うつしよ ジョハリの窓
ユメって何?
1
大学を中退して一年半の間にあった事。
仕送りを止められた。
大学の友達が減った。
大学以外の友達が増えた。
探偵事務所に拾われた。
探偵はトレンチコートなんか着ていない、調査対象の事は被調査人と呼ぶ、探偵を雇うのは特別な人間ではない、と知った。
増えた友達から女を紹介された。
社会人として給料をもらったら、「できません」という言葉は通用しないと思い知らされた。
「仕方ねえよ」が口癖になった。
紹介された女と一年もたなかった。
世話になっている先輩から人捜しを頼まれた。
そして~~。
2
土曜の夜、午前零時。
「あんた、ユキと別れたんだって?」
俺の顔を見るなり、加奈子さんは開口一番にそう言った。
大学の先輩、加奈子さんが女手一つで切り盛りするカフェバー『ザイル』に、他に客の姿は無かった。いつもなら週末は朝まで賑わう店だが、大きな居酒屋と違い、十二月になると後輩の大学生たちは試験の追い込みに入り、仕事を持った常連客らは会社の忘年会を優先させる為、空いている事が多かった。
「なんすか、いきなり。久々に来たのに」
L字型カウンターの端の、いつもの場所に腰を降ろし、灰皿を引き寄せながら苦笑して俺は応えた。
「何じゃないよ、聞いてるのはこっち」
コルク製のコースターが置かれ、斜に構えた加奈子さんが切れ長の目で俺をじっと見下ろした。普通、バーのカウンターはバーテンダーが客を気持ち見上げて接客できるように高さを考えて設計されているものだが、もともとこの店は知り合い同士の集会所として使っていた前オーナーから加奈子さんがタダ同然で受け継いだ店で、それから改装は一切していなかったから、そんな接客業における基本的な設計は無視されていた。
「ビールでいいよね?」
腕組みをほどき、加奈子さんは踵を返して背を向けたまま、視線を外して黙っている俺に聞いた。
俺は相変わらず質問には応えず、くわえ煙草の煙りを吐き出しながら、丸い陶製の灰皿を両手で包み込んだ。熱を持ってるはずのない無機物の灰皿が、ほんのりと暖かく感じた。と同時に、自分の手が氷の様に冷えきっている事にも気付いた。
『手の冷たいヒトは、ココロが暖かいんだって』
以前、そう俺に言った女の言葉を不意に思い出した。
『だから、優しいヒトだと、あたしは思うよ』
「なに、相当まいってる感じじゃん」
栓を抜いたハイネケンの瓶がコースターの上に置かれた。
「この前、て言っても一ヶ月は前だけど、リュウの奴がまた山に籠るからって挨拶しに来た時に聞いたんだけどさ」
洗い物を拭く加奈子さんを視界の端に置きながら、俺は煙草を吹かしつつリュウが山に籠ってもうそんなに時間が経ったのか、とぼんやり思った。
リュウというのはこの店で知り合った同い年の男で、本名は伊東隆。本当はタカシなんだけど、小学校の頃からリュウと呼ばれていたらしく、本人もその呼び名を気に入って続けていた。
関西の大学を本人曰く~~悪さが過ぎて一年目に除籍になり、その後は地元に帰ってきて肉体労働のアルバイトを続けながら、冬になるとスノーボードを担いで雪山に籠り、春まで帰ってこない生活を三年ほど続けていた。小柄だが運動神経が良く、高校時代は野球で県大会決勝までいったらしい。女好きで都合の良い事に可愛らしい顔をしているのでよくモテた。
俺のリュウに対する第一印象は、『馴れ馴れしい奴』だったが、話していく内に面白さを理解し、また通っていた学校は違うものの、俺が大学を辞めてからは中退者という共通点も出来、いつしか意気投合して遊ぶようにもなった。
そしてなにより、俺と彼女、いや元彼女の仲を取り持ってくれた男でもあった。
「リュウも言ってたよ、全然連絡してこないって。探偵稼業ってそんなに忙しいの?」
水商売の女の必需品ともいえるメンソール煙草に火を点け、加奈子さんはカウンターの内側にあるスツールに腰掛けて長いストレートの黒髪を手で梳いた。俺とたった四つしか歳は違わないのに、容姿も仕草も堂々としていて、オトナの女の貫禄があった。
「まあ、年末ですし、今日だってこの時間に来るくらいですから、それなりには」
ビールを一口あおり、俺は応えた。
「ふーん」
納得していない顔で紫煙を吐き出す加奈子さんから飽くまで目を逸らし、俺は曖昧な笑みを浮かべてさらにビールを飲んだ。
本当は特別忙しい訳ではなかった。事務所に入ってまだ一年と少ししか経っていないし、元刑事とか保険会社の調査員というような経歴や事務職用の資格などを持っていないペーペーの俺は、それほど重要な仕事は任されていなかった。雑用がほとんどで、仕事が遅くなるのも調査員が素行調査などで深夜まで張り込みを続ける場合、交替で事務所に詰めて電話番をする時くらいだった。
今日だって、仕事が終わってまっすぐアパートに戻り、適当に飯を食って、観もしないテレビを点けてごろごろしていただけだった。
「ユキとはもう全然会ってないの?」
