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2-4 もの当て屋のノリ

 もの当て屋のノリ。


 二年前、セルク島防衛軍の砲兵隊駐屯地に隊付き将校として赴任したファディルは、ひとりの奇妙な兵と出会った。


 観測科所属、ノリ一等兵。彼は索敵演習で常に最上位の成績を叩き出していた。遠く離れた山の斜面に潜んだ伏兵役を、双眼鏡も使わず言い当てる。命中率は常に九割超え。


 あまりの精度に、連隊長は彼を「千里眼」と呼んだ。


 噂によれば、誰かが物を落とした、地図が消えた。そんなとき、ノリがふらりと現れて「あ、それ、あの寝床の下に落ちてますよ」と指を差す。すると本当にそこにあるという。


 おかげで彼の班は紛失による制裁と無縁だった。軍曹の鉄拳を逃れた者たちは、ノリを守り神のように扱っていた。


 もしかするとノリは、自分と同じ特殊体質者ではないかとファディルは予感した。


 自分と同じく、人間や物質から放たれる何かを感知できる能力を持っているのでは。


 だが非科学主義者の質ゆえ、半ば信じられなかった。


 ある日ファディルは執務室にノリを呼び出し、もの当て実験をすることにした。


 ドアを開けて入ってきたノリは背筋をぴんと伸ばして敬礼し、驚いたように目を丸くした。


『は⋯⋯はじめまして科長。自分はノリ一等兵と申します』


 当時、観測科長だったファディルはノリを睨んだ。彼を威圧し、動揺させるために。


『あなたですか。失せ物探しが得意というインチキ野郎は』


 わざと冷たく突き刺さるような口調でハッタリを仕掛ける。ノリの瞳に〇・五ミリの揺らぎもなかった。真っすぐな眼差しに本気の色が滲んでいる。偽物ならば、瞳は泳ぐように動く。


 安堵し、興味をそそられたファディルは無表情に戻り、ノリに言った。


『書類を無くしました。探してください』


『了解っ』


 ノリは目を瞑って数秒黙り込んだ後、目を開けて壁に隣接する事務机に向かった。背筋が氷を当てられたように寒くなる。そこは──。


 ノリは事務机をどかし、壁に張られていた一枚の紙を剥ぎ取る。紙に書かれていた一文を見たのか、ノリは目を丸くする。


『ん? よく見つけられましたね⋯⋯って、あはははっ、何です、これは』


 可笑しそうに笑うノリを見て、ファディルは一瞬、意識が現実から吹っ飛びそうになった。額から冷たい汗雫が伝い落ちる。有り得ない。誰にも貼り付けたところを見せていないのに。


 やはり、もの当てのノリの噂は本物だった。腹が震えるような興奮を覚えた。


(こいつは、本当に特殊体質者というものですね)


 たとえば気候の変更に敏感な体質者は天気を予言でき、『巫女』と呼ばれたりする。ノリも何かしらに敏感であるため、すぐ失せ物を探せるのだろうとファディルは科学的視点から分析する。


 ノリが振り返り、くすくす笑いながらこちらへ近づいてきた。


『班長って面白い方なんですね。その上⋯⋯』


 ノリの頬がほんのり赤らんでいる。

  

『凄く、美男子です』 

   

