚えてたけどな」
「なるほど」と健斗は笑みを浮かべてから、沙奈に目を移した。
「松川夫婦を殺したのは、別に理由無しじゃないよ。沙奈さんには言うまでもないだろうけど」
「お前は悪人しか殺さない正義の殺人鬼だもんな」
羊介の茶化す言葉に、健斗は満更でもなさそうに照れ笑いを浮かべる。その反応に、羊介の目が一瞬冷めたように沙奈には見えた。
「で、人望厚い医者が殺された原因ってのは?」
「虐待ですよ」と即答したのは、健斗ではなく沙奈だった。
「へぇ」と右の口角を上げる羊介だったが、健斗は否定するように首を横に振った。
「虐待というより拷問だよ。いや、沙奈さんには吐く罪も何もないんだから、ただの残虐行為かな。憧れの東の殺人鬼に会った今でも、松川善朗以上に狂った人は見たことがないと言えるよ」
松川善朗、春佳夫妻に娘が誕生したのは、十四年ほど前の事だった。
高校生から交際を続け、二十八歳を迎えた頃に結婚。二人の熱愛っぷりを十年以上も見せつけられていた友人知人はみな祝福した。それから一年後に子供を授かり、無事出産。智代と名付けられた娘は、医師である二人から見ても、普通の赤子であるように思えた。
妻の春佳は小児科の医師であり、偶然にも無痛無汗症の幼児を診たこともあった。そのため、自分の娘が同じような病を持っていると気付くまで時はかからなかった。
しかし、夫婦は絶望しなかった。智代の育児に専念するため、春佳は医師への復帰を諦め、善朗も多忙な中、出来うる限り娘と接し、病への理解を深めていった。
そんな二人にとって救いだったのが、智代がとても大人しい子供だったことだろう。それでも乳児期と幼児期の大半は何時の間にか骨折していたり、舌を噛んだり歯を抜いたりと怪我が耐えなかったが、二人の根気強い教えもあり、成長するごとに怪我は減って、小学生に上がる頃には普通に生活出来るまでになっていた。
同年代の子供の中では頭の良い方だった智代は、子供の頃から読書が好きだった。そのため休み時間などは図書室に入り浸り、外で遊べないから本を読んでいるんだと思われ同情されることもあったが、彼女は気にしなかった。
彼女がその本を見つけたのは、小学二年生の頃だった。先天性無痛無汗症患者が記した自伝。医学的な言葉もチラチラと出てくる本は小学生低学年には難しかったが、彼女は根気強く、分かる箇所だけでも読んでいった。
自分の病のことは知っていた。汗はかくが、痛みや熱は感じない病気。似たような病として、痛みにくわえて汗もかかない無痛無汗症という病気があることも知っていた。
なんとなく、その本を両親の前で読むことは憚られて、学校の休み時間に少しずつ読み進めていった。そして、彼女は子供心に、自分の病でどれほど周囲の人間が、両親が苦労していたか理解した。物心がつく頃には、何をしたら危ないかがなんとなく分かっていた。そこまでの両親の苦労が想像出来た。
そして智代は、次の休日に初めて家出をした。春佳の隙を突いて、旅行用のリュックに着替えなどを出来る限り詰め込んだ。苦労の裏にある両親の愛を感じるには、彼女は幼すぎた。
同日の夜、智代は、自宅から十五キロ離れた場所で警察に保護された。両親の言い付けを守って適度な休憩を取りつつ歩いていたため、怪我はもちろん、大した疲労もない。ただ、警官が家に連れて帰ろうとすると頑なに拒んだ。
公園の木にしがみついて離れようとしない少女を――それも無痛症の少女を無理やり引き剥がして連れていくわけにもいかず、結局、両親に来てもらい、智代はようやく大人しくなった。
帰りの車内で、智代は何を聞かれても答えなかった。当然叱られはしたが、自棄になって自傷にはしるようなこともなかった。それをしたら両親がとても悲しむことは分かっていた。
だから、智代は聞いた。
「どうして迎えに来てくれたの?」
