第二章 遠雷、あるいは線の話
たとえば、こんなふうに誰かが己の部屋にいる。
それを、北見はじゃまに感じてしかたないことがある。
もとより、集団行動が得意でなく、ひとりでいるのが好きなたちだ。
それは、いま北見のそばにいる相手も、おなじなはずで。
だから、なぜ、いっしょにいつづけられるのか。
そんなことに不意に気をとられては、現実が幻のように思えて。
どこか現実感の伴わぬままに。
問いの答えを探している。
×××
「なあ、リーダー」
「……なんやねん」
作業の手を止められ、北見は不機嫌に問い返す。
真中を振り向こうとはせず、ピックを持った右手をあらためて弦へと当てた。
「リーダー」
「せやから、なんやって」
それでもまだ北見は、真中に視線をやらなかった。
なにを考えているのか読めない男は、抑揚のない声で云った。
「外、行きません?」
「……耳、わるなったんか。まだザーザー音しとるやろ。どしゃぶりにわざわざ濡れたないわ。出るなら帰ればええやんか、ひとりで」
今日は昼前から雨だった。完全防音のスタジオにいれば、外の音など気にならないが。北見のアパートでは、雨の音がよく聞こえた。
音楽で食えるようになったとはいえど、ぜいたくな暮らしができるわけではない。1DKのアパートだ。風呂とトイレとが別なのが、借りる決め手だった。
大阪で暮らしていたときとほぼ変わらず、部屋はパイプベッドのまわりや下を衣装ケースが囲っている。中身は服だけではなく、ほとんどがCDだった。衣装ケースに入りきらず、上に積み重ねもしている。
ベースは壁に浮かせておけるよう、メッシュパネルで支えを作っている。いま北見がかかえているもののほかに、二本が飾られていた。ギターもある。ほかに持っているものは、スタジオに置いていたり、誰かしらに貸しているので、この場にない。
オーディオは、部屋にそぐわぬ、いいやつを使っている。低音がよく響くので、隣人がいるときには音を出せないしろものだ。結果、ポータブルのプレイヤーを愛用している。
アンプは小さめのものだ。今日は雨の音がうるさいので、遠慮なしにベースをアンプにつないだ。妙な音がしていても、ご近所さんも雨か雷のせいだと思ってくれるだろう。希望的観測かもしれないが。
「――じゃ、エロいコト、しましょう」
脈絡もないうえ、あまりにあけすけな誘い文句に、北見はベースを弾いていた手を止めた。ようやく、背後のベッドにずうずうしくも寝ている真中を振り返る。
その向こうの窓は暗く、ときに雨が叩きつけ、激しく鳴った。
北見は呆れた顔を隠さない。
「なんでそんな展開になるんや。俺は見てのとおり練習してんねん。じゃますんなや」
真中を追い出さないのは雨が降っているからで、それ以外の理由はない。
ベースの練習も曲作りも、どちらかといえば独りで籠もりたい北見は、これでもかなりの譲歩をしていた。
スタジオからの帰り道。傘貸してくださいよ、と北見の耳許で囁いた男は。傘どころか風呂と北見の服とを借りて、そのまま居座っている。
なんだかんだ云いながら、真中は、北見を見てもいなかった。「暇や」とうるさかった彼に北見が投げつけた雑誌をひらいて、仰向けになっている。
北見は少し、おもしろくない気分になった。なんやねん、と思う。
その雑誌を顔の下半分に伏せ、ちらりと真中は北見を見やった。
「山羊座がね、今日、幸運日らしいんですわ」
「占いページなんて見とるんか、自分」
「リーダーがこれでも見てろて投げつけたんでしょうが、俺に」
テレビ情報誌にあるそのページは、ほんの添えもので。気休め以外のなにものでもない。
雑誌の持ち主である北見も、たいして読む意思のないページだった。
真中が生まれたのは十二月だ。山羊座が該当するのかと、北見は思った。星座に興味はない。せいぜい自分と家族のものを知っているくらいだ。
「これによると俺の恋愛運、今週かなりええねん。なかでも今日が最高で、『好きな人に話しかけて!』と書いてある。うまくいくらしいっすよ」
「……それで、なんで俺やねん」
「この部屋、あんたしかおらんやん」
「来たのはおまえやろ」
すげなく返せば、そうっすね、と真中は真意の見えない顔で笑う。
「で、とりあえず実験してみよ、と思うて。呼んでみてん」
「いい迷惑やな」
「せやからリーダー、俺が占いを信じてみてもええような気になるために、協力しません?」
「それ、実験ちゃうやろ、いかさまやん」
へら、と真中は笑った。北見が乗らないのを予想している笑みだと、いやでも気づかせる笑みだった。
反応に困って。とりあえず、どうでもいいことを問いかける。
「……獅子座は?」
「最悪です」
真中は、問いにかぶせるよう答えた。北見は眉を寄せる。
「獅子座やで?」
「せやから、今週、獅子座はええことなしっすね。恋愛運がとくにわるくて、『出会いは来週に期待』ですて」
雑誌を読みあげもせず、真中は教えた。眼が笑っている。冗談かどうか、北見は量りかねた。
