第三話 もう逃げられない
十匹以上もいるカッパ軍団に、ぼくは震えが止まらなかった。
このままだと、取り囲まれて、退路を断たれてしまう!
「ショウマくん! 行くよ!」
ぼくは強引に、握手しているショウマくんの手を引き離すと、ショウマくんのシャツの襟首を掴んで、猛ダッシュした。
「なんで逃げるんだよ!」
「怖くないの!? ぼくは怖いよ、あんなカッパの群れ!」
「でも、会話できたし、握手もしたし。みんなに自慢できるわ」
「ショウマくんのメンタル、おかしいよ!」
「げっ」「げげっ」「げっ」「げっげっ」「げえーっ」「げっ」「げっげっ」「げげっ」
走っているぼくたちの後ろから、カッパ軍団が唸りながら走って追いかけてきた!
さっきより数が増えてる!
二十匹、三十匹はいるんじゃないだろうか!
あんなヤツらにつかまったら、どうなることか。
ぼくは泣きそうになりながら、ひたすら走った。
対照的に、ショウマくんはニヤニヤと余裕だった。
「こんな体験、滅多にできるもんじゃないぜ。ラッキーだな」
「こんな体験、一生したくなかったよ! 超アンラッキーだよ!」
カエルの鳴き声のような、不気味な残響音が遠ざかり、ぼくとショウマくんは、うしろを振り返った。
既に、カッパの群れはいなかった。
「よかった、逃げ切れたんだ……カッパって、陸上だと足が遅いのかな」
木々の隙間から、ふもとの村の家が遠くに見える。
もうすぐ帰れる。
空は、オレンジ色の夕焼けに染まっていた。
乱れた息を整えていると、ショウマくんは「行かなきゃ……」と呟いた。
「行くって、どこへ? ああ、自分の家? もうすぐ着くよ」
「ああ、行くのは、オレの居場所だ……」
ショウマくんが振り返って見ているのは、ぼくたちが走って降りてきた、山の道の方だ。
どこか様子がおかしい。
山の道を見ているのに、目の焦点が合っていないみたいだ。
「どうしたの、ショウマくん……?」
「カッパは子供が好きだから、引きずり込む、って大人は言ってたんだよ。オレはてっきり、川に引きずり込む、って思ってたんだけどさ、違うみたいだ……」
「違うって、なにが……?」
「引きずり込むのは、“仲間”に、だよ」
ショウマくんが、自分の右手を、ぼくの方に見せた。
手首から先の肌が変色している。
それは、カエルみたいなヌメヌメした緑色に……。
「カッパはさ、オレと握手しただろ。多分、触ると、うつるんだよ。病気みたいに。なんか、もう、オレ、気持ちが、あっち側になってる。すげえキュウリ食べたくなってるもん」
「しっかりしてよ! こんな緑色、洗えば落ちるよ、家に帰って、水道でよく洗おう! 洗剤つけてゴシゴシ洗おう!」
「ああ、多分、ダメだわ、オレ……」
ぼんやりと、夕焼けの空を見上げるショウマくん。
水に、絵の具を落としたみたいに、緑色の侵食はじわじわと広がり、肌の変化は手首までに留まらず、右手のひじまできていた。
それに、右手の指の間には、水かきが生えている。
「このまま、全身が変わって、カッパになるんだよ、オレ……。それも悪くないかなあ、って思い始めてる。怖くないんだ。カッパになれたら、気が楽だろうなあ、ぐらいに、考えが持って行かれてる」
「何言ってるの、ショウマくん! その思考、怖くないことの方が怖いでしょ! マトモに戻ってよ!」
「カッパは、こうやって数を増やしていくんだなあ……。オレの父ちゃんも母ちゃんも、カッパ信仰があるから、きっと毎日キュウリを持ってきてくれるよ。楽しみだなあ」
げっ、げっげっ、げげっ、げっ……。
遠くから、カエルの合唱みたいに鳴き声が聞こえてきた。
ぼくらが走ってきた山道、何十匹もいるカッパが、いつの間にか立っていた。
さっきより、更に数が増えている。
山の夕暮れは早く、空はオレンジ色だが、周囲は薄暗くなってきていた。
何十という影の、ネコのような瞳は、ひときわ爛々と輝いていた。
獣の群れが、じっとこちらを窺っているような、緊張した雰囲気。
ぼくは、腰が抜けて、その場にへたりこんでしまった。もう逃げられない。
なぜか、カッパたちは仁王立ちのまま、動こうとしなかった。
ぼくたちを静かに見つめている。
いや、違う……ぼくのことは眼中にないようだ。
視線は、ショウマくんに集まっている。
「大丈夫だよ、タクちゃん。あいつら、オレを迎えに来てくれただけだから。もう、仲間なんだよ。タクちゃんは無事で帰れるよ。よかったな」
「な、な、なに言ってるの? ショ、ショウマくんも、一緒に帰ろうよ……」
「帰れるわけないじゃん。オレはもう、あっち側だから」
うつろな目で、微笑むショウマくんは、ぼくから一歩離れていく。