苦しさとか悲しみとか、そういう原因がせっかくいなくなったのに。
怖い顔で、しかしどこか悲しげな顔で智代を叱っていた春佳は、その問いに涙を流した。
あぁ。また悲しませてしまったんだ、と母に抱き締められながら智代は気付いた。でも、それならどうすればいいのだろうか。近くにいても、離れていっても両親を悲しませてしまう。
両親は、普段はとても朗らかで仲が良いのだ。娘の目から見ても熱々でラブラブで、物語に出てくるようなおしどり夫婦だった。
二人が悲しい顔をするのは、決まって自分のせいだ。きっと、自分が考えているよりもずっと悲しい思いをしてきたのだと思うと、両親は二人でいる方が幸せに思えた。
智代は、母親に抱き締められても、その温もりを感じることは出来ない。だが、たった半日ほど離れただけの匂いが涙腺に触れて、智代の頬を涙がつたった。
「智代と似た病気の人が書いた本を読んだんだろう?」
運転席の父が優しい声でそう言った。どうして両親がそれを知っていたかは分からないが、担任の教師が連絡を入れたのかもしれない。
まるで悪事がバレたような気がして智代は返事が出来なかったが、善朗は気にする様子もなく言葉を続けた。
「その本を見て、智代がどういう風に考えたり感じたりしたのかは分からないけど、お父さんとお母さんは智代のことが大切だし、一緒にいたいと思ってる」
嬉しかった。その時は、ただそれだけだった。
要するに、雰囲気に酔っていたのだ、と、松川智代――久留米沙奈は思う。そして、無言のまま沙奈の話を待っている二人を見て、薄く笑う。
この話は、二人に聞かせる必要はないだろう。そして、この先の出来事も、まだ。
沙奈は再び記憶を過去へ遡らせる。
あの頃の松川家は、きっと雰囲気に酔っていたのだ。家族さえいればなんでも出来る、乗り越えられると思っていた。
いや、案外、それはそうだったのかもしれない。あの頃、両親からもらった愛まで否定する気はない。
全てが壊れたのは、母、春佳の死からだろう。しかし、きっと、それまでに亀裂はあったのだ。当時は気付くことが出来なかった、無数の小さな亀裂が。
最初に亀裂が入ったのは、智代が小学三年に上がった頃。母である春佳が過労と心労により倒れたことがきっかけだったと沙奈は思う。家出以来、春佳は今まで以上に智代に気を配るようになり、それが善朗の多忙と重なり、一人きりで家事と育児に追われる日々を送った結果だった。それでも、頼れる親戚もいない二人に休む暇はなかった。
病的なまでに痩せていく両親をただ見ることしか出来なかった智代が小学四年生になったある日、過労で倒れて以来定期的に通院していた春佳が、その帰り道で通り魔によって殺害された。これで壊れた。少なくとも、善朗は変わってしまった。
初めは、短気になって乱暴な口調になることが増えただけだった。春佳の葬式で泣き崩れていた善朗を見ていた智代は、どんなに理不尽な怒りを受けても、反抗することも、誰かに相談することもなかった。
少し経つと、口だけではなく手が出るようになった。痛みは感じないが、父親から暴力を振るわれているということが怖く、なによりも悲しく、智代は泣き叫んだ。初めの頃は、それで善朗も手を止めた。しかしいつしか、泣き叫べば泣き叫ぶほど、愉しそうに笑うようになった。
この間も、二人はそれぞれ学校と職場に通っていた。虐待の痕が見られても、何時の間にか、の一言で片付いた。善朗も、職場では親しみやすい人物であり続けた。最愛の妻を亡くしても笑顔を絶やさず気丈に働き続けている姿を見て、嫌悪感を抱く者はいなかった。
いつしか、智代は父親からの暴力にも慣れていた。恐怖は薄れ、いくら殴られ蹴り飛ばされても、文字通り何も感じなくなった。善朗は、そんな娘を見て退屈そうな表情を浮かべることが多くなった。
そんな日々を淡々と過ごしながらも智代は小学校を卒業した。あと一週間ほどで、中学校での生活が始まる。
