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侵食の気配

「麗羊、元気そうだな」

「…………陛下」


 自室の窓辺で読書をしていた麗羊は、突然の来客に目を丸くした。

 じとりと目を据わらせた伯綺が、部屋の入口を塞ぐように仁王立ちしている。

 

「ど、どうしてここに」

「どうして?」

 

 そう問い返した低い声からも怒気が隠しきれていない。伯綺はつかつかと部屋を横切ると麗羊の手首を掴んで引っ張りあげた。

 

「穢れの期間はとうに終わったろうに、頭が痛いだの伏せっているだの、次から次へと理由をつけて断られては腹に据え兼ねるというもの」

「も、申し訳ございませ……」

「謝罪はいらん。理由を聞かせろ」

 

 口ごもってしまった麗羊に、伯綺は小さく舌打ちをした。

 強い力で手首を絞めあげられる。痛みもさることながら、その冷たい肌は麗羊を凍てつかせんばかりだ。

 

「なぜ吾を避ける。岩了に何か言われたのか」

 

 麗羊はふるふると首を横に振る。

 

「本当に何かのっぴきならない病に耐えているのではないだろうな」

「ち、違います。その……病ではありません」

 

 そう、麗羊を苛むのは病ではない。

 悪夢だ。

 同じ悪夢ばかり繰り返し見るようになった麗羊は、自分から伯綺のお召しを断ったのだ。

 楽しい夢を見られない自分に価値はない。

 こんな夢を見ていると伯綺に知られて、放り出されるのが怖い。

 繰り返す悪夢は、麗羊からすっかりいつもの快活さを奪ってしまった。

 麗羊は俯く。その言葉に嘘偽りがないことを見てとった伯綺は、麗羊の手首をそっと離した。

 痛みから解放されて、細く息をついた麗羊から香るおしろいに、伯綺はかすかに眉根を寄せた。

 

「……珍しいことをしている」

「え?」

 

 自分のことで精一杯になっていた麗羊には、伯綺の声が聞き取れない。顔を上げた麗羊の頬に、伯綺はそっと親指を滑らせた。

 目の下をそっと撫でる。

 

「……おい、隈ができて――」

「や……っ!」

 

 ぱん、と乾いた音がした。

 麗羊は呆然と自分の手を見つめる。

 反射的に伯綺を振り払ってしまったのだ。

 眠りの浅い日々を過ごしたことで、隈ができているのはわかっていた。だから慣れない化粧で隠していたというのに、それすらも伯綺は見通してしまう。

 今はただ――恐ろしかった。

 

「……あ、も、申し訳、ございませ……」

「もうよい」

 

 震える麗羊を一瞥して、伯綺は踵を返す。

 

「縮こまられてまで夢を喰う道理もない。否――今はそなたの夢など、喰いたくはない」

 

 がん、と頭を殴られたような衝撃で、麗羊はその場に立ち尽くした。

 部屋に入ってきた時と同じように、つかつかと出ていく伯綺の背が遠ざかっていく。

 引き止める言葉が出てこない。

 もう自分は用無しなのだ。

 伯綺を楽しませる夢を見られない自分に価値はない。

 伯綺の伴をしていた岩了が、戸を閉める直前、ちらりと麗羊を見下ろした。

 その鋭いまなざしに、麗羊は耐えきれず目を伏せる。

 岩了は、ため息を残して戸を閉めた。

 足音が遠ざかる。

 麗羊は奥歯を噛み締めてその音を聞き続ける。

 人払いをされていた祥鈴が慌てて戻ってきた。

 

「麗羊さま、何があったのですか? 最近、ずっと塞ぎ込んでらして……お願いです、何かお力にならせてください」

 

 祥鈴の手が肩に触れる。

 今は振り払う力もなかった。

 

「分不相応な夢を見ていたの……それだけよ」

 

 目尻を赤くした麗羊は微笑んで見せたが、祥鈴は涙をいっぱいにためて麗羊に抱きついた。


 *

 

 麗羊の部屋を出た直後から、伯綺の足取りが早まっている。

 

「伯綺様?」

 

 一定の距離を取って後ろについていた岩了も、はじめは苛立ちによるものだと解釈していたものの、それだけではない呼吸の荒さに駆け寄った。

 

「いかがなされましたか」

 

 答えはない。曲がり角を曲がる。

 宮女たちからはすぐに見えない死角に入り込むと、伯綺は壁に肘をついてずるずるともたれかかった。

 

「は――」

 

 岩了はとっさに口を噤む。皇帝の不調を他に悟られては事だ。

 

「ゆっくり戻りましょう。打ち合わせをしている風を装います。わたくしにもたれてください」

 

 岩了は懐から白紙の帳面を取り出し、さもそれを内密に報告しているかのように顔を寄せた。

 伯綺も無言で頷き、岩了に合わせて歩き出す。

 岩了は伯綺の額に脂汗が滲んでいるのを見て声を潜める。

 

「風邪(ふうじゃ)の由なら薬湯を――」

「違う」

 

 奥歯を噛み締めて否定した伯綺は、懸命に足を進める。

 

「悪夢(ゆめ)が――暴れているだけだ」

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