「ええ、まあ」
「電話も?」
「うん、まあ」
相変わらず加奈子さんの質問に気の無い返事をしながら、俺は話題を逸らそうとわざとらしく店内を見回した。
「お客さん、やっぱり来ないですね」
「うるさいよ」
煙草の火を揉み消し、口元に笑みを作って加奈子さんは自分用のグラスをあおった。
「変わってる店だからね、やってる人間も。まあ、儲けたいと思ってやってないし、赤字にさえならなければ全然オッケー。何事もほどほどが一番だもん」
「ホドホド……、ですか」
「そう、ホドホド。普通に、ホドホド」
「そうすっね。普通にホドホドが一番かも」
「分かればよろしい」
切れ長の瞳をさらに細めて、加奈子さんは微笑んだ。
それから俺と加奈子さんは当たり障りのない世間話を続けた。加奈子さんはもう俺が彼女と、ユキと別れた事に関して追及してこなかった。
ビールの後にジャック・ダニエルのソーダ割りを三杯飲み終えた頃には、頭の中に燻っていたモヤモヤと、胸にあったわずかなチクチクとした痛みは、ほとんど感じなくなっていた。
普通、アルコールに酔うと感情の抑制が弱くなるものだが、俺の場合は逆だった。というか、感情そのものが鈍くなった。
『夢は大事だよ。たとえ叶わなかったとしても、努力した事は無駄にはならないもの。きっと役に立つもの。どんな生活をしていても、いつも夢を持っていなくちゃ』
ユキの言葉が頭をよぎり、子供のようなまっすぐな瞳を思い出した。でも、酔いはそれに対して動揺を起こさせる部分をすでに麻痺させていた。
夢は大事。
そんな事は知ってる。
努力は大事。
それだって分かってる。
夢を叶えられるのは努力できる人間だ。しかしそれ以前に、努力をできる才能が、夢そのものを見つけられる才能が必要な事を、ユキはまだ知らないのだ。尤も、それを知ったからといって、果たしてユキが考えを変えるかどうか疑わしい気もした。
やはり俺とユキは、別れるべくして別れたのかもしれない。ふと、そう思った。
悲しみ、痛み、後悔、自己弁護、反抗が、目の前のグラスの中の液体のように、俺の鈍くなった頭の中で混ざりあっていた。
やがて時刻が午前二時になろうとする頃、思い出したように加奈子さんが言った。
「そうそう、アンタにお願いがあるんだっけ」
3
「お前、何で携帯繋がらないんだよ?」
携帯電話の向こうで、リュウが苛ついているのが分かった。料金の滞納という完全な自分の落ち度でつい昨日まで一週間以上も携帯電話を止められていた男の第一声とはとても思えない、常識の一部が欠如したいつものリュウがそこにいた。
電話が繋がらないのはお前の方だろ、と言ってやりたかったが、リュウの血液型がB型だったと思い出し、聞こえないようにため息をついて諦めた。
「ワリィな、リュウ。このところ忙しかったから。山、どう?」
「いや、ていうかお前、なんでユキちゃんと別れた事を俺に言わないよ?」
いきなりの直球だった。
「しかもミヤから聞かされたし」
ユキの女友達の名前を挙げ、リュウは捲し立てた。
俺は『ザイル』でしたように、適当で曖昧な返事をしながらリュウの追及を躱し続け、喋り疲れて一呼吸置くのを見計らって本題を切り出した。
「あのさ、星さんているだろ? お前が『ザイル』に連れてきたバイト仲間の」
「ああ、星さん? それが何? ていうかよ……」
反論に出るのを封じ、俺は続けた。
「実は加奈子さんから頼まれてさ、星さんの連絡先を知りたいんだけど、教えてくれないか?」
「ん? 加奈子さんが? 何で?」
何かと世話になっている加奈子さんの名前を出した事で、リュウの関心が俺から少し逸れたのが分かった。
「いや、ずっと借りっ放しになってる写真集があって、返したいんだけどここ一ヶ月くらい、お前が山に籠った頃から店に来ないんだって」
「電話すりゃいいじゃんか」
「だからその連絡先が分からないから聞いてんの!」
「俺も知らねーよ」
「えっ?」
あまりにあっさりとしたリュウの返事に、俺は少し驚いた。
「知らないの?」
「知らないって。ていうか星さんって携帯持ってんの? 電話してるところ見た事ないけどさ」
「でもリュウ、バイト同じだったろ? それによく一緒に『ザイル』に来たじゃんか」
「ああ、バイト終わって一緒に飲む事はあったけどな、電話番号とか住んでる所とかは知らないよ。基本的に俺、男に対しては色々聞かないし」
俺は軽い脱力感を感じると共に、ああこいつはこういう奴だったと、改めて認識した。
「じゃあさ、連絡先知ってる人とか知らないか?」
「さあ……。ていうか、バイト先に聞けよ。その方が早いし」
そう言ってリュウは毎年夏の初めから秋の終わりまで働いている、隣の市にある港湾作業所の名前と場所を告げた。
俺はそれを書き留め、リュウが俺とユキの一件を思い出す前に礼を言ってそそくさと電話を切った。切る寸前、リュウは話を摺り替えられた事に気付きて抗議の声を上げたが、また今度な、と口の中で呟き、俺は携帯電話を部屋のテーブルの上に置いた。
