獅子丸静子は如何にして毒を飲んだか
本日は私のためにこのような懺悔の機会を与えてくださり、心から感謝いたします。本来であれば、私のような罪深い人間はこの場で今すぐ断罪されても構わないような者でありますが、皆様の意によって、私の複雑な想いを皆様に僅かでも伝えることができるというのは、私にとって本当に喜びでございます。
誤解のないよう最初に申し上げておきたいのは、私はこの懺悔の時を通じて自身の罪を無に帰してしまおうとは考えていない、ということでございます。
皆様もご存じの通り、私は許されてはならない罪を犯しました。それも、故意に、でございます。事故ではございません、すべて私が原因なのです。
ですから、私の懺悔をお聴きになった上で、私に情け容赦をかけるような言動をすることは止めていただきたく存じます。ええ、これは所詮、私の自己満足かもしれません。否、それでも私は、決して許されてはならないのです。私の罪は、浄化されるべきではないのでございます。私がどれだけ皆様の同情を誘うような言動をしたとしても、惑わされてはなりません。偉そうな態度でこのようなことを言うべきでないのは承知でございます。しかし私は弱いのです。自身を弁護するような言葉はいくらでも吐くことでございましょう。それでも、許すことだけはしないでいただきたいのです。私のことを、まだほんの少しでも慮っていただけるのであれば、どうかお願いいたします。
前置きが長くなってしまいましたが、これから私の話を始めさせていただきます。どうか、ご静粛にお聞きくださいませ。
獅子丸静子、という名前を一度も聞いたことがない方は、皆様の中にはもちろん、日本全国にもおそらくほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。
静子様は、私が執事を務めさせていただくずっと以前から、日本経済を支える富豪の一人娘として不動の地位を築いておられました。齢二十四にして両親の会社の経営権を受け継ぎ、類稀なる経営才能を駆使しあらゆる産業において成功を収めておられたのです。名前の通りの物静かな物腰と、飾り気のない端整な美貌が尚のこと注目を集め、もはや日本に無くてはならない存在となっておりました。
私の家の者は代々獅子丸家の執事を務めさせていただいており、以前は静子様のお父様の元で働いておりましたが、多忙な静子様の身を案じたお父様から、直々に辞令を頂きました。
私が静子様の執事を務めることになりましたのも、そのような背景があったからなのです。
静子様のような方の執事を務めさせていただくのは、恥ずかしながら、私には相当な苦難のように思えました。なにしろ私は五十年ほどの執事人生の中で、静子様のお父様以外の方の執事になったことはなかったのです。執事としての力量はそれなりにあるとしましても、経験の点において私は赤子のようなものでした。それに静子様と私の間には――子供の頃からその姿こそ見てきたとはいえ――これといって親しい接点もなかったのでございます。
それに加え、前述した静子様の現状を支える人間としては、私ではどうも力が足りないのではないかとも思えました。しかし、私が最も信頼を置くお父様直々の辞令です。断るわけにもいかなかったのでございます。
かくして私は、不安な心持ちのまま静子様の執事となりました。
静子様の執事となって以来、私は執事としても人間としても、多くのことを学びました。おそらく、箱入り娘よりもはるかに世間離れしていた私は、世間の常識一つにしても世界がひっくり返るような思いをもって迎えました。その日々はあまりに新鮮で、還暦を過ぎた老齢の私の身にはあまりに刺激的だったのも事実でございます。
しかし、そのような日々以上に私を魅了したのは、何より静子様の存在でございました。
静子様は経営者としても人間としても非常に洗練された方でございまして、やはり私の想像の通り、執事としてそばに仕えるにはそれ相応の実力が必要なように思えました。しかし静子様は、私の執事としての能力をよく認めてくださり、知識の足りない私を責めるようなことは滅多になさいませんでした。その反面、経営者としての顔はとても厳しく、部下の方々も「仕事の鬼」などと称していたほどだったそうでございます。
弱い者には慈悲を、驕る者には喝を。
