織田信長 初陣
天文十六年(一五四七年)の秋、黄金色に実った稲穂が田を覆い尽くし、秋風が波のように揺らしていた。信長の父、織田弾正忠信秀は軍勢五百とともに居城古渡城を出て、長男信広の守る安祥城へと馬を進めていた。
「御館様、那古屋城の信長様が三百の兵を率い、さきほど古渡の城下を越えられたとのことでございます」使番が知らせに来た。
「うむ」信秀は馬上でうなづいた。
「熱田神宮で合流すると伝えよ」
「はは」使番は戻って行った。
その姿を見送りながら、信秀は表情を引き締めた。
那古屋城にいる嫡男三郎信長の噂は嫌というほど耳にしている。
しかも、そのどれもがよくない噂である。
幼少の頃から乳母を選べば乳首を噛み切る。物心がついて、刀を持たせれば試し切りをしようとする。分別がつくようになってからでも、坊主を見れば頭をはたく、剣術指南をつければ寝込みを襲う。
尾張中はおろか、近隣諸国の者にまで「うつけ」呼ばわりされる始末である。
「だが、今はそんなことは言ってられぬのだ」信秀は息子のそんなうつけ振りをねじ伏せるように己に言い聞かせた。
前月、信秀は尾張国中から兵を集めて、美濃の国へと攻め入った。
初めは有利であった戦局も、老獪な斉藤道三の手にはまって、思わぬ大敗となった。
結局、信秀の弟信康を始めとする将兵五十、兵卒五千を失うはめになってしまったのである。
這々の体で尾張に戻った信秀に、今度は駿河の今川義元がこの機に乗じ、三河の吉良大浜城に兵を増派したという知らせが入ってきた。
信秀としては今川勢に尾張の織田家がまだまだ健在であることを顕示しなければならない。そのため、信秀は休む間もなく古渡城から五百の兵を組織して、三河の前線基地である安祥城へ出陣したのである。
その一方で、信秀は嫡男信長の守る那古屋城へ使いを出し、今度の出陣に参戦するよう要請した。
嫡男信長は前年の天文十五年(一五四六年)に元服したばかりで、前月の美濃出征には同行していなかった。従って、信長の那古屋城だけは美濃での大敗に関係なく、無傷のままの戦力を維持していたのである。
この那古屋勢を使わない手はない。
元服したばかりの信長にとっては急な武者初め(初陣)の決定ではあるが、それも戦国の世の習いである。嫡男信長が織田家中の一勢力として、いち早く活躍できることを父信秀は期待もしていたのである。
「だが、あやつはその期待に応えられるのか」この疑念が信秀の頭から離れなかった。
戦国の世を一奉行の身から一国の大名へとのし上がってきた信秀は、数々の戦さ場での経験を通して「普段威勢のいい奴が戦場では怖じ気づいてしまって、使いものにならなくなる」という例をたくさん見てきた。またその逆に「普段は物静かで大人しい者が、戦場では信じられないような爆発力を見せつける」という例もたくさん見てきた。信秀には嫡男信長のうつけ振りが、前者に当てはまるような気がしてならなかったのである。
「もし、本当にそうなら、どうするか」信秀は考えた。
「いや」すぐさま思い返した。「そんなことはあってはならぬ」
信秀の眉間に自ずと皺が寄った。
そして「あやつが怖じ気づくこともなく、戦さ場でも、奔放なうつけ振りを発揮するぐらいなら、捨てたものではないのだが…」と一縷の望みを抱いた。
熱田神宮で信秀勢は信長の軍勢と合流した。
そこで信秀は嫡男信長の武者姿を初めて見ることになった。紅筋の頭巾に馬乗り羽織という姿で着飾った信長は精悍に映り、噂に聞く「うつけ」とは大きく異なるような気がした。信長本人も父を前にしながら澄ましているようだった。
だが、信長の後ろに控えている後見役の平手政秀だけは、難しい顔をしてその様子を見守っていた。それがいかにも「御館様の前で『うつけ』が何をしでかすか、気が気でならない」という表情だったので、信秀はおかしくなった。
その一方で「信長、いつもの調子はどうした」と大人しく収まっている息子の姿が歯がゆく感じられた。
合流した信秀、信長一行は熱田神宮で戦勝祈願と武者初めの祈願を行った後、三河の安祥城へと向かった。
安祥城下で城主である長男信広から兵が派遣されてきた。その兵力を加えて総勢一千程の軍勢となった。
この度出陣する兵が全て出揃ったところで、吉良大浜城へ攻め込む前の役割分担などを決める軍議が取り行われた。
信秀はこの度の吉良大浜の戦略目標を火攻めと決めていた。軍議に参加した部将達の中にも、その案に反対する者は一人もいなかった。火を放つだけなら敵と接触せずに済むので、味方の損害を最小限に抑えることができること、結果的に収穫前の稲穂を一部焼き払うことは、城を攻めるよりも効果的であるなどが主な理由であった。
