第2話 火継の儀
結局、光莉の口車に乗せられる事になった赤田。一見は落ち着いた雰囲気の民宿だが、やはり何かがおかしい。光莉の目的も分からないままアルバイトを続けるが…。
2人は言いつけの通り早く寝た。本当に疲れていたためか、あるいは思惑があるのか光莉はすぐにベッドに飛び込み就寝した。赤田は不思議に思いつつ彼女が狸寝入りしているのではないかと疑ったが、しっかり寝息を立てている事を確認した。再三念を押された通りに室内のカーテンは全て閉じておいた。
それで今日という1日は終わった…かに思えたが、赤田は外からの雨音と風音に目が覚めてしまった。彼女は目を擦り時間を確認する。23時34分。何とも微妙な時間に起きてしまった。
オオオ…オオオオ……。
まるでうめき声にも聞こえる風音に不気味さを覚えつつ上体を起こす。何故眠れないんだろう。不慣れな寝具だから?いや、修学旅行で眠れなかった事はなかったはずだ。赤田は思考の巡りの遅い頭で考える。
そう言えば、光莉は抜け出して良からぬ事をしていないだろうか?そう思い赤田は光莉の寝るベッドの方を見たが彼女は静かに寝ている。うつ伏せになって顔を枕に埋め、枕の端を両手でしがみついてた。
「ちょっと不安になる寝相よね」
赤田は大きく体を伸ばすとコップ一杯ほど水が飲みたくなり、音を立てない様に床に足を付いた。
バンッ、バンッ、バンッ!!
「?!」
激しく物を叩く音が聞こえた。赤田は驚いて小さく飛び上がる。ぶわりと嫌な汗をかいて物音のする方角を探す。
バンッ、バンッ、バンッ!!
窓だ。窓の方から音がする。赤田は窓の方を向いた。
オオオオ…オオオオオオオオ…。
うめき声の様な風音、叩きつける様な雨、耳をつんざく窓を叩く音。赤田はそろりそろりと動く。窓を叩くのは誰だろうか。古池と加藤はあり得ない。彼らが赤田達に用事があるなら室内からスタッフルームの戸を叩くはずだ。窓を叩く必要はない。
近所の人だろうか?いや、それもあり得ない。赤田達は今日ここに来たばかりだ。来客もない。用事があるのなら正面玄関からだろうし、そもそも時間が時間だ。普通の人間であれば不自然が多過ぎる。
「泥棒…?」
赤田は小声で呟いた。しかしそれも変だ。物を盗むのならまず侵入を試みるのに窓を叩いてみたりしない。金槌やバールで叩き割るはずだ。そこまで考えて赤田は血の気が引く。
「う、嘘でしょ?」
幽霊。赤田の頭に思い浮かんだのはその二文字だった。ゴクリとツバを飲んで一歩ずつ窓に向かって歩く。怖い。逃げ出したい。そんな怖さもあったが、正体を確かめたいと言う好奇心にも駆られた。
カーテンの所まで後一歩の所まで来た。この先に窓を叩く正体がいる。赤田はおそるおそるとカーテンの裾に手を伸ばす…。
…バンッ!!!
