第六章 飲み会の裏で
さて。
ここらへんで状況を整理してみよう。
――自分たちは、おなじバンドのメンバーである。
(基本だ)
うむ、と、ひとり北見は頷く。
――自分たちには、なぜだか肉体関係というものがある(それも、いちど限りの話ではない)。
(……なりゆきだ……)
――その相手は、自分のことを「好きだ」と云ったりもする(いつも、寝ているそのときにだけ)。
(ピロートークの一環やろ……)
本気で云っているわけではないと思う。間がもたないからとか、なにか理由があって。義務感かもしれない。
場合によっては、行きずりの相手にだって使うことばだ。なんの信憑性もない。軽くて薄い語だ。
ただ、その吐息の熱さに、信じてしまいそうになる。その眼の深淵を探りたくなる。しても、なにも生まれないと思うのに。
なぜなら、おなじベッドにいるとき以外には、相手は平静なのだ。なにもなかった顔をしている。夜をのぞかせない顔で、ふつうに昼間を生きている。
好かれているとは思う。嫌われてはいないはずだ。
嫌っている同性と寝るほど、あいつも自虐的ではないだろう。自分にしてもそうだ。
そもそも、嫌う相手とバンドなんてできるほど、お互い器用ではないのだ。そんな嘘はつけない。
だから、好かれているとは思うのだ。ただ、それがどのていどなのか、迷うだけで。
このまま関係をつづけていってもいいものか、迷うのだ。
――だから、あそこで彼があんな顔をするとは、思ってもみなかった。
×××
それにまず気づいたのは、河合だった。外見も音も渋いギタリスト。
河合は確認するように左右を見回し、次いで、自身の背後にいる北見に、こそりと声をかけた。
「北見くん、真中くん居らんで。どっかで吐いてるんちゃうかな」
「……なんで俺に云うねん」
「いや、いちばん近かったから」
背中合わせの位置にいた河合にそう云われ、北見はため息をつく。
河合には、真中を探す気はないわけだ。北見とて、さっきのいまで、なんとなく真中とは顔を合わせづらいのに。
渋々と立ち上がった北見は、河合ではなく、いまはもう自分の近くにはいない大森に、「恨むで」と内心でつぶやき、座敷を出た。
とりあえず見に行ったトイレには真中は居らず、それではどこに行ったのかと首をめぐらす北見の眼に、非常階段へとつづく扉がとまった。
扉を開け、下の踊り場にうずくまる人物を発見し、北見は上から声をかける。
「気分でも悪いんか」
ゆっくりと靴音を立て、階段を下りて近寄る北見に、真中は首を振った。
「悪いのは気分でのうて、耳と頭やねん。やから、頭冷やしとるとこ」
地上五階の風はたしかに涼しく、思いのほか眺めもいいので、少し北見は真中につきあう気になった。
眼下には、煌々とした、夜の街。
手摺づきの鉄柵に寄りかかり、煙草に火を灯しながら、どかりと大きな身振りで隣に座る。真中は、どこか信じられないものを見るような眼でいた。
「なんやねん」
「いや、これも幻覚かと思いまして。ちゃうみたいですね、この素行の悪さはホンモノや」
「どこに俺のドッペッルゲンガーが居んのや。ひとりしか居らんで、俺は」
「俺、さっき見ましたよ。ホンモノそっくりで、どきどきしました」
「ええ男やったか」
「ええ、とても。キスしたくなったくらい」
ははは、と真中はおかしげに笑う。
「なら、俺にせえや」
それを冗談にまぎらわせず、北見は煙草を持っていないほうの手で真中の頬に触れ、くちづけた。
「……初めてやな」
「………なに」
「外でキスすんの」
そうして、なお深く舌を探る。息苦しさにか真中が拳を北見の胸にあてて抵抗したが、かまわず背後の鉄柵に押しつけ、逃げられないようにした。
年季の入ってそうなボロい柵が壊れなきゃいいけどな、と少し思う。
煙草はいつのまにか手から離れ、柵のあいだを抜けて地上に落ちていっていた。
誰か見てたらどうするとでも怒るかと思っていたが、真中は怒らなかった。
その代わり。
泣いていたのだ。
「……なに、泣いてんねん」
たかがキスやろ、と思う。泣くほど、いやだったとでも? 普段はしない抵抗をしたのは、そのためか。
「泣きますよ。やっぱりあんたドッペルゲンガーやないですか。それとも俺が見てる幻覚? ……もうなんでもええわ。頭冷やしてるんやから、ひとりにして」
できるか、と思った北見は、しかしそれを口には出さず、新しい煙草に火をつけた。
去る気配のない北見をどう思ったのか、涙をぬぐった真中は、膝をかかえてまるくなると、愚痴をこぼしはじめた。
「あんたのホンモノってひどいんやで」