四月の肌寒い日、父に殴られて気を失っていた智代が目を覚ますと、父の書斎に置かれた長机の上で手足を拘束されていた。服は脱がされて裸。室内には誰もいない。しかし、いくら力を込めても拘束が解けないことを確認すると、智代はすぐに抵抗を止めた。
この状態でまた暴力を振るわれるのか、それともとうとう実の父親に犯されてしまうのか。もしかしたら終わった後なのかもしれない。もうどうでもよかった。
しばらくすると、手術衣を身に纏った父親が部屋に入ってきた。その手にはメスが握られている。
それを目にした瞬間、智代の頭に死という文字が浮かび上がり、忘れていた恐怖の感情が蘇った。一歩一歩ゆっくりと近付いてくる父親は殺人者にしか見えず、口はマスクで隠れているが、笑みを浮かべていることは目を見れば嫌というほど分かった。
恐怖に顔をひきつらせる娘を見て父親は一層笑みを深くすると、智代の腹部にメスを当て、迷いなく引いた。
絶叫が響く。
痛みはない。ただ、様々な恐怖に支配され、智代は泣き叫び続けた。
そんな娘の反応を、父は嬉しそうに見ながら、慣れた手付きでメスを走らせる。間違って殺すことのないように細心の注意を払う。すべては、恐怖に染まった娘の顔を見たいがための行動だった。その表情を見ると、妻が死んで以来乾いている心が潤うような気がした。
どのくらいの間、それが続いたのかは分からない。いつの間にか気を失っていた智代が目を覚ますと、パジャマを着て自室のベッドに寝かされていた。時刻は、翌日の昼過ぎだった。
服を着せてベッドまで運んでくれたことに優しさを感じた瞬間、気を失う前のことを思い出し、吐き気を感じる間もなく、布団の上に嘔吐した。
ひとしきり吐いた後、ベッドから降りて、覚束無い足取りで姿鏡の前まで歩く。飛び散った吐瀉物が付着したパジャマを捲り上げて腹部を露わにすると、そこには見覚えのない傷痕がいくつかあった。
その場でパジャマを――下着まで脱ぎ捨てると、タンスから新しい下着と服を取り出して着る。クローゼットを開け、チェックのピーコートを手に取り羽織ると、危険を承知で階段を駆け下りた。一刻も早く、この家から逃げ出したかった。
使わずに貯めていた生活費が入った封筒と財布を鞄に入れて、鍵も掛けずに家を飛び出す。
二度目の家出は一度目のものほど計画的ではなかった。しかし、智代はあの頃よりも遥かに成長しており、なにより遠くに逃げることが出来るほどの金銭を持っていた。そして時期は春休み。学生が昼間からウロウロしていても怪しまれることはなかった。
だが、逆に考えれば、春休みが終わってしまえば智代はどうしても目立つ存在となった。珍しい病気を持っている中学生の失踪がちょっとしたニュースとなっていたこともあり、智代の家出は二週間で幕を閉じた。
一度目と同じように、智代を見つけたのは警官で、九州にまで逃げていたこともあり、父親が迎えに来るまで警察署で世話になっていた。家出の理由を訊かれて何故嘘を吐いたのか、自分でも分からなかった。
迎えに来た父は、娘の姿を見ると強く抱き締めて年甲斐もなく涙を流した。
すまない、と繰り返していた父が何について謝っているのかは分からなかったが、この人は私がいないと壊れてしまうんだ、と智代は思いながら大きな背中に手を回した。
家に戻ると、すぐに拘束され、身体を切り刻まれた。父親が壊れないために必要な行為だと理解しても恐怖は拭えず、そんな娘を父は愉しそうに見ていた。
その行為のせいでまともに動くことが出来ない日もあり、同級生より遅れて始まった中学生活に馴染むことはなかった。小学校からの友達も、新しい友達を作り、部活に励むようになっていた。
父親に切り刻まれる度に増える体中の傷の代わりに、自分の中から感情が消えていくような気がした。そしていつしか、死に対する恐怖感すら消えて、智代は何をされてもまともな反応をしない人形となり、そんな娘を、父親はつまらなそうに見るようになった。
