木葉の世界
宿から外に出ると、既に日は高く昇っていた。
そして当然のことながら、朝起きた瞬間から感じていた目の痛みは更に増すことになった。
隣を悠々と歩いている鈴風にこのことを伝えようかとも考えたが、この程度のことで手を煩わせるのも偲びない。
それに、仮に彼に伝えたとしても、一体それで彼に何が出来るというのだろうか。
太陽を意のままに沈めてしまうことが出来るのなら話は別だが。
彼のおかしな風貌を見る限りでは、あながちそれは不可能ではなさそうだ、とも一瞬考えたが、私の常識に照らし合わせて、それはないな、とその考えは打ち消すことにした。
考えのお粗末さは、この目の疲労に起因しているのだと思いたい。
非生産的なことを考えていても仕方がないので、私は、目のことは彼には伝えないことにした。
しかし、「おい」と、不機嫌そうにこちらを見ながら、何故か彼は立ち止まってしまった。
一人歩き続けるわけにもいかないので、私まで足を止めなければならない。
全く、なんと迷惑な。
「これでもかぶっとけ」
そう言って彼は一枚の布切れを渡してきた。
薄く透けていて、なんだかサラサラしている。
言われた通りに頭にかぶってみると、若干だが日差しが遮られ、先程よりは随分マシになった。
…迷惑な、などと考えてしまった非礼は心の内で詫びよう。
「それから、んなあからさまに迷惑そうな顔すんな。流石に、傷つく」
そのような雑談を交わしているうちに、(と言っても、私は言葉を話すことが未だかなわないため、鈴風の一人語りに他ならないのだが)山の中腹まで登ってきていた。
既に日は西に傾きかけていて、鮮やかに紅葉した木々がその日に照らされ、余計に紅く、ぼうっと輝いて見えた。
これは、何と表現したら良いのだろう。
生まれて始めて見る鮮やかな紅。
たとえ、いくら書で読んだことがあろうとも、今までの自分の想像は、実物には遥かに及ばないものであったのだと、そのとき私は、痛切に感じた。
「…綺麗だろ?」
深く自分の意識の中に潜り過ぎていた。
鈴風の、まるで不意をつくかのような突然の言葉が、私を彼から距離を取る方向へ、思わず飛び跳ねさせてしまった。
そして、その先には地面がなかった。
「…月夜見!!」
何処かに、つかまらないと。
崖から落ちそうになっているというのに、思考は、やはり冷静沈着。
まるで、世界中の時が私に合わせているかのように、時の流れが、とてもゆったりと感じられた。
落ちながら、手頃な枝を見つけ、何とかそれを掴んだ、と同時に、世界が、また慌ただしく動き始めた。
軋む枝に、痛む手。
崖からぶら下がりながら、あぁ、これは現実なんだな、と、私はそんなことを考えていた。
手が、痛い。
思えば、これまで痛い思いをしたことなど、あっただろうか。
そもそも、私は生きたいのだろうか。
とっさに、つかまることのできる枝を探していた。
今まで、死んだように生きてきた。
死んだって、構わないのだと思い続けてきた。
これまでの自分なら、毒薬を飲めと言われれば、何も考えずにそのまま飲み干してしまっていただろう。
しかし、今死を思うと、すぐさま顔を隠した怪しげな男の姿が脳裏をちらつく。
「…月夜見ぃ!!!」
あぁ、彼の声が聞こえる。
「今助ける!!」
きっと私は、彼ともう少しだけ、生きていたい。この世界を、もっと見てみたいのだ。
「…掴まれ!!」
そのとき、自分が何を考えていたのかなんて、私は全く覚えていない。
しかし、私は非力なこの手を伸ばし、しっかりと、彼の手を掴んだ。
――――……
「…ったく…無表情で落ちてくもんだから、こっちまで危機的状況だって把握するまでに、随分時間がかかっちまったじゃねーか……そもそも、あそこまで驚かれるとは、心外すぎるぞ…」
現在、私達は川辺で焚き木を囲み、焼き魚を頬張っている。
辺りはすっかり闇に覆われ、頭上には砂糖をばら撒いたような星が、きらきらと輝いていた。
本来なら、麓の里までその日の内についてしまう程度の道程なのだが、
「月夜見、お前、足が動かねぇのか!?」
と、鈴風の(過剰な)心配によって、これ以上無理をさせないように、と、そこからほど近い川辺で野宿をすることになったのだ。
文句の多い人だ。
私はと言えば、そもそもの原因は自分にあるにも関わらず、鈴風に冷ややかな視線を送っている。
「お前、現金過ぎるぞ。魚やったときと、明らかに目の色が違うだろうが」
…お互い、そろそろ遠慮がなくなってきた頃なのだろうか。
先程から、私は一言も言葉を発してはいないのだが、そんなことも忘れてしまう程に、会話がきちんと成り立っている。
鈴風は、何者なのだろう。読心術でも心得ているのだろうか。私が話せなくても、何の問題もないみたいだ。
「そりゃ、話せた方が楽しいだろうけどな。焦りは禁物だ」
私はびくりと肩を揺らし、心持ち鈴風から距離を取った。
「さて、そろそろ寝るか。月夜見、お前、こっちに来い」
どうしたのだろう。
私は不思議に思いながらも、その言葉に従い、鈴風の隣に腰掛けた。
「何が起こるかわからねぇから、他意はねぇが、このまま寝ろ」
鈴風の言うことは的を射ていた。
正体不明の私の存在。
それも、逃げ出してきた身だ。
一度逃げ出したからと言えども、危険なことに変わりはない。
成る程。確かにその通りだ。
私は、何の疑いも抵抗もなしに、彼の肩にもたれて、そして、一分と経たぬうちに、そのまま眠ってしまった。
「…それは…流石に無防備過ぎるだろう」
これには流石の鈴風も驚き、どうしたものかと思案していた。
下手に動かして、起こしてしまうのだけは避けたい。
しかし、このままでは、自分が眠れそうもない。
「こいつ…人の気も知らねぇで…」
その顔は、あまりにも、安らかで。
「…ついこないだまで、人を悪の親玉みてぇな目で見てたくせによ」
鈴風の僅かに覗く瞳は、いつの間にか、穏やかに、微笑んでいた。




