言葉の世界
「それにしても、やっぱ喋れねぇってのは不便なんだろうな。お前、ちゃんと練習はしてんのか?」
依然として美しい山路を下りながら、何でもないことのように鈴風はこう問うてきた。
私達が、一歩を踏み出すたびに、足元の真紅の落ち葉が、さらさらと音を立てる。
その素晴らしい風景の中での、この無神経な問いである。
どうやら、鈴風にとっては、私の声の問題などはどうでも良いことのようだ。
…まぁ、私もどうでも良いと思っているのだけれど。
一応、申し訳程度に口を動かす練習はしているけれど、そもそも、声を発したことが一度もないのに、一体どう練習をすれば良いと言うのだ。
どうすれば出せるものなのか、それすら分かっていない者に、練習しとけ、とは、いささか残酷な仕打ちなのではないか。
無論、そこまで彼に甘えるわけにはいかないということは、分かっているのだが。
とりあえず、私は一応の努力はしているのだということを伝えるために、軽く頷いておいた。
そうすれば、彼も、「そうか」などと勝手に納得するだろう。
早くこの話題を流してしまいたかったのだ。
しかし、それは私の読みが甘かった。
「そりゃおかしいな。ちょっと見せてみろ」
そう言って、彼は私の頬に手を当てて、私の口、及び喉を凝視し始めた。
これまで数える程しか、人と接したことのない私だ。
この感覚は、未だに慣れない。
嫌なわけではないが、彼に触れられると、何だかどぎまぎしてしまう。
しかし、悲しいかな、私は、自分の心情を未だ表現すること能ずであるので、傍から見れば、全く動じていないようにしか見えない。
無表情な男女が互いに見つめあっている。
その上、双方共に、この場においては何とも奇妙な服装だ。
冷静に考えれば、この光景は滑稽そのものであったろう。
しかし、当の本人、つまり私には、その滑稽さを笑えるような余裕はなかった。
何だか、落ち着かない。
しかし、心地良い。
想像していたよりずっと温かな彼の手は、秋風に吹かれて冷んやりとしている私の頬を、じんわりと温めた。
その熱が、頬を通して体中を温めてくれるかのような、そんな錯覚さえ感じてしまった程だ。
私は、その長いような短いような時間の中で、この時が永遠に続けばどんなに良いだろう、などと、そのような馬鹿げたことを考えてしまっていた。
勿論、そんなことを実践してしまえば、私達はこの先の道中、ずっと蟹のように歩かなければならないのだが。
…それは勘弁だ。
「また余計なこと考えてんだろ」
ふと気づくと、彼の手はもう既に私の頬を離れてしまっていた。
再び私の頬にひやりと秋風が吹きかかる。
ほんの一瞬の出来事であったのに、彼に手を当ててもらっていただけで、私はこの冷たさを忘れてしまっていたのだ。
私はぶるりと身震いした。
まるで、頬に穴が空いてしまって、そこから冷たい風が吹き込んでくるかのような感覚だ。
しかし、彼が手を話した後でさえ、じんわりとしたその温もりは私の頬に残っていた。
こっそりと、彼の方へ視線を投げかけてみる。
少しだけ、彼と目が合うことを期待していたのだが、彼は視線を落として、何やら考え込んでいるようだ。
あんなに真剣に、一体、何を考えているのだろう。
ほとんど無意識に、私は自らの手で彼の触れた頬を包み込んでいた。
こうしておけば、少しでも長く、彼の温もりが消えないでいてくれるような気がしたのだ。
まぁ、そんなものは、刹那的な気の迷い、錯覚でしかないのだけれど。
とにかく、この寒さは、まだ外界に出て日が浅い私には、少しこたえたということだ。
今晩も野宿となると、そろそろ体力がもちそうにない。
私としては、なるべく早く町中に出たいのだが。
そこまで考え、鈴風に先を急ぐように伝えようと、顔を上げようとしたところで、ぽんっ、と、頭の上に重みを感じた。
自然と、目が見開かれる。
彼の意図が、わからなかった。
「…んな目すんなよ。大丈夫だ。お前の喉に異常はない。きっかけさえあれば、すぐ声は出るようになる。さっきは、無神経なこと言っちまって悪かった。焦んなくていいからな」
その瞬間、私の目から、大粒の涙が溢れ出していた。
これは、何なのか。
何故、私の目から涙が零れるのか。
わからない。
すると、彼は、私の頭にのせていた手で、私の頭を引き寄せた。
未だ止まらない涙が、鈴風の胸元を濡らしていく。
あぁ、ただでさえ寒いのに、鈴風が風邪を引いてしまう。
離れようと思った。だが、離れられなかった。
それは、鈴風の手が、余りに強く、優しく添えられていたから。
私の不安が、すっと霧のように消えていく。
…そうか、私は、不安だったのか。
そして、今感じているこの感覚は、安心。
私は、彼の胸を、そっと押した。
自然と、体が離れる。
もう、大丈夫。
そう伝えたくて、私は、精一杯笑った。
ぎこちない、笑みだっただろう。
不自然な、笑みだったに違いない。
現に、彼の目は、大きく見開かれていた。
しかし、彼もまた、安心したかのように、微笑み返してくれた。
この、胸の感覚は何だろう。
柔らかな陽だまりのような、この感覚は。
「…手でも繋いでくか…?随分、無理させてたみたいだな…すまなかった」
そう言う彼に、手を握られた瞬間、その感覚は、より大きなものとなり、そしてまた一つ、新たな感覚を覚えた。
何だか、鼓動がおかしい。だが、決して不快ではなかった。
私は、どうしてしまったのだろう。
彼の一挙手一投足に、いちいち反応してしまう自分に戸惑う。
そんな私に、鈴風は全く気づかない。
「ほら、見えるか?あれ」
彼の指差す先を見ると、眼下には、色とりどりの屋根が所狭しと並んでいた。
まだ随分遠くにあるので、一つ一つの家が豆粒程の大きさにしか見えない。
しかし、こんな町並みは、書物の中ですら見たことがない。
何と美しい。
「俺達の目指してた町だ。今日中には着くはずだから、今日はあそこで寝むぞ」
鈴風のその言葉に、また嬉しさが増す。
今日は、あの町で休めるのか。
私の喜びを感じたのか、鈴風も心なしか楽しそうだ。
「んじゃ、もうひと頑張り、だな」
鈴風に手を引かれながら、私はまた、夢のような山路を、下り始めた。




