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憂世の世界

 男に担がれた状態ではあるが、私は恐らく久方ぶりに外の空気を吸った。

 秋の夕暮れ特有の空気に、先程止まったはずの涙腺が、また緩みそうになる。

 懐かしいような、どこか切ない、寂しい香りがする。

 辺りには尾花が鬱蒼と茂っており、それがまた何とも言えず物悲しい。

 賑やかな虫の音は、何の救いにもなかなかった。

 情けない。

 もし、上手く笑うことができたなら、私は今、自嘲気味に笑っただろう。

 鈴風がいない。

 それが、こんなにこたえるとは。

 何も、感じていないはずだった。

 何も、見ていないはずだった。

 誰が何をしようと、私は何も感じない。

 私には、感情がないのだから。

 それは、紛れもない事実だと、そう、確信していたはずなのに。

 どうしてこんなに、胸がざわつくのだろう。

 ざっざっと、腹部に感じる規則的な揺れでさえ、どこか疎ましく感じて、私は地面へ落としていた視線を上げて、辺りへと巡らした。


 数瞬前までは、しぶとくねばっていた夕日も、もう限界だと言わんばかりに、とっぷりと沈んでしまっている。

 これは、私の目にしてみれば非常に有難いことであった。

 勿論、太陽を忌々しく思うようなことは決してない。

 むしろ、あの美しい、暖かな光に、一種の憧れのようなものを抱いているのだ。

 しかし、それとこれとは話が別だ。


 あの箱庭を出ること早数日。

 人間の適応能力とは恐ろしいもので、私は初日程目に痛みを感じることはなくなってきていた。

 しかし、そうは言えども「初日程」だ。

 やはりまだ、日中は目の奥はじんわりと痛むし、その上視界が霞んで、ものが見辛い。


 その点、同じ光でも、月の光は私に優しい。

 感じ方に個人差はあるのだろうが、私にしてみれば、日の光は憧れの君、月の光は旧知の友といったところだろうか。

 憧れの君どころか、旧知の友すら持たない私の例えなのだけれど。

 何はともあれ、今はその旧知の友たる月光の支配下にある、闇の世界だ。

 つまりは、私だけの世界。


 長年、薄暗い闇の中で生活をしてきた私は、どうやら非常に夜目がきくようなのだ。

 それは、この世界に出て来て初めて気がついたことだった。

 そんな特技は何の役にも立たないだろうと高を括っていたし、実際、鈴風は、私に夜道を歩かせなかったので、特に便利だと感じたこともなかった。

 しかし、それは、鈴風が私を守ってくれていたからだ。

 今、誰に頼ることもできないこの状況では、頼れるのは自分だけ。

 この目も、今は、生きるための、大切な手段だ。

 私は、その自慢の双眸を、更に凝らして周囲の把握に努めた。

 一見すると、周囲はただただ尾花の茂る、穏やかな風景だが、そんなはずはない。

 この男には、仲間がいたはずだ。


 この様子だと、私に危害を加える可能性は極めて低いが、警戒するなという方が土台無理な話であろう。

 すると、研ぎ澄まされた私の視界の片隅に、一瞬、ぼんやりとした黒い影が見えた。

 その周囲に更に的を絞り、全感覚を集中する。

 そうして、その影が、複数人の集まりであることを把握した。

 正確には数え切れないが、恐らく二十人足らずだろう。

 距離にして三丈程先だ。

 奴らがこの男の仲間なら、何故あれ程小屋から離れた位置で待機しているのだろう。

 ちらりと横目で男の顔色を盗み見たが、男は飄々と前方を見ている。奴らに気づいていないのか。

 仮にこいつの仲間でないのなら、奴らは一体何者なのだろう。