聖人、と申し上げても差し支えのないほど、静子様は素晴らしいお方でした。常に前向きで、社交力も大層なものでございました。私を含め、誰に弱音を吐くこともせずに――ある意味では、それは執事として力不足だった証なのかもしれませんが――たった独りだけで、何もかも成し遂げておられたのです。そうして私は、徐々にではありますが、そんな静子様の姿に惹かれていったのでございます。
本当に、お恥ずかしい限りです。
結果として、そのような感情のすべてが、私に罪を犯させる原因の一部となってしまったのですから。
静子様との日々は、どれも忘れることの出来ないほど、私にとって大切なものでございます。こうして静子様の亡くなった後でも、私の記憶の奥深くで眩い輝きを放っております。きっと、静子様のお父様や他の側近の方々にとってもそうであったことでしょう。
ええ、ええ、わかりますとも。私が自身の罪深さを棚に上げて、このような戯言を申すのが腹立たしいとおっしゃるのでしょう。ええ、誠にその通りでございましょう。
それでも私は申し上げたいのです。私はたしかに、静子様に対し罪を犯しました。その事実に間違いはございません。ですが私は静子様のことを心の底から慕っておりました。まるで自分の娘のように接してきたつもりでございます。皆様にとっても大事な存在であったでしょうが、それは私にとってもそうであったのです。同等か、それ以上に。
私はいまだに不可解なのです。どうしてあんなことをしてしまったのか、自分でも理解ができないのでございます。あるいはそれは、静子様の姿に魅了された結果なのでしょうし、私自身の心の弱さでもありましょうが、それよりも何か、もっと大きな何かが、私と静子様だけのあの空間の中に蔓延っていたのではとも思えてやまないのでございます。
これこそが、私がこうして皆様に懺悔するに至った、複雑な感情の片鱗でございます。
言い訳に過ぎない? その通りかもしれません。
たとえ言い訳でも、もはや私の罪は拭えないでございましょう。
承知の通りでございます。なぜなら私は、決して許されてはならないのですから。
あれは寒い夜のことでございました。私はなぜかひどく寝つきが悪く、夜中まで眠れないまま過ごしておりました。
毛布を被りながらも寒さを感じていた私は、温かい紅茶でも飲もうかと思い、調理場に向かうことにいたしました。その日はやけに空気が冷たく、寝間着のままでは凍えるような気分でしたので、カーディガンを羽織って部屋を出ました。
人気のない長い廊下を歩き、調理場の前に着くと、なぜかドアが半開きになっており、そこから明るい光が漏れ出しておりました。
誰がいるのだろう、と思い、半開きのドアをとんとんと静かに叩いてみると、ぱたぱたと音がして、ドアの隙間から静子様が現れました。
私は少し驚きましたが、静子様の手に握られていたティーポットを見て、静子様も私と同じ理由でここに来たのだと悟りました。私の顔を見て静子様もきっと同じことを思われたのでしょう、顔を見合わせて、二人で笑いあったのでございました。
呼んでくだされば私が淹れましたのに、と言うと、静子様は得意げな様子で、わざわざ起こすのは気の毒でしたもの、それに私だって紅茶の一つくらい淹れられますわ、と言って、調理場に迎え入れてくださいました。深夜の調理場はいつもと同じ外見でしたが、その時の私には別の場所のようにも感じられました。
たどたどしい動作で紅茶を入れる静子様の姿は、いつもとはうってかわってかわいらしく思えました。私の分も入れてくださったので、私たち二人は眠気に誘われるまで調理場にあるテーブルに座り会話をしておりました。
会話の内容のほとんどは、取るに足るようなものではございません。もちろんそれは内容に関する話であって、静子様と二人でゆっくり話をしたというのは大切な思い出ではあるのですが……。
ただ、たった一つだけ、気になる話をされたのです。
静子様は突然、いつもの荘厳な雰囲気の笑顔をなくし、目をそらしながらふっと呟きました。
毒って、どうかしら、と。
私は返答に困りました。第一に私にはその言葉の真意がつかめませんでした。質問の意味がまるでわからなかったのです。第二に、静子様の口から「毒」などという禍々しい言葉が出ること自体、私には予想外のことでございました。
