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第17話『承の間 ― 聴覚』



 第二の扉を抜けた瞬間、世界は音で満たされた。

 声がした……と思ったが、次の瞬間には音の方向が消え、別の場所から低い呻き声が聞こえる。


「ここ……完全に“音の迷宮”だ……」


 ミラは肩をすくめて耳を押さえた。

 少しでも気を抜くと、背後から誰かに囁かれている錯覚に陥る。


 床、壁、天井に等間隔で小さな穴が空いている。

 そこから呼吸のような風と音が絶えず流れていた。


「この感じ……『五感ノ幽都』の第2幕、“迷いの回廊”の再現だよ。監督が一番拘ったって言ってたシーン……!」


「拘りは理解するが、耳には優しくないな」

Lは周囲を冷静に見回した。


 しん……と静まり返ったかと思えば、

 ——ドン、ドン……ドン!

 巨大な足音が遠くのほうで鳴り響く。


 それも左右だけではない。上からも、下からも。


「うわっ……映画でも怖かったけど、こっちはもっと……!」

ミラは思わずLの袖をつかんだ。


「安心しろ。足音は実体ではなく、残響と逆相音による方向欺きだ」

Lは掌の小型解析器を起動し、周囲の音波を読み取った。


「音源は……全部で七百三十六。うち偽物が七百三十二。実体のあるスピーカーは四つだけだ」


「そ、そんなに……!?」


「見た目より単純だ。風穴の位置は規則的で、音の強弱にもパターンがある。最短ルートは——」


 Lが歩き出そうとした瞬間だ。


 突如、音の壁が“跳ねた”。

 波形が乱れ、Lの足が一瞬止まる。


「……妙だな」


「え、どうしたの?」


「音のパターンが……変わった」


 Lは眉をひそめた。

 たったいま計算した音のルートが、まるで“読まれるように”崩れたのだ。


「ミラ。監督は……こちらの解析を予測していたな」


 ミラの目が丸くなる。


「ど、どういうこと?」


「さきほどの光の間とは違う。あれは“見せるための誇張”。しかしこの部屋は……本当に迷わせるための設計だ」


 音が、さざ波のように揺らいだ。


 それまで一定だった足音が、今度は“追ってくるように”変化している。

 まるで、迷い込んだ者を見つけて近づいてくるかのように。


「追尾音か……!」

ミラが喉を鳴らす。


「映画と同じだよ……! このシーン、主人公の影を“音”が追うんだよ! 怖すぎて映画館で三人くらい逃げ出したもん……!」


「冷静に言えば、音波方向を追跡しているだけだ。だが、この変化の仕方は……計算に“介入”があったと考えるのが自然だ」


「介入……?」


 Lは壁に近づき、指先で小さな穴の周囲を調べた。

 わずかに表面の温度が違う。


「追加装置……。私たちが解析を始めた瞬間に作動した可能性が高い。私の周波数解析パターンに反応したとしか思えないな」


「え……Lの解析パターンを、監督が?」


「読み切ったのだろう」

Lは静かに言った。


「……監督は、科学的攻略を“先読み”している」


 ミラは、感動と恐怖の入り混じった顔になった。


「やっぱり……監督は天才だよ……! 映画だってそう。観客の悲鳴のタイミングを、完璧に読んで演出してたって……!」


「感心している場合ではない。これは“こちらに向けた罠”だ」

Lは音波の揺らぎを再計算し始める。


 しかし、足音はさらに変化し、Lの位置を追うように迫ってくる。


 ドン……ドン……!

 壁が震えるほどの重低音。


「ちょ、ちょっとL!!」

ミラは耳を塞ぐが、音が体の芯まで揺さぶる。


「L、これ……ヤバいよ……音圧で気を失うレベルだよ……!」


「分かっている。だが方法はある」


 Lは立ち止まり、ミラの肩に手を置いた。


「ミラ。君が必要だ」


「わ、私……?」


「ああ。監督の映画装置に最も詳しいのは君だ。

 この部屋の音響は“迷いの回廊”の再現なら、構造は映画制作時のスタジオと同じはず。

 どこかに“調律点”がある。音の波が集約する一点だ」


 ミラの目に光が宿る。


「……ある! あるよ! 映画のメイキングで見た!

 監督が“音の井戸”って呼んでた場所……!

 スピーカーの中心になる特殊装置……!」


「それを探せ。音源の中心で逆位相を作れば、この迷宮は崩せる」


「わかった……やってみる!」


 ミラは床に膝をつき、小型検知器を素早く起動する。

 青い光が薄い波紋となってホール全体に広がり、壁に音の“濃い点”を示した。


「あそこ……! 中央の柱……!」


 Lは即座に駆け出す。


 しかし足音がそれを察知したように追ってくる。

 まるで巨大な怪物が天井裏から迫ってくるような、圧倒的な轟音。


 ドン……!

 ドン……!!


「L!! 来るよ!!」


「構わない。幻聴だ」


 Lが柱に到達する寸前、轟音は極限まで高まり——

 ミラが装置を地面に叩きつけるように起動する。


「逆位相——かかれッ!!」


 瞬間。

 世界が静まった。


 それまで無秩序に鳴り響いていた音が、一瞬にして消え、静寂がホールを満たす。

 まるで音そのものが息を止めたような、異様な静けさ。


 ミラはへたり込んだ。


「……っ、はあっ……はあ……成功……した?」


 Lは柱の内部にある調律装置を調べながら、短く答えた。


「ああ。完璧だ。君の解析がなければ、この部屋は突破できなかった」


「へへ……監督の映画、何十回も観ててよかった……!」


 そのとき、天井から柔らかな拍手が聞こえた。


『——ブラボー。

 やはり科学だけでは突破できぬよう仕込んだが……

 二人の合わせ技とは、思わなかったよ』


 監督の声は、どこか満足げだった。


『怪盗L。

 あなたの分析は、魅力的だ。

 だが——それを読むのも、演出家の仕事でね』


 Lは顔を上げた。


「……読んでいたのか、私の行動を」


『ええ。あなたのこれまでの手口、逃走経路、使用した計測装置——すべて観てきましたとも。

 だからこそ、あなたを“主役”に選んだ』


 ミラは言葉を失ってLを見た。


 監督は続ける。


『次は“転”だ。

 ——匂いと触覚。

 人がもっとも本能で恐怖を感じる領域へようこそ』


 扉が、ギィ……と軋んで開いた。


 Lはミラに手を差し出す。


「行くぞ。承は突破した」


「うん……! 絶対、監督の仕掛けに負けないから!」


 二人は次の部屋へ足を踏み入れた。

 背後で扉が重く閉まる音が響き、残った静寂は次なる恐怖を予兆していた。

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