「っ!!」
やはり赤田は怖くなってベッドに引き返した。それから布団の中に全身を埋めて外の存在が中に入って来ない様に祈る。
窓を叩く音はしばらく続いたが、赤田はしばらくするとそのまま眠ってしまった。
朝の7時42分に赤田は目が覚めた。朝早くから何度か鶏の鳴き声に起こされていたが時間まで余裕があったので二度寝、三度寝していた。しかしそろそろ支度をしなくては。そう思い赤田は光莉を起こそうとしたが既に布団は片付けられておりどこかへ行っている様だった。
「どこかへ行くなら一声かけてくれればいいのに」
そう言って身だしなみを整えるとスタッフルームを出た。既に仕事を始めている加藤に挨拶を済ませると光莉を見なかったか尋ねた。何でも散歩に出かけたとの事で7時頃には民宿を出て行ったらしい。赤田は気になってどこまで出かけたのか確かめるために民宿の外に出た。
すると光莉は玄関からすぐ隣の鶏小屋の前に座っおり、鶏の嘴の前に人差し指を突き出してひょいひょいと器用に動かしながら嘴を避ける遊びをやっている。
「何やってんの」
「見て分からない?遊んでるの」
突かれたら痛いだろうに。赤田は呆れてそのやりとりを眺めていると1つ気になった。
「…あれ?昨日は1羽だけだったっけ?」
「言われて見れば減ってるわね」
「鶏泥棒?」
「盗んで行くとしても1羽だけ置いていくかねえ?」
「悟が持って行ったんだ。泥棒じゃないから安心してくれ」
いつの間にか加藤がすぐ隣に立っていて2人共驚いた。何かのコントの様に大袈裟に驚かれるもので加藤はそんなコミカルな2人に呆れ笑いした。
「何でぇ人をお化けみてえによぉ。それより朝ご飯できたぞ」
「「はーい」」
3人は今日も食堂へ向かう。そして今日も美味しい朝ご飯と共に今日と言う一日が始まった。味噌汁はもちろん、漬物やごま豆腐が美味しい。光莉はやはり絶賛する物で加藤も素直に嬉しそうだった。
箸が進んでる途中で加藤はふと話を切り出した。
「昨日は随分と雨が酷かったな。2人共よく眠れたか?」
「そう言えば地面が湿ってましたね」
光莉は呑気に言った。赤田は昨日の出来事を思い出して思わずゾッとした。素直に話すべきだうか。迷っている間に加藤は続ける。
「この民宿も建ってから長いからな。風が吹くと窓もうるさくてかなわん。眠れたならいいんだ」
それを聞いて赤田は少しホッとした。昨日は風が強かった。怖がりなのに光莉が心霊スポット巡りのためにここに来たと言うものだから、それで幽霊の仕業だと決めつけていたのかもしれない。
ガチャリ。遠くで音が聞こえた。廊下を歩く足音と共に現れたのは古池だった。
「おはよう、昨日は雨が酷かったけどよく眠れたかな?」
彼は赤田と光莉を交互に見る。
「ええ、まあ」
「ええ、そんなに酷かった?」
光莉は首を傾げる。
「そっか。眠れたなら良かった」
安心する古池を尻目に加藤は席を離れると古池の分のご飯を運んで来た。古池は食卓に座ると一言お礼を言ってから朝ご飯を食べ始める。彼はあまり眠れてない様で口元で隠しながら欠伸をしたり目を擦ったりしていた。
「またすぐに出かけるのか?」
加藤の言葉に古池は頷く。
「あまり無理をすると身体に良くないぞ」
「分かってるよ。でも手を抜けないんだ。仕方がないだろう?」
「まあ分かるが…」
加藤は身を案じているようだが古池は聞く耳を持たない。火継の儀について尋ねるなら恐らく今だろうが…赤田は話を切り出すタイミングを見計らった。しかし2人の会話に割って入ったのは光莉だった。
「上手く行ってないんですか?漁火作り」
「いさり…?」
