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月夜の世界

 宿に着くと、その男は私を部屋へと連れ込み、一言も会話を交わすことなく何処かへ行ってしまった。

 湯浴みだろうか。


 今なら逃げ出すことが出来るかもしれないとも考えたが、今逃げ出した所で行く当ても、生きてゆく手段も持ち合わせていないので、断念した。


 それ故、私は今現在、部屋に一人で佇んでいる。


 あの男に抱えられていたときに私が思った通り、あのとき遠くに見えたぼんやりとした光が、今晩の宿となる家屋だった。


 宿に着いたときはこれで寒さが凌げると心底ほっとしたものだったが、それもそう長くは続かなかった。

 その男が、宿屋の旦那に、「部屋を一部屋頼む」などと馬鹿げたことを言い出した為だ。


 私とて決して無知というわけではない。

 それがあまり好ましい状況ではないことくらいはわかっていた。

 しかし、いくら取り消させようと思えど、声が出ないのだ。

 結局、私達は同室で一夜を共にすることとなってしまった。


 このとき程、どうして私はこれまで発声練習をしてこなかったのだろう、と後悔した日はなかった。


 まぁ、そうは言えども、やはり滅多なことなどそうそうないだろうし、正直な話、どちらでも良かったのだけれど。


 そんなことを言うと、まるで私が世のお嬢さん方と比べて、非常に貞操観念の低い女のように思えるかもしれないが、私は彼女達とは生きる世界が全く違ったのだから、価値観の違いはどうしようもないだろう。


 外の世界のことは、これから覚えていけば良い。

 目先の問題としてはやはり、あの男を、どうするか、だ。

 本人は、敵ではない、だとか言っていたけれど、そのような言葉を鵜呑みにする程私は愚かではない。

 ただ、悲しいかな、非力な私には相手が例え敵であったにせよ味方であったにせよ、選択肢は一つしか残されていないのだ。


 大人しく従う、それだけだ。

 

 そこまで考え、気分がこの上もなく憂鬱になったところで、私の真後ろに位置する襖が、すーっと開いた。


 確認するまでもない、あの男だろう、と振り返りもしない私だったが、そんな私の前に現れたのは予想に反して若い女性であった。


 私をここに連れてきた人物は確かに男であったはずなので、きっと彼女はこの宿の人間なのだろう、と大雑把な当たりをつける。


 正直な話、私はまだ人間の区別が、その人物が男であるのか女であるのか程度にしかつかず、個々を見分けることが出来ないので、彼女の顔を覚えることにさしたる意味などないのだ。


 そこで私は、ただ、無言のままで彼女に怪訝そうな瞳を向けてみた。

 因みにお察しの通り、無言は故意にしたわけではない。


 すると彼女は、「お連れ様から、湯浴みにお連れし、寝支度をさせるようにと言付かりましたので、お迎えに参りました」と、見事な笑顔をたたえて言った。


 流石、接客の玄人だ、などと関心しているうちに、手を取られ部屋の外へと連れ出されていた。


 決して強引に引かれた、というわけではないのだが、本当に何時の間にかという感じだ。


 気がつくと私は湯船の中にいた。


 全身隈なく擦り落とされ、まるで生まれ変わったかのような錯覚に陥る程だった。


 髪も、かなりしっかり洗っている様子だったが、不思議なことに痛んだ気配は全くなかった。


 この女性は、一体何者なのだろう…と、そんな私の気配を察したのか彼女は、「女性のお客様専属のお世話係をさせて頂いております」と言った。


 なんだそれは…と思わなくもなかったが、助かっていることは事実なので、とりあえず感謝をしておくことにした。


 それから、見たこともない様な簡素な衣を着せられ、また手を引かれて、私は漸く部屋に帰してもらえた。


 その際彼女は、「御用の際はまたいつでもなんなりとお申し付け下さいませ」と言い残して行くのを忘れなかった。

 やはり流石だ。

 関心するばかり、というやつだ。


 さて、部屋の中の様子はと言えば、部屋には既に布団が敷いてあった。


 そして、その上には、あの男が悠然と座していた。

 

 男の服装は昼間と比べて、大して変わったところは見られなかった。

 ただ、今はあの長い布が部屋の隅に掛けられているというだけだ。

 あれは外出用なのだろう。

 雨風が凌そうではあるし。

 防寒にもなる。


 まぁ、男がその下に着ていたものといえば、薄い着流し一枚であったので防寒にそこまで気を配っているとは考えにくいが。


 そして、何より気になっていた顔についてだが、やはり見ることは出来なかった。

 顔には未だ白い布がぐるぐると巻かれていた。

 宿では外すのではないかと密かに期待していただけに、残念だ。


 そんなことを考えながら、少し離れた位置からじっと男を観察していた私に、その男は、「まぁ、そう警戒するなよ、取り敢えず座れ」と、自分の目の前の布団をぽんぽんと叩いた。