 視線を戻し、更に目を細めて様子を窺う。

 すると、その影の一片が、ゆらゆらとこちらに近づいてきた。

 男は、やはり気づいていない。構わず前方へと進んで行く。

 影は、確実に、右手から迫ってきていた。

 迷っている暇などない。

 この男があの連中に気づかなければ、私達の命が脅かされる恐れがあるのだから。


 私は、持てる力全てを以って、男の着物を引っ張った。


「お、おい…!」


 自分でも、驚いた。

 小石を拾い上げることすら、小枝を手折ることすら、困難だろうと思っていたのだ。

 これが、火事場の何とやらというものか。

 男は咄嗟のことに驚きながらも、急いではだけかけた合わせを、抑えた。

 同時に私の手も、払われる。


「お前!気でも触れたか!?」


 感情の機微に疎い、こんな私にも分かった。

 彼の、怒気が。

 どうやら、彼は何やら勘違いをしてしまったらしい。

 確かに咄嗟のことではあったし、私も思慮というものが欠けていたとは思うが、反省するのは後でも良い。

 今は、そんなことはしていられない。

 私はきっ、と彼を見返した。


「気づけ」


 そう、念を込めて。


 数瞬、彼と私は互いに見つめあった。

 私は、彼に伝えるために。

 彼は、何かを探るように。


 そして、彼は、私をその場に落とした。

 それこそあまりに突拍子もないことで、私の理解も追いつかない。

 無意識のうちに、ぱちぱちと瞬きをしてしまった。


 彼はそんな私を嘲るように見下ろすと、そのまま覆いかぶさってきた。

 肘を私の顔の両側につき、私の方を見つめている。

 逆光で、彼の表情は読み取れない。

 こんなに綺麗な月夜なのに。

 仰向けになったことで、どことなく寒々しい月の輪が、否が応でも目に入るようになってしまった。

 そんな不自由極まりない体勢で、私は彼の行動の意図を考える。

 尾花の生い茂る闇の中だ。その中に寝転ぶ男女は、誰の目にも触れることはない。


 そうか、あの連中に、ようやく気付いたのか。


 確かに、この体勢なら、隠れ通すことは出来るかもしれない。

 もし、相手が、私達の居場所を、把握できていないのなら。


 そう、これではまずいのだ。


 相手は既に私達を捕捉して向かってきていた。

 つまり、私達に残された道は、戦うか、逃げるか、その二択だけなのだ。


 こうしている間にも、奴らは迫ってきている。

 私は、男の胸元を押し返した。

 早く立ち上がって、走り出さなければ。

 そして私は、自分の感覚を疑った。

 夜風で冷え切ったはずの唇に、熱を感じる。


 どういうことだ。


 それは、あまりに一瞬のことだった。

 じんわりとした熱が、再び夜風によって冷えていく。


 先程の驚きとは比較にならなかった。

 少し顔を傾けた男の顔が、月光に照らされる。


「今更何だよ、自分から誘っといて」


 そこには、見慣れた無表情があった。

 あぁ、彼は気付いていなかったのか。

 彼が私を押し倒したのは、つまりはそういう理由から。

 それなら、私は、この状況で、一体何が出来るというのだ。

 どうしようも、ないではないか。

 この口が動けば、こんなに歯痒い思いを、悔しい思いを、せずに済んだのだろうか。

 再び、私の顔に影が落ちる。

 もう、諦めてしまおうか。

 そもそも、私は何に執着しているというのだ。

 何も持たないはずではなかったのか。

 この命を、惜しむ必要が、どこにある。


 再び唇が触れそうになった瞬間、浮かんだのは。


――…月夜見ぃ!!!


