彼女の世界
翌朝、目が覚めると、猛烈な目の痛みに襲われた。
昨日のうちに外界の太陽光には大分慣れたつもりだったのだが、その認識は、どうやら甘かったようだ。
痛む目を擦りながら隣りを見てみると、昨日は確かにそこにいた男の姿はなかった。
取り敢えず、私は布団から抜け出してその布団を片した。
それにしても、日暮れと共に眠って朝日と共に起きることがこれ程心地よいものだとは思わなかった、などと思いに耽りながら。
そういえば、昨日湯浴みに行ったときに自分の衣を持ち帰るのを忘れていた。
何処へ置いて来たのだろう。
そのとき、ふと目の端に私のものではない衣が目に入った。
どう見ても女物だが、これを着ろということだろうか?
どうやら他に選択肢はなさそうだ。
黒地に淡い水色で何やら輪が沢山描いてあるという一風変わった趣向だが、まぁ、文句は言えまい。
変、というわけでもないし、むしろ美しい、と言うべきだろう。
私は、昨日例の親切な女性に着付けて貰った夜間着を脱ぎ捨てて、その衣に袖を通した。
袖を通した時点で「帯やら何やらはどうしよう…」ということに気付いたが、心配には及ばず、衣の下にきちんと一式揃えてあった。
――あの男が揃えたのだろうか…?
そんなことを考えながら、着付けを終えると、私はふらふらと部屋を後にした。
私が廊下に出ると、昨夜の女性が目の前に立っていた。
驚きのあまり思わず一歩下がってしまったが、よくよく考えるとかなり失礼なことをしてしまったような気がする。
謝罪の気持ちと朝の挨拶を兼ねて会釈をしてみることにした。
すると、目の前の女性は愛想良くにっこりと微笑み、「お食事の準備が整っておりますよ」と教えてくれた。
私が了解の意を込めて頷くと、「では、御案内いたしますね」と、また少し微笑み、ゆっくりと歩き出した。
彼女は、所謂善良な人間なのかもしれない。
確かに、私には人の心も、人の気持ちもわからない。
それ故、傷つく、という概念もよくわからない。
しかし、そんな私でも、不思議と彼女を傷つけるようなことはしたくない、と思ってしまった。
ただ単に、殆ど初めて他人からの気遣いを受けて、浮かれているだけなのかもしれないが。
食堂に着くまで、彼女は様々なことを語ってくれた。
近々嫁に行くことだとか、彼女の姉のこと、またその子のこと、それから、彼女の両親のこと。
何故初対面の私にそのような話をするのか、皆目見当がつかなかったが、素直に楽しかった。
聞いているだけで胸の奥がなんだが温かい。
また、こちらに話を振ってこないのも助かった。
事情は大方察しているのだろう。
しかし、家族か。
私にはどうやら家族はいない。
ならば、私は、一体何処から生まれてきたのだろう。
そんなことを考えていたとき、「ほら、あの空をご覧になってください!今日も良いお天気です」と、彼女が窓の外の真っ青な空を指差した。
そうだ。
きっと私は、あの空の上の世界ででも生まれたのだろう。
だから、こんなにも、あの空が愛おしく思えるんだ。
そんな馬鹿なことを考える自分が可笑しかったのか、はたまた、悲しかったのか。
私は思わず、笑ってしまった。
本人ですら、殆ど気付けないような僅かな笑みだった。
しかし、共に歩いていた彼女は、ただ、一緒に笑ってくれた。
私は、戸惑うことしか出来なかった。
――――……
食堂に着くと、今朝方姿の見えなかった鈴風が、湯気の上っている御茶を飲んでいた。
鈴風の前の皿が綺麗にからになっている事から察するに、どうやら食後の御茶を楽しんでいるようだ。
私の起きるのが遅かったのが悪いのだし、文句を言うつもりはない。
しかし、起こすなり何なりして、朝餉を共にしていれば、かように時間を無駄にする事もなかったのに。
そんな私の心情など露知らず、鈴風は本当に元気そうに、「よっ、月夜見、遅かったな!」と言ってきた。
顔の包帯の不気味さに全くそぐわない声音で、余計に不気味だ。
…流石に失礼か。
私は軽く会釈をして鈴風の向かいの席に座った。
すぐに朝餉が運ばれてきたので、私は湯気の立っている温かな料理に箸をのばす。
そして、固まった。
なんだこれは。
これまでの食事を、不味いなどと思ったことはない。
しかし、一度この料理を口にしてしまった今、もうあの世界の食べ物は受け付けられないだろう。
このなんとも言えない気持ちを、眼前の鈴風に伝えたいのだが、声が出ないのではどうしようもない。
私は諦めて、一人感動に浸ることにした。
しかし。
「感動しただろ?」
驚いて鈴風の顔を見ると、心なしか彼の目元が微笑んでいる気がする。
私が素直に頷くと、「だろ。まぁ、今までの食事には少量とはいえ毒が入ってたはずだからな、仕方ないだろ」と、言った。
聞き間違えだろう。
食事に毒だと?