そして、季節は冬を迎える。
久留米沙奈は顔を上げると、無表情のまま西の殺人鬼を見た。
「ここからは渡部さんに話してもらった方がいいんじゃないですか?」
ですよね? と同意を求めるように隣を見上げると、羊介は健斗に目を向けた。
二人の視線を受けた健斗は「それもそうだね」と軽く背筋を伸ばして姿勢を正す。
「僕が智代さんの家の近くに行ったのは偶然でしかないけど、さっきも言った通り、理由なく松川夫婦を殺したわけじゃないよ。そもそも、最初に目を付けたのは夫婦じゃなくてお義母さんの方、松川由美、旧名長谷川由美だったから」
「まぁ、私は会ったこともありませんでしたし、父が再婚したことも知りませんでしたけど」
沙奈の言葉に健斗は「マジで?」と驚いた表情をしてから、
「それで」と話を再開する。
「長谷川由美の前夫は資産家の爺ちゃんでね。遺産目当ての結婚って噂されてたらしい。もちろん、こんなのはよくある話だし、そんな人を僕もわざわざ殺す気もない。前夫もなんとなくは分かってただろうからWINWINの関係だしね。ただ、爺ちゃんの死んだ時に裏で色々言われてたし、少し調べてみたらいくつか怪しいところがあってねー。それで長谷川由美の周りを調べていくうちに、智代さんのことに気付いた。実は何度か家に忍び込んだりしたけど、下着泥棒とかはしてないからね」
「下着って限定するということは、お金は盗んだんですね」
健斗はその追求を笑って誤魔化す。
「まぁ、それで二人を殺したんだよ。二人とも最後まで罪を認めなかったけど。特に松川善朗の方は証拠を突きつけてもしらばっくれるし」
「他の事件みたいに証拠を置いていかなかったのはどうしてですか?」
証拠が入っているらしいスマートフォンを顔の横で軽く降る健斗に沙奈が問う。
「長谷川由美の方は単純になかったから。松川善朗の方は……、まぁなんていうか、智代さんに任せた。バラすも自由バラさずも自由ってね」
「父親に切り刻まれた可哀想な女の子として生きるか、父親を殺された可哀想な女の子として生きるか、ってことですか」
健斗は満足げな笑みを浮かべる。
「その通り。それで君は父親を殺された可哀想な女の子を選んだ。お葬式でわざわざ泣き真似までしてね」
健斗は沙奈から羊介に目を移す。
「まぁ、その女の子がまさか東の殺人鬼さんと一緒に行動してるとは思わなかったけど。二人が写ってる写真はネットで見たことがあるし、EYESにいることは知ってたけどさ」
「色々ありまして」
「みたいだね。ま、そこら辺のことは僕には関係ないことだし聞かないでおくよ」
西の殺人鬼は、そう言って立ち上がる。
「僕を捕まえないでいいの?」
「私には無理ですし」
「ほっといても近いうちに捕まるだろ」
二人の答えに笑みを浮かべると、西の殺人鬼は踵を返して公園から出て行った。
「私達もホテルに戻りましょうか。連絡したとはいえ、岡田さん達も心配してるでしょうし」
その言葉に答えず羊介は歩き出したが、沙奈が隣に並ぶと不意に口を開く。
「一応、親の仇だろ、あれ」
「そうですね」と答えた沙奈の表情には、仇を取り逃した後悔は感じられない。
「まぁ、ああまでトチ狂ったことされれば、もう親とは思えねーか」
沙奈は足元を向いたまま、数秒後に答える。
「そうでもありませんよ。名雲さんが、嫌いだ嫌いだと言いながらご両親のことを親と呼ぶのと同じで、厄介なことに、私の中で未だに父は父です」
「身体中切り刻まれてもかよ。そりゃ立派な愛情様だな」
「どんな嫌な親でも親らしいところが一つでもあれば、子供にとっては親のままですよ。愛情なんかじゃなくて、一種の執着ですね」
「キチガイに親らしさなんてねーだろ」
「ありましたよ」と沙奈は即答する。