 ビナンシ。その単語だけが、ファディルの脳内に異物のように流れ込み、意味を持たぬまま消えた。理解が追いつかないうちに、ノリの顔が目前まで迫る。


 これまでの誰よりも距離を詰めてくるノリに、ファディルは思わず半歩、後退った。


『みんな、班長のこと、化け物とか、妖怪とか、言ってました。だから会うの、すごく怖かったんです』


 ノリはまっすぐな目でファディルを見つめる。その瞳に、嘲笑も嫌悪もない。


『正直、ものすごく醜悪な顔を想像してました。申し訳ないですが⋯⋯』


 ファディルは銀髪赤目の奇妙な容姿を持つため、島兵たちから『化け物』『妖怪』と呼ばれていた。


 廊下で、すれ違いざまに島兵たちが笑いながらファディルを一瞥し、囁きあった。


 ──何だあの赤い目。気持ちわりぃ。

 ──ありゃ人間じゃねぇ、化け物だ。


 ファディルの異形じみた姿を誰もが嫌悪し、恐怖し、避けた。


 醜悪。だから直視できない。理屈として当然だ。


 中隊長、大隊長、連隊長ですらもファディルと話す時は目を逸らし気味に話すほどだ。


 だからこんなにも近づかれ、じっと目を覗き込むように見つめられるのは、生まれてはじめてのことだった。


『でも、実際にお会いして、びっくりしました。整ってて、すごく綺麗な顔で。男の僕でも、素直にかっこいいって思えました』


 ノリはファディルにそっと顔を近づける。頬と頬が、かすかに触れそうになる。ノリの黒い瞳が、片目の視界いっぱいに広がった。


『まぁみんなに化け物って言われるのも、わかります。だってびっくりするぐらい、顔整いすぎてますし。たぶん人形みたいで怖いか、嫉妬もあるんじゃないですかね?』


 化け物という通常評価に、『驚くほど顔が整いすぎている』『嫉妬』という不正評価の付与。理解不能。


 一瞬、ふわりと風が吹いた。部屋に風など吹くはずがない。窓が閉めきられているのに、ノリの髪が揺れ、ふわりと森の匂いが鼻腔をくすぐる。


 濃密な緑、土の湿り気、樹皮と草葉が混ぜ合わさったような、生々しい緑の臭気。まるで森の中にいるかのように、その匂いは鮮やかすぎた。


 眼が緑香物質の出どころを探し出す。


(フィトンチッド、非検出。そんな⋯⋯)


 匂いを発する物質は、この空間に存在しない。


 混乱しつつ、それでも心地よい匂いに、無意識に深呼吸してしまう。


『綺麗な目。ルビーみたいだ』


『ル、ルビー?』


 自分でも、気味が悪いと思っていたこの目をまるで宝石だと形容する、その感性が理解できない。だがなぜか、否定できなかった。






 過去の記憶から戻ったファディルは、疲労困憊の頭を上げる。


 朝陽が、空を青白く染めていた。流れる雲の向こうから、粉雪のように光る数字がひら、ひら、と降ってくる。掌を伸ばしても、数字は触れずにすり抜けていく。


(空から、数字が⋯⋯)


 空から数字が降ってくることなど、今までに一度もなかった。演算過多による脳の誤作動か。


 ファディルは目を閉じ、光の雪を全身で浴びる。


 ──ファディル。


 真っ白に焼き切れた脳内に、凛とした声が落ちた。


 男とも女ともつかない。冷たく澄んだ、感情を含まぬ響き。どこか機械めいていて、しかし異様に清らかだった。


 ──神の寵児、ファディル。


(何です、この声は)


 ──神の眼を持つ英雄よ。


 薄暗い瞼の裏に、丸く膨らんだ二つの眼と、鋭い歯がびっしり並ぶ口が浮かび上がった。


 見たことのある姿だった。あの御神体に似ている。


 島の祭りで担がれていた神輿、あれに飾られていた顔だ。


(ヴィシュヌ?)


 島の護り神、ヴィシュヌ。


 だが、目はほどける糸のように崩れ、口も霞のように消えていく。


 瞼の奥に、淡い朝の光が差し込んだ。目を開けると、空から降っていた数字の群れが消えていた。


 頭は石のように重く、神経はまだ過敏なまま。


 ファディルはこめかみに手を当て、ゆっくりと起き上がる。


(まずい、極度の疲労で幻覚が⋯⋯)


 突然、空気を切り裂くような悲鳴が轟いた。ファディルの身体が反射的に跳ね起きる。ぼやけていた頭が一気に覚醒し、全神経が一点に集束する。


「何だ!?」


 ノリの叫び声。彼は下方を見下ろしていた。ファディルは素早く双眼鏡を構え、斜面の下へ視線を滑らせる。


 次の瞬間、橙の閃光が弾け、つんざくような絶叫が空気を震わせた。


「火炎放射器だ! 天然壕を焼いてる!」


 ノリが絶叫する。


 火炎放射器。その言葉に、ファディルの背筋を冷気が這い上がる。


 レンズの中、鉄製の筒を背負った敵兵たちがホースを構え、壕の中へと火を吐いていた。


 漏れ出した炎が雷のように閃き、あたりの空気が熱気に歪む。


 壕の奥にいるはずの島兵たち──


 彼らがあの高温の炎に包まれ、声を上げる間もなく肉塊と化す光景が、まざまざと脳裏に浮かぶ。


 火炎放射器──壕に潜んだ敵を焼殺するための、もっとも確実で、もっとも残酷な兵器。


 焼死は、痛覚の分析が不可能なほどの苦痛をもたらす。ファディルはそれを知っていた。だからこそ、巻き込まれるのはごめんだ。


「ノリ、速やかに下山しましょう。あれに巻き込まれるのは願い下げです」


 だが、ノリは言葉を結べない。恐慌に駆られた彼の唇が小刻みに震え、喉の奥から漏れる声は、つっかえた呼吸のように途切れる。


「や、やか⋯⋯れる⋯⋯みんな⋯⋯あ、ああ⋯⋯」


「ノリ、落ち着いてください」


 ファディルの声は、静かだ。だがその瞳は冷えていた。まるで、生き残るために感情を一時停止した機械のように。


 レンズの中に映っていた炎が、ふいに止まった。


 次の瞬間、敵兵たちの首が血飛沫と共に宙を舞った。


(今度は、何です?)