静子様は生粋の令嬢ではございますけれども、仕事の関係上、外界とよく接していたということもあり、言葉遣いや感性に関しては他の令嬢のそれよりもおおよそ庶民的であったことは否定いたしません。しかし私がその時に感じたのは、言葉遣いの良し悪しがどうという感情よりもむしろ、何か触れてはならないものに、静子様が近づいていってしまったかのような思いだったのでございます。
その感情がつい表に出てしまっていたのでございましょう、静子様は私の顔を見るとすぐ、いつもの笑顔に戻られました。そして何もなかったかのような様子で、今日はもう寝ますわ、貴方もお早めにね、とおっしゃられて、お部屋に帰られたのです。
独りになった調理場のテーブルの上で、私が感じていた捉えようのない不安は、結果的に言えば本物でございました。しかし当時の私はその思いを軽く振り切り、ティーポットとカップを片付け、静子様に続いて部屋に戻りました。ようやく訪れかけていた睡眠欲が、私の感性を鈍くしてしまっていたのかもしれません。
一晩寝れば忘れられるような、夢のような不安なのだと思えたのでございます。
あまりの浅はかさに、私自身、後悔を隠せません。
その頃の静子様は薬の研究をしておりました。先ほども申しましたが、静子様の才能はあらゆる方面において発揮されておりました。中でも薬の研究というのは比較的新しく目をつけられたテーマでございまして、静子様の経営する会社でも研究が急がれていたのです。
静子様はとても研究熱心な方でした。部下に研究をさせるだけではなく、自分自身の足で大学や病院などを訪れ、様々な知識を積極的に得ようとしておりました。私も幾度か新薬の使用実験等を手伝ったことがございます。本来であれば、大富豪の娘である静子様のような方が直接そのようなことをするのは感心されないことなのでしょうが、静子様自身はまったく気にしておられませんでした。
自分が知りえないようなものを、どうして他人に勧められるというの……。
これが静子様の口癖でございました。開発された新薬の多くは瞬く間に話題となり、全国の病院で使用されるようになったと耳にしております。
静子様の事業はいつものとおり順調でございました。
ええ、事業は。
私はとある日、庭で何やら作業をしておられる静子様を見かけました。私は窓の掃除をしていたので、突然声をかけると驚かれてしまうかと思い、そのまま掃除を続けておりました。
すると静子様は、足元に何かを見つけると、しゃがみこんで洋服のポケットから白い物を取り出されました。何だろう、と思いましたが、窓からでは遠くて見えませんでした。私にはかろうじて、袋か何かのようにも見えました。
静子様はちらちらと周りを確認すると、白い袋らしきものから何かを取り出し、地面に落としているように見えました。そしてすぐさま袋をポケットにしまい、何食わぬ顔で再び庭を散歩しはじめたのでございます。
私はとても怪しく思いました。掃除が終わり、改めて庭を眺めると、どうやらもう静子様はいらっしゃらないようでした。私はできるだけ不自然のないように、庭の手入れをするための身支度をしつつ、静子様が先ほどまでいた場所に目星をつけておりました。
庭へ行き、花の世話や雑草取りなどをしつつ、静子様が座っていた場所にじわじわと近づき、時間をかけてたどり着きました。
最初は、地面に落ちているそれが何なのか、わかりませんでした。
近づき、しゃがんでみると、すぐに正体は判明しました。
虫です。
緑色の大きな虫が、草むらの中にぐったりと倒れて死んでいたのでございます。
それに気付いた瞬間、私は背筋が寒くなる思いをしました。同時に、静子様の行動がなおさら理解しがたいものに思えました。慌てて周りを見渡しましたが、誰もおりませんでした。窓の方にも、誰かが立っている影はありませんでした。私は安堵しました。しかしそれでも寒気は無くなりませんでした。
私は不可解な悪寒に襲われながら、少し前の夜中、静子様と二人で話した時のことを思い出しました。
「毒」。
もしもあの時の静子様の言葉が、私には思案しがたいような重要な意味を含んでいたのだとしたら……。
私は、言いようのない不安を感じておりました。けれどそれをどうにかすることは、その時の私には不可能だったのでございます。
それからというもの、私の心には止め処ない不安が潜み続けました。毎日静子様と顔を合わせるたび、心臓がやけに騒ぎ出す心地がいたしました。私はできるだけその不安を表に出さないようにし、静子様の仕事に迷惑がかからないよう注意しておりました。