何のためにそのような。
私の混乱は顔に全て出ていたのだろう。
彼は、事も無げに言った。
「んなもん、貴女をあそこから出さないために決まってるだろう。そうやって適度に弱らせておこうとしてたんだよ」
あぁ、成る程。
とは、とても思えなかった。
しかし、鈴風が、「そんなことよりも、だ」と話題を切り替えたので、私も何だかそれが大したことではないように思えてしまって、考えるのを、止めた。
「その着物、似合ってるじゃねーか」
やはり、これは鈴風が用意してくれたものだったようだ。
私は、深々と礼をした。
すると、「やめろ、頭を下げるな」と思いのほか冷たく言われてしまった。
何か、気に障ることをしてしまったのだろうか。
不安げな私に、彼は、「あ、すまねぇ」と謝り、「ただ、貴女は俺には頭を下げてはならない、わかったか?」と続けた。
何故?とも尋ねられないし、特に逆らう理由もないので頷いておくことにした。
すると、彼は、「それから、その着物は俺の用意したものじゃないぞ。その帯やらは確かに俺が選んできたんだが」と、先ほどよりは幾分柔らかな声音で説明してくれた。
しかし、そのことでかえって疑問点が増えてしまった。
それならば、この着物は、一体誰が下さったのだろう?まぁ、それこそ、それ程大した問題でもないだろう。
そう思って、私は食べる事に集中する事にした。
私が食べ終えると、鈴風が今後の予定について説明してくれた。
「これから俺たちは、主の元を、各地を転々と巡りながら目指すわけだ。それは昨夜言った通りだが、今回のように宿をとれることなんてこれから先は殆どないと考えた方が良い。女子にとってはなかなか厳しい旅になると思うが、俺が必ず何とかする。まぁ…今言っておくべきことはこのくらいなんだが…異存はないな?」
異存などあるはずがない。
私には何もないのだから。
私が頷くと、「それから、話す練習もしておけ、困るだろ」と、加えて言われた。
まぁ、確かにその通りだ。
話せて損はない。
むしろ話せない方が後々困ることも出てくるだろう。
私はもう二度と、あの世界には帰れないのだろうから。
「はい」と口の動きだけ、見よう見まねでやってみた。
殆ど初めての試みだったので、上手く出来るはずもない。
しかし彼は、「その調子だ」と、本当に優しい声色で、そう言ってくれた。
彼の本心はわからない。
彼の出生も、家族も、家も、年齢も、顔すら、私にはわからない。
――鈴風。
わかっているのは、女子のような、その名だけ。
しかし、何故だか私には、彼を警戒することなど出来そうにない。
…私に、他人を警戒するだけの心がないからだろうか?
――――……
それからすぐに、私達は宿を出た。
どうやら少々急ぐ旅らしい。
去り際に、例の彼女とその父親が、見送りに出てくれた。
「頑張って下さいね」
彼女は、私の耳元でそう囁いた。私は何を頑張れば良いのだろう?
それから、彼女は、私に大きめの包みを手渡した。
何だかよくわからないが、悪いと思い、戸惑っていると、彼女は私にそれを無理矢理押し付け、にっこりと笑った。
それから、何故か私は彼女に抱きしめられた。
おろおろと戸惑う私とは対照的に、彼女は泣きながら笑っていた。
私は、彼女に惜しまれているのだろうか?
彼女は、私と別れるのが、辛いのだろうか?
わからない。
私には、わからない。
ただ、初めて他人の心情を知りたい、と思った。
彼女達に背を向けるとき、何故か胸が締め付けられるような心地がした。
私は…彼女と別れたくない?
名も知らない彼女と…?
やはりそれも、私にはわからないことだった。




