雨天招来 (『遠雷』の真中視点)
雨が降るのを知っていて、傘を持ってこなかったのは、わざと。
そんなこと、いまさらやろ。
×××
「傘貸してくださいよ」
耳許でそう云うたら、北見さん、びっくりした顔してた。そりゃそうやな、朝から降ってるし、雨。
「壊れてもうたんですよ、ビニ傘。風ひどいし」
地下鉄の駅が近いもんで、あんまし必要なかったというのが真相。
ほんまか、と疑わしそうな顔して問いかけて、でも俺が答えを返すまえに「しゃあないな」と渋い顔で承諾する。
コンビニで買ったらええやろ、て云われるかと思っとったんに。あっけない。
あんたのうち、他人に貸すほど傘、余ってるんですか。なんてつっこんだら、「帰れ」て云われるやろな。
へんな駆け引きみたいなこの関係を。
こんひとがたまに煩わしく感じとるの、知っとる。
傘貸してなんて、陳腐なことばで。嘘と気づきながら部屋に入れてくれるのは。
今日、たまたま機嫌がいいからなのか。諦めているからなのか。
背中だけ見せられているこの状況では、読みとれへん。
しぶしぶ許可するなんて、いつもやし。
北見さんのベッド、俺が転がって占領しても、ため息つくだけ。
なんも云わへん。
どちらかというと見ない振りで、俺に背中向けた。
どういう態度やねん、それ。
借りるはずの傘は放っておかれて。けっきょく借りたのは、シャワーと現在占領中のベッドと、でっかい着替え。ここに来るまでで濡れてんのな。リーダーもやけど。
俺の服はさっきまで乾燥機がまわしとった。音やんだけど、取りに行かへん。
北見さん、のっぽやし。サイズ合わんのなんて自明やけど。北見さんの服を着るのは好きで、よく借りている。この部屋のなかだけで、やけど。
洗ってあるのとちゃうて、昨日脱いでそのままほかっといたようなヤツ、選んで着てんねん。いやな顔されるけど、着たもん勝ちや。
長袖の青いシャツ。持ち主に気づかれんよう、余った袖口をそっと引き寄せて、匂いを嗅いでみる。
つくづく変態やなー、俺。
でも好きやねん。こんひとの匂いが。
このひとが。
ホンモンが、すぐ近くに居んのにな。
俺のこと見ないで、ベースのこと愛してる。猫背の背中。
憎いんだか愛しいんだか寂しいんだか、よおわからんようになってくる。
外は雨。
北見さんの背中、眺めてるその俺の後方で、窓が鳴っている。
ベースの音にかぶさって、じゃましてる。
北見さん、気づいてないんやな。ひとりの世界に行ってもうてるわ。
俺のことも忘れて。ベースのことだけ考えてるんやろ。
ただでさえ雨で、やる気なくすのに。
気力、内側から削がれてるみたいな。指先から自分が流れてるみたいなカンジ。
ブラインドさげてない窓は、四角く夜を切りとって嘆いてる。
……やまへんな、雨。
そりゃそうやな。
降ってて当然や。
当分、やまへんで。
「リーダー」
小さくはない声で呼んでみる。「なんや」って、心持ち不機嫌に返事するけども。身が入ってない。ベースも放さず、振り向きもせず。おなじことを二度ほどくり返した。ほんまに聞いてるんですか。俺の声。
雑音とちゃいますよ。あんたが欲しがってくれたのと、おなじ声なんすよ、これでも。
あんたが欲しがったから、俺はここにいるのに。
「――外、行きません?」
俺のことばに、ふっ、て。外側に気づいたような顔、しはる。
「……耳、悪なったんか。まだザーザー音しとるやろ。どしゃぶりにわざわざ濡れたないわ。出るなら帰ればええやんか、ひとりで。俺は行かへんで」
ホンマ冷たい人やな。やな云いかたしよる。俺の耳が悪なってたら、困るのはあんたですやろ。
いまのいままで外の音聞いてなかったのは、あんたのほうやないですか。
「じゃ、エロいコト、しましょう」