どうにかして、証拠が得られないものか。
執事の身である私にとって、静子様の生活環境の状態を把握することは容易でございました。しかし、当たり前ではございますが、静子様にもプライバシーというものは存在するのです。ですから、静子様が使用される日用品の種類や場所などは知っていても、「毒」のある場所など知りようがなかったのでございます。まさか直接本人に聞くわけにもいきません。
そもそも静子様にしてみれば、自身が庭で「毒」を使って虫を殺したことを私が知っているとは思っていないわけでございますし、初めからすべて私の勘違いである可能性も否定できません。何にせよ、私が静子様に対し「毒」の類の在り処を求めるような言動は明らかに不自然でございました。私はなんとかして「毒」を見つけたいと思いながらも、身動きの取れない状態のままで苦しんでおったのでございます。
そんな中、絶好の機会はすぐに訪れました。
静子様が会社所有の研究所内で新薬の研究をなさっている最中、館に連絡をされ、材料をいくつか持ってきてほしいと申されたのです。夕日がやけに眩しい、夕方頃のことだったと記憶しております。
静子様と側近の方々の住む館の中には、薬や薬の材料などが保管されている部屋がございました。研究中、薬の材料が足りなくなったり新たに必要になった時には、その部屋から材料を調達し、館に仕える側近に運ばせるのが習慣となっておりました。当時はたまたま私が連絡を承りましたので、調達する材料の種類を確認し、薬の部屋へと早足で向かいました。
この時はまだ、私の心には「毒」を見つけようという意思はございませんでした。部屋に着き、静子様の連絡を元にとったメモと棚に並んだ材料の種類を照らし合わせながら、言われた通りに集めておりました。
私はそこで、見つけてしまったのでございます。
静子様が庭で使っていた、白い袋と同様の物を。
私はとても強い衝撃を受けました。しまった、と思いました。ようやく見つけた、という満足感と共に、静子様に対する罪悪感に似た負の感情がどっと押し寄せました。私は慌てて、集めた材料とメモを空棚に置き、壊れ物を扱うようにして袋を持ち上げました。
上部の隙間から中を覗くと、白い粉が入っているようでした。砂袋を持ったような感触を指先に感じました。実際、私の指先は砂袋を持ったのと同等の重圧を感じておりました。なぜなら中身は「毒」なのです。おそらく虫一匹の命を奪ったであろう原因が袋の中には詰まっていたのでございます。
私は気が気ではありませんでした。それでも、袋を手放すことは不可能であったのです。私の不安の種の正体が、まさに目の前に現れていたのですから。
別物ではないだろうか、などという思いは私の頭から消え去っておりました。上着のポケットに袋を慎重にしまい、材料を素早く集めて車で研究所へと向かいました。研究所に入り、静子様に会うと、私の心臓はまた嫌な動きをいたしました。
静子様は私から材料を受け取ると、ありがとう、と一言おっしゃって、建物の奥へと戻って行きました。途中、一度振り返り、今日の帰りは随分と遅くなりそうですわ、とおっしゃられました。
私は、承知いたしました、とだけ申しあげて、静子様のお姿が見えなくなった後に車へと戻りました。私は車に乗り込んで間もなく、ポケットに入れておいた「毒」であろうものの存在を確認いたしました。中身の粉が本当に「毒」であるのか、確かめる必要があると考えました。
館に戻り、私はすぐに庭に向かいました。時刻はもう七時を過ぎた頃だったでしょうか、辺りは一面真っ暗で、窓から漏れ出す照明の明かりだけが煌々としておりました。これだけ暗ければ、誰かに見つかることはなかろうと考えた私は、庭の隅の方でしゃがみこみ、袋から粉を数粒つまみとり、ぱらぱらと地面にこぼしました。指先に付着した粉を急いで拭き取り、いつも携帯している小型の懐中電灯で足元を照らしました。夜の寒さがやけに肌に刺さり、私の動悸はまだ早まったままでございました。
数分ほど経ち、明かりの中に虫がやってきました。虫は頭を左右に動かしながら歩き、やがて私がこぼした粉の元へとたどり着きました。餌か何かだと思ったのでしょう、口先で何やらもごもごとして、体内に取り入れたようでした。他の粒にも同様に反応し、落ちた粒は半分ほどに減りました。
そのまま虫を照らし続けていると、突如変化が訪れました。