その直後、呼び出し音が鳴った。
リュウだと思って出るつもりはなかったが、習慣から着信画面に目がいった。
そこには見覚えの無い番号が映っていた。呼び出し音はしばらく鳴り続け、逡巡しつつも結局俺は電話に出た。もしかしたらユキかもしれない。そんな期待を持ちつつ。
しかし、電話の向こうから聞こえたのは、男の声だった。高校時代に所属していたサッカー部の仲間、佐々木だった。
「元気だったか? 携帯電話壊れてさ、買い替えたんだよ」
懐かしい、少し甲高い声。大学を辞めて以来実家に戻るに戻れず、この一年半近く帰省していない俺にとって、郷里の友人から突然の連絡は若干責められているような心苦しさを憶えたが、それ以上に嬉しかった。
自分には帰れる場所があったんだ。
そう、感じた。
しばらくお互いや郷里の仲間の近況について話した後、年明けに行われる恒例の高校のOB戦に話題が移った時、一瞬佐々木の声が陰った気がした。何かを言おうか言うまいか、迷っているようだった。
「どうした?」
俺が軽い調子で尋ねると、
「あのさ、西村、会社辞めたって」
少し間を置いて佐々木はぽつりと呟くように言った。
「まあ、辞めたというか、解雇されたというか」
「えっ、何で?」
自分の携帯電話を持つ手に力が入り、手の平が汗ばむのが分かった。
西村悟。県内では代々中堅クラスにいたサッカー部を、冬の選手権予選大会で準決勝まで導いたエースストライカー。体格、センス共に恵まれた天性のセンターフォワードで、三年の時には県選抜にも選ばれ、卒業後に引っ張られた社会人リーグの強豪チームでも、準レギュラー的な位置で活躍していたはずだった。
「今度さ、そこの会社が地域リーグに昇格してさ。Jリーグ入りを目指すって正式発表したんだよ。でも、強化の為にチーム編成が大幅に変わってプロ主体になったんだ。それで解雇て訳だよ。あいつを買ってくれてた監督も変わっちゃったし、それに腰痛めてて今年は試合にあまり出てなかったしな。まあ、あいつだけじゃなくて結構辞めたらしいけど」
日本のサッカー界は、J1とJ2の二部制プロリーグを頂点に、アマチュアの最高峰JFL、国内を七つのブロックに分けた地域リーグ、各都道府県リーグ、各市町村リーグという順に完全なピラミッド型になっている。またプロ野球と異なり、プロとアマチュアの間で入れ替えがあり、それ故にアマチュアチームといえどもその順位争いは熾烈を極め、選手間の生存競争も年々激しさを増していた。
「でも、会社までクビになるなんて……」
「ああ、正確には会社は解雇された訳じゃないんだけど、あいつにとってはサッカーする為に入った所だし、いずれは結果出してもっと上で、が口癖だったじゃんか。今さら普通に会社員は出来ねえって言って辞めちまったんだよ」
佐々木は中学から西村とツートップを組んできた仲だ。それだけにまるで自分の事のように、いやそれ以上に残念そうに語った。
「とりあえず他所の入団テスト受けるみたいだけど、どうだろうな。
酷な言い方かもしれないけど、前のチームでも大した実績が無かったし、最近はクラブチームのジュニアユース選考会だって恐ろしくレベル高いしさ。
びっくりしたよ、この前俺の後輩がセレクション受けに行くって言うから見学しに行ったんだけど、いやいや、俺が高校時代の体力取り戻しても適わねえと思ったよ、最近の中学生には」
ため息を一つ、佐々木はついた。佐々木はすでにサッカーを趣味として受け入れ、昼は普通に会社員として働き、毎週水曜日と金曜日の夜だけ請われて出身中学の後輩の指導をしていた。
これから伸びようとする若い少年たちの技術の高さと体格の良さには、まだ自分が二十代であるにも関わらず差を感じずにはいられないと以前佐々木はよく言っていた。底の層の厚さをよく知るだけに、佐々木の言葉は厳しかった。
「西村ってある意味俺たちの希望だったからさ、何か、つれーよ。夢が一つ、消えちまったみたいで」
夢が消えた。
口の中で反芻すると、胃の辺りが重くなるのを感じた。年明けには帰ってこいよと告げて佐々木が電話を切った後も、その言葉は澱のように俺の中にたまっていった。
4
吹きすさぶ風は、潮の香りよりも鉄さびの味がした。
市の中心部から車で三助ェほど。大漁旗を掲げた小型の漁船ではなく、多国籍の大型貨物船が停泊する隣街の港の周辺は、心なしか町外れに居並ぶ工場群に似た雰囲気があった。
小一時間を過ぎた頃、休みを利用して俺はリュウから聞いた港湾作業所の事務所を探していた。
港の入り口近くに原付バイクを置き、引っ切り無しに走っている大型トラックや黄色のフォークリフトに時折目をやりながら、俺はぼんやりと佐々木の話を思い出していた。
『西村は、ある意味俺たちの希望だったから……』
サッカーで食っていく、プロになる事が俺や佐々木たち共通の目標であったなら、確かに西村は一番近い場所にいた。
