第19話『結の間 ― 五感の怪物』
扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
広大なホール——それなのに、外界から隔絶されたような圧迫感がある。
中央には、黒い霧の塊が蠢いていた。
霧は形を変え、獣のような影を作り、再びほどけて煙に戻る。
見ているだけで気分が悪くなる、不気味な存在だった。
「……あれが……監督の“最高傑作”……?」
ミラは喉を鳴らす。
「“五感の怪物”……映画でも最後に登場したやつだよ。
ホールいっぱいを霧で満たして、観客に幻覚を見せて……
監督が一番愛してる、あの……!」
ミラが言い終わる前に、霧が低い呻き声をあげた。
いや、声ではない。
“そう聞こえるように加工された音”だ。
次の瞬間、視界に赤い光が走った。
天井に仕込まれたプロジェクターが怪物の“目”を描き、床下から振動が伝わる。
焦げ臭さが漂い、足元にはざらりとした感触——
五感が同時に攻撃される。
「——来るぞ」
Lが短く言った。
「L、どうすれば……!」
「現時点で言えるのは……“これはただの霧ではない”ということだ」
Lは解析装置を構え、霧を読み取る。
「映像投影、音響、匂い、振動……五感を同時に操作して“怪物の存在”を脳に錯覚させている。つまり、五つの感覚が揃わなければ怪物は成立しない」
「五つ全部……?」
「ああ。そのどれか一つを欠けば、この怪物は崩れる」
ミラはハッと顔を上げた。
「……じゃあ、どれか止めればいいってこと?」
「ただし——監督はそれを読んでいる」
言った矢先、霧がLに向かって伸びた。
鋭い爪のような影が視界いっぱいに迫る。
「L!!」
「錯覚だ!」
Lは身をひるがえし、霧の間を滑るようにすり抜ける。
だが、その動きを追って音と匂いがセットで襲ってくる。
まるで霧が生きているかのように。
——監督の声が、ホール全体に響いた。
『そう。あなたならそう言うと思っていました、“Lさん”。
五感のどれかを断てば怪物は崩れる。
ええ、あなたはきっとそこに気付く。
だからこそ——“五感の全て”を予備システムで支える構造にしてあります』
霧の怪物が再び形を取り、ぐにゃりと歪んだ顔のようなものをつくった。
『一つ止めても崩れない。
あなたの科学的攻略を読むために、私はこの怪物を作り上げたのです』
Lは目を細めた。
「やはり……読まれているな」
『ただし——あなたがこの舞台をどう切り抜けるか。それもまた、私の“演出”の一部。
どうか……私を楽しませてください』
ホール全体が低く唸り、怪物が膨張した。
「L、どうするの!? あれ、止められそうにないよ!!」
「ミラ、落ち着け。
監督は“私を読む”ことに気を取られている。
だが——弱点が一つだけある」
「弱点……?」
Lは霧に手をかざしながら言った。
「五つの感覚を同時に成立させるためには……“中心装置”があるはずだ。
五つを束ねる核。
映画でもそうだっただろう? “怪物の心臓”という装置が」
「……あった! 映画だと、光と音の中枢を一か所にまとめてた!
でも……でも、映画のセットとこの館は違うよね?」
「違うが、監督の癖は変わらない。
観客に“中心がある”と無意識に感じさせる演出を好む」
Lは霧が濃い部分へ一歩踏み出した。
「核は——怪物の“影”だ」
怪物の影。
それは霧の上に映ることはないはずの、黒い黒い“重い影”。
ミラは震えながらも辺りを見渡した。
「あ……あれ……!!」
ホールの中央、霧から一歩遅れて動く黒い塊。
まるで霧の“本体”のように。
Lはミラを見た。
「ミラ。君の“模倣”が必要だ。核装置の外観を偽装し、怪物に“自分の影が消えた”と思わせる。
五感のリンクは自動調整だ。核の位置が揺らげば怪物は自己補正を始める——その隙に私が核を停止させる」
「で、できる……やる!」
ミラは震える手で工具を取り出し、小型光源と反射器を素早く組み立てた。
だが霧が二人に襲いかかる。
赤い光。
耳鳴り。
焦げた匂い。
床の振動。
五感すべてが混乱する。
「L、無理……怖いよ……!」
「大丈夫だ、ミラ。
恐怖は演出だ。
これは“本物”ではない」
Lの声は不思議と真っ直ぐで、ミラの身体に力を戻した。
「……うん!!」
ミラは照準を怪物の影へ合わせ、装置を作動させた。
光が走り、影がぐにゃりと揺らぐ。
「今だ、L!!」
「任せろ」
Lは影の中心へ向かい、霧をすり抜けるように踏み込んだ。
赤い光が彼の背を焼き、霧が体を包み、音が鼓膜を破らんとする。
だがLは迷わない。
目の前にある黒い装置——“核”を見つけ、手を伸ばした。
「停止だ」
Lがスイッチを引き抜いた。
瞬間——
霧が、崩れた。
怪物の体が音もなく崩壊し、光と音が消え、匂いが薄れていく。
床の振動も止まり、ただの広いホールだけが残った。
「……やった……?」
ミラが呟く。
「ああ。終わりだ」
Lが言ったその時——
天井から、ゆっくりと拍手が降りてきた。
『……見事です。
ああ……やはり、あなたは私が求めていた“主役”だ』
ホールの奥に、黒いマントを揺らして監督が姿を現した。
顔は笑っている。
しかしその瞳は、涙をこらえているようでもあった。
『私は……あなたを倒せば、世界が振り向くと思った。
五感を操る恐怖が“本物だ”と認められると思った。
なのに……私はあなたに勝てなかった』
Lは怪物の核を置き、監督に近づいた。
「監督。あなたの映画は……くだらなくなどない」
監督は息を呑んだ。
「……え?」
「私とミラを、ここまで追い詰めた。
あなたの演出は、科学を知る私でさえ脅威だった。
本気で“倒しに来ている”と感じた……見事な映画だった」
ミラも涙ぐみながら言った。
「監督の映画、ほんとに好きなんです……!
今回のトラップも怖かったけど……全部、監督の映画そのままで……!
私……ファンでよかったって、心から思いました……!」
監督はしばらく何も言えなかった。
だが次の瞬間、ふっと微笑み、肩を落とした。
『……ありがとう。
私は……私の映画を愛してくれる人がまだいると……少しだけ、信じられました』
Lはミラを振り向いた。
「ミラ。宝を」
「あっ……!」
ミラがバッグから小箱を取り出すと、監督は吹き出した。
『ああ、それですか。
あなたが持っていくのは分かっていました。
初めから、宝などどうでもよかったのですよ……
私はただ……あなたと戦いたかった。それだけです』
「なら、勝負はついた。
そしてあなたは、良い映画を作る監督だ」
監督は顔を覆い、しばらく震えていたが、最後には静かに頷いた。
『……負けましたよ、怪盗L。
あなたには、二度と勝てない気がします』
「さあ、行くぞミラ」
「うん……!」
二人が扉へ向かうと、監督が最後に声をかけた。
『——舞台を降りるときが来たようです。
あなたたちのおかげで、私は……やっと、自分を取り戻せそうだ』
ホールが静まり返る。
扉を抜けると夜風が吹き、外の世界に戻ったことを知らせた。
ミラは空を見上げた。
「L、すごかったよ……。監督、きっとまた映画を撮るよね……?」
「撮るだろう。
そして私は……その映画を観客として楽しませてもらう」
「……うん!」
怪盗Lとミラは、静かな夜の道を歩き出した。
背後の洋館は、幕を閉じた舞台のように、静かに佇んでいた。