火継ぎの儀ではない。また聞いた事がない言葉が出て来た。漁火とは魚を誘い集めるために船上で焚く灯りの事だ。赤田は光莉の目を見ると彼女は好奇心に満ちた目をしている。どうやらここに来た目的とやらに関わる事らしい。本来止めるべきとは思いつつ興味があらので赤田は口を噤んで話に耳を傾けた。
漁火と言うワードが飛び出して来て一番驚いているのは古池の様だった。彼は困った顔で頭を掻いた。
「そうだけど…珍しいね、その事を知ってるなんて。怖がらせるかなって思って黙ってたんだ」
「うふふ、私そう言うの好きなんです」
「やめなさい、不謹慎でしょ!」
赤田が光莉の肩を叩いた。彼女は我ながらなんて白々しい、なんて自分の頭を叩いてやりたい気持ちになった。
「いいんだ。色々と理由があって具体的な作り方は教えられないけど、興味があるなら見せてあげるよ」
「わーいやったー!」
いかにま子供っぽく喜ぶ光莉にため息をつく赤田と加藤。加藤はご飯を食べてしまったらしく食器を片付けながら言った。
「今から船小屋に行って漁火を見せるって言うなら仕事の時間に間に合わんぞ。お前の話は長いからな。こっちの業務はどうするんだ」
「赤田さんと2人で何とかなるだろう?どうせ掃除だけでお客様もいないし」
古池はあっけらかんと言ってのける。加藤は色々と言い返してやりたい様なむず痒い顔をしていたがやはり民宿の主人にそう言われてしまっては返す言葉も見つからないらしい。
「あのっ、私も行きたいです!」
置いていかれると思ったのか赤田はすかさず言った。加藤は呆れて肩をすくめた。
「何でえ2人して変わってんな。勝手にしろい。どうせ大して面白いもんじゃねえぞ」
「やっぱり碧も興味あったんだね」
「まあ…」
光莉のニヤケ顔が腹立った赤田だが、図星なので言い返しようがなかった。
主人の許可は得てるとは言え業務を放り出して出かけるのだから加藤は不機嫌になるのではないかと心配していた赤田だったが、見送る時は普通に「散らかってるから足元には気を付けてくれ」などと言葉をかけられて驚いた。船小屋で説明を終えたら古池はその場に残り、2人は民宿に帰らなければならないので古池は別々の車で出かける事になった。
船小屋は病院へ向かう方角と反対方向にあった。三角屋根の連なったボロボロの木造小屋が見えてくるとその近くの狭い駐車場に古池は車を停めた。赤田も近くに車を停める。
古池に案内されるままに2人が船小屋に入ると確かにロープやら名前の分からない金属の部品やら木材やらと物が雑に置かれていて危なかった。赤田は躓きかけた所を前を歩く光莉が掴んで支えた。
「大丈夫?」
古池が振り返りながら言う。
「すみません、大丈夫です。何というか…外観から想像できない物があったので…」
船小屋の中に入って目に入って来たのはまるで小さな神社の様な内装だった。ただ奇妙な事に御神体らしい物が見当たらない。ただ変わりに部屋の真ん中には紗綾形の様な模様の入ったキューブが置いてあった。
光莉は他には目もくれずにキューブの元へ走る。それを近くでまじまじと眺めた。
「凄い、これが漁火なんですね!」
「ははは、まだまだ未熟で不格好だけどね」
「漁火って何なんですか?…とても、魚釣りをするための道具には見えませんが…」
「うん。これはね、海難事故で亡くなった方々の魂をあの世に導くための灯火なんだ。集めるのは魚じゃなくて彷徨う魂なんだよ」
イサカ村は昔から水難事故で亡くなった人々の霊魂が流れ着きやすく、この辺りの海域には大勢の死霊が彷徨っているらしい。本来の鳥居は聖域との境に位置し不浄の物を拒む結界となっているのだそうだが、イサカ村の海にそびえ立つ鳥居は死者の魂をあの世へ導くためにある特殊な物となっている。
しかし死霊には鳥居が見えないらしい。これをどうにかすべく古池の家系は海に建つ大きな鳥居にこの漁火と言うキューブを持って行き、キューブに火を点けて投げ込むらしい。漁火よって死者に鳥居の位置を知らせる事でより多くの彷徨う死者の魂をあの世へ連れて行ける仕組みになっている。
