第4話 ゲームの外側から来た男
世界のエンタメ企業は、宝よりも「怪盗L」の方に価値があると思っている。
彼は“セキュリティの弱点”を見抜く天才であり、
完璧を名乗る防犯システムは、彼が破って初めて本物になるからだ。
だから今日もまた、どこかの企業が宣言する。
「怪盗Lよ。うちの防犯ゲームを攻略してみろ。
クリアできるなら、宝くらいやるさ」
そして、Lは必ず応える。
「面白そうですね。
あなたのセキュリティは、どんな“穴”で僕を迎えてくれるんです?」
深夜のオフィス街。
雲は街灯を呑み込み、巨大企業《GD社》の本社ビルだけが、
黒い空に刃のように浮かび上がっていた。
ビルの外壁には、絶えず動き続ける光の模様。
それは社長の趣味ではなく、
**“常時自己更新する防壁アニメーション”**そのものだった。
通りすがるだけで、肌に薄い静電気が刺さる。
この建物は、存在自体がセキュリティだ。
エントランス前で、二人の若手社員が夜勤の交代を待ちながら話していた。
「今日のD-CORE、軍の依頼でテスト走らせたらしいですよ」
「また? ここ半年で何件目だ」
「でも結果はいつもと同じ。“全件防御成功”だってさ。
……怪盗Lが来るとか、騒いでた連中、馬鹿みたいっすよね」
もう一人が笑う。
「来ても無理だろ。ここは“意図を持った存在”を一瞬で弾く。
あいつがどう天才でも、心拍も脳波もゼロにはできねぇよ」
二人は少し誇らしげだった。
このビルに勤める者なら誰もが知っている。
GD社のセキュリティは、挑戦者を“心の揺れ”だけで感知する。
いまの技術では突破不可能なのだ。
ふいに天井のセンサーが青く瞬き、
三次元ホログラムの警備AI《GATE-DREAM》が起動した。
「巡回完了。外周異常なし。
本日の感情ノイズ値は基準範囲内です」
「優秀すぎるよな、こいつ。
前に軍が送り込んだ特殊部隊すら、
“入ろうとした瞬間”に追い出されたって話だぞ」
社員は半ば呆れたように肩をすくめた。
そのとき、
ゲート前のモニターに微弱なノイズが走った。
《GATE-DREAM》のアバターが瞬き、外を見る。
男が一人、歩いて来る。
コートの裾は風にまったく揺れず、
歩幅はメトロノームのように一定。
まばたきすら、計測可能な周期で統一されている。
奇妙なほど“波がない”。
「誰だ? あんな歩き方……」
社員が眉を寄せる。
AIが分析を始めた。
「……感情波形、平坦。
意図波形……検出できず。
識別結果——《背景ノイズ》」
「ノイズ? 人間が?」
そんなはずはない。
“意図ゼロの人間”など存在しない。
少なくとも、GD社のセキュリティはこの半年で
ノイズ誤認を一度も起こしていない。
軍の訓練生たちですら、近づくだけで弾かれたのだ。
だが《GATE-DREAM》は迷わずゲートを開いた。
「……どうぞ」
男は軽く会釈し、
まるで会社帰りのサラリーマンのような顔で中へ歩いていった。
「ちょ、ちょっと待て。今の……本当にノイズ?