でも、それは違う。あの当時、本気でプロを目指していたのは西村と佐々木くらいなものだった。俺たちの夢、と一括りにするのは正確ではない。しかし、成功者という意味では、確かに西村は俺たちの中で先頭を走っていた。肩書きは会社員だったが会社から援助を受けてサッカーをやっていた訳だし、自分の望んだ道をまっすぐに進んでいた。Jや社会人チームのセレクションに落ちてプロを諦めた佐々木や、望む道すら見つけられず、それどころか大学という一つの短い道すら途中で放棄した俺とは比べる事すらおこがましく思えた。
俺は強風の中苦労して煙草に火を点け、携帯電話を取り出して時計を見た。時刻は昼。ついでにメールが届いていないか確認する。
『問い合わせ結果 0件』
しばらく画面を見つめ、携帯をしまった。
そういえばユキはテレビ局や番組の製作会社で働く事が夢だと言っていた。昔は歌手や女優に憧れていたそうで、確かに俺以外の男が見ても充分可愛いと思う顔をしていた。ただ、容姿だけで食っていけるほどかと言われると、たとえ今よりもずっと都会で生活していたとしても、水商売や性風俗店以外のスカウトマンから声をかけられる事は無かったと思う。
だから女優から裏方に希望を変えたという訳ではなかっただろうが、ユキはテレビドラマの製作に関わりたい、最終的には自分の書いた脚本でドラマを作りたいと会う度に話し、俺と知り合った頃にはシナリオの学校にも週一回定期的に通っていた。
付き合い初めの頃は、俺は何の抵抗も無くユキに「ガンバレよ」と応援の言葉をかけたが、お互いを分かりあっていく内に、ユキは俺の励ましを無視するようになった。俺の「ガンバレ」は、うわべだけの適当な相づちだと指摘され、喧嘩になった事もあった。
ユキは空洞的な俺という存在を見抜き、断罪した。
仮定の話だが、俺にも何か目標があり、もしくは今の仕事に何かやりがいを見出せていたら、現在は変わっていただろうか?
ユキと別れてから度々考えたが、時間が経つに連れ、その仮定にすら俺は自信を持てなくなっていた。
5
「星くん? ああ、あの色白で線の細い子? そうね、最近見ないわね」
二階建てのクリーム色の外壁をした港湾作業会社の受付で、肉体労働の会社には似つかわしく無い温和な丸顔の五十過ぎくらいのおばちゃんは、書類を捲りながらそう言った。
「辞めたんですか?」
俺が尋ねると、おばちゃんは書類から顔を上げて老眼鏡を外し、
「違う違う」
と顔の前で手を振った。
「うちの会社はね、アルバイトは日雇いなのよ。だから定休って無いし、働きたい時に来ればいいの。まあ、伊東くんは毎回来てたけどね」
そう言えば、リュウが以前そんな事を説明してくれた気がした。同時に、嫌な予感がした。
「それだと、もしかして履歴書とか要らないんですか?」
「日雇いだからね。給料も即日現金払いだし。税金が発生しないからうちとしても便利なのよ。
だから領収書に捺印する三文判さえ持ってくれば、基本的に誰でも雇うわよ。
まあ、あんまり華奢だったら断るけどね」
軽い冗談を放ち、おばちゃんは銀歯を見せて笑ったが、俺の顔は僅かに引きつった。
履歴書が無いとすれば、連絡先は分からない。ちょっと知恵の利く失踪者は、失踪先で履歴書の要らない仕事を探す事が多いと会社で教えられたのを思い出した。
「じゃあ、連絡先はどこにも控えて無いんですか?」
念の為に確認すると、
「あっ、でもアルバイトさんの名簿があったわねぇ。どこだったかしら。ちょっと待ってて」
おばちゃんは答えて席を立ち、書類棚から背と表紙に『アルバイト名簿』と黒マジックで書かれた緑色のバインダーを持って来た。
「あの子って確か今年の夏から、伊東くんがまた働き出したすぐ後から来たと思ったけど……」
バインダーの中に留められているファイルは年ごとにタグが付いていて、かなりの厚さだった。記載されている字体がそれぞれ違い、手書きだった。
おばちゃんが、アイウエオ順じゃないから多分この辺りだと思う、と呟きながら開いてくれたページを上から指でなぞって照会していくと、中盤からやや下の辺りで、『星 巳智雄』と枠線の中に控えめに小さく書かれた名前を見つけた。横に、携帯電話の番号と住所も一緒に記されていた。
「へえー、星くんてミチオって名前だったの。漢字だと役者さんみたい。こう言っちゃあ悪いけど影の薄い子だったから、何だか意外ね」
老眼鏡をかけ直して名簿を眺めながら、おばちゃんは思い出すように呟いた。
「伊東くんが辞めた頃から来なくなったんだけど、どうしたのかしらね。仲良さそうだったから、一緒にスキーだか何だかに行ったのかしら?」
6
毎年恒例のクリスマスイブの特別番組が粗方終わり、俺は今日一箱目の最後の煙草を灰皿に捨てた。壁の時計に目をやると、あと一時間ほどで明日を迎える時刻になっていた。欠伸をしながら大きく背伸びをして体を伸ばすと、テレビを消して自分の席に戻った。