従って、この軍議で決めるべきことは、どの部隊がどこの火攻めを担当するかということであった。火攻めを行う場合、初め敵城付近に火を着け放ち、敵の足を止めてから城の遠くを焼き払っていく。敵の足止めがうまくいけば、後もうまく捗ることから、城近くの火攻めを請け負う者が、この作戦の一番の名誉なのであった。
「御館様」平手政秀が申し出た。
信秀が政秀の顔を見た。政秀の表情には断固たる決意がみなぎっていた。
「吉良大浜城近くの火攻め、この嫡男信長様に御命じ頂きとう存じます」
その声は諸将を圧倒していた。
他に名乗りをあげる部将もなく、沈黙がやや続いた。
「うむ、よかろう」信秀も認めざるを得なかった。
「ありがたき幸せ」政秀は平伏した。
信秀はそのとき信長の表情を見た。
信長はやはり澄ましているだけだった。
信秀には政秀の考えていることが手に取るようにわかった。信長の後見役として政秀は「うつけ」と評判高い信長を初陣で活躍させ、その噂を払拭しようとしているのである。だが、当の信長本人が横で澄ました顔をしているようでは、周りの諸将にも、その努力が後見役のお膳立てにしか見えなかったにちがいない。
「こやつもここまでか」澄ました顔の信長を見ながら、信秀はそう思った。
夕暮れ時に安祥城下を出発して、吉良大浜城へ向かった。火攻めは夜に行う手筈である。信秀は信長と馬を並べて、暮れゆく秋の空を眺めながら軍を進めて行った。後ろには平手政秀が控えていた。
吉良大浜城の勢力範囲に入り、いよいよ作戦実行の段階に入った。部将達がおのおのの担当する箇所へ兵を率いて次々と分散していった。
「若」平手政秀も信長を促した。信長は澄ました顔のまま、政秀の方を振り向いた。
信長の心がはっきりと読めなかった信秀は、試みに悪戯な質問を投げかけることにした。
「信長、死ぬのは怖いか」信秀は唐突に尋ねた。
その質問に、信長、政秀の二人が同時に信秀の顔を見た。政秀の顔は見るからに動揺していたが、信長の顔は冷静そのものだった。
ほんのしばらくの間があった。
「父上」信長が十四歳の若造とは思えない程の不敵な笑みを見せて答えた。
「この世には、たった一つだけ、確かな、間違いのないものがございます」信長は続けた。
信秀は息子が何を言おうとしているのか、一瞬のうちに思いを巡らせてみた。
この乱世に身分や権力の確かでないことは誰でも分かっている。自分自身だけが唯一信じられるものだと言おうとしているのだろう、信秀はそう考えた。
「何じゃ、それは」信秀は尋ねた。政秀はすでに観念した表情でうつむいていた。
「はっ」信長は依然不敵な笑みを浮かべたまま答えた。
「それは『死ぬこと』でございます」
その言葉に信秀は唸った。政秀は顔を上げ、ぽかんと口を開けて信長を見た。
「生きているものには必ず『死』が訪れます。どんな世の中であろうと、それだけは変わりません」信長は説明した。
確かに、信秀は信長を見てうなづいた。信秀には、それが「うつけ」と呼ばれた十四歳の若造の言葉とは到底思えなかった。
「この信長、必ず訪れると分かっているものを恐れたりは致しません」これが信長の答えだった。
「そうか」信秀は答えた。政秀もほっと胸を撫で下ろしていた。
「されど」更に信長が続けた。信秀と政秀の二人は、その言葉に反応して信長の顔を見た。
信長は真剣な面持ちで二人を交互に見返した。
二人は信長の言葉の続きを待った。
「されど」信長は繰り返した。
「死ぬが一定ならば、末代にまで語り継がれるような死に様をしとうございます」
こう言い放って、信長は二人に向かって笑って見せた。
「ハハハハ」信秀も空に向かって豪快に笑った。
そのとき、信長の言葉を聞いた信秀の目には、これから繰り広げられる信長の華やかな前途が見えたような気がしたのである。
信秀には、それがうれしくて仕方がなかった。
「では」信長が真剣な表情に戻って目礼した。
「うむ」信秀も厳しい顔つきで応じた。
「じぃ」信長が政秀を促した。
「はっ」政秀が応え、信秀に敬礼した。
翻って信長が馬を進めて行ったとき、信秀が政秀を呼び止めた。
「政秀」
「はっ」政秀は手綱を引いて振り向いた。
「信長は、よき武将となったな」信秀は述懐した。
「はは、ありがたきお言葉」政秀はそう答え、頭を下げた。再び頭を上げたとき、政秀の眼が赤くなっていることを信秀は見て取った。
政秀は鐙を蹴って、馬を走らせて行った。
信長も政秀も行ってしまった。
残された信秀はすっかり暗くなった空を見上げた。
透き通った秋の夜空を、満天の星々が静かに覆い尽くしていた。