おい、GATE-DREAM!」
AIは静かに答える。
「基準外の波形は検出されませんでした。
“ゲーム参加者”ではありません」
社員たちは状況が理解できず、顔を見合わせる。
だが、GD社のAIはミスをしない。
“絶対に”。
だから彼らはただ、
入口が静かに閉まっていくのを見送るしかなかった。
その陰で、男——怪盗Lは、
心拍を一定に保ったまま、無表情で黙考していた。
(まず一つ目。問題なし)
彼の靴音は軽い。
静かに、静かに、ビルの奥へ吸い込まれていった。
——誰も気づかぬまま。
最高峰の防壁のただ中を、
“ノイズ”が歩いていく。
ジャングルステージ
エントランスを抜けた瞬間、空気が変わった。
温度が三度、湿度が二十パーセント上がる。
床材が自然に沈み、靴底に柔らかい土の感触が広がった。
天井には樹冠のホログラム。
霧の粒子は本物と見まがう密度で漂っている。
視界の奥、霧の合間に金色の光点が淡く瞬いた。
ロボットジャガーの「瞳」だ。
本来なら、挑戦者がこの空間に“意図変動”を起こした瞬間、
ジャガーは反応する。
金属骨格の脚を地面に突き立て、
獲物の足音と心拍リズムを追うように、
熱源を探し、息遣いまでも計測する。
若い社員がよく言う。
「ここは鬱蒼とした森じゃなくて、“生きた罠”ですよ」
実際、昨日まではジャガーが訓練部隊をわずか六秒で捕獲した。
捕獲ログには容赦なく時間と数値が記録され、
挑戦者の強さよりも
「このステージ自体が異常に鋭い」ことが浮き彫りになっていた。
——だが今夜は違う。
怪盗Lが足を踏み入れても、森は眠ったままだった。
霧は動かず、風も吹かず、
光点のジャガーの瞳はただ暗闇を映すだけ。
AIの判定は——
《背景ノイズ》
Lは、まるで退勤途中のサラリーマンのような顔で歩いていた。
心拍は一定、呼吸は浅い。
意図波形は湖面のように沈黙している。
ジャガーのセンサーがLの熱を拾っても、
AIは“動かす必要なし”と判断する。
それは侵入者ではなく、
森の中を横切る風、
あるいは小さな動物の通過と同じ扱いだ。
ステージ中央には、
爪痕のように削れた地面があった。
昨日の訓練生が捕まった跡だ。
横たわっていたドローンの残骸が、
ジャガーの“素早さ”を雄弁に語っている。
Lはそのすぐ脇を通り抜けた。
何も起きない。
霧の奥のジャガーが、
まるで「理解不能の獲物」を前にして
じっと息を潜めているようだった。
(働かないジャガー……ブラック企業の被害者か?)
そんな軽い感想が、波紋ひとつ起こさずLの心に流れる。
足音は土に吸われ、
光点は遠ざかり、
ジャングルは再び完全な沈黙へと沈んでいった。
そこには誰も知らない事実がひとつだけある。
“このステージが沈黙した”という出来事そのものが、
怪盗Lの異常性を最も正確に証明していた。
ジャングルを抜けた先は、
一転して静寂が支配する白い空間だった。
壁も床も天井も、すべて鏡。
無機質なはずなのに、
そこに映る自分の姿だけが不自然なほど“生きている”。
鏡がわずかに呼吸している——そう錯覚するほどの微細な振動。
壁面は0.3秒ごとに反射角度を微調整し、
侵入者の行歩線、視線、心拍を読み取りながら、
**“迷路そのものが考えて動く”**ように造られている。
この区画で方向感覚を失った者は、
数十秒で出口を見失う。
一度でも「迷った」と思った瞬間、AIが動きを封じるからだ。
ここ数週間、この迷宮で捕まった挑戦者は二桁を超える。
精神が揺らいだ瞬間に壁が閉じ、
ホログラフィックの追跡光が全身のデータを吸い上げる。
——なのに。
怪盗Lが一歩踏み入れても、
鏡は何も反応しなかった。
壁の呼吸が止まったように静まり、
光学迷彩も動かず、
迷宮はただ“そこにあるだけ”になった。
AIの判断はまたも同じ。
《ゲーム意志ゼロ》
鏡の中のLは、
残業明けの会社員が“歩きすぎて現実味の薄れた自分”を見つめているような顔だった。
心拍も姿勢も、完全にフラット。
鏡に映る数十体の“L”が、すべて同じリズムでまばたきする。
本来なら、
この反射した無数の像から
**AIは“どれが本物か”“どんな意図を抱いているか”**を瞬時に割り出す。
わずかな目線の揺れ、
呼吸の間隔の変化、
肩の角度のズレ——
そうした“意図の波形”が迷路全体の構造を変化させるトリガーになる。
だが、Lの像はどれも、
完全に、均一で、無機質で、
“生体反応のテンプレート”のように揺らぎがなかった。
それはAIにとって、