安物の回転椅子が軋む音と、動き続けるエアコンの音だけが静かな夜の事務所内に流れていた。
「謎の男、か……」
椅子と同じ位安物の事務机の上に頬杖を突きながら、俺は何度も見た写真を手に取った。
三日前の夜。
仕事を終え呼び出しを受けた『ザイル』に着くと、時刻は午後七時半を少し過ぎた頃だった。いつもならまだ閉まっている時間だが、加奈子さんは店のシャッターを半分だけ開けて待っていた。
「ねえ、どう言う事?」
カウンターの上に俺が渡した星さんの連絡先を書いたメモ帳の切れ端があった。
「電話繋がらないから、手紙出したら『宛先不明』で帰ってくるし。気になって住所調べたら、ここに載ってる住所デタラメじゃん」
「いや、そう言われても……」
俺は正直返答に困った。当然だ。星さんがバイト先の名簿に何故デタラメな連絡先を書いたかなんて、本人じゃ無い俺に分かる訳が無いのだから。
ただ、加奈子さんから電話をもらって『ザイル』へ来る間、職業上の経験からとでもいうのか朧げながら見えてきた事もあった。
星さんは~~すでに俺の中ではその名前すら怪しかったが、何かしらの事情があって正体を隠していた人間だったのだ。恐らく、この日本で年間九万人を数える、失踪者の一人かもしれない。
履歴書の要らない仕事をしていて、親しい人間を作らず、何処に住んでいるか分からない、そればかりか連絡先を記載する場所ではウソの住所を残す。
ただの秘密主義者、で済む話ではなかった。
「どうしよう、この写真集。値段見たけど結構高いんだよね。捨てる訳にもいかないし」
青い海の写真がカバーの分厚い写真集を捲りながら、加奈子さんが呟いた。
「どうしようか?」
「さあ……」
星さん~~と名乗ったあの人に何があったか知らないが、大事なものなら取りに来るだろうし、そんな事を俺に聞かないでくれと思った。
「いいんじゃないですか、預かっておけば。大事なものなら取りに来ますよ」
「でもねー……」
加奈子さんは眉間に皺を寄せ、
「この店、来年の春で閉めるからさー」
さらっとした加奈子さんの口調に、俺は一瞬言葉の意味を理解できなかった。
「まだ皆には言ってなかったけど、あたし結婚するんだよね、春に」
「結婚?」
「そう。前から彼氏と話はしてたんだけど、正式にプロポーズもされたし。店は続けたいけど、来年異動になるんだ、彼氏」
気まずそうな照れくさそうな、今までに見た事のない複雑な表情を浮かべた加奈子さんがいた。
「あ、そうだったんですか……」
自分でも呆れるほど語彙の無い返事をしながら、加奈子さんには大学時代から付き合っている五歳年上の男がいたのを思い出した。確か一度だけこの店であった記憶もあるが、印象は薄かった。
加奈子さんは写真集を閉じたり開いたりして弄んでいた。
「だからさー、そういう訳でさー」
「……」
「あんた本職じゃん。星さん見つけて返してきてよ。少しならお金も払うしさ」
「うーん」
見返りを期待するつもりはなく、何かと世話になっている先輩の頼みでもあるし応えたい気持ちはあった。しかし、手掛かりがあまりに少なすぎた。
俺は自分の記憶にある星さんの姿を出来うる限り思い出そうとした。
身長は百七十センチメートルくらいで、細身、長めのスポーツ刈りで、写真が趣味とか言っていた気がして、『ザイル』ではほとんどリュウと一緒にいて……。
そこまで考えて、俺は軽く頭を振った。何一つ有効な手掛かりが思い浮かばなかった。
「これなんだけど」
記憶を辿っていた俺に、加奈子さんは数枚の写真を見せた。
「リュウが山に行く前の日に、その日ってお客が全然来なくて暇だったからリュウと星さんと三人で店早めに閉めて飲みに行ったのよ。その時に珍しく酔っ払った星さんが見せてくれたの。自分が撮った地元の写真だって。泥酔して忘れてっちゃったんだけど」
全部で十葉。それは何の変哲も無い街や海を撮った風景写真だった。
7
あの日、俺は結局加奈子さんのお願いを断り切れず、写真集と星さんが置き忘れていった風景写真を持ち帰った。
「やっぱり、これだけじゃ分からねーよ」
十葉の内、二葉は海を写したもので左端に大きな船がニ隻並んで写っている。もう二枚が小奇麗な海辺の公園らしい場所を、残りが大きな歩道橋や細い路地に連なる商店街を多角的に写したものだった。
一応、この三日間何度も見比べた末、朧げながら分かった事もあるにはあった。風景の感じが似ている事からほぼ同じ場所で撮影されたらしい事と、写っている車の内ナンバーを確認できる全ての車体が横浜ナンバーだった事、だ。
「横浜ナンバーの海岸沿いの街か……」
事務所のパソコンを使い、国土交通省のウェブサイトにアクセスしてみた。横浜の管理運輸支局の範囲内、つまり横浜ナンバーが発行される市町村は、横浜、鎌倉、逗子、葉山、横須賀、三浦の六ヶ所。しかもそのいずれもが海岸沿いの街だった。
「三浦半島一回り……」