「確かに父は私を殴りましたし切り刻みましたけど、私を犯そうとはしませんでしたから」
俯きながら歩く沙奈を横目に羊介は口を開く。
「そりゃ、親らしさとは言えねーよ」
小さく笑って「そうかもしれません」と答える沙奈を無表情で見たまま羊介は言う。
「いくらムカついてもお前を殺す気にならねー理由が今更分かった」
沙奈が興味深そうに顔を上げて、二人の視線が交差する。
「お前、俺が殺すまでもなく、ぶっ壊れてんだ」
再び、小さく笑いながら「そうかもしれません」と答えた沙奈に、羊介は不機嫌そうに顔を逸らし、まったく話の繋がっていない問いを口にする。
「久留米沙奈ってお前に似てたのか?」
当然、彼の言う久留米沙奈は本物の久留米沙奈だろう。偽物の久留米沙奈は、その問いに首を横に振った。
「いいえ、全然。明るくて今時って感じの人ですよ。写真のイメージですけどね。反抗期で親御さんとは上手くいってなかったみたいです」
「知り合ったのは、俺の被害者の会ってやつか」
「はい。その時に、お母さん……好香さんに娘さんと間違われて、たまに会ってやって欲しいと隆一さんに頼まれたんです」
「そういや、あのババアどっか頭イッちまってる感じだったな。テンパってるだけかと思ってたけど」
「娘を殺した人が目の前に現れたわけですし、余計にでしょうね」
じとっとした目を向けられるが、羊介は気にする様子もなく歩を進め、しばらくしてから再び口を開いた。
「つまりアレか。お前、俺に助けられたって勘違いしてたんだろ。サイコ野郎になっちまった父親から」
沙奈は前を向いたまま、数秒後に答えた。
「否定はしません。そういう気持ちも、あったでしょうから」
羊介は短く鼻で笑って沙奈を見下ろす。
「そりゃ残念だったな」
「そうですね」
沙奈は即答してから、でも、と羊介を見上げた。
「何故でしょう。あなたが父を殺したんじゃないと知って、少し安心してる私がいます」
羊介の表情が嘲笑からしかめ面に変わり、けっ、と前に向き直った。
「大体、それなら父親が死んでなんで泣いてんだよ。久留米のババアだってほぼ赤の他人だろ?」
沙奈は不思議そうな表情をする。
「渡部さんが言ったみたいに泣き真似かもしれませんよ」
「そんな器用なこと出来ねーだろ、お前」
しかめ面のまま即答した羊介に、沙奈は虚を突かれたように一瞬目を丸くしてから、薄く笑みを浮かべた。
「さぁ。どうでしょうね。名雲さんと違って、私は――」
『お父さんとお母さんは智代のことが大切だし、一緒にいたいと思ってる』
「嘘吐きですから」
二人の前に、ホテルの灯りといくつかの人影が見えてきた。
翌日の昼前、朝から梟型ヒトツメの探索を続けていた羊介、沙奈、岡田のもとに、別行動をしていた若木達から、山中でヒトツメと遭遇、戦闘を開始したという連絡が入った。
現場近くまで急行し、山道の脇に車を停めた時、沙奈のスマートフォンが鳴り響き、着信を知らせた。沙奈は電話に出ると、一言二言話しただけでスマートフォンをポケットに戻す。
「捕獲に成功したそうです」
その言葉通り、沙奈達が現場に着くと、手の甲辺りまで黒硬質化した若木と津森が、翼を広げると四メートルは超える黒い梟を地面に押さえつけていた。ヒトツメは大分弱っているようではあるが、抵抗する体力はまだ残っているらしく、若木と津森の表情は苦しげだった。
先程連絡をしてきた若い男性戦闘員は近くの木陰に隠れていて、沙奈達を見ると駆け寄ってきた。
「お二人とも攻撃をかなり受けています。どうかいち早く治癒を――――」
その言葉を遮ったのは、羊介の動きだった。戦闘員が手にしていたライフルを乱暴に奪うと、沙奈に「まだくんなよ」とだけ言ってヒトツメに向かって歩き出す。