 布団に座れと言われても。

 流石に無用心過ぎるのではないか、と一瞬躊躇ったが、ここは大人しく従っておくことにした。


 そこで、その男のちょうど目の前に当たる位置に腰を降ろすと、男はにっと不敵に笑い、「じゃあ、まずは自己紹介からだな」などと言い出した。


 相手も知らずに誘拐するなんてことはあり得ないので、きっと男自身の素性を語ってくれるのだろう、と予想する。

 しかし、予想に反して、男は、「まずは俺から…」と言った。

 俺から?まるで、次に私の番が回ってくるかのような言い回しだった。

 違和感を感じたので、私の表情は一瞬曇ったはずなのだが、男は構うことなく続けた。


「俺は鈴風(すずかぜ)という者だ」


 女子の様な名だな。

 そんな私の不躾な心中の呟きを読み取ったのかどうなのかはわからないが、男は、「可笑しな名だろ?」と自嘲気味に笑った。


「自分でも気に入っているとは言い難いが、まぁ、それでも俺の名だ。文句は言えねぇさ」


と、今度は一切の曇りなく笑った。

 この時点で私の抱いた彼に対する印象は「不思議な人」だ。

 印象…と言えども、彼には印象という印象が抱けなかった。

 それは、私の人間認識力が不足しているせいだとも思うが、それだけだとはとても思えなかった。

 何と言うか、彼には、自分が無いのだ。

 個性…というよりは、自我というものが欠如している様に思える。

 彼が笑っても笑っている様には見えないし、きっと彼が怒っても、本当に怒っている様には見えないだろう。


 まぁ、これまで私の見てきた人間の数の少なさを思えば、そんな印象も、殆ど当てには出来ないのだが。


 男…改め鈴風は続けた。


「俺は、とある方より、貴女をあの牢から救うよう命じられたんだ」


 言葉遣いは割と乱暴だと思っていただけに、私のことを「貴女」と呼んだのが気になった。

 だが、それ以上に、私の世界だった場所を「牢」と言われたことに驚いた。

 あの場所は、牢だったのか。

 今更ながら、あの部屋に窓がなく、扉が内側からは開かなかった理由がわかり、素直に納得した。

 理解するのにあまり抵抗はなかった。


 鈴風は、更に続けた。


「俺はそのお方に仕える者ってところかな」


 そして、そこで言葉を絶った。

 どうやら、これ以上自分のことを話すつもりはないらしい。

 まぁ、初対面なのだし、このくらいが妥当というものだろう。

 すると、鈴風は、「じゃあ、今度は貴女の番だ」と、言った。

 やはりきたか、とは思ったが、依然として違和感は感じたままだ。

 相手の素性くらい調べてから救出してほしい。


 まぁ、鈴風も名乗ってくれたことではあるし、悪い人間ではなさそうだし、何より一応恩人なのだから、名ぐらいは名乗っておいても良いだろう。と、そこまで考えたところで気付いた。

 声が出ないのだ。

 これは、相手に伝えておかないとまずいだろう、と思えど、どうしようもない。

 この部屋には紙も筆も備え付けられてはいないので、筆談という手段も使えない。

 どうしたものか。

 私のただならぬ気配を感じ取ったのか、鈴風はあろうことか更に距離を詰め、私の顔を覗き込んできた。


「どうした?」


 聞かれても声が出ない。

 私は見様見真似で、口をぱくぱくと動かしてみた。

 勿論声は出なかったが、それで伝わったらしく、鈴風は、「ちょっと待っとけ」と言い置いて部屋を出て行った。

 そして、すぐに紙と筆を持ち、戻ってきた。

 どうあっても自己紹介はさせたいらしい。

 仕方が無いので、私はそれらを受け取り、私について、知っている限りのことを全て書き込んだ。


 名は恐らく、月夜見。昔そう聞いたような気がします。いつのことだったかは覚えていません。齢は確か十六。言葉は話したことがありませんが、文字の読み書きなどは出来ます。出生はわかりません。あそこに入る前の記憶は殆どありません。


 悲しいことに、いくら頭を捻ってもそれ以上のことは書けそうになかったので、最後に、「助けて下さってありがとうございました」と、書き添えておいた。


 それを読み終えた鈴風は、「月夜見か…男みたいな名だな」と、笑いかけてきた。

 確かに、月夜見は神話では男の神様だが、何もそんなことを言わなくても良いのに。

 自分だって女子のような名なのだから。


「言葉は…まぁ、これから少しづつ覚えていけばいいだろ。出生については、まぁ…じきわかるさ」


 なんだか、とてもいい加減に片付けられてしまったような気がしなくもないが、仕方ないだろう。

 彼にとっては他人事だ。

 取り敢えず、頷いておくしかない。

 私が頷くと鈴風は、「まぁ、わかってるとは思うが、俺はこれから貴女を俺の主の元へ連れて行く。異存はあるか?」と、尋ねてきた。


 あるはずが無い。

 今、私の生きていく手段は彼だけなのだから。

 私は首を振った。

 鈴風はそれを見ると満足気に頷いた。


「その方はここからはかなり離れた所にいらっしゃるんだが、俺がいるからには大丈夫だ、安心しとけ。それじゃあ、まぁ…」


 彼は片手をずいっと差し出し、「よろしくな」そう言って、私の片手をぎゅっと強く握ったのだった。



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