しかし漁火の輝きは半年しか持たず、また効力を失うと鳥居から離れて行ってしまうため、古池の家系は代々こうして半年に一度は漁火を用意して交換するらしい。火を絶やさないための儀式、それを火継ぎの儀と言うのだそうだ。
「僕はここで1つでも多くの漁火を作れる様に頑張っているんだ。製法上の問題で作り置きができないから、いつもこの時期は大変でね。漁火に点けた火はすぐに消えちゃうんだけど、それでも死霊と一部の人には明るく輝いて見えるらしいね」
加藤の忠告通り古池の話は長かった。光莉が特に興味津々に尋ねる物で話は殊更に続いた。おかげで謎は解けたが赤田は途中でやや退屈する事になった。
「お土産に1つ欲しい〜」
光莉が呑気な事を言う。赤田は彼女の頭を叩いた。古池もさすがに苦笑いする。
「あはは、よそでは見ない珍しい物かも知れないけど絶対に持って帰っちゃ駄目だよ。本当の本当に、洒落にならない事になるからね」
「は〜い」
そうして古池は新しい漁火作りに着手した。赤田達は邪魔にならない様にすぐに民宿ふるいけに帰る事にした。
その日の業務を終えて私服に着替えて晩御飯も済ませ、2人はスタッフルームで寛いでいた。光莉はしばらくベッドで横になってSNSを眺めていたかと、急に立ち上がった。大きく体を伸ばしてから赤田の方を向いた。
「ごめん、ちょっと散歩に行って来る」
「私もついて行っていい?」
「いいよ」
お風呂の時間まで暇を持て余しておりイサカ村にいてもやる事は多くない。昨日の事もあって夜を迎えるのが少し怖い。更に赤田の頭の中で引っかかっているのは今朝の古池と光莉の会話。漁火は上手く行っていない。彼女はこの事が気になっていた。つまり、昨日窓を叩いていたのは…。
2人は浜辺を一緒に歩く。潮風が涼しくて気持ちがいい。まだ高い位置にある太陽を赤田は眺める。光莉は裸足になって足だけ海水に浸けている。
赤田の視線は自然と鳥居に向いた。古池の話によればあの辺りに漁火があるのだろう。彼女はどうしてあの鳥居に視線が釘付けになるのか理解できなかった。何故か目がそちらに行く。
「えっ…」
身体が動かない。指先から目線まで全く動かない。太陽が、まるで早送りされてる様に沈んでいく。
「あっ…」
夕日が厚い雲に飲まれた。仄暗いベージュ色に空が染まる。
少しずつ辺りが暗くなる。真夏だと言うのに薄ら寒い。目は動かないが恐らくそこにいるはずの光莉の姿さえ消えている。
ズル…ズル…。赤田の視線が勝手に下に落ちる。気が付くと海には真っ白いナメクジのような物が米粒の様に点々と浮いていた。浜辺にはその白い物が…手足を使って這っていた。それはやがて立ち上がり、ゆっくり、ゆっくりとこちらに近付いて来る。
真っ白で、やや薄緑色を帯びた物体。それは人の形をしていた。
ズル、ズル、ズルと音を立てて這って浜辺から出て来る。
「いや…」
オオオ、オオオオ…。
海を埋め尽くすうめき声。這って来たそれが苦しげな声を出す。
「いや…!」
薄緑色を帯びた白い、ぶよぶよの物体は立ち上がった。顔は膨張してやや垂れ下がっている。
「いや、いや!!たす…け…」
動けない。動けない。動けない。
真っ白い物体は少しずつ歩み寄る。
少しずつ、少しずつ、その指が、すぐそこまで…。
「あ…あ……」
「来ないで、いや!!いや!!!助けて、助け…!」
「あ、碧!!落ち着いて!私よ、灯だって!!」
泣き叫ぶ赤田を光莉は揺さぶる。赤田は大声で喚きながら暴れる。光莉は何度も何度も赤田の名前を呼ぶ。殴られても構わず赤田にしがみついて声をかけ続けた。
「やだ、やだあ…」