 顔も知らない、あの男。


 …ふざけるな。

 私を守るのではなかったのか。

 何故、私を、独りにした。


 その瞬間、私は男に平手を放っていた。

 眼前には、信じられないといった風情で固まる男の顔。

 私はもう一発、今度は拳で、男の胸元を殴った。

 殴った、いうよりは、叩いた、と言った方がより適切かもしれない。

 私は自分の非力を呪った。

 頬を涙が流れる。

 この男には泣かされてばかりだ。

 この場合、全てをこの男の責任にするわけにはいかないのだが。

 私の思慮のいたらなさ、私の声が出ないこと。

 私は、なんて無力なのだろう。

 悔しかった。

 何もできない自分が。

 他人に頼らなければ生きることすらままならない自分が。

 こんな状況でも、まだ、他人を頼ろうとしてしまう、弱い自分が。


 そんな思いが、溢れて、零れた。

 零れる涙は、月の光を吸って、輝く。

 そして、そのまま頬を滑り、流れ落ちていく。そのはずだった。

 私の頬に手を添えた男の目が見開かれる。

 彼の手が涙に濡れることはなかった。


「これは…?」


 その手には、大小様々な石の欠片が握られていたのだ。

 何と表現したら良いのか分からない、複雑な、しかし清らかな輝きを放っている。

 日光を浴びた、しゃぼん玉のような輝き。

 けれど、どこか冷たい、幻想的な、不思議な色。

 私の目から零れた雫は、そうして見る間に硬化し、男の手へと落ちていく。

 驚きで、私の涙は止まってしまった。

 これまでの人生を、全て知識に費やしてきた私ですら、涙が固まるなんて、そんな話は見たことも聞いたこともない。

 呆然とする私。

 男も、戸惑いを隠し切れないようだ。

 手中の石と、私の顔を交互に見つめている。


 男が取りこぼした欠片たちが、髪にばらまかれてしまったようだ。

 視界の端でちらちらと光っている。


「お前は…」


 男がようやく落ち着いてきた瞬間、眼前の尾花が踏み倒された。

 あぁ、そうだった。

 連中の存在を忘れてしまっていた。万事休す。もう、足掻きようもない。

 私は静かに目を閉じた。

 煮るなり焼くなりは勘弁だが、まぁ、仕方のないことなのだろう。


「お頭、そいつは大事な商品なのでは?何押し倒してるんですか」

「あ、あぁ、悪い、つい」


 その男は、こちらを見下ろしながら、困ったように頬を掻いている。


「まぁ、いいですけど。気が済んだら来てください。出発の用意が整いましたんで」

「あぁ、分かった」


 それだけ言うと、男はすぐに行ってしまった。仲間たちに合流したのだろう。

 途端に、どっと肩の力が抜けるのを感じた。

 つまりは、単なる早とちりだったのか。何も知らない無知な自分を自覚はしていたけれど、我ながら、ここまで間抜けだったとは。

 無意識に、ふーっと息が出てしまった。


 そこで、ぼんやりとしていた男の意識が、私に向けられる。

 その目は、やはりまだ戸惑っているようだ。しかし、敵意や悪意や害意や、ましてや殺意なんていうものは、一切感じられらない、純粋な戸惑い。


「お前、何者だ?」


 尋ねられたところで、私にだって分からない。

 ただ、男の目を見返した。

 また暫く、そうして見つめ合う。

 目と目での会話は、甚だ困難ではあるけれど。

 それでも何かを伝えられたのだろうか。

 男の表情から、戸惑いの色が薄らいでいき、とうとう、ふっと笑った。


「まぁ、いいか」


 そして、私は頭を撫でられた。


「俺は、シュン…お前は?」


 ツクヨミ。

 唇を、精一杯、動かした。

 声は、やはり出ないけれど。


「…ツクヨミか」


 それでも、きちんと伝わった。

 男、もといシュンは私を丁寧に起こすと、今度は横抱きに抱えた。

 そして、懐の巾着に、先程の石を流し入れる。


「これが何なのかはわからねぇけど、大事なものかもしれねぇから…預かっとくな」


 私にも、やはりその石の価値は分からない。

 黙って頷いておいた。

 するとシュンはまたふっと笑うと、そのまま立ち上がった。


「…行くか」


 そうして私はまた揺られる。

 先程より、幾分心地の良い揺れだった。


 

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