ぼやくように呟き、俺は目を閉じて安椅子の背もたれに体重をかけ、大きく伸びをした。関節が数回鳴り、眠気と疲労が込み上げてきた。
「無理だって、こんなの」
「何がだ?」
顔の上で誰かの声がした。
「えっ?」
驚いて目を開けると、見慣れた男の顔があった。
素行調査に出ていた所員の一人、小津だった。
小津は俺には顔を向けず、暗いが鋭い目でパソコンの画面を見つめていた。
「あ、すみません……」
俺は慌てて身体を起こし、もたつきながらマウスを操作してページを閉じてパソコンの電源を落とした。
「お、お疲れ様です」
悪戯を見つけられた子供のように狼狽しながら、俺は椅子から立ち上がって引きつった愛想笑いを浮かべたが、相変わらず小津は俺には顔を向けず、消えた画面から今度は机上の写真に視線を移していた。
小津。いつも黒のスーツを着て、ネクタイをせず顔の下半分に僅かな無精髭を生やした陰気な三十路男。しかし、この事務所では一、二を争う腕利きの調査員で、業界内でも名が通っていた。元は大手保険会社に勤務していたと聞いたが、陰気な外見そのものの無口で無愛想な性格故か、所長の甥と同級生だという事くらいしか誰も小津の過去を知らなかった。
「あ、上がりですか? 一応、外出班や所長からの特別な連絡はないです」
報告する俺に、小津は無言で頷いたが、その双眸の先は相変わらず写真に止まったままだった。
「なかなか渋い所に行ったじゃないか」
しばらく間を置き、小津が独り言のように呟いた。
「いや、俺が撮ったんじゃないんですよ。これらを撮った場所、当ててみろって知り合いから言われて……」
俺は咄嗟に嘘の言い訳をしたが、ふと気付いて言葉を切り、小津の顔を見た。
「渋い所?」
問いかけに呼応するように、小津はやっと俺の顔を見た。そして持っていたコートを左手に持ち替え、空いた右手で写真を一枚指差して再び顔を戻して言った。
「これと、もう一葉の海の写真に写ってる船、分かるか?」
二隻の船。色は灰色で、船体は前半分だけが写っていた。
小津は船の種類を聞いているのだろうか? 漁船や貨物船には見えなかったが、それ以外だと俺には分からなかった。
「これは軍艦だ」
黙ってしまった俺にそう告げて、小津はもう一葉の海の写真を指差した。
「こっちの方が鮮明だし近いからよく分かるだろう。船体に三桁のアラビア数字がふってある」
確かに、二枚目の写真をよく見ると、奥側の船は分からないが、手前側の船体の上部に『101』と大きく白いアラビア数字が描かれていた。
小津はさらに続け、
「三桁の数字が『1』で始まるのは海上自衛隊の護衛艦だ。船がこの近距離で並行して航行する事は有り得ないし、海面が波立ってないだろ?
恐らく停泊中のところを撮ったんだ。海岸が見える近い場所で停泊しているし他に船影が無い。それと他の写真に載っている車のナンバーが横浜だから、撮影した場所は……」
言葉を区切り、小津は俺を見て静かに言った。
「横須賀だろう」
8
「ああ、君。何してるの、こんな所で」
元から愛想は無かったがそれでも気弱そうで『良い人』ぽい印象を与えた細長の顔はさらに痩せて、かつてない鋭さを感じた。口調もつっけんどんで刺があった。
年が開けた一月上旬。
新幹線を小田原で降り、東海道線を大船で乗り換え、横須賀線に揺られ、都合三時間あまり。旧日本軍の時代から続く海軍の街ヨコスカの、確かに海自の軍艦が見える駅前に広がる写真の風景と同じ湾岸の公園で、俺は星さんと再会していた。
「まあ、そんな事はどうでもいいけどね」
うっすらと無精髭を生やした口元から白い息を吐きながら、星さんは俺を見ようともせず、一眼レフの高価そうなカメラのシャッターを押し続けていた。その姿は、他人を寄せつけないというか、拒絶するような空気を纏っていた。
「あの……」
俺はやや気押されながら鞄から紙袋に入れた写真集を取り出した。
「これ、『ザイル』の加奈子さんから頼まれたんですが」
加奈子さんの名前を出した時、星さんが一瞬だけシャッターボタンの連射を躊躇したように止め、俺の方を向いた。
「それか……」
しかし、紙袋から取り出した写真集に一瞥をくれると、星さんは興味を失ったかのように再び撮影に戻った。
「ちょっと、星さん!」
そのあまりに横柄な態度に少々いらつき、俺は少し声を荒げた。
「わざわざ横須賀まで来たんだから……」
「僕の名前は星じゃないよ。佐藤陽介。それが本名だよ。平凡な名前だろ?」
自嘲するように星さん、いや佐藤さんは言った。
「星巳智雄ってのは僕の好きな作家の名前なんだ。
知ってるかな? 『虚空ノ園』という作品を書いた。本当は大した才能も無いのに自分は天才だと信じ込み世間から徐々に剥離していく男の姿を淡々と追った傑作にして遺作。
星は二十六歳で夭折した、孤高の天才だよ」
佐藤さんはまるでその本がそこにあるかのように、虚空の一点を見つめていた。
「星さん……、あの佐藤さん、一つ聞いていいですか?