**「解析する価値のないデータ」**だった。
正門のAIと同じように、
鏡迷宮もLを“背景ノイズ”と判定する。
迷路は一度も形を変えず、
壁は動かず、
光学迷彩も何の興味も示さない。
Lはしばし鏡に映る自分を眺め、
脱力したように肩をすくめた。
(迷宮の深呼吸が止まるとは……過労死寸前の部署かもしれない)
そんな感想すら、波紋を立てない。
心が淀まない人間は、このステージの前提条件の外にいる。
Lはゆっくりと迷路の奥へ歩いていく。
鏡に映る数十体の“L”も、機械のように同じ動きでついてくる。
やがて出口の光が見え、
鏡迷宮は何事もなく背後へ遠ざかった。
ほんの数分前まで、
十数人を閉じ込めてきた知性の罠。
今夜それが沈黙した理由を、
迷宮自身すら理解していない。
ただひとつだけ確かなことがある。
“この迷宮が眠り続けた”という異常が、
世界で最も正確に怪盗Lを定義していた。
最上階《D-CORE》(リライト案)
エレベーターが最上階で止まると、
空気が変わった。
ここまでのステージとは違う。
湿度の変化や光の揺らぎではない。
もっと明確で、肉体の深部に響く“圧”だった。
肌に触れた瞬間、
微細な静電気の粒子が毛穴の奥まで入り込み、
髪が一瞬、逆立つ。
廊下の壁一面に、
星座のような光点が無数に散らばっている。
それぞれが量子観測網のセンサーであり、
侵入者の存在を“波乱”として検知する——
はずだった。
このフロアでは、
たった一歩足を踏み出すだけで、
足裏の圧力と静電容量が即座に記録され、
脳波の乱れがあれば数兆分の一秒でアラートが出る。
そのデータを解析する専用サーバーは、軍から“過剰性能”と評された。
昨日もひとり、
訓練部隊の隊長がこのフロアに踏み込んだ瞬間、
波乱値が天井を突き抜けて、
自動封鎖が発動した。
ログには、赤い文字でこう書かれていた。
“観測不能の乱流。侵入者を排除しました”
——だが今夜は違う。
怪盗Lが歩みを進めても、
光点たちは微塵も騒がなかった。
壁に並ぶセンサーの星座は、
まるで“息を潜めた宇宙空間”のように沈黙している。
侵入者の歩幅を測るはずの床材も、
心拍を拾うはずの量子膜も、
Lの存在を“現象の一部”として処理していた。
AIがひとつ、判断を下す。
《背景ノイズ。解析不要》
Lの心拍は一定。
呼吸は浅い。
姿勢は無駄なく直線を描いている。
計測しようとすれば値を取れるはずなのに、
どのセンサーも“意図の波”を検出できない。
理論上、この部屋で“波乱ゼロ”の人間が存在する確率は、
ゼロのまま上昇しないはずだった。
Lはそのゼロの上を、何の抵抗もなく歩いていく。
部屋の中央には《データキューブ》が浮かんでいた。
立方体の内部で、量子鍵が毎秒更新されてゆく。
通常なら、
未登録者の接近に反応して鍵が不規則な変調を起こし、
触れられる前に停止する。
だが——更新パターンは驚くほど規則正しいままだった。
まるで“誰もいない”かのように。
Lは自然な動作で、
切り替わるタイミングに指先を合わせた。
ひとつリズムを刻むように、
カチリ、と静かに鍵が抜け、
データキューブが掌へ吸い込まれた。
その瞬間だった。
壁の光点がわずかに明度を上げ、
観測ログが一斉にざわめき始めた。
“波乱……?いいえ違う……何もない……?”
“だが鍵が……移動した……記録矛盾……?”
“理論上ありえない”
センサーは異常を“理解できず”、
ただ困惑だけが部屋に漂った。
背後のモニターがいつの間にか点灯し、
社長のアバターが浮かび上がる。
その表情は驚愕と、かすかな感嘆に満ちていた。
「……怪盗L。
D-COREが気づきもしないなんて……
本当に、“存在しない人間”なんだね、君は」
Lは振り返らず、
軽く手を上げるだけで応えた。
「穴があるんじゃない。
“ゲームのルール”が僕に届かなかっただけです」
センサーは最後まで、
追跡用の波乱値を検知できなかった。
ただのノイズを追うようなアルゴリズムは、
最初から搭載されていない。
Lは一歩、廊下へ足を踏み出す。
その音は、観測網からすれば“存在しない音”だった。
量子観測もAIも、
彼を追う必要がない。
——この部屋にとって、怪盗Lは現象ではない。
ただの揺れない空気だ。
データキューブのかすかな光が揺れて、
Lのシルエットを一瞬だけ照らした。
その瞬間、
D-CORE全域のログがようやく騒ぎ始めた。
だがもう遅い。
Lの姿は、
すでに闇の廊下の向こうへ消えていた。