 ファディルは双眼鏡を握り直し、視界の端に滑るような“何か”を捉えた。黒い影。残像。視界の隅で、黒煙のようなものが縦横無尽に駆け回っている。


 目がようやくその動きを補足し、脳が断片的に像を結ぶ。〇・〇一秒の一瞬。焼き付いたその「一枚」は、黒髪をなびかせ、軍刀を振るいながら敵兵の喉を掻き斬るイルハム兵長の姿だった。


 だが、次の瞬間にはその姿はもう別の場所にあり、さらに別の敵を切り裂いていた。


 まるで映像のフレームを飛び越え、肉体の存在が連続性を失っているかのような動き。残像すら〇・〇一秒に焼き付き、コマ送りのような連写にも彼の動きは収まりきらない。


 それは、人間には不可能な身体速度。

 ファディルの手が震え、双眼鏡を落としかけた。


(有り得ない──速すぎる)


 まるで、戦場に舞い降りた死神そのものだった。


 敵兵を全て殺し終えたイルハム兵長が、返り血を浴び赤い葉のように見えるカラリヤの中に佇んでいた。


 一陣の風が吹き、イルハムの長い前髪が舞い上がる。紫色に光る目が現れた。瞳の輝きがファディルの網膜の奥へ突き刺さり、脳を粘着く何かが覆っていくような気色悪い感触に襲われる。ファディルは呻いて頭を押さえた。


「あぁ⋯⋯っ」


 ノリが駆け寄ってきて、いきなりファディルの目を覆った。


「班長! イルハムの目を見るなっ!」


 ノリはファディルの背中を勢いよく二階叩き、手のひらを追い付けた。内臓を振るわるような謎の振動が走り、脳に貼り付く粘性の何かの感触は瞬時に消えた。


 ノリの嫌悪と怒りを滲ませたような声で吐き捨てる。


「さっさと失せろ! シキ!」


(シキ⋯⋯?)


 その謎単語が、鮮明になった脳内に焼き付く。


 意識がだんだんと遠のいていき、ファディルは眠りの底へと落ちていった。




「⋯⋯班長! 班長!」


 誰かの呼び声で目を覚ます。


 瞼を開けると、複数人の顔が視界に入った。全員、十字マークの付いたヘルメットを被っている。衛生兵だ。


 ファディルは衛生兵の担ぐ担架に乗せられていた。


 頭の奥がズキズキと鈍く痛み、ファディルは顔をしかめる。


「班長、ご無事で」


 ふと、血まみれの手を押さえていたノリの顔が目に浮かんだ。


「ノリは⋯⋯無事ですか?」


「幸い、軽傷です」


 ファディルは安堵する。


「よかったです⋯⋯」


 ファディルは雲の流れる青空を見上げる。生温い熱風が、泥と垢に塗れた顔を撫でていく。


 その時──


「指揮官確保! 指揮官確保!」


 どこからか歓喜の叫びが轟いた。


 突入した歩兵隊が敵指揮官を確保したようだ。


 ファディルはノリが言っていた敵指揮官の言葉を思い出す。


 ──ヌムクワム・ヒンク・ディスケーダム・ニシ・ウト・インペラートル

『私は指揮官としてここを離れることは決してない』


 呆れと動揺の混じったものが静かに胸に満ちる。


(まさか、本当に逃げなかっただなんて)


 壊滅時、命惜しさに部下を見捨てて逃げる指揮官は多いというのに。


(己の生存を優先しないとは、なんと馬鹿な奴でしょう)


 出会ったことのないその指揮官をファディルは冷笑する。


 ファディルを運ぶ衛生兵たちが「やった!」と嬉しそうに言う。


 全身から力が抜けて、ギシッと担架が深く沈む音がした。


(無事、終わったのですね。戦いが⋯⋯)





 カラリヤ湿原の戦いは、アリフ中隊の逆転勝利に終わった。

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