何で突然いなくなったんですか? ていうか、どうしてあの街に来たんですか?」
「知りたい?」
「ええ、まあ、一応」
「そうだなー」
勿体ぶった感じではなかったが、相変わらずこちらを見ない佐藤さんの態度に俺はむかついていた。視線を外して港の方を見ると、大きな鯨のような潜水艦が浮かんでいた。
「強いて言えば、夢の為かな?」
「はあっ、夢?」
俺にとってこの上なく気に触る単語が耳に入った。しかし佐藤さんは続けた。淡々と。
「僕はね、小さい頃から影の薄い人間だった。容姿に恵まれた訳でも無いし、運動は不得意、勉強も出来なかった。家柄も普通で、平均よりやや下、中の下ていう表現が上手く当てはまる子供だった。
それを認められる人間であったら良かったんだが、生憎、僕は僕の親や兄弟とは違って、自意識だけは人一倍強かった。何としても他人に認められたい、特別な存在になりたい、崇められたい、そうずっと思い続けていた」
佐藤さんは手に持ったカメラをじっと見つめた。
「きっかけはこいつが教えてくれた。惨めな世界から抜け出す方法を。
僕の写真には、憎しみが込められている。僕を認めなかった他人や、凡庸な家族、そして世界への。筋の通った恨みから、理不尽な怒りも含めて。
僕は撮り続けた。世界を憎みながら。
五年後に結果が出た。二十四の時だ。ある人物が僕の写真を認めてくれたんだ。名の知れた写真家でね、僕の事を『兇刃』、そう例えた。
僕は恐らく生まれて初めて優越感と達成感を感じた。自信があふれた。脱皮という言葉と意味を、噛み締めたよ。
そして他人に認められ、僕の周りは以前より賑やかになった。望んでいた世界が、そこにあった。胸を張って、自分が何者であるか紹介出来るようになった。このチカラで、世界はさらに好転していくと信じたよ。
でも、幸福だと感じたその一瞬の中で、実は僕の才能は萎んでいった。
何故だか分かるかな?
まあ、君には分からないだろうね。
僕は他者を憎み世界の崩壊を願うチカラを写真にぶつけてきた。負のチカラだ。暗いチカラだ。滅びのチカラだ。
けれど、他人に認められ、人の輪の中に入れるようになった僕の狂った刃は、皮肉にもそのぬるま湯の中で錆びてしまったんだ。
それから三年間、新しいスタイルを僕は模索し続けた。写真を諦める事はとても出来なかったし、写真で食っていきたいと思っていたから。
しかし、やっぱり無理だった。
一度ぬるま湯に浸かった僕のチカラは、想像していた以上に駄目になっていた。
そして、僕は逃げた。生まれ育ち、強烈な自意識と劣等感を抱き、成功と破滅を味わったこの街から。楽になりたくて。
あの街での生活は、それなりに快適だったよ。僕は自分を閉鎖的で極度の人間嫌いだと思っていたけど、意外に他人と調子を合わせて生きていける面もあると気付いたし、『書を捨てて街へ出よう』ていう言葉は言い得手妙だと思ったよ。寺山修司だっけ?
うん、良い経験だった……。
でもね、ただ、やっぱり違うんだ。
確かに、あの街で、写真を捨て、惨めな過去も忘れて、全てをリセットしてやり直すのも有りだと思いもした。
普通に生き、普通に友達を作り、普通の会話をして、普通に人を好きになる。
僕は普通である事の何を嫌悪し憎んでいたのだろう?
気持ち良く酔った夜はいつもそう思った。何度も、何度も。
けど、夢を見るんだ。同じ夢を、その後毎回。この街でもがき続けていたかつての自分が現われて、それを俯瞰して今の僕が見ているんだ。
その夢の中で僕は泣いているんだ。闇の中なのに、何かから隠れるようにして……。
僕は気付いたよ。僕の居場所がどこなのか。
僕の居場所は地獄だ。最初から、最後まで。
だから、僕はかつての自分を肯定し、自分自身であり続ける為にも、この地獄の中で生き続ける事にした」
それは、長い詩、もしくは沈痛なる祈りであった。
9
星さんを名乗っていた佐藤さんに結局、俺は写真集を返しそびれた。
俺は、何も言えなかった。
善し悪しを別として、佐藤さんは戦っていた。その相手が特定の誰かなのか、社会という大きなモノなのか、夢という抽象的な存在なのか、それとも自分自身なのか、俺には分からなかったが、聖書の熱心な朗読が神へ捧げる切実な祈りならば、何かに一心に打ち込む事が祈りに通じる行為であるとしたら、佐藤さんはまさに殉教者のようであった。
神を持たない、祈りの言葉さえ知らない俺に、何が言えるだろう。
結局、加奈子さんには星さんは見つからなかったと報告した。もともと、横須賀で会えた事もほぼ偶然だったし、さすがに加奈子さんはそれ以上何も言わなかった。横須賀まで足を運んだ俺の苦労をねぎらい、その日は加奈子さんの奢りで朝まで飲んだ。飲み続け、次第に世界がぼんやりとしてくる中、春の入籍を本当に嬉しそうに喜ぶ加奈子さんの顔を見て、この人が佐藤さんの世界と交わる事は永久に無いんだろうな、その方が幸せなんだろうな、そう思った。
『夢って一体何ですかね?』
二月の上旬。
昨年のクリスマスイブと同じように事務所に詰めていた俺は、午前零時を過ぎて帰ってきた小津に、そう尋ねた。普段はとても話し掛ける気にはなれない人だったが、この人なら俺の知る範囲で唯一俺の問いかけに笑わず答えてくれるかもしれない、そんな気がしていた。
「俺の周りには……」
ユキと別れた事から、加奈子さんの事や西村の事、そして佐藤さんの事を順を追って話した。