頷かへんて確信してた。
北見さんは手を止めて、ようやく俺を振り向いた。
でも俺は、北見さんを見ていない。雑誌を顔のうえにひらいて読んでる振り。
これでも見てろ云うたの、北見さんやもん。それ実行してるだけやん、俺は悪くないで。
北見さんは、ため息をついた。少し、むっとしてはる。
「なんで、そないな展開になるんや。俺は見てのとおり練習してんねん。じゃますんなや」
怒られたいねん、俺。
そんなこと、よお云わんけど。
怒られたい。
見てられたい。
気にされていたいねん。
あんたは、ひとりで居るのが好きやし、ふたりでいたかて独りみたいにすごすけど。
そんなん。俺が来てる意味ないやん。
俺がいくら融合を望んでも。あんたが壁を愛する限りは無理やねん。
俺が北見さんと一個になりたくても。あんたが独立したがるから、望みも口に出せへん。
いつもそばに居りたいなんて、煩わしいでしょ。
おなじ人間になんて、なってくれませんよね。
わかっとるから、ええねん。
俺はほんとの望みを口にできないぶん、いっぱい、ほかのわがまま云うし。
愛してるから抱いてくれなんて、云えへんけど。暇やからセックスしましょ、は口にできる。
それで北見さんが俺の本音を量りかねて困ったとしても。本音のほうが北見さんに迷惑なんやから、これでええやろ。
「山羊座がね、今日、幸運日らしいんですわ」
占いページなんて見とるんか、てツッコミ。俺の勝手やろ。見てろ云うたの、北見さんやん。俺に投げつけたくせして、なに云うてますの。
「これによると俺の恋愛運、今週かなりええねん。なかでも今日が最高で、『好きな人に話しかけて』と書いてある。うまくいくらしいっすよ」
「なんで俺やねん」
もっともな問いかけ。好きやなんて本気では云うたことない。そもそも信じないやろ、こんひと。
「この部屋、あんたしか居らんやん」
「来たのはおまえやろ」
そうっすね、と笑った。
「で、とりあえず実験してみよと思うて。呼んでみてん」
「いい迷惑やな」
いまさら、このていどでは俺も動じない。いつもそうやし。
「せやからリーダー、俺が占いを信じてみてもええ気になるように、協力しません?」
「それ、実験ちゃうやろ、いかさまやん」
云うと思った。俺が笑うと、北見さんは話題をすくいあげるように、「獅子座は」て問いかけてきた。なんや、珍しい反応。順当な質問やけども。
最悪です、て正直に答える。
北見さん、訝しげな顔。疑ってるんやろ。
「獅子座やで?」
「せやから、今週、獅子座はええことなしっすね。恋愛運がとくに悪くて、『出会いは来週に期待』ですて」
憶えてるのを口にしたら、呆れた顔した。
「関係ないとこまで読んでんのか、ホンマ暇やな」
そんなことないっすよ。全然。
「なんでやねん、暇やから読んでんのやろ」
「関係ないことないですやろ、獅子座やもん」
あんたが相手してくれないから、暇なんですよ。
寝返りを打って、正面から顔、見た。ページひらいたまま雑誌渡しても、北見さんは読まずに閉じた。適当にそこらに放り投げる。バサッて音。ページが折れても気にしないんやな。
北見さんはコメントに困ったように。首の後ろに手をあてた。
「……ツルちゃんも獅子座やんな」
知っとったけど。
ひどい御人やな。
鶴岡くんがなんやねん。
あんたのことやろ。
北見さんの話、してるんやないですか。
「よお憶えてますな」と笑うしかないで、ほんまに。
鶴岡くんは八月生まれで、河合さんは十一月ですよ、だからどうやねん。
それこそ関係ないやろ。
俺とあんたとの話やないですか。
でもそんなこと、口にしない。
「獅子座のイラスト、なんや誰かに似てる思うたんですけど、あれやな、浜崎さんに似てますね。あのひとって眠れる獅子やったんですねえ」