北見は煙草を吹かしながら、適当に返事をする。
「そうか」
「そうや。彼女かて居るし……俺とのこと認めとらんから、こんなとこでキスする人とちゃうんや」
「したやんか、いま」
「幻覚クンやからやろ。ホンモノはせえへん。……あかんなあ、俺。願望なんやろか、こんな幻覚見とって」
「なんやねん、幻覚とか願望とか」
「さっきは幻聴やったんや。集団催眠にかかっとったんかもしれん。それともドッペルくんが云うたんかな」
だいたい予想はついたが、「なんやて」と訊いてみる。
「あんたが俺に惚れとるって云うたんや。笑てまうやろ。云うわけないのにな。たとえそう思とっても、よお云う人やないねん」
そうか、と北見は云った。そうやで、と真中は返した。
……どうしたもんかな、と北見は思案する。
つまり、真中は酔っているのだ。支離滅裂になっている。まともな思考能力が働いていないわけだ。
普段の北見があまり真中に対して甘くないため、不意にキスしたり告白したりするのは、もはや北見本人だという認識がしがたいらしい。
そこで認識に折り合いをつけるために生まれたのが、幻覚だのドッペルゲンガーだの、架空のモノだ。
当然のように、現在も隣にいるのは北見の幻覚だと思っているわけである。
自業自得というにはあまりな現状に、相手に気づかれぬよう、北見はため息をついた。
どこまで「真中の願望」として許されるのか試してみたい気もしたが、のちのちを考えると、やめておいたほうが賢明だろう。
けっきょく北見はたいして否定もせず、そのまま煙草片手に適当に相手した。
「いくら俺の願望でも、ドッペルくんにそんなこと云われたりキスされたりすんのは、いややな。……寂しゅうなる」
「……ホンモノなら、ええのか」
「そらな。でも、云うたやろ? そーゆうことせえへん人やねん」
「そうでもないけどな」
しらっと北見は返す。
(現にしとるし)
「……ああ。でもやっぱり、ホンモノに云われたら、………」
「なんや」
深く思考のなかに沈んでいくような口調の真中が、やけに寂しげで。北見はまた、汲みたくなってしまう。こういうところが駄目だったのだとわかっていても、だ。寂しげな真中には、手をのばしたくなる。
真中は首を振り、「なんでも」と応えた。
それは嘘だ。なにか憂慮があるのはわかる。
それとは別に北見は、自分でも思ってもみないことを訊ねていた。
「……北見のこと、好きなんか?」
打って変わって、真中はおかしげに笑う。
「おなじ顔してなに云うとんのやろな、このドッペルくんは。おお、惚れとるで」
北見にもおかしく思えて、自分のアホぶりに少し後悔した。
(誰が北見やねん……)
真中はまだおかしげにしていた。どういうスイッチが入ったのか、機嫌がいい。
「向こうは信じてへんけどな。でも、そんでええねん。……俺がいややねん、べた惚れしとんのバレたら。負担なるし、恥ずいわ。もーメロメロやねんけどな」
おっかしーやろ、と真中は笑う。
北見にも、少しその心情が理解できた。
「俺も、いややったな。おまえに骨抜かれとるて、バレんの。でも、もうええわ。めんどなってきた」
自分でも認めたくなかったこと。まだ正解かどうかの見通しもつかない。
けれど、もう、いい。
真中の寂しさを埋めたいと思うのも。
真中の嘘がいやなのも。真意がわからないまま誘われることに、腹が立つのも。
いっしょにいるのが、さほど苦痛でないのも。
きっと、おなじ理由だった。
そんな、それまでいちども口にはしなかった思いを北見は吐き出し、横に座る真中のくちびるを盗む。
状況についてこない真中にお構いなしに、煙草を押しつぶし、両手で頬を包んだ。
さっきよりも、よほどやさしくキスした。
くちびるを離したあとも、真中は呆然としている。
「ところで、おまえ、そろそろ正気もどらんか。いいかげん頭も冷えたやろ」
「…………え?」
「ここで待っとけや、俺、荷物とってきたるわ」
「え?」
ひとり階段を上がりながら北見は、背後に残した真中の驚愕を思ってほくそ笑む。
本物の器量を見くびったらあかんで、と、あとで云ってやるつもりだ。それくらいの小さな意地悪は許されるだろう。ニセモノ扱いされた報いである。
自然と階段をあがる足が軽くなった。
×××
「……おいおい」
とりあえずマネージャーにだけは「真中がもうアカンから送るわ」と話して、なるべく目立たぬよう抜け出してきた北見は、外階段に戻るなり、半ば呆然としてつぶやいた。
「どこ消えたんや、あいつ……」
真中は、どこにもいなかった。