「関係ないとこまで読んでんのか、ホンマ暇やな」
「そんなことないっすよ」
「なんでやねん、暇やから読んでんのやろ」
「関係ないことないですやろ、獅子座やもん」
寝返りを打ち、真中は北見を正面から見た。たしかめろとでもいうのか、ページをひらいたまま、北見に雑誌を渡す。
北見は読まずに閉じた。そこらに放り投げる。
「……ツルちゃんも、獅子座やんな」
ドラムの鶴岡とは、誕生日が近い。まとめて祝われたりする。
よお憶えてますな、と真中は笑った。河合は何座かと思考を巡らせても回答が出ず、北見は内心、いらだった。
「獅子座のイラスト、なんや誰かに似てる思うたんですけど、あれやな、浜崎さんに似てますね。あのひとって眠れる獅子やったんですねえ」
「失礼なこと云いなや。ちゃんと起きてるやろ」
まえに占いページを見たとき、北見も先輩ボーカリストを思い出したのはないしょにした。眠っているライオンの顔にどこか愛嬌があり、人間くさいのだ。
雑談に快も不快も紛らわせてしまおうと、いつものようにちょっと怒った口振りで真中をたしなめる。
「モリくんに似てたのもあったな、ふたご座」
大森は、余所のバンドのボーカルだ。鶴岡や真中と年齢も近く、仲がいい。
「そっか。メールでもしたれや、天下のテレビ雑誌に載ってるて。モリくん喜ぶで」
「そんな心にもないこと云って、このひとは」
「なんやて」
「いやいや、ええアイディアですな。あとでメールしときますわ」
北見がベースをかかえ直すと、真中は益もないことを背後から話しかけ、ときに笑いを、ときに怒りを北見から引き出した。
作曲も練習も、ひとりでしたいのに。
だんだん、真中の存在に慣れつつあった。
雨はやまない。ブラインドをあげたままの部屋に、うるさく音を聞かせてくる。
北見が煙草を探し、ベースを置いたときだ。
「あれ、彼女さんですか」
真中が示したのは、冷蔵庫に貼られていたメモだった。ドアが開いているので、こちらの部屋からでもダイニングキッチンは見えるが、メモの内容までは、よほど視力がよくなければ読めない。
書いてあるのは他愛ないこと。冷凍庫に入っている食品の食べかただとかだ。レンジをかけろとか、自然解凍で何時間とか。
「ああ、やめろって云うてんのやけどな。なんや、所帯くさい」
「合鍵、渡してはるんや」
「いや。そんなめんどくさいことせんわ」
北見は自分の領域を守りたいタイプだ。
勝手に部屋にあがられるなど、想像するだけで、ぞっとする。泊めるのだって、いやなのだ。
先日、こっちに寄ったときに、なんだかんだと作って置いていっただけだ。
北見の現在の彼女は、看護師だった。
北見も三十を過ぎているし、あちらも二十代の後半だ。職を持ってがんばってはいるが、結婚だなんだと、意識をかすめはするのだろう。こういうプレッシャーをかけてくるようになった。
知り合ったのは三年前。上京してきてから。
このままずるずるつきあっていても、あまりよい結果になりそうにないな、と思わなくはない。
結婚して子供を得て、という未来図が、なんだかまるで描けないのだ。北見には。その彼女とだけではなく、誰が相手でもだ。生活に落ちつく想像が、できない。
(子供を育てるとか、なんや、わからんな……)
(母親になっとるあいつも想像できん。なってほしいわけでもない)
いい歳をして精神的にまだ子供なのかと自嘲もするが、知り合いのバンドマンは三十代、四十代でも未婚の者が多いので、そんなものかと感じもする。
煙草もやめろとか云われたなあ、と思いながら、フィルターを口にくわえた。副流煙がどうだとか説かれたが。だったら嫌煙家とつきあえばいいと思ったのは、さすがに口にしなかった。
(やめどきなんかな)
煙草は火をつけたと同時に、背後の男に奪われる。
「なにすんねん」
北見の文句などどこ吹く風で、真中が静かに煙を吐いた。
「これって、浮気ですかね」
「そんなんちゃうやろ、きみは」
「ちゃいますか」
「それよりベッドで煙草吸うのやめろや」
そこなんや、と真中はなにがおかしいのか、小さく笑った。
雨の音は、まだしている。
部屋にあるもので夕飯をすませ、夜半。
遅い時刻には音を出せず、北見は楽器での練習はやめている。昔、大阪にいたころにはライブまえに不安になり、アンプごと布団をかぶってベースを弾いていたりもしたのだが、いまはそうした焦燥とは無縁だった。
雨の音はやまず、むしろ強く耳を打ち、会話の途切れたその瞬間に、部屋の静かさを際立たせた。
北見は煙草をくわえている。壁に背をつけ、窓を横目に見た。間を置かず、遠くに光の柱が立った。天と地とをつなぐ柱。
窓を背にした真中は、背中に音を聞いて笑う。
「……帰れませんな、これは」
「せやな」
雨と遠雷。
外界から隔絶された部屋で、現実感もないまま、眺めている。
外はきっと、寒くて痛い。
なにをも押し流す勢いの。それが現実。
では、この部屋のこれは?
