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夢語りの寵妃

「麗羊、麗羊はおらぬか」

 

 間延びした呼び声。それに険しい影が差さぬうちに、麗羊は早足で声の主の元へ駆け寄った。

 

「はい! ここに」

 

 馳せ参じた麗羊は床に膝を着いて礼をする。

 

「そこでは遠い」

 

 長椅子に腰掛けている伯綺は、己の隣へと手招きする。

 恐れ多くはないかと、麗羊は控えている側仕えを見遣った。

 岩了(がんりょう)と紹介された彼だ。

 伯綺に長く仕えているそうだ。ぽっと出の麗羊に向ける視線は名前のごとく厳めしい。

 その彼をして無言を貫いているのだから、これはおとなしく従うべきではないか――などと麗羊が逡巡している間に伯綺は行動に移っていた。

 

「まったく、つくづく吾を手間取らせるやつよ」

 

 愚痴めいた口調だが、どこか楽しそうな声色が麗羊に近づく。

 腕を取られてそのまま抱き上げられた麗羊は、小さく声をあげて伯綺に抱きついた。

 

「耳元で騒ぐな」

「す、すみませっ! でも、高くてっ」 

「望楼ほどでなし、大袈裟だ。そうだ、赤子のように高い高いでもしてやろうか」

 

 そう言いながら、伯綺は脇の下に手を差し込んでくる。ぐ、と力を込めて体を持ち上げられて、急上昇する視界と浮遊感に麗羊は今度こそ悲鳴を上げた。

 

「た、高いっ……! 陛下、陛下、下ろしてください!」

「なんだ。そなた、高いところが嫌いか。赤子でさえけらけらと笑うというに、肝の小さい妃だな」

 

 つまらなそうに高い高いをやめた伯綺は、麗羊を長椅子に座らせる。慌てて裳の裾を整える麗羊の隣にどっかりと座り込むと、目の前に何かを広げて見せた。

 

「さて、ご機嫌はこれで直るかな」

「わあ……!」

 

 それは絵巻物だった。

 神仙が池に遊んだり、動物が思い思いに遊び回る様が描かれている。

 

 麗羊が伯綺の「寵妃」になってからはや数日。

 伯綺はこのように麗羊に珍しいものを見せては、その反応を楽しんでいた。

 麗羊からおかしな夢を引き出すために刺激を与えているのだけれど、事情を知らぬ周りからは、妃を甘やかす帝とそれに応える妃が睦まじくしているようにしか見えない。

 

「なんだ、高いところより絵巻物が好きか」

「ええ。とっても綺麗。絵の技巧についてはわかりませんが、ほのぼのして好きです」

 

 淡い墨でさっと描かれた筆使いからは、猫のしなやかな毛並みや、仙女の優しいまなざしが伝わってくる。

 まじまじと覗き込む麗羊は、絵の一部分に目を留めた。

 

「ご覧ください、陛下。この羊、一頭だけ逆を向いてますよ」

「ん? ああ、これでは置いていかれるだろうに」

 

 麗羊が指したのは群れを作って移動する羊の塊だ。その中に一頭だけ、列とは逆を向いた羊が描かれている。

 伯綺の頭に、このままでは群れからぽつんと取り残される様子がありありと浮かんだ。

 

「……置いていかれる、か」

 

 それもまた、ひとつの悪夢だ。

 周りの者とは違うもの。

 違う時間を生きるもの。

 去りゆく友を見送るばかりで、気づけばひとりきり。

 伯綺の――人ならざる力を持つものの有り様は、そういうものだ。

 

「きっとこの子が長なんですね」

「……は?」

 

 思いがけないひとことに、伯綺の思考が断ち切られる。そんなことなど露知らず、麗羊は逆向きの羊に思いを馳せた。

 

「もしくは他の子たちより勘が鋭いとか。美味しそうな草を見つけたりして。きっと物怖じせずに群れからぴょこんと出ていきますよ。そうしたら周りの羊たちも何があるんだろうって、おっかなびっくり着いていきます。それにつられて他の子たちも……って、あっという間に行き先が変わって、もこもこの大移動ですね」

「……」

「その上に乗っていたら大変ですよね。あっちへふらふら、こっちへふらふら。落っことされちゃうかもしれません。もし眠ってしまっていたらどうしましょう……」

 

 真剣に考え込む麗羊に、伯綺は茶々を入れず言葉を待つ。突飛な空想の行き着く先を聞きたくなったのだ。

 

「そうだ!」

 

 麗羊は、ぱちんと両の手のひらを打った。

 

「これだけの群れです。毛玉がたくさん落ちてるに違いありません! それを追いかければ羊を見つけられますよ。ああ、ここが神仙の国なら、羊の毛も何か別のものに変わるのかも……」

「別のもの?」

「ううんと……綿飴?」

 

 ふは、と伯綺は苦笑した。

 

「見た目のままではないか。突飛なことばかり並べたてて終わりがそれか。そなた、よほど腹が減っておるのだな」

「ち、違います……!」

 

 月餅に引き続き綿飴。伯綺がからかうのも無理はない。

 居た堪れずにもじもじとうつむいた麗羊の頭をぽんと撫で、伯綺は岩了に視線を遣る。

 岩了は音も立てずに伯綺の前に膝を着いた。

 

「何か菓子を持ってきてやれ」

「……はっ」

 