やがて赤田の抵抗がなくなると灯は彼女之背中を擦った。
「…灯?」
赤田はハッとして顔を上げて光莉の方を向く。彼女はやや息を荒くして青ざめていた。
「私…」
何が起きたのか分からない。顔を上げると雲から顔を出した夕日が少しずつ傾いていた。足が重い。気持ち悪い。彼女は視線を落として足元を見ると靴を履いたまま海面まで歩いていたらしく砂に足が埋もれている。
「??」
「碧…、まず、海から出よう?お願い。私の言う事を聞いて?」
光莉は半泣きでそう言う。赤田は少しずつ状況を整理する。先ほどの出来事からかなり時間が経っているらしい。赤田は浜辺で鳥居を眺めていたはずだが、気が付くと足首まで海に浸かっている。そばには今にも泣きそうな顔をしている光莉。
まずは光莉に従って海から出る赤田。
「どうしちゃったのよ…。ぼーっと立ち尽くしてたかと思えば急に半狂乱で叫んで、変な足取りで海に向かって歩いて行くし…。私、怖かったんだからね?」
「ごめん。覚えてない。鳥居を眺めてたら…海から変なのが這い上がって来て…」
「…お風呂に入りましょ。これ以上、海にいるのは良くないと思うの」
「うん…」
そうして民宿に戻ろうとする所に血相を変えて駆け寄って来る加藤の姿があった。
「何があった、大丈夫か!!」
「え、ええ。まあなんとか…」
光莉が力なく笑った。赤田はまだ頭がぼんやりしているらしく、先程の顛末は光莉が加藤に説明した。彼はその話を聞いて眉間にシワを寄せて頭を掻いた。
「まずいな…。光莉、まずは赤田をお風呂に入れてやってくれるか?車で春子さんの所へ連れて行く。もう二度とこの村の浜辺には近寄るな」
詳しい事は説明しなかったが何やら差し迫った状況なのは間違いなかった。光莉は何も聞き返さず言葉に従い一度民宿ふるいけへ連れて行き、赤田を浴室へ連れて行き身体を洗った。「身体ぐらい自分で洗えるよ」と赤田は言うが、目線は明後日の方を向いてて定かではない。
それから体を拭いてお風呂から上がり着替えると光莉は加藤の元へ赤田を連れて行く。加藤は怒鳴り声に近い声で誰かと話している。
「悟!いい加減にしろ!!火継の儀は中止だ、今すぐに戻れ!!この異常事態……チッ、あの馬鹿野郎…」
苦虫を噛み潰したような顔をして電話を切る加藤。2人が来たのを確認すると彼は困惑した。
「来たか。春子さんの方には話をつけておいたぞ。……お、おい。赤田の方は体は拭いてやってないのか?」
「え?」
光莉が後ろを向くと赤田の体は確かに少し濡れている。そんなはずはない。体を拭いてドライヤーまでかけたはずなのだ。それなのに彼女の体の至る所からポタリポタリと水滴が滴っている。
「汗かな」
赤田はヘラヘラと笑った。
「そんな訳ないでしょ!」
光莉は悲鳴の様に叫んだ。この異常事態を冷静を通り越して呑気に笑う赤田に凍りつく光莉。赤田の足元には小さな水たまりが出来ている。もはや汗では説明できない量だ。
「何だか眠くなって来ちゃった」
まるで眠気を我慢する子供の様な声色で立ちながらうとうとしている。
「碧、しっかりしてよ!」
「霊障かもしれん。とにかく春子さんの所へ急ぐぞ。赤田が寝たら何が何でも起こすんだ。いいな?」
「うん…」
加藤は赤田に肩を貸して民宿ふるいけの玄関前に停めた車の後部座席に乗せる。少しずつ気を失いつつあるらしくシートベルトを装着するのにも手間がかかった。そればかりか赤田の体温は先程まで温かい水を浴びたとは思えないほど冷たくなっていた。
「赤田、絶対に寝るんじゃねえぞ!光莉、しっかり見張っててくれ」
そうして車は病院に向かって発進した。今、この瞬間からも赤田の体からは水が溢れて座席を濡らし続けている。光莉は何度も何度も赤田に声をかけている。赤田はその度に俯きがちに力なく返事を繰り返した。