適応感染者の二人は、近付いてきたのが沙奈ではなく羊介だと気付くと息を飲んだ。昔の自分と同じ立場にある感染者を極力救おうとする適応感染者と違い、彼に容赦はない。このままでは、このヒトツメが、共に戦った仲間である清水が殺されてしまいかねない。
早く来て、と若木は一縷の願いを込めて沙奈に視線を送るが、彼女の目は羊介に向いていて気付く様子はなかった。
「……なにを……する気……!?」
「大人しくさせる」
ライフルを肩に担いでいる羊介が近付くほどにヒトツメの抵抗は強くなる。それを何とか抑えながら口にした問いに、羊介は若木を一瞥して答え、ヒトツメの顔の前にしゃがんだ。
「まぁ、大人しくならなけりゃ殺す」
そう言ってライフルを眼前に突き付けた。ヒトツメの動きが僅かに止まるが、すぐにまた、今まで以上の力で暴れ出すことが感じ取れて、若木は抑える力を振り絞る。
だが、ヒトツメが暴れ出すより先に、銃声が響いた。一発ではない。顔を逸らそうとするヒトツメの頭を片手で押さえつけて、更に三発。目玉に張っている膜で銃弾は止まっていたが、寸分狂わず同じ場所に撃ち込まれ、結果的に白目部分を貫通していた。押さえつけられているせいで声もあげられず、ヒトツメの口から唸るような声が漏れる。
羊介は、ライフルを突き付けたままヒトツメの頭から手を離した。
ヒトツメが顔をあげないことと、若木と津森への抵抗がなくなったことを確認すると、羊介は顔を横に向ける。その視線を受けて、沙奈はヒトツメに寄っていった。
抵抗出来ない相手を痛めつける姿はどこかで見たようなものだったが、あの時の恐怖を思い出すことはなかった。その行為は自分の為のものなのだから。
ヒトツメの横にしゃがみ、手を重ねながら思い出す。父親の行為が、もしかしたら自分のためだったのではないかと思ったことがあったことを。
羊介が起こした立てこもり事件の後、自分にヒトツメ化ウイルスを治癒する力があると知った時だった。不思議な力を持つ自分はウイルスに感染することはないと言うことを泰子から聞き、自分をそういう風に改造したのは父親なのではないか。そんな想像をした。荒唐無稽。有り得ない。それなら、ウイルスに抗体を持っているのは感染源だから、とEYES職員の間で囁かれている噂の方がいくらか信憑性がある。
「おい、久留米。なにボーっとしてんだよ」
そうやって別のことを考えながら治癒をしていた沙奈は、羊介の言葉でようやくその異変に気がついた。
治癒がまるで進んでいない。というより、白い光が出ていないところを見ると、始まってすらいなかった。
「すいません」
治癒を忘れるほどにぼんやりしていただろうかと沙奈は疑問に思いながら謝り、今度はしっかりと意識して治癒を始める。
しかし、それでも白い光が出ることはなく、ヒトツメもヒトツメのままだった。
何度やっても結果は変わらず、若木達もその異常に気付いたらしく怪訝な表情になった。
「……二度目はないってことか」
羊介の言葉に、全員が顔を向ける。
「そういうことだろ?」と羊介が目を向けると、沙奈はゆっくりと腰を上げてから頷いた。
若木と津森、適応感染者二人の表情に絶望が差す。それを横目に、沙奈は羊介に近付き、右肩に両手を重ねた。小さな白い光が二人を包む。
「私の力が使えなくなったわけでもないみたいなので、決定的ですね」
すぐに手を離した沙奈は、誰に目を向けるでもなく言った。
若木と津森の絶望が濃くなる中、羊介がライフルを後ろに投げ捨てた。
「なら仕方ねーな」
その言葉に目を見開いた二人に羊介は視線を向ける。
「そのまま押さえてろよ。逃がしてもいいけど、結局は殺すぜ? このまま一撃で死ぬか、痛めつけられて死ぬかの二択だ」
二人は、悲しみや怒りなど、様々な感情が見て取れる辛そうな顔をしながらも立ち上がろうとはしなかった。
それを了承と受け取った羊介は指先まで黒硬質化を進行させる。
指先を揃えた突きで、ヒトツメの目玉はいとも容易く潰された。