「夢を持つって、俺にはよく分からないんです。それって、誰もが持ってなくちゃダメなんですか?」
小津は立ち止まってちょっと顎を上げて中空を見やると、一旦自分のデスクに行ってコートを椅子に掛け、灰皿を持って俺の二つ横の席に腰を降ろした。
「夢か……」
灰皿を置いていつものセブンスターに火を点けると、小津は紫煙を吐き出しながら呟いた。
「夢っていうのは器だと思うけどな。誰もが持ってる器。
夢は夢というモノであって、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、その器に何を入れるか、どう使うか、それによって人それぞれ違いや差が出てくるんだと思う」
「器?」
「器を器のままで良い、何も入れない方が美しいと言う奴もいるし、『用の美』と言って用いる事に意味があるんだと反論する奴もいる。また中には破壊して前衛芸術だと言う奴もいるだろう。
でもそんなものは人の自由だし、本人が分かっていれば良いだけの事だと思うけどな」
煙草の灰を灰皿に落としながら小津は伏し目がちにそう言った。
「そう、ですか……」
佐藤さんにも加奈子さんにも返し忘れ、デスクの書類立ての中に押し込められた写真集の背表紙に俺は目をやった。
『青の自由』
白抜きの明朝体で書かれたタイトルを、俺は口の中で反芻した。
「自由……。でも、それって結局は、他人の事なんて分からないってことですよね?」
小津の陰気な顔に視線を戻した。
小津は短くなった煙草を吹かしながら俺の視線をしばらく受け止めていたが、やがて煙草を揉み消して手元にあったメモ帳を一枚千切り、スーツの内ポケットからボールペンを取り出した。
「『ジョハリの窓』って知ってるか?」
千切ったメモ用紙を正方形に整え、小津はその紙を四分割する線を引いて俺に見せた。
「この正方形の上辺が自分からの視点で、右辺が他人からの視点だ。四つに分けられた窓の内、右上は自分からも他人からも見える。これが『開かれた窓』、左上が自分には見えても他人からは見えない『隠された窓』、右下がその反対の他人にしか見えない『盲目の窓』、左下が誰にも見えない『暗闇の窓』だ」
紙面に矢印を書き込みながら、小津は説明を続けた。
「分かるか? 人間てのは、自分の事といえども半分しか分からない。他人の協力を得たとしても分かるのは四分の三、七十五パーセントの自分なんだ。まして他人と共有している自分は二十五パーセントしかない」
左下の升目~~『暗闇の窓』を黒く塗り潰し、小津はメモ用紙を俺に渡した。
「分からなくて、当然なんだ。それは決して悲しい事じゃない。
逆にもし万が一全て分かってしまったら、それこそ俺たちは他人も自分も分からなくなるか、他人への関心を失ってしまう。
俺はそう思うよ」
陰気で無愛想で鋭く暗い目をした男の声は、どんな愛の歌い手の声よりも、優しく穏やかだった。
10
春、を迎えようとする季節になった。
ユキからは今だにメールが来るが、その頻度は以前よりだいぶ少なくなっていた。仕事は相変わらず雑用が主で、大した事はしていない。部屋も大掃除しようと思ったが、古雑誌を片付けている最中に読み耽ってしまい、はかどらなかった。『ザイル』の閉店が近付き、サヨナラ&おめでとうパーティーの企画を強制的に手伝わされる事になった以外、ほとんど何も変わらない日常がただひたすら流れていた。
そんな中で、唯一変わったというか、始めたというか、復活した事があった。雑誌でメンバーを募集していた草サッカーのチームに入った事だ。
ここ一ヶ月ほど、毎週火曜日と木曜日の夜に小学校のグラウンドに集まり、サッカーボールを蹴った。初日は長いブランクと緊張もあってかボールが足に馴染まず基本練習さえもたつき、翌日はひどい筋肉痛に悩まされたが、何だか無性に楽しくて清々しかった。アパートに帰ってもだらだらとテレビを観る事も無くなり、近所をトレーニングがてらに走ったり、しばらく買っていなかったサッカー雑誌を買って読むようになった。
俺の器は、飾るのではなく何かを入れる為にあったんだ、そんな気がした。
それからしばらく経ったある日、佐々木から電話があった。いつものやや甲高い声で少し興奮したように、佐々木は早口に西村が九州県リーグの社会人チームに入った事を告げた。
「あいつ、三年でチームをJFLに連れていくって豪語したらしいぜ」
そう言って佐々木は子供のように笑い、つられて俺も笑った。西村の顔が、目に浮かんだ。
話が進み、俺が地元の草サッカーチームに入った事を言うと、
「じゃあ、いずれ西村と俺とお前のチームで天皇杯に出ようぜ」
佐々木が何気なく返した。ほんの少しだけ本気を含んだ、軽い冗談だったと思う。俺はその言葉にしばらく黙り、やがてクスクスと笑い出し、そして爆笑した。電話の向こうで佐々木が訝しがったが、俺は笑い続けた。
『いずれ天皇杯に出ようぜ』
その冗談が面白かった訳ではない。佐々木を小馬鹿にした訳でもない。ただ、佐々木がそう言った時、俺も全く同じ事を考え、口に出そうとしていたのだ。
『人のココロは完全には分からない。
でも、もしかしたら閉ざされた窓が開く事もあるかもしれないな』
二月、小津が帰りしなに残した言葉が頭をよぎった。
俺は四つ目の窓が一瞬だけ開いた気がして、それがただひたすらに愉快で、呆れるほど笑い続けた。
了