やがて病院に着くと春子は看護師からの制止も聞かずに入口前に立っていた。
病院前に車を停めて加藤達は後部座席から赤田を引きずり降ろす。
「2人とも、両側に回ってその子の腕をしっかりと掴んでおくんだよ!」
険しい表情の春子がそう言うと加藤と光莉は言われた通りにする。赤田はもはや自力で立つ事も出来なかった。全身からはビチャビチャと音を立てながら夥しい量の水が溢れている。この異常事態を見て後ろの看護師や医者はもはや止めようとはせず春子の行動を静かに見守っていた。
赤田は目を閉じて眠りかけており、一刻の猶予も許されない危険な状態にあった。
「碧…」
「気を抜くんじゃないよ!!友達を助けたかったら何が何でもその子を離したら駄目だからね!!」
いきなり怒鳴られて驚く光莉。そうだ。弱気になってる場合ではない。友達を助けなくては。光莉は意を決して赤田を強く掴む。冷たい水が自身にもかかる。唇に触れる水はわずかにしょっぱい。
春子は何か呪文の様な言葉を唱え始めた。すると彼女の袖から折り紙がスルリと現れ、赤田の顔の前で何かに縫い留められた様に制止する。春子が指で空中に字を書くと折り紙は何やら様々な動物に近い形を変える。何度か形を変えるとやがて折り紙は正六面体の箱になった。
箱は光を放ち、海の方へ飛んで行く。その瞬間、春子が赤田の顔を手で鷲掴みにした。すると、まるで排水溝に水が勢い良く飲まれていく様なゴボボボッと言う音と同時に赤田から大量の水が溢れた。それは赤田ばかりか光莉や加藤を覆う程の水量であり、飛んで行った箱の方へ勢い良く流れる。
「っ…」
赤田から流れる水の勢いは強く、両側から掴んでいる2人共流されそうになる。
「踏ん張りな!今が堪え時だよ!!」
連れて行かれる。連れて行こうとしている。赤田に纏わりついていた水は海へ導かれると同時に赤田を連れてこうとしている。光莉と加藤は必死に踏ん張り赤田の腕を離さないようにした。
やがて水が全て抜けると、赤田はその場にぐったりと倒れた。
「…あの、碧はどうなったんですか?」
光莉がおそるおそる尋ねる。
「大丈夫だよ。少し寝かせておやり」
先程とは違い穏やかな顔になった春子。
「春子さん、これからどうしたら…」
「谷池神社へ行くんだ。あそこの神主なら私の名前を出せば匿ってくれるだろう。私が良いと言うまで民宿には戻るんじゃないよ。悟には濁の日と伝えて今すぐに引き返して避難する様に伝えるんだ」
「分かりました…」
会話を終えると春子は3人には目もくれずに踵を返した。
加藤達は春子の言葉に従い谷池神社へ向かう事にした。2人で赤田を車の後部座席に寝せ、光莉と加藤は前部座席に乗った。加藤はスマホを取り出し古池に連絡する。少しコールが鳴ってから彼は出た。
「悟、悟か?!よく聞け、今、俺達は春子さんの所にいるんだ。濁の日。つまりもう手に負えないとよ。分かるだろ?今すぐに引き返してくれ!!」
『ん?ああ…。母さん、今頃気が付いたのか。良かった』
「何がいいもんか!まだ夕方だってのに赤田が霊障で殺されかけたんだよ!!今すぐに引き返せ!!」
『…加藤、火継の儀のやり方は覚えているか?俺達、まだ若い頃の母さんに習ったよな』
「はあ?そりゃ、まあ覚えてるが…。いや、待て!早まるな!」
プツッ…。電話が切れた加藤はスマホを振り上げ、投げるのを堪えてズボンのポケットに入れた。
「古池さん、どうかしたんですか…?」
光莉が尋ねる。加藤はスマホを胸ポケットにしまって車を発進させた。
「…すまねえ。まずは船小屋へ行く。あの馬鹿を止めねえと」
一万文字ぐらいに収めようと思ってたら二万文字超えてました。水に漬けた乾燥ワカメが脳裏に浮かんだんですよね。