「失礼なこと云いなや。ちゃんと起きてるやろ」
「あと藤村隆司いましたね。口笛吹いてはった」
「なんやそれ。よお見てんな、ほんま。俺、憶えてへんで」
先輩やら芸人やらの名前を出して雑談。
怒られてるの嬉しいあたり、俺は末期。
北見さんがベースをかかえ直しても。背中に話しかけて、笑われたり怒られたり。
雨の音はやまないで、ときどき会話に割り込む。
ふたりで黙って、雨音を聞くと。なんや寂しい気持ちになる。
俺の背中でずっと、雨が降っとる。
遅い時刻。北見さんはもうベースを置いている。壁に背をつけて煙草をくわえ、俺の背後を遠く見やる目線で。なにかに気づいたような顔、した。
――雷の音がした。
なんだか急に、おかしゅうなった。
北見さんが見ただろう稲光と、俺の聞いたやつはおなじやろうけど。ちっと時間差があった。
遠いんやな。雷。
せやけど雨はひどくなる一方で。そのうち稲妻もこっちに来るやろう。
天を裂く怒りや。そんなもん見てとおなくて、俺は背中向けたまま。
「……帰れませんな、これは」
「せやな」
適当な相槌。ひどくなる雨。遠くに雷。
「リーダー」
「なんや」
北見さんは窓の外を見ながら、煙草をふかして答える。おなじこと二度、くり返した。
「……北見さん」
欲望にじませて呼んで。それでようやく眼が合う。
驚いた顔。
「あと二時間で、今日が終わります」
こんどは呆れて、ため息。
いつもと変わらない、パターン。
なんだかんだ言訳して。誘って。
手招きした。
北見さんは煙草消して、俺のこと抱いてくれた。
雨はまだ、やまへんかったけど。
「わからへんねん」て北見さん。それが大事なことのように。
なに云うてますの。あんたはなにを知りたいの。俺が回答できること?
「……境界が」
答えなかった。
境界なんて、ないほうがええ。
俺を形作る線も。北見さんの線も。
なくして、融け合って、おなじになりたい。
そうなったら。
こんなことで、どっちも悩まへんですむのに。
「雨、やまへんな」て。北見さんが云うた。
そりゃそうやろ。
雨。
俺の代わりに空が泣いてるんと、ちゃいますか。
寂しいて、泣いとるんとちゃいますか。
だからもっと抱いてください。強く。
俺が泣かなくてええくらい。
空が泣かんでもええくらい。
あしたになったら、ふつうの顔ができるくらいに。
×××
仕事のまえにいちど帰ると、北見さんの部屋を出ようとする俺に。北見さんは妥協のない顔して問いかけてきた。俺に質問ばっかしてるな、この人。
「真中くんが試したいのは、俺なんかな、きみなんかな」
ほら。そうやって、あんたは線引きするんでしょう?
俺とあんたとの。守りたいんやね、境界線。俺は壊したいんやけど、あんたにつきおうて、守る振りをしてあげますわ。
試したいことなんて、なにも。
ただ俺は。あんたのために嘘をついて。
俺のために、あんたに抱いてもらってるだけ。
ドアを開けながら、どうしようかと考えた。
こういうの。なんて云うんやったっけ。
知らぬが仏?
秘すれば花?
沈黙は金(これはちゃうな、だったら困るわ)。
知らないことの付加価値。
秘密の甘い味。
無知の僥倖。
いまみたいに追ってくれるのは、知らないからやないの。
気づいたら、あんた、きっと逃げてまうやろ。
知らないほうがええねん。
俺がなにを考えているかなんて。
どれだけ愛してるやなんて。知らないほうが幸せです。
今日、晴れている理由も。
「それは知らぬが花ってやつですよ、リーダー」
そうして、ドアの外に片足を踏み出したまま。
北見さんを引き寄せて、くちづけた。
まあ、せいぜい悩んでくださいよ。




