第16話『起の間 ― 視覚』
館の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
湿った霧がすっと引き、代わりに薄明かりが天井の隙間から差し込む。
広いホール——のはずだが、視界は妙に歪んで見える。
床が揺らめき、遠くの壁が波打つ。
ミラは息を飲んだ。
「これ……“残像の街”だ……!」
「何のことだ?」
Lが一歩進むと、影が追うように揺れた。
「『五感ノ幽都』の序盤に出てくるんだよ! 主人公が霧の街に迷い込んだとき、影が独立して動く演出があって……観客みんな悲鳴上げたんだよ……!」
ミラは半分恐怖、半分興奮で声を震わせていた。
その影が、Lの背後を“歩いた”。
確かに、歩いた。
靴音こそしないが、光に照らされた影は本体より半歩遅れて動く。
本来の人間の動きとは違う、わずかにずれる軌跡を描いて揺れる。
「ふむ……」
Lは壁の方向を見つめる。
「これは……光学的な残像ではない。複数の投光装置が人体を複数の角度から映し、わずかに位相をずらしている。影が“遅れて”動いて見えるわけだ」
「へ、へえ……さすが分析が早いね……。私は怖くて説明どころじゃ……」
ミラの言葉が途切れた。
影が、今度は“L以外の何か”の形を成したからだ。
長い腕。痩せこけた胴体。
映画に出てくる“幽影”のシルエット。
「で、出た……初期設定の“影の住人”……!」
「君は“怖い”と言いながら楽しんでいるだろう」
Lは冷静に歩みを進める。
すると、影たちがじりじりと前へにじり寄ってきた。
距離を測ったように、壁際の黒い空間が染みのように膨らむ。
追い詰められたようにも見える——が、Lは足を止めて空気の粒子を読み取っていた。
「……投光角度が一定ではない。影の濃淡に揺らぎがある。装置の数は……八十二か。いや、八十三だな。ひとつ隠し灯がある」
ミラは呆れ半分、尊敬半分でLを見つめる。
「Lって、ほんとにどんな状況でも淡々としてるよね。映画の主人公でもこんな冷静じゃないよ……」
「主人公ではなく、怪盗だからな」
「もう、そういうとこかっこつけてるよ!」
ミラが半ば叫ぶように言ったその時だった。
影が“飛び出した”。
——いや、そう見えるよう細工された光が、正面から迫り、ミラは咄嗟に後ずさる。
「きゃっ……!」
ミラが転びそうになり、Lがその腕をつかんだ。
「動くな。錯覚だ」
「わ、わかってるけど……怖いのは怖いよ!」
Lは影が伸びる方向を追い、即座に投光の軌道変化を算出した。
「ミラ、あそこだ」
Lが指すのは、天井の中央付近。
複数の光線が一点に集まり、そこから光が“拡散”している。
この仕掛けが影の遅延と揺らぎを作り上げていた。
「ミラ。君の出番だ」
「で、出番……?」
「君の能力は、装置の構造を模倣することだろう。あの光装置の内部パターンを模倣して、反対方向から逆投影を作ってくれ。影の軌道を“帳消し”にする」
ミラは一瞬ためらったが、次の瞬間、瞳をきらりと輝かせた。
「……できる。だって、これ映画に出てきたタイプの装置だもん。あのシーンは何回も見た!」
工具ケースを開き、ミラは小型解析機を取り出す。
装置が光源のパターンを読み取ると、ミラは慣れた手つきで即席の反射器を組み立てていく。
「軌道を二度折りして、逆位相にすれば……いける!」
ミラが地面に装置を置き、起動した瞬間——
影が“溶けた”。
壁に貼り付いていたゆがんだ影たちが、一斉に靄のように薄れ、形を保てなくなっていく。
世界が正しい光の姿を取り戻すように。
闇が後退し、ただの広いホールが姿を現した。
「……成功?」
ミラが恐る恐る周囲を見る。
「ああ。完璧だ」
Lは短く答え、扉のほうへ視線を向けた。
奥の扉がゆっくりと開いていく。
まるで舞台の幕が次のシーンへ誘うように。
そのとき、天井から監督の声が静かに響いた。
『視覚、突破。
ふふ……面白い。
君たちは観客ではなく、役者のように舞台を進むのだな』
ミラは思わず顔を赤らめる。
「や、役者とか……そんな……」
『ミラ・ガーネット。
君の“模倣”は私も知っている。映画装置を再現する才能……私にとって心強い“対抗役”だ。』
「えっ……監督、私のこと……? 本当に……?」
ミラの声が震える。Lは横目で彼女を見た。
「落ち着け。監督は、君を喜ばせるために言っているのではない」
「……わかってる。でも、でも……嬉しいよ……」
『次の間へ進め——承の間、聴覚の世界へ。
映画における“音”は、恐怖を形にする。
迷わずに来られるだろうか?』
声は優しく、しかしぞくりとするほど不気味な余韻を残して消える。
Lは扉へ歩き出した。その背中は変わらず落ち着き払っている。
「行くぞ、ミラ。視覚は突破したが、まだ“起”にすぎない」
「……うん!」
ミラは装置を片付け、Lのあとを追った。
影の残響は消えても、監督の“視線”だけはまだそこにあるようだった。




