籠鳥の世界
物心ついた頃には、私は既にこの箱庭の中にいた。
特に不満に思ったことも、不平を言いたいと思ったこともない。
生まれてこの方、ずっとここで生活をし、外の世界のことなんて考えたこともなかったのだから、それは当然と言えば当然なのかもしれない。
人間というものに会ったことがないとまでは言わない。稀に食事や着物や書物等をこの箱庭に運び込んでくれる。
そもそも、自分自身も一応人間であるのだから、全く人間を知らないということはない。
ただ、その人間と会話を交わしたことは、一度もない。
これが、普通なのだと思っていた。
だから、いくら書物を読むことで文字を覚え、和歌や漢詩を覚えても、声を出すことは出来なかった。
知識として、自分の口から言葉を発することは出来るのだとわかっていても声が出ない。
まぁ、そこまで真剣に努力したわけではないのだけれど。
そもそもこれまで話し相手がいたことがないのだから、声を出す機会もなかった。
喉が退化してしまったのかもしれない。
それならば、声を出そうなんて徒労以外の何物でもないのだろう。
そもそも、声なんて必要ない。
それどころか、この目も、耳も、鼻も、全て私には必要ないのだ。
広い世界を感じる為にはなくてはならないそれらのものも、ここで死んでいるように生きていく為には全くもって無駄なもの。
感じるべきものなんて、存在していないのだから。
心だって、必要ない。
思考するだけ、無駄なことだから。
それならば何故今かように思い悩んでいるのかと問われれば…正直、私にも、わからない。
人生に経験を重ねて来なかった私には。
一体、今、私の身に、何が起こっているのか、なんて。
――――……
初めは、ただただ眩しかった。
突然、これまで聞いたことのないような轟音が聞こえ、そして、世界が崩れていくのを感じたのだ。
怖かった。
これまで自分の全てだと思っていた世界が崩れてしまったのだから。
より正確に言えば、私の世界を取り囲んでいた、ただの壁が崩れただけだったのだけれど。
ただ、それでも、私にとっては、世界の全てだったのだ。
一体、何が。
真っ暗だった部屋に突如燦々と降り込んできた光で、全く前が見えない。
それどころか、目を開けることすら出来ない。
瞳が、焼けるように熱かった。
成る程、これが、太陽というものなのか、なんてまるで見当違いのことを考えてしまう。
そうでもしていないと、自我を保てそうになかったのだ。
人間というのは、想定外の出来事や、自分自身では対応しえないことに打ち当たったとき、その状況に於いては至極どうでもよいことに思いを馳せ、自我を保とうとするのだと、何かで読んだ気がするが、それならば、私は一応人間だったのかもしれない。
などと、更に思考が脇道へと逸れていく。
そもそも、太陽をどうでもよいものと考えている時点で、人間としては失格な気もするが。
ともあれ、今私が思考しなければならないのはそのようなことではなくて、一体「何」が「何の為」に私の世界を破壊したのかということだ。
そしてその思考が終わったらすぐに、「私はこれからどうすればよいのか」という課題について考え初めなければならない。
これ程忙しい日は初めてだ。
とりあえず、瞳の焼けるような痛みは若干だが治まってきた。
何よりこのような未知数の状況で視覚を閉ざしているのは危険だ、と判断し、恐る恐る瞳を開いた。
最初は、世界の全てが真っ白で、何も見えなかった。
しかし次第に、うっすらとした影が目の前に、浮かび上がってきた。
どうやら一つ目の思考は、省略しても問題は無さそうだ。
何が、と言うのはわかった。
正解は「人間」だ。
壁を壊すなどという離れ業を繰り出してはいるものの、影の形は完全に人のものだった。
しかし、何の為に?
逆光になっていて、相手の顔もわからない。
表情も読めない。
次第に面倒になってきたので、私は思考を止め、ぼんやりとそのままその場に座り込みながら、その者を見つめていることにした。
良く言えば、慎重、悪く言えば試合放棄。
相手の出方を待ち、長期戦に持ち込もうと考えたのだ。
しかし、その思惑は、あっさりと覆されてしまう。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
柔らかな感触に包まれ、そして、「…悪いが、説明は後にさせてくれ」と、思いの外優しげな、労るような声音で囁かれたのだ。
人に触れられるのも、覚えている限りでは、初めての経験。
人に声をかけられるのも、初めて。
どうしたら良いのかわからなかった。
どうすることも、出来なかった。
ただ、相手の為されるがままやや子のように抱えられ、そうして、光の差し込んでくる壁の割れ目へと運ばれる。
外の世界のことなど、考えたこともなかった。
永遠にここで生きるのだと思っていた。
不満も、不平もなく、自分の運命に逆らおうなどと考えたことすらなかった。
ただ、気がつくと、私は生まれて初めて見る太陽の光というものに、そっと手を伸ばしていた。
暖かかった。
その者は、そのまま、外の世界へと踏み出した。
私は、このまま、この光に溶けてしまうのではないか、などと、そのような馬鹿げたことを考えていたのだった。