虫の歩みがぴたっと止まったかと思うと、全身をほんの少しも震わせることなく――そう、まるで魂の抜け落ちた人形のように――その場に倒れたのでございます。
その一部始終を眺めていた私は、嗚呼、と思いました。
それは私の不安が解消された瞬間であり、同時に、その不安が形を変えて、また私の心を蝕みはじめた瞬間でもございました。袋の中身はやはり「毒」だったのでございます。私の想像に、間違いはなかったのです。
私にとって、それは大いなる苦痛でございました。
館に戻り、自分の部屋へと入ってすぐ、「毒」を引き出しの奥深くにしまいました。二度と開けないようにと、滅多に掛けない鍵も掛けました。着替えもせずベッドに倒れこみ、走る鼓動をなんとか抑えようと試みておりました。
「毒」はとにかく不気味でございました。理解不能でございました。私にはもう手に負えなかったのです。握りしめていた鍵をどうしようかと案じ、思いついて、部屋の窓から庭へと投げ捨てました。鍵はとてもとても小さな物でございましたので、庭に捨てればまず見つかることはないだろうと思われたのです。
かくして私は「毒」を封印いたしました。早まったままの私の動悸は、一晩中、元には戻りませんでした。
それから私は、常に平常心でいることを心がけました。改めて自分の行いを鑑みるに、もしかすると私は、静子様に「毒」のことについて言及されることがあるかもしれませんでした。ですから、常に平常心でいようというのは、私のささやかなごまかしに過ぎなかったのでございます。その程度のごまかしすらしなければならなかったほど、私の心は動揺していたのでございましょう。
元々違和感を感じていた寝つきは、不安のせいでなおさら悪さを増してしまいました。もはや不眠症と称してもよいほどでした。体と精神、両方の疲労を受け、私の人格は限界に近づいておりました。
いつかの日のように、私は調理場へと向かいました。以前とは違い、静子様はいらっしゃいませんでした。私は紅茶を淹れ、あえてゆっくりと飲みました。緩やかに動くことだけが、疲れを感じないようにするための唯一の方法のように思えたのです。
二杯、三杯と紅茶を飲み干し、いまだ訪れない眠気を待ちながら、私は目を閉じて座っておりました。こうして動かずにいるだけでも、多少は疲労が消え去るような心持ちがいたしました。そのままじっとし続けていると、私はようやく眠気を感じはじめたのです。うとうととして、意識が溶けるように離れて行きました。
このまま寝てしまってはいけない、せめて部屋に戻らなければと思うのですが、なにしろ久々にやって来た眠気だったのです、そう簡単に覚めるものではございませんでした。浮遊した意識の中で、他愛もない思考が延々と回り続けておりました。
意識は突然覚めました。はっとして目を開き、まずい、今は何時であろうかと思い、壁にかかった時計を見るべく顔を上げました。
――悲鳴を上げる寸前でございました。
向かいの席に、静子様がいらっしゃったのです。
心臓が掴まれたような、鋭い痛みを胸に感じました。私は目を見開き、止まったまま動くことが出来ませんでした。庭の隅で見た虫のように、そのまま椅子から倒れてしまいそうでした。
しかし、私を貫く静子様の瞳が、それを許しませんでした。
その時の静子様の瞳には――何と言いましょうか、怒りというか、哀れみというか、決して正ではない感情が渦巻いているように見えました。ただでさえ得体の知れない苦痛に悩まされている身でございましたから、静子様の無言の叱責は私に途轍もなく大きな重圧を与えました。私はどうしていいかわからず、何も言えず、静子様の言動をじっと待ち続けていたのでございます。
何分の後だったでしょうか、静子様はいつの間にか私の目から視線を逸らし、私の淹れた覚えのない紅茶を啜っておりました。テーブルにカップを置くと、潤いを増した唇がゆっくりと動き始めました。
目にはもう、憂いはございません。
静子様は、そうして私に語ってくださいました。
何物にも照らされることのない、心の内を。
私は、とても不思議ですの。
どうして人は、突然死んでしまうのかしら?
たとえば人生が一つのタイマーだとしたら。針が零を指すまで、単調に進み続ける機械だとしたら。それをセットしたのは一体誰なのかしら? 生まれる前の自分? それとも、神様?
私は怖いのですわ。
どうして人は、気付かないうちに死んでしまうのでしょう?