ひとりでなくて、暖かい。微妙な均衡のうえにある、この時間は。
翌朝には、露と消える幻だろうか。
真中はなにかを求めているようで。
なにも求めていないようで。
それがわかるような、わからないような、北見に不快な気分をおぼえさせる。
「リーダー」
「なんや」
窓の外を見ながら煙草をふかし、答える。
「リーダー」
「なんやって」
「……北見さん」
あからさまに声音が変わった。北見は返事ができず、真中の眼を見た。
「あと二十分で、今日が終わります」
真中の眼は雄弁に笑んでいて、北見を呆れさせた。数時間まえにもあった呆れだ。
「あくまでそう来るんやな」
「せっかく幸運日とか云われとるのに、なにもないままやったら、俺がつまらんでしょう」
「俺は最悪とか云われてなかったか」
「せやから、実験してみましょうや。両立するかどうか」
手招きする真中に、なんだかどうでもいいような気になって、北見は灰皿に煙草を押しつけた。
いつものパターンだ。誘われて、寝て。
それで、なにも残らない。そうなのだろうと思った。
気持ちがいいことは気持ちがいい。それなりの快楽はあるけれど、翌日にはひきずらないものだ。
お互いに口許がべたべたになるくらいキスをして、躰に触れて。それで、どうなる?
わからへんねん、と真中に覆いかぶさりながら北見は口にした。進める気にならず、まだ、服も脱げない。
なにがと眼で問う真中の首に顔を埋め、わからない「なにか」を考える。
わかっていないのはすべてかもしれないが、とりあえず、見たいなにかはあった。
それを教えても、真中は返事をしなかった。彼にも見えていないことなのかと北見は思った。
「……境界が」
×××
雨のやんだ翌朝に。
とりあえず、真中は消えてはいなかった。
北見を「リーダー」と呼び、きっちり服を着込んで、素知らぬ顔で笑っているが。
消えてはいなかった。
ただ、《朝の顔》をしている。
境界を越えたんだと。そういった表情をしている。
北見には見えない、曖昧な線。
現実と幻との?
昼と夜との?
ウチとソトとの。彼我の。
幸運と不運との。最高と最低との。
友人と、仲間と、なにかとの。関係と感情とを分けるライン。
見えないから、北見からは踏み込まない。
踏み込めない、線。
仕事に行くまえに自宅で着替えると、部屋を出ようとする真中を呼び止めて。
北見はラインの外側にいる真中に問いかけた。
「真中くんが試したいのは、俺なんかな、きみなんかな」
昨夜が幸運と不運との、どちらだったのか。
それは、ふたりのどちらに作用するのか。
実験の、真意は?
北見の部屋のドアを開けながら、真中は笑う。
いつもとおなじ、性質の悪い顔で。
「それは知らぬが花ってやつですよ、リーダー」
そうして、真中は。ドアの外に片足を踏み出したまま。
北見を引き寄せ、くちづけた。
「……せやったな」
ひとりになった部屋で。北見は独りごちる。
真中について考えても、いつも答えは得られぬままで。
けっきょくは無駄なのだと、いくら自分に云い聞かせても。
懲りることを知らないようで。
「無駄やのに」
不意に眼についた件の雑誌を、ごみ箱に捻じり入れる。
煙草に火をつけながら、北見は窓を見やった。
内と外とを分ける、その境界線。わかりやすい硝子のライン。
北見のいる内と、真中の出ていった外。
窓の向こうには、嘘のように晴れた空。
北見の意識に、ゆうべ見た雷光がよぎった。
天と地とをつなぐ光。
昨夜にはたしかに存在した、眼に見える橋。
「……どこからが、天なんやろな」
しっかりとした地上のライン。しかし空には線がない。
そこが空であるのは自明であるのに。どこからが空なのか知らない。
これから仕事で会う真中がどんな顔をしているか、と北見は考えた。
だまし討ちのようなキスのラインがどこにあるのか、わからなかった。
「きっと、フツーの顔してるで」
諦めた顔で。北見は、窓から空を見上げたまま。
煙草をふかして苦笑した。




