『あなたの子供を産みます』
しがないサラリーマンである男の日常は、常に灰色だった。
その日も、安酒の匂いを身にまとった足取りで、狭いアパートへと帰り着いた。
ポストから溢れんばかりのチラシを無造作に掴み取り、玄関の鍵を開ける。
部屋の明かりをつけると、埃の舞う殺風景な空間が男を迎え入れた。
投げ出したチラシの束の中に、一枚だけ、異質な手触りの紙があった。
上質な厚紙に、端正な明朝体でこう記されている。
『あなたの子供を産みます』
裏面には、精液を専用のシリンダーに入れ、同封の返信用封筒で送れという、あまりにも突飛で不気味な手順が書かれていた。
「はは……なんだよ、これ。新手の詐欺か?」
酔った頭には、その異常さがかえって滑稽な冗談に思えた。
独身、恋人なし、未来に希望などない自分。
男は自嘲気味に笑いながら、酔いに任せてシリンダーを握った。
一時の慰みと、ほんの少しの悪ふざけ。
夜の静寂の中で、男は自分の「種」をその筒に注ぎ込み、千鳥足で夜のポストへと投函した。
それが、すべての始まりだった。
それから二年の月日が流れ、男がその夜の出来事を記憶の底に沈めていた頃。
休日の午前中、無機質なインターホンの音が鳴り響いた。
ドアを開けると、そこには糊のきいたシャツに三つ揃えのスーツを着こなした、非の打ち所がないほど整った身なりの男が立っていた。
その腕には、白いおくるみに包まれた小さな塊がある。
「――お待たせいたしました。あなたのお子様を届けに参りました」
男の言葉に、心臓が跳ねた。
冗談だろうと笑い飛ばそうとしたが、差し出された書類には、あの夜の出来事と、完璧な一致を示すDNA鑑定書が綴じられていた。
「女の子です。健やかですよ」
呆然とする男の腕に、温かくて重い、柔らかな生命が預けられた。
「諸々の手続きや育成に関するガイドラインはこちらのパンフレットに。何かございましたら、こちらへご連絡を」
丁寧な会釈を残し、スーツの男は風のように去っていった。
残されたのは、静まり返った廊下と、腕の中でかすかに動く赤ん坊、そして得体の知れない現実感の欠如だけだった。
戸惑いは、やがて日常に溶けていった。
人間という生き物は恐ろしいほど適応力が高い。
慣れない育児に奔走し、夜泣きに頭を抱え、彼女の成長を記録するうちに、男の灰色だった世界には少しずつ色がつき始めていた。
娘は十六歳になった。
彼女は、男にはもったいないほど完璧な少女に育った。
学業は優秀、立ち居振る舞いは優雅で、それでいて父親である男をいつも気遣う優しさを持っていた。
(本当に、俺の血が繋がっているんだろうか)
ふとした瞬間にそんな疑念がよぎることもあった。
あの奇妙な出自を思えば、彼女が「造られた存在」であってもおかしくはない。
だが、たとえ血の繋がりが虚構であったとしても、この十六年間の日々は本物だった。
彼女がいれば、それだけで人生は順風満帆だと思えた。
しかし、その平穏は唐突に終わりを告げる。
ある日の夕暮れ。
仕事から帰宅した男は、リビングのソファに座る娘の姿を見た。
彼女の手には、かつて見たあの厚紙と同じ質感のチラシが握られていた。
そこには、大きな文字でこう書かれていた。
『母体募集中』
男は血の気が引くのを感じた。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
「……それを、どこで」
娘は静かに、しかし一点の曇りもない瞳で男を見つめた。
「お父さん、私、決めたの。私が生まれてきたときと同じように、私も誰かの子供を産みたい」
「何を言ってるんだ! そんなこと、許せるわけがないだろう!」
男は叫んだ。
それは倫理的な拒絶以上に、彼女を失いたくないという身勝手な恐怖だった。
だが、娘の決意は岩のように固かった。
彼女はいつになく穏やかな微笑みを浮かべ、男の前に膝をついた。
「育ててくれてありがとう。お父さんのおかげで、私は自分の役割を知ることができたの」
「役割? 役割なんて、そんな……!」
説得の言葉を重ねようとしたその時、再びインターホンが鳴った。
男が止める間もなく、娘は迷いのない足取りで玄関へ向かい、ドアを開けた。
そこには、十六年前のあの男を彷彿とさせる、きっちりとした身なりの女性が立っていた。
女性は一言も発さず、ただ深く一礼する。
娘は一度だけ振り返り、男に優しく、そして冷徹なまでの決別の微笑みを向けた。
「お元気で、お父さん」
二人の影は、夕闇の中に溶け込むように消えていった。
開いたままのドアから、冷たい夜風が入り込む。
誰もいなくなったリビングで、男は膝から崩れ落ちた。
彼女が座っていたソファには、もう温もりさえ残っていない。
男は顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
かつて自分が酔狂で投げ込んだ一通の封筒が、こんなにも残酷で完璧な円を描いて自分のもとへ帰ってきたことに、ただただ噎び泣くしかなかった。