会社を継ぐことになって、薬の研究をはじめてから、たくさんの病院を見て回りましたわ。そこにいる人々には、明るい人もいれば、暗い人だっていました。子供からご老人まで、多種多様でした。
重い病を抱える人、辛い障害を持っている人、ちょっとした怪我で入院している人……。
皆、生きていましたわ。
でも、死ぬ時だって人それぞれだった。
ずっと通い詰めていた病院では、仲の良かった子供が突然亡くなりました。つい昨日まで、一緒に話をしていましたのよ? まだまだ元気で、病気なんてまるで初めから無いみたいに……。でもその子の病気は、もうすでに末期だったの。助かる見込みは無かったって……。本人自身、知らなかったそうですわ。教えてしまったら、生きる気力を無くすだろうって。せめて最期まで、精一杯生きてほしかったって。あの子のご両親は、そうおっしゃっていました。
心の奥に、穴が空いたような気分でしたわ。
人を亡くすって、こんなに辛いことなんだって気付きましたの。
私は死が怖いですわ。どうして自分の思い通りに死ねないの? 生きているのは自分自身、なのになぜ死ぬ瞬間を決めることが出来ないの? 私はずっと、理解できないままですの。
――じゃあ、自殺はどうかしら?
自殺なら、自分の死に時はいつだって自由に決められますでしょう? この日に死ぬと決めてしまえば、やり残したことはその日までに終わらせればいい。死に方だっていろいろ……なんだって選べるでしょう。
それって、ものすごく自由じゃないかしら。
いつか必ずやってくる、けれどいつ来るかわからない死を待つよりも、自ら望んで死を待つ方がどれほど良いか……。貴方も、そう思いません?
――でもね。
それでもやっぱり、駄目でしたわ。
私の理想からは、とてもかけ離れていましたの。
自殺した人の遺体、見たことはある? 飛び降り自殺。地面にぶつかった肉と骨は粉々に砕けて、原型なんてまず残りませんわ。首吊り自殺。中身が壊死して、紫色に染まった人の顔が、どれほど苦しそうに見えることか。睡眠薬を大量に飲んで自殺。綺麗に死ねたら幸せでしょうね。けれど、絶対に成功するとは限らないでしょう? たとえほんの一粒でも、喉に詰まれば苦しみが襲いますでしょう? そうして死に損ねて、なおさら辛い生を生きなくてはならなくなる気分、とてもじゃないけれど、私には想像なんて出来ません。
それは私の求める理想の死ではありませんでした。たとえ死の呪縛から逃れることが出来たとしても、そんな苦しそうな姿を見せて死にゆくなんて、そんなこと……。報われませんわ、そんなもの。
静かに死ぬこと。
できるだけ静かに、溶けるように死ぬこと。
私はたった一つ、それだけを求めていますわ。
静かに死ぬこと。
そう、たったそれだけを……。
気付けばそこには静子様はいらっしゃいませんでした。時計を見ると、すでに朝がやってきておりました。朦朧としていた私の意識は一気に覚めました。まだ自分が寝間着のままでいることに気付き、すぐに部屋に戻り、身支度をしようと思いました。
自分の分だけのカップを片付け、急いでテーブルを布巾で拭きあげました。――その時ふと、指先に何かが当たったような気がいたしました。
次の瞬間、床から金属音がしました。何を落としてしまったのだろうと思い、布巾から手を放し、テーブルの下をそっと覗いてみました。
あってはならないものが、そこにはありました。
鍵。
窓から捨てたはずの「毒」の鍵が、椅子の下に転がっていたのでございます。
朦朧としていたはずの意識の中で、私は静子様の言葉をどうしてか一字一句違わずに覚えておりました。録音をしたわけでもないのに、はっきりと覚えていたのでございます。それが私には何より奇妙で、奇怪でございました。
調理場の片付けを終えて部屋に戻り、真っ先に引き出しへと向かいました。握りしめて温くなった鍵を震える手で鍵穴に差し込み、じわり、じわりと回しました。カチッ、と音がしてすぐ、勢いをつけて引き出しを開き、奥に潜む「毒」の袋を力任せに掴み取りました。
つい先日に見つけたばかりで、手に持つたびに言いようのない重さを感じていた「毒」の袋。なぜかその時には、「毒」はとても軽いもののように思えました。いまだに不思議で仕方がないのですが、まるで綿菓子を持っているかのような気分だったのでございます。今思いかえしてみますと、ずっと感じていたはずの苦痛や不安や疲労の類はすべて、その時ばかりはどこかに消え去ってしまっていたような気がいたします。
