第18話『転の間 ― 嗅覚と触覚』
扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
湿った土の匂い——いや、それだけではない。
鉄の匂い、甘い匂い、焦げたような匂い……複数の臭気が層をなして押し寄せる。
「うっ……!?」
ミラは咄嗟に鼻を押さえた。
「これ……“嗅覚攻撃”だよ……明らかに普通じゃない……!」
部屋の天井は低く、狭い洞窟のような通路がいくつも枝分かれしていた。
空気がわずかに濁って見えるほど、匂いの分子が光に反射している。
「これは……化学合成された匂いだな」
Lは分析装置を起動し、空気を読み取る。
「甘い匂いは幻覚誘発、鉄臭は不安を煽り、焦げは緊張を高める効果がある。複数を混ぜることで判断力を狂わせる仕掛けだ」
「そんな……これって映画の……!」
「ああ。“影の井戸”の第三幕。観客が嗅覚の錯覚で逃げ場を見失うシーンの再現だろう」
Lの声にもわずかに緊張の色が混ざった。
その時——
床が“動いた”。
「——え?」
ミラの足元がわずかに沈み、次の瞬間、壁から無数の突起が飛び出す。
「触覚……!!」
突起は針のように鋭いものではなかったが、細長いゴムのような触手がうねうねと揺れ、肌に触れるたびに電気のような刺激が走る。
「ひっ……! なにこれ……!」
「電気信号による反射刺激だ。生理的嫌悪感を強制的に引き起こす……!」
Lでさえ、一歩後ずさるほどの不快な感覚だ。
『気に入っていただけて何よりだ』
天井から監督の声が響く。
『嗅覚と触覚は、人間がもっとも“理性を奪われる”分野。
Lさん、あなたはずっと冷静でしたね。
しかし五感のうち二つを同時に刺激されたとき……あなたはどう動くのでしょう?』
「監督……あなたは……」
ミラは震えながら声を張った。
「本当に、映画そのままを再現して……!」
『映画? 違いますよ、ミラ・ガーネット。
これは映画ではなく——あなた方を“観客”から“登場人物”に変えるための舞台装置です』
匂いがさらに濃くなり、通路が揺らいで見える。
ミラはLの袖を掴みながら、必死に耐えた。
「L……わたし、ここ……苦手だよ……。匂いのシーン、映画館でも直視できなかった……」
「落ち着け。ミラ、君は匂いの“発生源”を知っているはずだ」
「……え?」
「映画のメイキングで、『匂いの井戸』の仕組みを見たと言っていたな。嗅覚装置の設置パターン、覚えているか?」
ミラはぎゅっと目を閉じ、記憶を探る。
「……うん。匂いは“層”で出してる。甘い匂いは天井近く、鉄臭は中段、焦げの匂いは床付近……三層に分かれてた……!」
「ならば、突破口はある」
Lは匂いの流れを読むように、通路を一歩ずつ進む。
床の触手のような突起が足に絡みつき、不快な刺激を与え続ける。
「L、触手が……!」
「痛みはない。だが嫌悪反応で筋肉を硬直させる。焦るな」
Lは壁に手を当て、匂いの密度を測る。
「ミラ。君の“模倣”で、この匂いの流れを一つだけ逆転できるか? 例えば……焦げの匂いだけを吸引し、風向きをわずかに変えるなど」
「で、できる……! 映画の仕組みと似てるなら……!」
ミラは工具を取り出し、匂いの噴出口を模倣する小型装置を組み始めた。
作業中も触覚の刺激が身体を走り、目が涙で滲む。
「ミラ、急げ。匂いが強くなるぞ」
「わ、分かってるよ……! でもこれ、イヤすぎて……!」
『ふふ……。
観客の苦悶する顔を“絵”にする——
それこそが、私の映画作りだったのですよ』
監督の声が、まるで耳元で囁くように響く。
『Lさん。
あなたの冷静さは美しい。
しかしその美しさを“狂わせる”のも、また演出家の仕事でしてね……』
「監督……あなたは——」
Lが言いかけたその時。
ミラが叫んだ。
「できたっ! L、設置するよ!!」
ミラが装置を床に貼り付けると、装置が低音を鳴らし始め、焦げた匂いが吸い込まれるように方向を変えた。
その瞬間——
床からの突起が一斉に“弱く”なる。
「触覚の刺激が……消えた?」
ミラが目を見開く。
「匂いの一つが消えたことで、誘導システムが混乱したんだ」
Lは通路奥を指差す。
「あそこが出口だ。匂いの層が途切れている」
二人は走り抜ける。
途中で突起が再び動き出したが、ここまでくれば届かない。
通路を飛び出した瞬間、重い扉が閉じた。
——静寂。
ミラはその場にへたり込んだ。
「ひ、ひどい……監督の嗅覚と触覚のトラップ、映画よりエグい……!」
「しかし突破できた。君のおかげだ」
Lは淡々と言い、ミラに手を差し出した。
そのとき、監督の声が再び響いた。
『やはり……Lさん、あなたは期待を裏切らない。
科学で恐怖を解体し、理性のまま舞台を進んでいく……。
だからこそ——私は、あなたを“倒したい”。』
声は静かだが、底に激しい情念があった。
『私は過去の映画で、五感を操る演出を極めた。
だが、今の世では“子供騙し”と笑われる。
本物の恐怖を作った私が、ただの昔の監督として忘れられていく……そんな屈辱がありますか?』
Lは黙って声を聞いていた。
『Lさん。
あなたを倒せば話題になる。
再び恐怖の帝王として世界に名を刻むことができる。
だからあなたを選んだ——あなたこそ最高の“敵役”だ』
Lは短く息をついた。
「監督。あなたの動機は理解した。
だが……倒される気はない」
『ええ。
その傲慢さが、実に主役らしい』
重い気配が、遠くの扉の向こうから漂う。
『では、最後の部屋へ——“結”。
私の最高傑作、“五感の怪物”がお待ちしています』
ミラは震えながらも、Lの横に立った。
「L……最後の部屋、行こう。
監督に……負けたくない」
「ああ。終わりにしよう」
静かに、二人は“結の間”へ続く扉を押し開けた。