 踵を返しかけた岩了に、慌てて麗羊は声をかけて呼び止めた。

 

「ま、待ってください! そのようにお気遣いなさらずとも大丈夫です。私のことは気になさらず……」

「麗羊様」

 

 きっと目を細めた岩了のまなざしに、麗羊は伸ばしかけていた手を引っこめる。

 

「わたくしのお仕えしているのは陛下です。あなた様の命令を聞く謂れはございません」

「は……はい……」

 

 頬を引き攣らせ固まった麗羊を見て、伯綺はひらりと手を振った。

 

「麗羊が怯えている。も少し手心を加えてやれ」

「それが、陛下のご命令とあらば」

 

 角張った物言いを残し、岩了は部屋を後にした。

 麗羊が肩の力をゆっくりと抜くと、それを待っていたかのように伯綺は膝の上に麗羊を抱き上げる。

 

「ひえっ、な、何のおつもりですか!」

「ん? 恐ろしい思いをしただろうから慰めてやろうと思ってな」

 

 麗羊が落ちないようにしっかりと抱え込んだ伯綺は、よしよしと子どもをあやすように麗羊の頭を撫でる。

 男女の触れ合いというより、親が子の面倒を見るような手つきだ。

 麗羊は複雑な気持ちになりながらも、手持ち無沙汰になって両の指を合わせた。

 

「岩了様のことでしたら、別に……岩了様は長く伯綺様にお仕えしているのでしょう?」

「ああ。獏ではないが、それに近い間柄の先祖返りだ。人にしては長く吾に仕えてくれている」

「それでしたら、いきなり私のようなものがしゃしゃり出てきては、良い気持ちがしないのは当たり前です」

「……そなたは本当に優しいのだな」

「そう……ですか?」

「自分の意思と無関係に環境が変わった。口さがなく言う者もいる。なのに他者の気持ちに寄り添うだけの余裕がある。……いや待てよ。優しいというよりは強い、か。麗羊、そなた実はなかなかの胆力があるな?」

「か、買い被りすぎです!」

 

 麗羊はぶんぶんと首を横に振った。その勢いで髪の束が伯綺の顔を直撃したのだが、伯綺はあえて黙っておくことにした。貸しは多い方が良い。

 

「私は強くなんてありません。目の前の辛いことをどうやってやり過ごそうか、そんなことばかり考えてしまいます。裳についたお酒の染みを猫ちゃんみたいに勝手に消えてしまわないかなって想像したり、私のせいで侍女が大変な思いをしているのが心苦しくて、花束で罪滅ぼししようと思ったり……現実から逃げてばかりです」

 

 弱々しい笑いがこぼれ落ちる。伯綺は知らずのうちに麗羊を抱く腕の力を強くしていた。

 

「へ、陛下?」

「狡兎三窟(こうとさんくつ)、だな。賢い兎は予め巣穴に逃げ道を作っておく。戦う術を持たぬ兎も、しなやかな策を以て外敵から身を守るということだ。もっとも……吾の腕にいるのは、羊のようだが」

 

 伯綺は麗羊のうなじに鼻筋を擦りつける。柔らかい肌が触れる感覚がこそばゆく、麗羊の肩がぴくりと跳ねる。

 

「……っ、陛下っ」

 

 麗羊の声音が甘さを帯びる。その響きが伯綺にはたまらなく心地よい。

 悪夢を喰い、絶望や悲劇で胃の腑を満たしてきた己が内側から浄化されていくようだった。

 

「ふたりきりの時は、呼び方を変えるように申しつけたはずだが……?」

「へ? そんなこと、仰いましたっけ……? きゃあっ!」

 

 ぱちぱちと瞬きをして記憶をたどる麗羊だが、それは突然の鈍い痛みに邪魔をされる。

 伯綺がうなじに歯を立てたのだ。

 もちろん噛みちぎるつもりではない。甘噛みにも等しい悪戯だ。

 

「ふん、月餅は夢に出るほど覚えているくせに、吾の言いつけは綺麗に忘れるらしい」

「月餅を夢に見ろと仰ったのは陛下ではないですか……!」

 

 言いがかりにも等しい当て擦りだ。麗羊はほとほと困り果てるものの、伯綺はそれを楽しんでいる節があるから手に負えない。

 

「伯綺、と呼べ。名を呼ぶことを許す」

「は、伯綺……様」

「もう一度」

「伯綺様」

 

 麗羊が呼ぶたびに、伯綺は麗羊のうなじに唇を寄せる。麗羊は高まる鼓動を押さえながら、伯綺の求めるままに名前を呼んだ。

 

「そうだ。夢に見るくらい何度も呼べ。そなたの夢もうつつも、吾で満たしてやる」

 

 次第に麗羊の体から力が抜けていく。伯綺は長椅子に麗羊を横たえた。

 ふふ、と浮かされたように麗羊が微笑む。

 

「どうした、ご機嫌だな」

「夢まで伯綺様でいっぱいになったら……伯綺様はご自分を召し上がることになってしまいますよ?」

「……」

 

 確かに麗羊の言うことは正論だった。

 伯綺は己で己を喰う姿を想像して無言になる。

 

「……伯綺様?」

「まったく、史上最悪の悪夢を喰わせようとするとは……我が妃はとんだ食わせ者だな」


 吐息だけで笑った伯綺は麗羊の鼻先に軽く噛みつく。

 麗羊は鼻を押さえて目を丸くした。

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