端的に言うのなら、きっと私は極限状態だったのでございます。極限状態の人間は普段ではありえない行動をするとよく聞きます。まさしく当時の私はそれだったのでしょう。なぜなら私は、改めて手に入れた「毒」を捨てようとも隠そうともせず、さぞ当たり前のようにポケットへ忍び込ませたのですから。
いつも通りの日常が、私の周りを過ぎ去って行きました。私自身も、いつもと変わらない日を過ごしました。ただ一つ、私の頭の中を「自殺」という単語が埋めていたこと以外は、何もかも、いつも通りの日でございました。
夜がやってきて、私は特に目的もなく調理場にいました。目的はあるといえばあったのですが、せいぜい食後の食器の片付けをするくらいのものでございました。他の側近の方々はそれぞれ別の仕事をしていましたので、調理場にいるのは私だけでございました。
カップ一つにしても、隅々まで念入りに磨き、洗いました。食器に付いているほんの小さな汚れさえも、すべて見えなくなるまで綺麗にいたしました。すべて終わった頃には、もう夜も深まっている頃でございました。
おそらく私は、無意識のうちに何かを待っていたのです。
それが何かまでは知らないとしても、確かな予感を感じていたのでございます。そうでなければ、食器洗い程度の雑務にこれほどまでの時間を取られることなどありはしないのです。ただの気まぐれで済ますには、私の心情はあまりに不安定だったのですから。
予感は的中いたしました。静子様が、調理場へとやってきたのです。
静子様は、流しのそばに立って食器を拭いている私の姿を一瞥すると、いつもの微笑を静かに浮かべ、席にお座りになられました。私は静子様に向かって大きく頷き、慣れた手つきで紅茶を淹れました。紅茶はいつもより濃い目に淹れました。
テーブルへティーポットを運び、静子様と自分の目の前に一つずつカップを置き、ポケットから例の袋を取り出して、静子様を見ました。静子様はまだ笑ったままでした。鼓動は早くなりました。
袋の口を広めに開け、指を差し入れ、「毒」をつまみ、こぼさないように慎重に、ティーポットの中に落とし入れました。粉は水面に散り散りと浮かびました。長い銀色のスプーンでゆっくりとかき混ぜると、粉は紅茶に溶け、やがて見えなくなりました。初めから終わりまで紅茶の移り変わりを見続けていた静子様は、表情一つお変えになりませんでした。
私の心にはもう不安はありませんでした。ただどうしようもないほどの躍動だけがございました。二人のカップにそれぞれ紅茶を注ぎ、席について向かい合いました。静子様はまた微笑まれました。私も、つられて微笑み返しました。
罪悪感など、どこにもございませんでした。
引き返そうという気持ちは、すでに無くなっていたのでございます。
紅茶に混じった「毒」の香りを楽しむ静子様の姿は、私たちを包み込んでいた魔力のせいか、一段と美しく輝いて見えました。上品でもあり、また崇高でもございました。
今まで見てきた中で、最も素晴らしいお姿でございました。
静子様は――「毒」の香りごと、体内に取り入れるように――いつものあの笑みを浮かべて、すっとカップを傾け、紅茶を一口であおりました。空になったカップを置き、目の前の私に再度微笑まれました。もう何度、その笑みを見たかわかりません。紅茶を飲んだ後の笑顔はなおさら、綺麗なもののように見えたのでございました。
静子様はカップを脇にどけ、沈み込むがごとくテーブルに腕と頭を落とし、眠るように止まりました。私の心はまだ動いておりました。喜びにまみれておりました。興奮に騒いでおりました。
カップを持ち、静子様のように「毒」の香りを感じとりました。私もこれを飲むのだ、と思うと、妙な達観が私を強気にさせました。カップの淵に口をつけ、紅茶を流し込もうとして――
私は見てしまいました。
水面に映る自身の顔を、見てしまいました。
そこには悪魔がおりました。
悪魔に取りつかれた、醜い私の姿が、そこにいたのです。
気付けば私はカップを投げ捨てておりました。カップは割れ、大きな音が響きました。床にこぼれた紅茶を眺めながら、全身に染み込むような寒気を感じておりました。それは恐怖でございました。それは後悔でございました。様々な感情が私のすべてを押さえつけ、凍え震えさせました。
私は自分の犯した罪の重さを悟りました。慌てて横を見ると、静子様は倒れたまま少しも動かれません。すぐ静子様の背後に回り、肩を揺さぶりながら、静子様、静子様と呼びかけました。静子様は目を覚ましません。ふと触れた首はやけに冷たく感じました。
嗚呼、と思いました。かつて「毒」を使って虫を殺してしまった時の気分とは、まったくの別物です。私の心に突如渦巻き始めた(あるいは、ずっと蠢いていたのに、愚かにも気付いていなかった)感情が、私にそう囁かせたのでございます。嗚呼、嗚呼、と私は囁きました。幾度も幾度も囁きました。しかしどれだけ囁いても、静子様は目を覚ましませんでした。
紅茶はすっかり、冷めておりました。
幸いにも、私の行ったことはすぐに暴かれました。カップの割れた音に気の付いた側近の方が、調理場へとやってきたのでございます。やってきた方は謎の状況に戸惑い、私の姿をぱっと発見し、事情を説明するように言いました。私は完全に憔悴しておりましたので、何もためらうことなく、絶望の中で質問に答え続けました。
私は館のとある部屋に監禁されました。灰色の壁とコンクリートの冷たい空気が心地よい部屋です。静子様はすぐに別室へと運ばれ、専属の医師の先生が治療をなさったそうですが、見つかった時にはもうすでにこと切れていたと聞いております。
以上が、今回の事件の真相でございます。
最初にも申し上げました通り、私は自らの罪を否定するつもりはございません。私は犯してはならない罪を犯しました。決して償えない罪を犯しました。たとえ法が何と言おうと、決して許されることのない罪を犯しました。
静子様を殺したこと……それももちろんございます。しかし私の本当の罪は、それではないのです。
皆様なら、ここに集まられた獅子丸家の皆様ならば、私の言わんとすることがお分かりになられるでしょう?
特に、静子様のお父様。私は長年、貴方様の元で執事として仕えておりました。ですから、きっと貴方様はお分かりのはずです。私の犯した罪の正体が。
私は、最後の最後で、主君を裏切りました。
主君のために、悪魔に成り切ってでも共に死ぬ覚悟を、最後の最後で捨ててしまったのでございます。
お父様、貴方様ならお分かりでしょう。五十年もの間、私がお仕えしてきた主君なのですから。私の主君に対する忠誠心が、はたしてどれほど強大なものだったのかを。
私は結局、忠誠を貫けませんでした。裏切ってはならないはずの主君を、いとも容易く裏切りました。それは同時に、私が私を裏切ったのと同義でございました。ですから、私の罪は許されてはならないのでございます。誰が何と言おうと、無くならないのです。
ええ、ええ、憎いでしょう、そうでしょう。こんなに貧相な部屋の中から何を言い訳するかと思えば、静子様に対する懺悔よりも先に自らの勝手な後悔を話しはじめる私の愚かさが心底憎いのでございましょう。ええ、ですからあえて私は申しあげます。
私は静子様を殺してしまったことに対し、まったくと言っていいほど、罪を感じておりません。
静子様は願っていたのです。あれは最後の生体実験でございました。新薬の実験だったのでございます。
人がためらいなく自殺できるよう。
人が後悔なく人生を謳歌できるよう。
苦しまずに死ぬための薬――安楽死のための薬の、使用実験だったのでございます。
自分が知りえないようなものを、どうして他人に勧められるというの……。
覚えておりますでしょう。静子様の口癖でございます。
静子様は最後まで自らの信念を貫かれました。あるいは静子様自身が自殺することを願っていたのかもしれませんが、今となってはもうわかりません。とにかく、静子様は最後まで静子様であったのです。一人の聖者だったのです。
しかし私は違います。私は静子様を裏切りました。いえ、もっと言うのなら、この場にいらっしゃるすべての方々、また国中の方々を裏切ったといっても過言ではございませんでしょう。きっとこれから、私はどんな罰でも受けます。拷問だろうと死刑だろうと、拒絶することなく受け入れることでございましょう。
――心底、気の毒そうな顔をして。
ええ、きっとそうなります。私は、そういう人間なのです。
どうか皆様、悪魔のような私をお許しになりませんよう。
どうか皆様、悪魔に負けた私をお許しになりませんよう。
皆様の魂が、いずれ無くなってしまうまでは。